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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.49

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どうも あとは 虚無主義と科学万能教との二方面作戦であるようにも思われます。  確かに仰るとおリかもしれません。 > ☆ コロンブスが出遭わなかった(発見しなかった)としても ほかにも誰かによって アメリカ大陸は見い出され得た。というような見方なのでしょうか? それが 音楽の分野では そうは行かないと。  まさしく、そのとおりでございます。 > ★ ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。  ☆ すんなりと分かり得たならば どれだけうれしいことでしょう? と告白しつつ お礼を申し述べます。その視点をありがとうございました。  ご参考としていただきましたこと、光栄に存じます。 > ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? それによって音楽の種類ないし特性が異なるものに感じるということですね?  いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。 > ★ [端的考察的知覚]  ☆ これは 音の知覚なる現象を詳しく分析して捉えたものと受け取りました。それとして過不足がないように受け留めました。  ご一助となりえましたこと、幸甚に存じます。 > ☆ 《自我》とそして上記の《わたし》とを ひどっちさんには是非対照させていただきたいと思いますが どうでしょう?  愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。 ・わたくしなる固有の意識を持つ存在 ・外部の表象を捉える存在 ・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在 ・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在 ・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在 ・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない  これは、以下のご質問( b )との関連性があろうかと推察致しましたので、( b-1 )にも少しだけ触れておきたく存じます。  ( b ) 《自我・他我》という〔わたしには〕分かりにくい用語を使っているけれども 要するに人間にとって《わたし》とは 何か? どういう成り立ちで どういう動態か?
 > ( b-1 ) 自我と他我とでは 世界について見える位相が違うという。
 ● それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。
 ☆ 知覚的志向性が 人によって違うであろうことは そのまま受け止められる。では 《言語行為の志向性》とは 何ぞいや? 同じ言葉を使っていても その意味の取り方が人によって 多少は違うことか? 
 多少は違っても おおむね共通の概念を持ち得て意志疎通は出来ると言えるのかどうか?     例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。    さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。  この言語によって表される概念や知は、その物の意味としての側面を担っている訳でもあります。そうしますと、リンゴの赤さを知覚する場合、リンゴの「赤い」像が知覚として直観されると同時に、「赤い」という言語そして、その意味(本質)も直観(認識)されていることになろうかと考えられます。そして、この直観が、タイトルにてお示しになられました「本質直観」になろうかと存じます。  言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。 > 意味論一般に広がりましょうか?  いえ。そこまでは及ばないと考えております。 > ★ 意志疎通にとっての障害は、おそらく、各々が、まず自己を知らないこと(見つめないこと)、そして、他の人たちにおけます善性(仏性)を否定しまうことかと考えております。  ☆ これは 美の感受において 一般に醜悪とされるものにも美を感じるというその現象の解明と 相い携えてすすめるとよいように思いますが どうでしょう?     はい、全く異論はございません。  ただ、純粋に「醜悪とされるものにも美を感じる」のでしたら、問題はないかとも考えております。ですが、(現代)音楽評論を聞きましても、同じ内容のことばかりです。そのままコピーペーストしたかの文章のようでございます。純粋にそこから美を感じ取れたのなら、もう少しぐらいは気の利かせた作文はできないのかと、不思議に思っております。 > 善性の否定としての自由意志の行使 これは たとえばこれまで考えたところでは おのれの目指し求めた意志行為の挫折をきっかけにしてではないかでした。――今後に課題としたいと思います。  了解致しました。 > しかも哲学として 経験思考を超えた直観において得られるような 次のような命題を提出し得るだろうか?  ★ ~~~~~  ▲ 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。  大乗仏教におきましては、そのようになった、と解してございます。  ~~~~~~~  ☆ 《永遠の現在》を《生けるわれ》は――つまりは さとりは―― 哲学の主題であり得ましょうか?  回答になっていないかもしれませんが、愚見を述べたく存じます。  (おそらく)わたくしたちは生なるものを授かっている以上は、この経験世界と直面しているわけでございます。そして、この経験世界の原因・根拠を遡っていきますと、結局は“無根拠”にたどり着いてしまいます(当然、科学もそうであります)。では、根拠がなければ、生を享受できないかと問われようとも、生の営みは可能と言えるかと思われます。つまり、無根拠と隣り合わせにわたくしたちは生を営んでいるかと。そして、一方ではこの無根拠なるものも、わたくしたちの想像力を掻き立ててくれます。たとえ、それが“仮像”とも呼ばれようともでございます。  少し歴史を振り返りますれば、この“仮像”なるものも、案外役に立ってくれるものとも考えております。物質の最小単位は何か?、宇宙の果てとは? ほとんど答えようのないこれらの問題につきましても(カントはこれをアンチノミーにて、認識不可能としておりますが)、わたくしたちは想いをめぐらすことができますし、多少なりとも、実際科学なるものの発展に寄与してきたものと考えております。  そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~   > ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう?   いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。  ~~~~~~  ☆ あぁ そういうことでしたら もう少しおつむをめぐらしていれば・・・という悔いの残る思考でした。  要するに頭に――聴覚をはたらかせる作業のほかに―― 詩つまり言葉をつうじて何らかの観念を持ってしまっているということですね。