• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――)

ひとは神隠しを好むものなのか

このQ&Aのポイント
  • ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか?
  • 善事もアハヒの魅力にはふくまれており、神隠しに遭ったことから事が展開するようである。
  • ひとは神隠しが好きなのか?そのマに臨むとなぜか惹かれるものがあるのだろうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.8

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。 ご返信ありがとうございます。4番です。 >★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。  ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。 :わかりました。それなら二度と言いませんですわ。 ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、 このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。 しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、 公園のようなところでしゃべっていますから、 わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。 わたしの都合というのは、たとえば 理解力・表現力・語彙の不足・時間の不足などです。 >《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。 :異議なし。 >☆ これは分からんなぁ。説明不足では? :3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、 「さかなのさが」と言っただけです。 釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。 「ちまた」は「道・股」と書くのですね、 知りませんでした。おもしろい。 >☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕  たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。 :分かりませんです。主語を書いてください。 「>いけない」のは、外に出て行った 「美智子さん雅子さん愛子さん」ですか。 それとも「ガミガミさん」ですか。 「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」 を持っているのは、ここでは誰ですか。 >自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。 >アース役を探し出し(または 自分で作り出し) :捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」 ということで納得しましたが、 「自己アイデンティティの確立のため」と 昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。 >占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから :異議なし。 >おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。 :はい、これが、 「>責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。」 ということでよいのだろうか。 ...........ブレイク............... >社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。 >責任が、行動を制御するからである。 >問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。 >金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。 >貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。 ................................... >ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。 :気のせいだと思います。 >《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》 :分かりません。これを言っているのは誰ですか。 そう言って男が聞き流していると? >数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。 :分かりません。 >まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。 :ありがとう。やさしいね。 みずから墓場に住んでいるのに、 聞いてちょうだいとわめいている人のことでしょうか。 >これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。 :話をそらすなと言っていますか。

bragelonne
質問者

お礼

 俄然いそがしくなってまいりました。  ★ :異議なし。  ☆ いいですねぇ。ありがとうございます。しばらくこの言葉を聞かなかったように記憶しています。  ★(要約) 言わザルにはならない。  ☆ ありがとうございます。そう来なくっちゃ。  ★ わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。・・・  ☆ 分かりました。前もって分かっていれば ひとまづ大丈夫です。  ★ ~~~~~~~~~~~  :3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、  「さかなのさが」と言っただけです。  釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の性》は 逢い引きの話があったのでわたしは 男女の性のことかと取りました。  それにしても《さかなのさが》で 白身と赤身の違いから 蛸壺と釣り竿の違いに到るというところがよく分かりませんでした。ふざけると言いますか まだよく分かりません。  ――ああ 投稿へと釣られたということですか。しめしめ。  ★ 「ちまた」は「道・股」と書くのですね、  ☆ そう言われると 調べます。確認します。みち=道のミは ミ先=岬 ミ根=嶺のミ。《霊》のこと。わた(海)つ(の)ミ=海神。でした。  ★☆ 「>いけない」のは、・・・「ガミガミさん」〔のガミガミ電波の放射行為〕です。  ★ 「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」を持っているのは、ここでは誰ですか。  ☆ これもガミガミさんです。  ★ ~~~~~~~~~~~~  :捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」  ということで納得しましたが、  「自己アイデンティティの確立のため」と  昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ねつ造》の上にその思念や感情をほかの人間に放射することは 或る種の仕方で《加害行為》に入ると考えます。自己防衛を超えていると思うんですが どうでしょう?  ★☆ 神隠れ≒責任逃れ≒意志放棄  ☆ だと思います。  ★ ~~~~~~~~  >社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。  >責任が、行動を制御するからである。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この命題もしくはその表現の形式 これはどうもアマテラス学術語かつ人格語を単独に分立させてその宙に浮いた言葉で ものごとを規定しているように感じますが どうですか?  ○ わたしは 自己を表現して生活する。それが 広く文体である。表現の動態としてわたしはある。そこで 表現の自由を享受しているからには その表現したことがらについて答責性を持つ。あやまつなら ごめんなさいと言いあらためるという程度の責任ではあるが 自己表現にはこの責任をともなっているつもりだ。表現の自由を享受するためには 欠かせないことだと思う。  ☆ 《自律性・制御》といった言い方には なじまないように思います。重なっているところがあるかも知れないので 微妙ですが。  ★ >貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。  ☆ 断片をとらえて批評するわけですが どうも  ○ 貨幣価値によって表象したときの人間も 人間でしかない。  ☆ と言いたいのですけれど どうでしょう? つまり 貨幣価値による値踏みを 人間存在は超えているのだと。スサノヲ人間語は そんな暴言をも許容する?  ★(要約) ~~~~~~~~~~~~  批判することは 日本ではつつしみなさいと世間が暗黙の内に言っている。  :気のせいだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ まぁ そう言えばそうでしょうね。別の見方でなら 《観念の運河》が築かれているというものです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  >《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》  :分かりません。これを言っているのは誰ですか。  そう言って男が聞き流していると?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁ 女性には何ともいやなことでしょうが たとえばこうです。男の場合は 《くちばしの青い若造が言っているぶんには 言わせておけ。取り合うな》となるはずです。むろんふるくなっていると考えます。  ★ >まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。  ☆ これは そういう作業をわれわれが基礎としてすすめるという意味です。  ★ ~~~~~~~~~  >これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。  :話をそらすなと言っていますか。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 直接に触れ得なかったので その言葉どおりのことを言っています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (20)

