人はなぜ殺しちゃいけないのか?

このQ&Aのポイント
  • 人間には殺しちゃいけない理由があると考えています。
  • 人間の進化をたどると、秩序を獲得してきた結果、人を殺さない秩序が生まれたと考えられます。
  • 戦場と昔の自然界の暮らしは意味が異なり、戦場は正当防衛の連鎖による殺人行為であり、昔の暮らしは秩序以前に考えることが重要だった可能性があります。
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人はなぜ殺しちゃいけないのか?

先日友人と議論をしていたのですが 根本的には自分を守りたいという馴れ合い(=秩序)を除いてしまうと 人は人を殺してはいけないと制限される必要はないという結果になりました しかし私は人間には人を殺しちゃいけない理由があると考えています 野生の世界において動物が動物を殺すことはおかしいことでは有りません これは私たち人間がそう理由付けしているからです 野生は生きるために、子孫を残すために人を殺す必要があったのだと しかし、そう考えると人間も元々は人を殺してもいいのだということになります 人間というものは知性を付けた生き物であり、 それ故にそれ故に人を殺してはいけないと決めたのだと思います 人間の進化をたどるとその過程において秩序を獲得していき、 知性を持たぬ時のみに自然界に属する生活を送っていたのだと考えられます ならば今の人間は知性を持ったことによって不自然に生きていることになります 知性を持った人間が自然に帰るということは、帰るという表現で正しいのでしょうか 私は退化だと思います つまり殺しちゃいけないという秩序は 進化の過程で身につけた人間の成長の証なのではないでしょうか? 殺してはいけないと規制することが正しくないと考えることは退化につながる考えでは無いのでしょうか? 今の世界で秩序を失った世界は戦場だといいますが、 戦場と昔の自然界に属していた頃の人間の暮らしは意味が違うと思います 戦場というものは、兵士にとって相手を殺すということが使命であり 負けるこという一種の危機感からなる正当防衛によって殺人を行うことの連鎖ではないでしょうか そして昔の人々の暮らしは秩序以前に人と考えることが間違っているのではないでしょうか 分かりにくい文ですいません 私の考えについてどう思いますか? 意見をください!!

質問者が選んだベストアンサー

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  • thaurus
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回答No.18

「人間が何のために生きているのか」という存在目的に反するからです。 人間に限らず生物は全て一つの存在目的をもっています。すなわち「より安定した生の再生産を行うこと」です。人間の場合もそれは当てはまるので人を殺すということは人類自身が自分の存在目的を否定することにつながります。  単純な話ですよ。

参考URL:
http://pub.ne.jp/ishida1961/

その他の回答 (17)