聴覚像の世界と思考(概念像)の世界とがからみ合うことになると。  としますと 曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。  考えてみれば 絵画にも言えることかも分かりません。表題はつけられていてもそれにこだわることなく――ということは 作者である画家の思わくをも一たんエポケーして・そしてあるいは 所謂る二次的な鑑賞としての・評論家の批評にも影響されることなく―― 事象に就いて見てみる。  おそらく直観は 思考をも包み込む(もしくはその導き手となる)ことが出来ても 思考が 直観の源泉であるとは あまり思えません。両者は互いに 《わたし》の中で――身体と共なる精神の旋回にも似た動きとしてのハタラキにおいて―― 入り組んでおりからみ合っているでしょうが 直観が思考に先行する。すでに繰り返して述べていますが こう考えます。  さて 《自我》論争ですが:  ★ ~~~~  愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。  ・わたくしなる固有の意識を持つ存在  ・・・   ~~~~~~~  ☆ わたくしの物言いも 到ってかんたんなんです。  ( a ) 同じ《 Ich / ego / I / ・・・》なる用語を なぜ《わたし・われ》と《自我》とに分けるのか?  ( b ) 《自我考える。ゆえに自我あり》とは言わないだろうと思われます。  これだけでよいと思います。が もう少しつなぎますと あるいは:  ( c ) われわれは 他者に――実際になりと想像上でなりと――相い対するとき その人と向き合っているのであって・そしてそれをその人の《わたし》というのであって 決してその人の自我つまり他我とではないということ。そんなことをしたら ただただあたまの中で 人間を扱っているだけになります。  ( d ) 身と心から成るその人の存在全体とまじわり 対話をおこなっています。  そうでなく 自我などという用語をはやらせたから あの人は 我が強いとか 自我が発達していないとかいうことになります。  ( e ) 我が強いは まだ《わたし》の全体を相手としてその性格ないし特徴を部分的に言ってみたまでだと考えますが 自我の成長などという概念を持ち出すなら それは存在全体としての《わたし》とはあたかも別個に――それは確かに《わたし》のであろうけれど・もしくは であろうのに 別個に――《自我》が社会の中で育って行くのだというような見方をしているように受け取られます。  ( f ) おそらく これは《わたし》の人格ないし境地にとって 不幸です。それは 《さとり》を実際の生活世界とは別の世界に求めるような傾向を 人びとのあいだにもたらしていると思われるからです。すべては 根源的所与としての超越論的主観性つまりはけっきょく《わたし》の問題だと考えられるのにです。  ( g ) 《わたしは わたしの自我と向き合う》とか《わたしは 他者の自我すなわち他我と向かい合う》とかいうふうには言えるようですが――そのようにまで慣習が出来上がっているということだと思うのですが―― これは 厳密には間違いではないでしょうか? もし具体的に向き合う物事は何かと言えば それは人それぞれの思想(生活態度)であり その過程における自己表現の一つひとつの形であろうと思われます。  ( h ) 先ほどの《我が強い》というときの《我(が)》を取ってみても それは 押しが強いといった意味であり これをわざわざ《自我》という必要はないと思います。特殊具体的には 《思想(生活態度》と向き合うのであり 基本的には互いに《わたし》どうしのまじわりである。と思います。  ( h )★ ・わたくしなる固有の意識を持つ存在――☆ これは《わたし》です。《わたし》が捉えた《わたし》です。すでに現代人は これを《自我》と言うとそのまま受け容れるまでになっていると思えますが そんな言い回しをした日には 余計に分からなくなるのではないでしょうか?   わたしの自我とは何か?――せいぜいが 《意志》といったことを言うのではないでしょうか?  ( i ) ★ ・外部の表象を捉える存在――☆ 《わたし》ですよね? わたしがわたしの感性において・もしくは意志において 世界を知覚し認識します。《わたし》の感性や意志のほかにそれとは別個に《自我》があるわけではありません。  ( j ) ★ ・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在――☆ 根源的主観性ですが それも《わたし》の問題でありその範疇に入っているはずです。  部分的な見方になってしまうものとして 知解力としての理性を言う場合があるかも知れません。が この理性とて《わたし》です。わたしの知解という――精神にとっての第二の――行為能力です。これは明らかに《自我》ではありません。言いたい気がするだけだと思います。これまで作られて来た慣習からの洗脳ではないでしょうか?  ( k ) ★ ・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在――☆ これも《わたし》とは別個に《自我》がいるという見方にはならないと考えます。  ( l ) ★ ・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在――☆ 《わたし》とは別個の《自我》が 《わたし》に対して意識を持つという方向へ どういうわけか 持って行こうとしているだけだと考えます。自己意識とは 《わたし》です。分けるゆえに 世界がこんがらがります。  ( m ) ★ ・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない――☆ これは どうなのでしょう? 別様に議論があるかと思う主題を含むようですが 世界を知覚し認識するそのわたしの存在がなくなれば そのわたしとしての世界は 消失しているとも見られます。  あるいは 違う見方として すでにこの今 いま・ここにおいて 《わたし》の動態は その自己到来において 時間的な行為であるところの自己表現としてもすでに《源泉としてのわたし》を打ち出している。ゆえにそれは《永遠の現在》である。このわたしの《永遠の現在》はすでに 時空を超えて世界と宇宙に行き渡っている。  これは《自我》とは言わないほうが 美的に見ても よいと思われます。  (《アートマン》も 《我》と表現したから ややこしいようです。《わたしの根源》ということのようですから。つまり 仏性にまで通じる概念のようですから)。  ( n ) さとりは 哲学の主題であるか? をめぐってですが:  ★ ~~~  〔さとり―→無根拠なるもの―→これが想像力を掻き立てる―→《仮像》が得られる―→これが経験科学の発展に寄与したところも大きい。〕  そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。  ~~~~~  ☆ だとしますと ここで提案のようなものですが(項をあらためまして):    ( o ) 《アートマン》と《根源的主観性》とは けっきょくほぼ同じ概念であるのではないか?  あるいはつまり 《アン‐アートマン(いわゆる無我)》と言っている――つまり 空観においてある――《わたし》 これも 同じではないか?  そのほか・そのほか 人間存在の《主観ないしその主体》を表わす言葉は すべて 広義の概念として 同じでありそれは《わたし》であるのではないか?   *  意味論をめぐっては 少し勉強して考えを述べたいと思います。(補足欄にて)。  