回答No.11

ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。 ご返信ありがとうございます。 困ったなあ・・・例によって頭が散らかっています。 実は、この質問でぶらじゅろんぬさんが 何を批判しているのかも分からんままです。 ここではどこにミサイルを投げているのですか。 夕陽信仰からの続きなのですよね。 こちらでは、西に日が沈んでも(なくなっても) また東から出てくる(生まれ変わる?)、 だって太陽が回ってるから(?)、 という思想のために命の意味が分からなくなり そうしてある者は簡単に西に向かってしまうようになり、 またある者は簡単に西に向かわせるようになった、 ということについて批判している、ということでよいですか。 ロールプレイゲームをしていて自分役が死んでしまっても リセットボタンポチ!で簡単にまた最初からやり直しOK、 という思想に対する批判、ということでよいですか。 で、ここではミサイルの先は何なんですか。 >神隠れ≒責任逃れ≒意志放棄 :これですか。軍団による、これですか。 ...............ちょっとブレイク.................. >三本の全体として 挑戦的ですね。 :困りますねえ・・・。そのような解釈は。 言い訳で弁解だとわざわざ言ってるのに。 >社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。 >責任が、行動を制御するからである。 >問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。 :ということで(飛びすぎですかねえ・・・) 「わたしは、わたし+わたしの周辺(極狭)の責任  を取ることで精一杯です。  わたしはわたしの責任を取るために、  取らなくてよい責任を必死で放棄しています。  そうしないと(最も大切な)わたしの責任を  取ることができないのです。  (そんなわけで滅多にしゃべりません。)  (しかもときどきしゃべりっぱなしになります。)」 という言い訳や弁解として、 ルカやエレミアや箴言を持ち出したのですよ。 (ついでに少し文句を言ったのも本当ですが。) >何だかおっかない。 :強引(に)舞ウェイのごビョーキです。 ..................................................................... >★☆ 「>いけない」のは、・・・「ガミガミさん」〔のガミガミ電波の放射行為〕です。 :わかりました。しかし、 > ☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕 :これもわかったのですが、状況が特殊過ぎませんか。 いぢめの一般論に当てはめてしまってよいのですか。 わたしたち庶民は「ゴミ捨て場」を いくらでも作ることができますが (茶友達から電子媒体まで)、 そうしてわたしは必死で「ゴミ捨て場」を 増やしていますが(9番)、 美智子さん雅子さん愛子さんは、 どこで何をしゃべることができるというのですか。 どこに何をしゃべったらよいと思いますか。 「>おおむね固定されて来るでしょうね。」なのでしょう? (しつこいですかねえ・・・。) ...................ちょっとブレイク......................... >《さかなのさが》で 白身と赤身の違いから 蛸壺と釣り竿の違いに到る :何となく蛸壺とヒラメは海底、 釣り糸とイワシは海の表面に近いところ、と思っただけです。 >しめしめ。 :やれやれ。 そういえば今朝「chuさん」を確かに目撃したのですが、 何で消えてるんですか。参考になったのに育児の話とか。 ......................................................................... あ。2000字みたいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こんばんは ニュウトラルさん。  まづこの質問のキモは 次です。  ☆☆(趣旨説明) 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?  ☆ 神隠しあるいは神隠れへの誘惑はつよいのか。どれほど強いのか。どう考えどう対処すればよいか。  