noname#154561
noname#154561
回答No.17

こんにちは。 ~しては何故いけないのか? 人間は時折その質問をしますけれど、私達には別な質問に聞こえます。 今回のご質問の「何故殺生は悪なのか」ですが、そもそも誰かに 「私は誰か人を殺したい。だめですか?」と聞いたとします。 それは人殺しの許可を得ようとしている、ように聞こえるのです。 頭に血が上って刃物を振り回すような人は、人を殺すのがいいとか 悪いとか言わないでしょう。 気がつけば血の海の中に佇んでいる。 仮に、ですが、とんでもなく強大な支配者が、誰かに殺人の許可を 下ろしたとします。 そんな映画や漫画は枚挙に暇がありませんよね。 現実の世界でも、つい100年前位にはまだ敵討ちを罪に問わないという 地方があったとも伝え聞きました。 復讐という理由付けが揃えば 殺人も正当化される。 それが孝行と賛美された時代もありました。 少し横道に逸れました。ごめんなさい。 言いか悪いか、という是非を問うということは、すなわち自分が 支配された者であるという表明です。 支配されて生きる、というのは善悪の判断やものごとの価値基準を 「顔の見えない巨大な何か」任せにする、ということです。 法律で「殺してはならない」と法典に書かれているのはいずこも同じ。 でも、誰が今から殺すのか。・・・それは取り締まれません。 暴力団紛争や要人テロなら命がけで国家も警察も阻止しようとするで しょうけれど、一介の庶民や猫などは取り締まってくれません。 まだ起きていない殺人は阻止できないのです。 すると、殺人は許されない、 というのは実行力を持たない努力目標になってしまいます。 そして、現実、そうです。 猫だって殺してはならない法律があるのに。 戦争では殺人そのものが目的で、人が住んでいない山奥の施設ばかりを 攻撃する戦争はありえません。 人には値段がついており、将棋のように 桂馬を、銀を角を、最後に王将を取ったものが勝つのですよね。 人間を将棋の駒に例えるなと毛を逆立てる人もあるのでしょうが、現実に 起きている人間の戦争は、どれ程科学技術が発達しても何人殺せるか、が 戦争ゲームで稼がれるポイントです。 白旗を揚げるまで殺すゲームです。 そこに身を置けば、殺してよいのは相手だけではなく、自分もまた殺して 良い存在、いいえ、殺されるべき人間、という首の一つになります。 生存競争のための殺生が許される、というのは「人を殺してはならない」の 反意としてペアで生まれた考えでしょうね。 人間の無差別な殺戮と破壊の本能に長い年月を掛けて去勢を試みた、 「我々は滅ばぬように」の裏返しなのですね。 逆に言えば、生物の王たる人類の饗宴に供せられるならば、生きとし 生けるものは供物として食用に供せられても仕方がない。 そういう、非論理的極まりない、理由とさえ言えないものです。 究極的な言い方をすれば、権利でも義務でも許可でもなく、 殺しあうこと、逃げること、隠れること。 ただ、そのいずれかを選んで生きなければならない、その一点で 人間も動物も実は同じ場所にいるのです。 例えば、裏社会の人間が殺人を犯すところを見てしまい、しかも それに気付かれてしまった。 彼らは何が何でも貴方を殺そうとする。 手をこまねいて殺人の是非など考えていては100%殺されるでしょう。 先の三つは、多数の個体を群として考えた場合の選択肢です。 特定の個人の生死に関して言えば、彼らに目を付けられたが最後、 今まで単なる虚構の映像としての知識しか無かった「殺される」という ことが、眠ることも出来ない巨大な質量で覆いかぶさってきます。 そうなった状態で、「殺人はなぜ許されないか」という思考は一瞬で 蒸発し、消滅します。 死にたくなければ、殺すしかない。 