bragelonne
質問者

補足

 意味論についてです。  ですが じつはよく分かりません。そのわけは 意味論という分野があってそれがどういう仕事をしているか という問題よりも 意味論のその仕事が どういう志向性のもとにおこなわれているか という問題でよく飲み込めません。しかも 現象学にかかわっての問題です。  わたしに分かるのは たとえば今回のご回答の文章に即して考えるなら 次のようです。  (なお 数学のほうでも意味論があるようですが それについてはよく分かりません)。  ★ ~~~~~  例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。   さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。  ~~~~~~~  ☆ ここでの意味論は こういうことかと思います。つまり 色は赤のほかにも緑や黄色もあるのに《赤》をリンゴの概念を表わす特徴として取り上げるのは ある種の仕方でその赤で代表させている。そういった《意味》の社会的な用法だと見られると思うからです。  そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。  ★ 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。  ☆ 言葉は だいたい人びとに共通の一般的な意味があり しかも実際の用法においては使用する人の主観がそこに込められ 或る程度意味が広がる(または ちぢまる・ゆがむ)といった慣用があります。つまり そういう意味論もあると思います。  この意味論は 質問者つまりこのわたしが持ち出した論点なのですが 的を射た指摘ではなかったかも知れません。    あとは ご指摘のあるのを俟ちます。なければ 保留としておきます。

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    23歳女です。物事の本質を言い得ている本を探しています。 以前人間関係を見直そうと思い、 カーネギーの「人を動かす」を読みました。 なんというか…深さ、潔さを感じさせる内容で 言葉がスーッと心に染み入るような感覚がありました。 そして読後とても爽快な気分になりました。 以来実用書を選ぶ時には、 本質を突いているかどうか?という点を意識するようにしています。 ちなみに最近気になっている本は ・藤原 正彦 「国家の品格」 ・M・バフェット「億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 」 ・ボブ・ディラン「ボブ・ディラン自伝」 です。 ジャンルは問いません。 “ホンモノ”な本を教えてください。

  • 宗教の本質

    宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

  • 本質直観について

    こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。

  • 哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

    社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。 講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか?  いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)