回答No.1は 《ともかくマは差すのだ》という見方でした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  夕陽信仰・・・では、西に日が沈んでも(なくなっても)  また東から出てくる(生まれ変わる?)、  だって太陽が回ってるから(?)、  という思想のために命の意味が分からなくなり  そうしてある者は簡単に西に向かってしまうようになり、  またある者は簡単に西に向かわせるようになった、  ということについて批判している、ということでよいですか。  ロールプレイゲームをしていて自分役が死んでしまっても  リセットボタンポチ!で簡単にまた最初からやり直しOK、  という思想に対する批判、ということでよいですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この論点・この批判も有効ですね。《永劫回帰》なんてのは よほどうまく理論化していなければやはりちゃちな思想だと思います。  その永遠の繰り返し――特にその《再生》の要素ですね――に ひとつには 人よ癒やされなさいという政策ではないかと考えます。この世のつらさは 夕日の世界で忘れなさいと。  のちには西方浄土への願望になったようですが もともと 山――かむなび(神‐の‐霊)なる山――が 古神道での信仰の的だったようです。その山の端に入る夕日と捉えれば つながるようです。  どうも聖徳太子は まゆつばものだと思えて仕方がありません。《世間虚仮 唯仏是真》というのは 自分がそのように思っているぶんにはかまいませんが ブディズムが世間のクウキとなった風潮にその口癖――座右の銘(?)――が混じると困ります。  ▲ (ヰキぺ:現生正定衆) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E7%94%9F%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A  親鸞は・・・信心は阿弥陀如来の本願力により賜わるものであり、その信心を受容することで、浄土に往生することが定まった身となり、現在・現時点で悟り(覚り)を開き仏と成ることが定まる(仏の覚りと等しい位に定まる)とする。  そのため、信心を賜わったのちの「南無阿弥陀仏」と口で称える念仏、つまり称名念仏は、すでに浄土へ行くことが定まっていることへの報恩謝徳の念仏であるとする。念仏の功徳により浄土へ往生しようとする方法・手段(行)ではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ というように――ですから―― 基本的に言って何が何でも欣求浄土ではないわけです。《現生=現在の生》が第一だと言っています。あるいは《浄土に往生することが定まった身となっている》ことと その現世でたとえば  ▲ (親鸞) 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」  ☆ という状態であることとは 矛盾しません。信仰=非思考の場においてさとりを得ている(ブッダとなっている)ということですから。  きわめて世間の仏教観は めちゃくちゃですよね。もっとも親鸞のほかは 心もとないおしえであるように思えますから その評価はまちがっていないかも知れません。親鸞だけは 例外的です。  ★ ~~~~~~~~~~~  で、ここではミサイルの先は何なんですか。  >神隠れ≒責任逃れ≒意志放棄  :これですか。軍団による、これですか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《軍団=レギオン》ですね。ですから 親鸞についての誤解 それの裏返しであまりにも《観念のさとり それもブッダが批判したブラフマニズムの梵我一如の思想にもとづくさとり》に走る変な――きわめてめちゃくちゃな――仏教論が大手を振ってあるいています。このカテでも仏教と言えば そのお化けの思想ばかりです。――というミサイルは そうとすればつながっています。  そろそろニ千字なので 残りは次の回答へのお応えに継ぎます。  * No.10――回答者は お坊さん――の《弱法師》は 西方に向かいその入り日に祈ると 失明した眼が見えるようになったという話がついています。こうなると批判しにくいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.10