でも自分にそんな力はない。 とすれば、家族を守ることも叶わぬ 絶望的な状態で、ひたすら生き延びるため、逆に言えば殺されぬため 相手の殺戮さえ冷静に考え抜かなければならない立場になるでしょう。 だから、かつての侍達は殺し合いの覚悟を教え込まれ、腰に刀を 挿したわけです。 人を殺めることは、もはや良いも悪いもない。 あるのは、刀を抜く、という覚悟です。 死にたくない。だが、 刃物でずっぱりと切り裂かれて死ぬ。 それも十二分にある。 そうして切先を向け合いながら、余計な生死の雑念を捨てて 「切る」その一点に体の隅々までの神経を集中させ、停止する一瞬、 どちらかの体を刃物が切るその瞬間まで、「敵を倒す」意思のみの 存在になって・・・切るか切られるかしたわけです。 私、今でもランプさえなかった時代の奥座敷に蝋燭を灯し、 抜き放った真剣の刃を見つめながら、斬ること、斬られることを 何度も何度も心の中でシュミレーションし、お腹の丹田に覚悟を 溜め込んでいった侍の張り詰めた緊張感がまぶたの裏に映ります。 殺してはならない、では殺人は悪か?いやそうとも言い切れない、 では善か?いや、そんなはずは無い・・・堂々巡りですね。 人が死ぬ、それには二つしかありません。 自分の意思で死ぬか、自分ではない何者かに殺されるか、です。 災害であれ、事故や病気であれ、望んだ死ではないでしょう。 それが天災だったとしても、やはり殺されることに違いはないのです。 殺してはならない、という規範は論理などで考える限り上で述べたように 元々が破綻しているものです。 破綻している理屈に正邪も善悪もありません。 強いて言えば、殺してはならないと信じる、という程度です。 必ず自分は惨い殺され方をする。 そうはっきりと自覚した上で、自分の意思で自らの死を選ぶ。 先の大戦では、年端も行かぬ10代の若者が鉄の棺おけに詰め込まれて 大勢死んでいきました。 そういう話を聞いても単なる知識としてしか 聞こえない人が増えたのならば、遠からず軍靴の響きも聞こえましょう。 ご質問のお話では、秩序が無くなれば世界は戦場になり人類は滅ぶかの 論戦のご様子ですが、恐らく、人類が生物的に、或いは情報工学的に 進化せず、今の心と考えの人間である限り、殺人も戦争もなくなりません。 そして、滅びない限りそれは続くでしょう。 大切なのは他者を殺すことは自分も殺されること、殺されないことは 生き延びること。 そんな当たり前のことをちゃんと体で知ることだと 思うのです。 何も斬りあいをしなくとも、感受性さえちゃんとしていれば この世にはいくらも死はありますもの。 時間を掛けてゆっくり取り組めば 覚悟の種子は心の畑に蒔かれましょう。 人類や社会が殺人を正当化云々、という考えは、それが社会の趨勢と なれば法文化され、制度化されます。 戦時中は、戦争をすることは 法律で強いられた義務だったのですから。 そしてそれは殺されたくない殺したくない、という当たり前の生存本能さえ 支配されて死を強制される巨大な支配者=為政者、独裁者。或いは社会。 というものを育てることに他ならず、善悪正邪を始めとする価値判断や 目的を持ち行動する意思などの人間性を支配に委ねることに繋がります。 どういう場合には躊躇せず殺す。 どういう場合には絶対に殺さず守る。 それらは明確な個人の意思です。 と同時に、殺すという意思は殺される 最大限の危険に臨んで身を置くことに他なりません。 他者の生命も自らの生命と同じように大切に思う。 それは殺す覚悟、殺される覚悟無しには筋が通らないもの だからこそ、殺す意思について覚悟を深めることは、自らの死に方を きちんと見据え、覚悟を深めることに他ならないのではないでしょうか。 それを「必死」と言うのだろう、と。 私は、そう思うのです。

