• 締切済み

人はハプニングを欲して生きる

初めまして、ふーさんと申します! 哲学者のジャン・ボードリヤールが、最後の著書「悪の知性」で次のような事を述べていました。 現実が過剰なとき、同等かそれ以上の幻想を私たちは欲望する。 つまり、現実[秩序]が過剰なとき、私たちはまた幻想[ハプニング、想像の余地]も求めるのだと彼は言います。 具体例の一つとして、「あらゆるコミュニケーションの過剰は同等あるいはそれ以上のコミュニケーション不全を生む」と彼は指摘します。飲み会でノミニケーションをすれば飲み会に呼ばれなかった人はより孤独感を感じるでしょう。また、もし私たちが万人と社交的にコミュニケートしわかりあう事ができるならば、コミュニケーションの効用の一つである“わかりあう喜び”も失われます。あるいは、コミュニケーションが大事だと考え建前を全てさらけ出せば、それはむしろ本音しかない殺伐とした世界になります。 要は、“想像の余地”が必要なのです。全てが秩序立っている世界を、私たちは実は求めていない。ある程度秩序立っている世界を、私たちは望んでいる。 ボードリヤールは、秩序を重視する考え方に対して、秩序も無秩序も大事だとする考え方を(唯一無二の正しさ、唯一無二の秩序、という意味合いとしての善に対して)悪の知性と定義しているわけです。あるいは、秩序が強くなるにつれて無秩序も増大するとする考え方です。 さて皆さまは、彼の言う「悪の知性」についてどう思いますか? 面白い回答をたくさん期待しています! 御精読ありがとうございました(^^

  • foosun
  • お礼率76% (304/400)

みんなの回答

回答No.7

生物とは、新陳代謝の物質循環=恒常性(秩序)と、 進化としての変化=創造性(ハプニング)を両立させる 事で成り立っています。 芸術においても革新的な作風は画壇で批判され、 また新たな社会的ムーブメントも過激派として排斥 されるように、「善悪」が時の体制の規定するもので ある以上、“新たなる善”は、それが主流となるまでは、 反社会的な悪と混同されて当然である。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

ボード利アールとか読んだことはありませんが、ここでのお話の限りでは面白くもなんともない、ゴク常識的なことを言っているような気がしますが、私の理解不足なんでしょうね。 >秩序が強くなるにつれて無秩序も増大するとする 中国とか北朝鮮とかはこの典型で、上部からの締め付けが強いほど裏では汚職がはびこったり下層での無惨なまでのイジメや搾取があったりする、そんなことを連想しましたが、ともかく人間には息抜きが不可欠だということではないのでしょうか。いずれにせよ人間同士に完璧な意思の疎通や完全な理解はないと私も思います。不完全さといい加減なものを許容する世界、それが悪なのかどうかは分かりませんが社会の風通しを良くし、人間性の多様さと豊かさを高め、可能性を前進させるのだと思います。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

『透きとおった悪』という書物のなかに、「エネルギーの運命」という章がありますね。 ボードリヤールは、近現代の人間の経済活動と精神活動のとりわけ流動の力を読み解いてきましたが、バタイユの影響が濃厚であり、非常に肉感的かつ触知的といえる記号のはたらきを抉り出す社会思想家です。善と悪の不可分なありようを、社会の力学的構造から描き出すともいえます。 彼は、生産-消費という単純視された構造を疑い、消費すれば消費するほどつまり浪費するほどエネルギーは補填されるという現象に注目しました。 そのようなエネルギーは生活に必要なレベルを越えているのですが、悪徳に満ちた非人間的な環境にあって、人間は打ちひしがれるどころかますますより豪奢なエネルギーへの欲望を募らせる、ボードリヤール風に言えば拡大再生産するというわけです。このことは善と悪の境をとうに侵食し、限度がなく、増殖の一方通行であることをボードリヤールは警告しますが、そのとき、理性による解決といった夢、倫理的でエコロジーにのっとった解決という幻想が、奇妙にも同心円で育まれるわけです。幻想というのは、ハプニングではなくむしろ想定内のもとに育まれていく無意識であり、この場合、欲望と一対の盲目性を示しているといえるのではないでしょうか。 ボードリヤールが同心円と言ったわけではありませんが、わたしの理解ではこういうイメージです。 『死の同心円』というジャック・ロンドンの小説があっておもしろかった記憶があるので、語を拝借してみました。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうございます!ただ、具体例を使ったり、もっと分かりやすい回答をできませんか?私は頭がよくないので難しい言葉を使われると理解できません。すいません。

noname#209756
noname#209756
回答No.4

追加で。 人は好奇心の生き物。 ドーパミンが増えれば記憶力よくなるけど、攻撃性があがるとか。 固いからくずすのとやわらかいのも違います。

noname#209756
noname#209756
回答No.3

秩序に関して言えば、日本の近隣のある国は秩序ばっかり言っているのに、国連の統計で腐敗度でワーストクラスだそうです。 確かに公共の平穏のための秩序は必要です。 でも秩序が万能ではない。 秩序が増えれば、無秩序も増えるというのは、エントロピー増大の法則あたりなんでしょうか。

回答No.2

他人の不幸は蜜の味。

回答No.1

ハプニングバーがある理由がわかりました 目から鱗でした すごいですね質問者さん!

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  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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