bragelonneさん、こんばんは。 以下は「神隠し」の例ではありませんが、私が《間》を考えるよすがになった例の一つです。 >《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。 お能の『弱法師』には、盲目となった俊徳丸が入り日を拝んでいる(日想観)うちに、在りし日の難波の風景が心眼に蘇り、エクスタシスに至るというシーンがあります。 シテ「げにげに日想観の時節なるべし。盲目なればそなたとばかり。心あてなる日に向い。東門を拝み.南無阿弥陀仏。」 ワキ「やあ東門とは謂れなや。ここは西門石の鳥居よ。」 シテ「あら愚かや天王寺の。西門を出でて極楽の。東門に向うはひが事か。」 ワキ「げにげにここも難波の寺の。西門を出ずる石の鳥居の。」 シテ「阿字門に入って。」 ワキ「阿字門を出ずる。」 シテ「阿弥陀のみ国も。」 ワキ「極楽の。」 シテ「東門に。向う難波の西の海。」 >《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。 詩人というのは好んで禍々しい問題に首突込みたがるように宿命づけられた存在だからでしょうか、かつて僕が愛誦した二人の詩人も、「光と闇のあはひ」の魅惑には抗えなかったようです。 たとえば、立原道造は、 僕の住んでゐたのは、光と闇との中間であり、暁と夕との中間であった。形ないものの、淡々しい、否定も肯定も中止された、ただ一面に影も光もない場所だつたのである。人間がそこでは金属となり結晶質となり天使となり、生きたる者と死したる者の中間者(Der Mittler?)として漂ふ。死が生をひたし、僕の生の書く瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。(第三「風信子」) と語っております。 また、伊東静雄は、 六月の夜と昼のあはひに 万象のこれは自ら光る明るさの時刻(とき) 遂ひ逢はざりし人の面影 一茎の葵の花の前に立て。 堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。 金魚の影もそこに閃きつ。 すべてのものは吾にむかひて 死ねといふ、 わが水無月のなどかくはうつくしき。(「水中花」) とか、 そんなに凝視(みつ)めるな わかい友 自然が与える暗示は いかにそれが光耀にみちてゐようとも 凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ 鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな  夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな (「そんなに凝視めるな」) とかと歌っています。

bragelonne
質問者

お礼

 よく乗りこえて来られたんですね。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (大伯皇女 万葉集 二・165) ~~~  うつそみの人にある我れや  明日よりは  二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我が見む  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 二上山 夕日の画像:   http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E3%80%80%E5%A4%95%E6%97%A5&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi  ○ 日想観の画像:   http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E6%97%A5%E6%83%B3%E8%A6%B3%E3%80%80&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=  ▲ 弱法師=俊徳丸  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%BE%B3%E4%B8%B8  ▲ 中将姫   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%86%E5%A7%AB  ▲ 折口信夫:山越しの阿弥陀像の画因  http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/45498_26150.html