回答No.16

お尋ねしたいのですが、もし宜しければ、ご友人の方の主義主張も併せ持って受け取りたいなぁと思う僕がいましてですね、ご友人の方の主義主張をお聞かせ下されば幸いです。 それが、詳しければ詳しいほど、とても参考になるかと思いますので、ご友人は何と言っておられるのかをお聞かせ下さいませんか? 宜しくお願い致します。

  • I53
  • ベストアンサー率54% (17/31)
回答No.15

おっしゃる通り、人間には知性があります。 動物と決定的に違うところはそこでしょう。 人を殺してはいけない理由。 殺してもいい理由、殺してはいけない理由も山ほど思いつきますよね。 だけど、人として本当に大切なことに理由なんていらないと思います。 だからどの戦争も正しかったことは一度もないし、人を殺してもいい理由を見つけては、いまだに同じことを繰り返しているんです。 悲しいですね。

noname#128641
noname#128641
回答No.14

 おそらく人を殺したい人は自らに抑圧的な存在がうざいので殺したいということだろうと思うわけです。 それはそれで分からないではない理由ですが逆に人を殺すのはよくないというのは人に対して親しみ を感じる人だと思います。人間的な生き方を否定されるのはなんともいえない苦しさを感じるからです。 目の前で人殺のシーンを見るのはなんともいえない憤りを感じる筈です。それが動物なのです。 下等動物以外は殆どそのような光景を嫌がる筈です。犬とかでも目の前で鉄砲音などを聞くとビクッとします。 鳥でもそうです。つまり人を殺してはいけない理由は人殺し自体を嫌がっているからだとという事になります。 人殺しを好む人は何かしら憎しみをいただいている人だと思います。人を殺すと得をすると感じる人ということになります。 その拮抗が残虐的に殺されていくのは嫌だという気持ちがある人が人殺しは良くないと言う一般的な気持ちになるわけです。 一方人殺しは良いという人は人殺しすることでなにかしら得する人ということになります。 おおまかにはそういうことなのですが人殺しをせずに平和に物事を解決するというのが理想になるのは当然になるという理由は分かっていただけましたでしょうか?  しかし動物は異常に未熟な人もしくは異常な攻撃を食らった人の場合前者は精神修行が足らなさ過ぎて後者は異常な目に合わされたが故に何故人を殺してはいけないの?と言い出すわけです。無論哲学的な場合や意味的な理由でそういう疑問を持っている人は別です。  しかし動画サイトで見たのですがそのような議題がビートたけしの番組でなされたんでそれがきっかけなんでしょうね(笑)

  • ID10T5
  • ベストアンサー率31% (732/2313)
回答No.13

No.12です。さらに補足。 人を殺すと嫌な気持ちになるのだから、本来人は人を殺さないはず。だったら法律もいらないのでは?という疑問が生じるかもしれません。これにも一応答えておきます。 人を殺すとやった本人が嫌な気持ちになる、というのはそれなりの想像力を働かせた結果です。本人だけではありません。周囲の人だって嫌な気持ちになります。自分が手を下して誰かを殺したわけではなくても、殺される人は痛かっただろうな、苦しかっただろうなって感じることはできますから。 だからお互い嫌な思いをしないで済むように、社会秩序の維持を目的として殺人には社会的制裁である刑罰を加えることにしてあるのですね。裁判で冷酷さとか残忍さ、計画性等の要因で殺人罪の刑罰が重くなるのは、周りの人たちの気持ちに配慮してなんだろうな、と思います。 しかしなかにはそこまで想像力の働かない人たちもいる。ここで戦争とか宗教等々、哲学的な議論をしている人たちは果たして根本的な想像力を働かせているのか?ま、ここから先はやめておきます。 でも世の中にはたくさんの人がいますから、結果を十分想像せずに「やっちまった」ってことだってあるでしょう。人のものを盗んだならば返せばよろしい。でも人の命を奪ったら元には戻せません。 「人を殺してみたかった」みたいことを言うバカなガキどもが出てくるのは、ちゃんと学校で命の大切さを教えてないからです。相手の思いを汲み取るという基本的なことを教えていないのかもしれません。 テレビや映画、ゲームでも、人が死んでも痛くも痒くもない、そんなのばっかりです。 漠然と人を殺してはいけない気がするけど、理由が分からない。この質問を発しているあなたも、実際に誰かを殺そうとするとどうなるか頭の中で想像してみればいい。何が起こるか想像できますよね? 相手がどんなに痛がるか、どのくらい血が出るか。どのくらい泣き叫ぶか。 それが「人を殺してはいけない」答えですよ。難しい議論は必要ありません。

