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「宣命」と「宣旨」の違いについて

いつも回答者の皆さんにはお世話になっております。 平安時代における、天皇から臣下へ下される命令文書について調べています。 なかでも「宣命」と「宣旨」の違いがわかりません。 たとえば天皇のキサキを任命する場合、皇后には「宣命」で、女御の場合は「宣旨」と使い分けられるようです。 そのため「宣命」のほうが命令の格式が高いのだろうと想像しますが、両者の違いが明確にはわかりません。 ご存知のかた、よろしければ教えていただければありがたいです。

  • kasane
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  • takeko85
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回答No.1

宣命 http://pedia.myjcom.jp/jc_wiki/wikipedia/%E5%AE%A3%E5%91%BD 宣命(せんみょう)とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。宣命体は、漢字仮名交じり文の源泉となった文体で、かなの発達史上、大変重要な文書である。 概要 天皇が宣(の)りたまう大命(おおみこと、命令)の意で、本来は口頭で宣布され、それを宣命体で書記した。奈良時代は朝賀・即位・改元・立后・立太子などの儀式に用いられ、平安時代以降は任大臣・贈位・神社・山陵などの告文にだけ用いられた。 宣命体・宣命書 宣命・祝詞[1]などの文体を宣命体といい、その表記法である宣命書とは、体言・用言の語幹を大きな字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書く方法である。「を」には「乎」、「の」には「乃」、「は」には「波」などを一定して使っている。ただし、宣命体には2種類ある。助詞なども含めてすべて大字で書かれる宣命大書体と、上述のように助詞などを小字で書き分ける宣命小書体である。 宣命書は、「漢字万葉仮名交じり文」と言えるが、その万葉仮名を平仮名に変えると、「漢字仮名交じり文」とほぼ同じになり、これは日本語表記の展開史の上で注目すべき出来事であった[2]。 宣命体のモデル 古代朝鮮の吏読が宣命体を導いたと推測されている。朝鮮語は日本語とよく似た言語で、助詞や助動詞などの文法的要素を必要とするため、漢文で書かれていた古代朝鮮の公文書にこれらの朝鮮語を書き加えることがおこってくる。これを吏読というが、原則として漢文の各分節の終わりにその要素を送りがなのように漢字で記した。この方法は日本の宣命書と同じであり、ここに吏読が宣命体のモデルという推測が生まれた[3]。ただ、仮名を小さく書く宣命小書体に進展したのは、我が国における成果である[4]。 宣命紙 宣命を記す紙で、普通は黄麻紙(おうまし)を用い、伊勢神宮には縹色の紙、賀茂神社には紅色の紙を用いた[5]。 黄麻紙 綱麻(つなそ)を主体に造った紙で、害虫を防ぐために黄檗(あるいは、ウコン)で染めたため、その色からこの名がある。古来より麻は清浄なものとされていたので、奈良時代の写経にも多く使用された[6]。 宣旨 http://pedia.myjcom.jp/jc_wiki/wikipedia/%E5%AE%A3%E6%97%A8 宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。 概略 天皇の命令・意向(勅旨)が太政官において太政官符・太政官牒などとして文書化される際、文書作成を行う弁官局の史が口頭で命令・意向を受ける。このとき、弁官史は、命令・意向の内容を忘れないために自らのメモを作成した。このメモが、当事者へ発給されるようになり、文書として様式化していき宣旨となった。文書には、弁官・史などの署名しか記されなかったが、天皇の意を反映した文書として認識され、取り扱われた。印璽なき文章に権威が付加されることになり、幕末にはしばしば偽勅が発せられることになった。 本来、律令に規定されている天皇発給の命令書としては、詔書・勅旨があったが、これらの発給は重要な案件の場合に限定されており、また形式が厳密に定められており、特定の機会にしか発給ができなかった。そこで、柔軟に発給可能な宣旨という文書形態が登場したのである。 発給手続 発給手続きは、天皇が内侍に伝え、そこから蔵人頭に、蔵人頭から担当上卿に上卿から外記局、弁官、内記局などに伝えられて初めて発給された。弘仁年間頃から始められた。内侍から蔵人頭に伝えられる文書は「内侍宣」と呼ばれ、「鎌倉時代」以降に「女房奉書」へと発展する。また、蔵人頭が上卿に伝える時は、口頭が原則で「口宣」と呼ばれたが、後に文書化され、「口宣案」とよばれた。 平安期に入ると、元々詔勅の検討を担当していた外記局が、天皇の命令・意向を自らの名で文書化したものも宣旨と呼ばれるようになった。また、弁官が議政官(公卿)の命令・意向を受けて、正式な太政官符の代わりに弁官名で発給した文書は官宣旨(かんせんじ)と呼ばれた。 院宣・綸旨 院政期から鎌倉期以降は、次第に院宣の発給が宣旨の発給を上まわるようになった。また、宣旨をさらに手続きのうえで簡略化した綸旨も出されるようになった。 女房名「宣旨」 なお、宣旨は宮中に奉仕する女官の名ともなった。御形宣旨や六条斎院宣旨の名が知られている。当初は宣旨が下される際、その口宣を蔵人に伝える内侍をさしていたが、のちには宣旨の宣下に関係なく呼称されるようになった。

kasane
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