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.9

ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。 とりあえずしゃべりっぱなします。 >かくばかり恋ひつつあらずは〔* 恋い慕っていないで〕 高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを :まあこんなに美しくうたうことはできませんですが、 わたしは1日中やれやれと思うから、 1日中やれやれと言っているだけです。 そうやって、 (無自覚ではなく)ゴミを撒き散らして 生きているだけなのですが (そうしないではいられないのですが)、 誰に迷惑がかかっているのですか。 誰が害を被っているのですか。 誰にも迷惑をかけてはいけないのですか。 アース役とガミガミ役は、 いつから固定されたのですか。 「晴れのち雨」のように、 時間の流れ(数秒・数分・数時間・数日・数週間・数年) で入れ替わるのではないのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 うん???  ★ アース役とガミガミ役は、 / いつから固定されたのですか。  ☆ これもたとえば雅子さんの場合で考えればどうですか? おおむね固定されて来るでしょうね。主題ないし問題が同じかたちで推移するかぎりで。  あぁ こういう場合があり得ますね。つまり 雅子さんが ガミガミ役に回るという局面の展開になる場合です。  そうでないと――同じ問題がつづくかぎり―― 目線が対等ということにはならず どちらかが上になるでしょうし その上下関係は それとして固定すると思います。    わたしは 歳の差で多少は 上から目線をともなっていると自分で思います。ほかの事柄で・つまりここでは 対話における主題の問い求めをめぐって時にえらそうに言う場合があります。それは そう表現しないと――つまり 黙って放っておくと―― かえってえらそうに自分が自分のことを思ってほくそえんでいるという格好になると思うからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~  (無自覚ではなく)ゴミを撒き散らして  生きているだけなのですが  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この程度なのでしょうかね。一人ひとりわれわれの生活態度は。  わたしは相手に対する思念や感情を ふと持つところまでは一人前におこなっているようですが それを放射することはないと思っているのですが そうではないと言うもんでしょうかねぇ。  つまり 上に述べたように 相手とのやり取りに応じて 表現のかたちを変えることはあるのです。でもそれは むしろつねに対等をこころがけて その対等が傾きかけたと思ったときに その均衡を取ろうとしてのことだとは考えているのですが。  いづれにしましても  ★ 害・迷惑   ☆ というのは 故意におこなう場合を言うのでしょうね。確信犯というのはあると思いますよ。  雅子さんのガミガミ役は その確信犯であって しかもそれは自分のしかるべき大事な役目だと思ってやっているのでしょうね。そういう食い違いはあるのでしょう。でも医者が診るまでになれば 行きすぎがあると言うべきではないでしょうか。被害という事例ではないかとそのガミガミ役の人たちは一度思ってみるのは よいことだと考えます。  もし逆に雅子さんのほうが わがままであるのだとすれば くわしい事情はもう分からないので どちらの味方につくのも控えるべきだと考えます。判断材料がとぼしいのですから 一方が《行きすぎ》だとも他方が《わがまま》だともどちらとも断定しないという態度でいるべきだと。  つまりそういう場合には 害や迷惑もはっきりとは特定できないということになるかと思います。  ★ 「晴れのち雨」のように、・・・入れ替わる  ☆ のでもなく つねにどちらとも判断・規定することができないという場合だと。  応答しがたい何かのような問いが残ったかのように思いますが 取り敢えずこんなところです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

ぶらじゅろんぬさん。こんにちわ。 ご返信ありがとうございます。 4番のご返信文に反応するのはもう少し遅れます。 つなぎとして言い訳や弁解や医者の言葉などを少し。 ◇ しかし、食べ過ぎや飲みすぎ また生活上の思い煩いなどのために あなた方の心が押しひしがれ、 その日が突然、 わなのようにあなた方に臨むことがないよう、 自分自身に注意を払いなさい。 それは、全地の表に住むすべての者に臨むからです。 それで、起きることが定まっている これらのすべてのことを逃れ、 かつ人の子の前に立つことができるよう、 常に祈願をしつつ、いつも目ざめていなさい。 (ルカ21) ◇ 心はほかの何物にも勝って不実であり、必死になる。 だれがこれを知りえようか。 (エレミア17) ◇ 守るべき他のすべてのものに勝って あなたの心を守れ。 命はそこに源を発しているからである。 曲がった話し方を自分から取り除き、 ねじくれた唇を自分から遠ざけよ。 あなたの目はまっすぐ前方を見るべきである。 あなたの輝く目は自分の前をまっすぐ見つめるべきである。 とりあえず、つなぎです、つなぎ。 都合のいいもの出て来い!と言って、 都合よく拾ってきました。 4番のご返信文には、 またあとで(明日かあさってかも)反応します。 それではいったん隠れます。