  • ID10T5
  • ベストアンサー率31% (732/2313)
回答No.12

回答というわけではないんですが、ボクはボクなりに明確な考えがありますね。 まーこの辺の考え方は人それぞれだと思うので、気楽に読んでください。 人を殺しちゃいけない理由、法律で禁じられているからとかいろいろあるだろうけれど、多分一番の根本は、実際に誰かを殺すと「良心の呵責」を感じるからなんですよ。 「やってはいけないことをやってしまった」という感情を抱くからです。 もちろんボクは誰かを殺したことがあるわけじゃないですよ。でも誰かを殺してしまうと、きっと後で殺した相手が夢に出てくるだろうなと思います。これは理性じゃありません。感情ですから。笑ったり怒ったり悲しかったり、と同じレベルの気持ちです。 じゃなんでそんな感情を抱くか。ここからが多分「人を殺してはいけない」本当の理由かな。 人間は社会的動物です。「社会的」というのはつまり「相手の表情を読んだり、気持ちを察したり」ってことができるということです。 人を殺すときには、殺される側の立場に立つことも出来る、ということです。痛いだろうな、とか、この人の家族は悲しむだろうな、とか。 殺される側のことを考えたら殺したりできませんよね?多分理由はそんなところだとボクが考えました。 最近では人間だけではなくて動物の命まで哀れみますよね。例えば牛や鯨。捕鯨は可哀想だって西洋人は言います。日本人は捕鯨は日本の文化だ、なんて理由になっていない反論をする。 ボクは日本人だけど捕鯨は可哀想だと思いますよ。だってあんな雄大で知能もそこそこ高い生命を殺して食っちまうなんて。ホエールウォッチングを一度してみれば、この気持ちお分かりになるかも。 これも社会的動物であるボク自身のなし得る感情の動きです。 牛や豚だってそうですよね。彼らは犬や猫ほどじゃないけど人間とコミュニケーションできるんですよ。そんなものを殺して肉にして食っちまうなんて。 でも残念ながら人間の味覚は彼らの肉を旨いと感じるようにできているんですね。なので仕方ないかということになる。片方では「可哀想」と思いながら、片方では「あー旨い」です。人間って不合理な生き物なのです。 さて、人間を殺しても「仕方ないか、まーいいか」とはなかなかなりません。「あー可哀想なことをした」と正常な感覚の持ち主なら感じるはずでしょう。たまにライオンがシマウマ狩るようなもんだ、みたいな変なことをいう殺人犯もいますけど。彼は社会性に問題があったのでしょう。 だから殺しちゃいけないんですよ。自分自身が嫌な思いをしないためです。それが理由です。 法律の有無は関係ありません。 長くなりました。

noname#130919
noname#130919
回答No.11

>殺してはいけないと規制することが正しくないと考えることは退化につながる考えでは無いのでしょうか? その通りだと思います。同様の意見を、前にフランスで死刑を廃止する法案を強行採決した政治家ロベール・バダンテールから聞いたことがあります。こうした考え方は人道主義や人権主義といってよいと思うのですが、彼に会う前の下準備では、私は人道主義が気恥かしいとか、論理的にどうなんだろうか?と思っていました。 しかし彼に会ってみると、あまりにも当然のようなことに語っているので、自分の考え方を見直さざるをえませんでした。完全に開き直って考えると、人道主義の立場は、私には損があるどころか、戦争や殺人を止めるという意味で、非常に有意義であることに気がついたのです。そして私個人が少なくても戦争や殺人に反対なのに、あれこれと理屈をこねて、慎重な見方を出していることがバカらしくなりました。 しかし人道主義はキリスト教を基盤としているのだそうです。だから日本では、人道主義的なことを言うと、「この人、人が良すぎるのじゃないか?」とかなどという反応にしかならず、受容されないようです。もちろん論破することはできると思います。――人間と一口に言っても、本能の問題のみに注目し、人間を生物であるかのように捉え、歴史的な経緯がないかのようにみなす議論に厚みがないという主張は説得力があります。ご友人は既に論破されているでしょう。 しかし相手を納得させるという意味だと、どうしたらいいのか、私にはよくわかりません。必要悪を認める人もいれば、理想を追求する人もいます。人道主義者とは後者のようです。実際、バダンテールの死刑廃止法案も強行採決という形であって、理想をもった一人の政治家が暴走する形でしかなしえなかったのです。もっとも採決された後は、反対派がすっかりなりをひそめ、人道主義の歴史的な勝利だと支持されるようになったわけなのですが……。 他の回答者の方の議論を見ても、人道主義は支持されなさそうだなと感じました。日本は軍隊をもっていないという意味で、その根本的な思想である人道主義が浸透していても本来はいいはずです。しかし自衛の問題ばかりに焦点があてられて、結局はマキャベリスムに終始するというのは、何だか不思議な気がします。憲法が借りてきたものだといえば、本当にそうなのかもしれません。 脱線しましたが、ご参考までに。