bragelonne
質問者

お礼

 三本の全体として 挑戦的ですね。批判は歓迎なのですが 何だかおっかない。  こんばんは ニュウトラルさん。ご回答をありがとうございます。  ▲ ルカ21:34-38  ☆ たとえば次のような《主の日》のことですよね。  ▲ ルカ21:27-28 ~~~~~~~~  ・・・そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。  このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 正直言って よく分かりません。将来のことととして受け取るのかどうかが分かりません。  ▲ 21:36 いつも目ざめていなさい。  ☆ これは 分かります。《いまは恵みの時 いまは救いの日》(コリント後書6:2)ですから。《永遠の現在》として受け取ります。  この《人の子が来る》という主題についてお分かりでしたら おしえてください。現在とどうかかわっているのかという視点に立って知りたいです。  ▲ エレミヤ書17:9――新共同訳―― 人の心は何にもまして とらえ難く ≫病んでいる≪。誰がそれを知り得ようか。  ▲ ――口語訳(1954)―― 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく≫悪に染まっている≪。だれがこれを、よく知ることができようか。  ☆ ≫必死になる≪ の部分が いくぶん違っているように映りますね。そのほうが英訳とは合っていますね。  ▲ (King James Version ) The heart [is] deceitful above all [things], and desperately wicked: who can know it?  ☆ いちおう調べました。  ○ '-N-S ( na'aNaSh ) :to become quite ill; " ( 'aNuSh ): incurable; 重態の、瀕死の、致命的な  ☆ ちなみに   ○ 'aNoSh : 人、人間  ○ 'aNoShi : 人間の、人類の、人間的;人情深い、人道的な  ☆ いえ 分かりません。ここまでとしときます。  ▲ 箴言4:20-23 (新共同訳)~~~~~~~~  20:わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。  21:見失うことなく、心に納めて守れ。  22:それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。  23: 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  取り敢えず資料としてです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.6

「きょとん」のタイムラグは必要だという合理的な科学的な証明がされると 「いじめ」も減ると思います。 少なくとも私の生活には「きょとん」はかかすことができません。 きっと戦闘地域にいっても「きょとん」がないと生きていけないでしょう。 「きょとん」は必要であるにもかかわらず市民権をなかなかえられないのは 「協調性がない」というみかたがあるだからだと思います。 ガミガミも、「きょとん」を合理的なことだと認識できればへってくる でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 まづ――ご回答をありがとうございます――前回とのつながりを確認します。  ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~  それとも いぢめられ役のほうが 《きょとん》なのですか?   ★ 「きょとん」は、その場を受け入れることを考えているタイムラグです。   ☆ つまり 相手のいぢめ役にも 一たん自分が何をおこなっているかについての自覚をうながすために こちらはきょとんとした振りをしてみるということでしょうか?  分かりませんが 半分半分であるように思えます。つまり それでうまく行く場合もあるかも知れませんし そうではなく逆にさらにエスカレートすることもあるかも知れないと思えます。抵抗して来ないなと見るとさらに攻撃の手をゆるめずに迫って来る場合もあるように思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ エスカレートしないと想定した場合  ★ ガミガミも、「きょとん」を合理的なことだと認識できればへってくるでしょう。  ☆ これもわたしには 半々に分かれるように思います。  ☆☆(同上) つまり 相手のいぢめ役にも 一たん自分が何をおこなっているかについての自覚をうながすために こちらはきょとんとした振りをしてみる  ☆ これで済めば言うこと無しですね。そういう素地のある相手の場合には 適用できると考えます。  そうでない場合ですね 問題は。  たぶん見方を少し変えて このキョトン作戦は女性のばあいには有効であるかも知れません。そして相手が男である場合です。女性にキョトンとされれば 一瞬だけとしても男は内に省みることでしょう。でも腹を決めているときには さらに攻勢に出るとも推測されますが その点は どうでしょうかねぇ。    言いかえると 男が男に向かって つまり相手である男のガミガミ電波を受けて 男がキョトンとした場合 どうなるでしょう? どうでしょうかねぇ。こういう場合はけっきょく最悪のケースを考えておくということでもあると思うのです。   たぶんガミガミ役は さらに怒りを強めるのではないでしょうか? ふざけんな!!というわけです。  どうでしょう。けっきょくキョトンは そのガミガミ役の言う話をきちんと聞くという姿勢の現われとして示すことが出来れば まづそれがいいのではないでしょうか? それによっても 相手の者に自分が何を言っているのかについての自覚をうながすことが出来ると考えられます。  いちおう現在のわたしの考えは けっきょくガミガミ役の言い分について・その内容についてしっかりと互いに認識し理解するということ。これを基礎としての作業とすること。そこから始めるというふうには思いますが どうでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  「きょとん」は必要であるにもかかわらず市民権をなかなかえられないのは  「協調性がない」というみかたがあるだからだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから この《協調性がない》というのは もともとガミガミ役ないしいぢめ役の振る舞いのほうなのですから そのことを少なくともその場の人びとがしっかりと把握するということ。当面の応急手当としてなら そういう空気をあらたに導入すること。空気の転換を起こすということ。ではないでしょうか?  つまりはけっきょくキョトン作戦も そういう方向を目指しているのではないでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.5

ブロジェロンヌさんはいじめ問題について考えたいというスタンスでしょうか。 もしそうならば、私は「きょとん」が主たる原因じゃないかと思っています。 「きょとん」は、その場を受け入れることを考えているタイムラグです。 「きょとん」は、客観的に見るとどうもあまりいいことではないようです。 経験からいうと、私が今後も解決しようのないだろうなという問題は、やはり 「きょとん」だと思います。 対処方法としては、「今ちょっときょとんとしちゃった」です。

bragelonne
質問者

お礼

 ハートマインドさん ご回答をありがとうございます。  ★ ブロジェロンヌさんはいじめ問題について考えたいというスタンスでしょうか。  ☆ アース役を引き受ける者は ガミガミ電波を放射するガミガミ役と同じように 社会における位置関係の問題であって その心理的な現象は 単なる社会現象であると言いたいです。  いぢめ問題は この《アース役はつらいよ》現象の高じた場合だと考えます。    【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6262785.html  ☆ この場合はいぢめ現象と言っていいと考えます。  ★ もしそうならば、私は「きょとん」が主たる原因じゃないかと思っています。  ☆ うん?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「きょとん」は、その場を受け入れることを考えているタイムラグです。  「きょとん」は、客観的に見るとどうもあまりいいことではないようです。  経験からいうと、私が今後も解決しようのないだろうなという問題は、やはり  「きょとん」だと思います。  対処方法としては、「今ちょっときょとんとしちゃった」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひょっとして《神隠し もしくは みづからがみづからを隠すという意味で神隠れ》という考え方に通じるでしょうか。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  神隠しを好むとなると 占い好きが高じて・・・〔占いの中で 自分はガミガミ役に回りそして誰か〕・・・アース役を探し出し(または 自分で作り出し)ターゲットにする方向へとすすむのだと。  占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。それを〔その場の〕《空気》として作り出すのもうまいという人間も出て来るのでしょうね。  その場に空気が出来れば 自分は神隠れできますね。責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち これによると いぢめ役のほうが そのいぢめを実行するに当たって  ★ 「今ちょっときょとんとしちゃった」  ☆ という時間をつくっているというように思えるのですが どうでしょう?――むろん知っていておこなうのですが あたかも知らずにおこなうというようなかたち(空気)に持って行っているように思えるのですが どうでしょう?  それとも いぢめられ役のほうが 《きょとん》なのですか?  ★ 「きょとん」は、その場を受け入れることを考えているタイムラグです。  ☆ つまり 相手のいぢめ役にも 一たん自分が何をおこなっているかについての自覚をうながすために こちらはきょとんとした振りをしてみるということでしょうか?  分かりませんが 半分半分であるように思えます。つまり それでうまく行く場合もあるかも知れませんし そうではなく逆にさらにエスカレートすることもあるかも知れないと思えます。抵抗して来ないなと見るとさらに攻撃の手をゆるめずに迫って来る場合もあるように思います。  どうでしょうかねぇ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