noname#194996
noname#194996
回答No.10

>人間も元々は人を殺してもいいのだということになります もともとは良いも悪いもありません。良いとか悪いとかいうことは人間が知性を持ってから自分の都合で決めてきたのでしょう。猛獣たちは自由にやっていますが、本能的に何らかのルールを身につけてやっているようです。同種の動物はみだりに殺しあわないというようなことです。人間は知性を持つことになりましたが、猛獣たちよりも頻繁にお互いの殺し合いを大々的にやっています。私はこの方が不自然でありむしろ自然よりも退化した状況だと思います。人間は一番残虐な動物だといわれるとおりです。 私は、もともとは人間は(本能から、他の動物たちのように)殺し合いはしなかった生き物なのだろうと思っています。へたくそな知性をふりまわすから「もともとは人を殺してもいいのだろう」というようなすさまじい考えを思い浮かべる人間も出てくるのでしょう(失礼)。 もちろんチンパンジーもある状況の中ではお互い食い合うこともあるらしいですが、それはフツウではないということでしょう。いつもそれをやっていたらチンパンジーは絶滅していたはずです。 私は、人間が他人を殺してはいけないというルールを大昔決めたのは、やはり、社会を作ったからだと思います。自分たちの社会の中ではお互いに助け合い、お互いの生きる権利を守るようにしようということです。そうすることで彼らの社会が繁栄することが出来たのでしょう。そのなかでルールに違反した人間は殺してもいいのです。社会として違反者を殺すということになります。 戦争は決まって違う社会同士が対決するものです。ですからのびのびとお互いにお互いを殺しあっていいのです。戦争は特別な状況なのです。 ご参考になれば。

noname#129768
noname#129768
回答No.9

お礼と補足ありがとうございます。 私は戦場は無秩序とは思いませんね。 指揮官の命令に従い、殺人と破壊 占領する事が戦場であると思います。 戦場はとても秩序だっていて、普通なら犯罪行為になる事を秩序に基づいて行う場だと思います。 戦場は修羅場じゃありません。 無意味に殺し合っている訳ではありませんから…。

回答No.8

「殺人が絶対悪」などという嘘は、まず捨てましょう。 戦争に参加した兵士も、織田信長も、人を殺したゆえに 英雄になったが、だからといって彼らが異常な訳ではない。 むしろ「人を殺すことが悪である」と無条件で信じる方が、 生物的には異常なのです。 その異常が常識になるためには; 1.個体の生存に、分業&組織化による社会性が充分に発達している。 2.個体に依存する感受において、社会性の自覚が充分に発達している。 という内外の社会性の発達という、困難な条件が前提となります。 殺人が良くないかどうかは、状況によります。 古代は、ファミリー単位で殺し合っていましたし、 日本も戦国時代まで、県単位で殺し合っていました。 (殺せば英雄/淘汰は進化) 産業の分業化、流通の発達といった、社会の組織性 の発達において、その内では利害が共通するので、 「殺すのは悪」という価値観が生じます。 だから、その外である国際関係が悪化すれば、 「殺すと英雄になれる」戦争が発生するのです。 (産業も経済もグローバル化したが政治は遅れている) ところが、その“助け合うために集まっている社会”において、 社会的行動を社会生命としての自覚(愛)によって導かず、 お金や出世、虚栄心といった“馬車馬の目の前のニンジン” によって他律的に強制(お金をもらうためにイヤイヤ働いた 結果として生かし合う)する事において、個人の意識は 自己チュー化し、他人と競い合ったり、奪い合ったりし、 そのあげくに殺したくもなるのである。 法律とは「守らないといけないもの(先入的なもの)」では なく、「守るか罰を受けるか(社会性を受け入れるか否か の選択)」に過ぎません。 それを「守るべきもの」と思い込んだ時点で異常なのです。 (ただし、一方で充分に発達した社会的便益を教授的しな がら殺人を正当化する道理はありません)

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