ぶらじゅろんぬさん。おはようございます。 宙ぶらりん@ROMですがパクッと。 白身魚→蛸壺へ(?)、 赤身魚→釣り糸へ(?)。 なにやらむづかしいなあ質問文が。 何が問題なのかもさっぱり分かりませんが。 逢魔時に魔に出くわして大禍に? >自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い :===================  これ↑わたし「線」に見えるんですが、  これ↑の問題ですか。わたしの眼の問題ですか。 >つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。 :ん~。「いけない」のですかねえ。 >でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? :はい・・・「間」の取り方が「違う」と。ふむふむ。 治療の必要な「間違い」と、 許される「間違い」がありましょうか。 >占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがある :占い好きな人は何を占うのでしょう。 「あ~した天気にな~れ!」と言って靴を飛ばして 「晴れor雨」とか?「敵or味方」とか? (占って決めると)いぢめられるようになるのぢゃなくて、 いぢめるようになるような気もしますが。 以下、よそから拝借してきました。  (1) 何が何でも声をかけられ問われたなら 返事をしなさい。という意味なのか?  (2) たとえ返す言葉に苦しんで何も言えないとしても その対話の場にいつづけなさい。という意味なのか?  (3) 相手の言葉は 誰が見てもひどいものであるとしても ともかく《思いやり》をもって 相手の心の落ち着くのを待ちなさい。それまでその場を離れてはいけません。という意味なのか?  (4) 相手の応対のひどさにいくらおどろきその人間性を根本までうたがうという気持ちや考えを持つに到っても 相手が人間ではないという判断だけは控えなさい。そういう心が起きたなら その心のほうをころしなさい。つまり 自死のほうをえらびなさい。という意味なのか?  (5) ほかにありますか?  こういう問題ですか? そういえば始めは「マインドコントロール」の問題でしたね。 そういう問題ですか? 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ニュウトラルさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  さて趣旨説明は舌足らずだったでしょうか。  たしかに神隠しのことをもっと細かく盛り込もうと思っていましたが 字数制限でした。  まづ わたしはすでに《沈黙は金》という説を肯定してしまっています(No.2お礼欄)が これは正直なところ 社交辞令でした。  ★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。  ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。  ★ ~~~~~~  白身魚→蛸壺へ(?)、  赤身魚→釣り糸へ(?)。  ~~~~~~~~  ☆ これは分からんなぁ。説明不足では?  ★ 逢魔時に魔に出くわして大禍に?  ☆ いえもともと たそかれときは 大禍時だという見方があった。たぶん善事も同じく起こると見られていたと思うのですが ひとは悪いほうをおそれ勝ちですから そちらにこだわるようになったのだと考えられます。  ▲ (万葉集 十一・2506) ~~~~   言霊(ことだま)の 八十の衢(やそのちまた)に 夕占(ゆふけ)問ふ   占正(うらまさ)に告(の)る 妹は相寄らむ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちまた(道・股)もいくつかの方面からのまじわりであるようで 光と闇のアハヒとしてのたそかれときと通うのでしょうか ここで――と言いますか その昔は一般に――それは《夕占》として出ているようです。 このうたは 占正だと言っていて 善事のほうのようです。  ★ 〔ガミガミ電波〕・・・:ん~。「いけない」のですかねえ。  ☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕  たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。  《間の違い》に  ★ 治療の必要な「間違い」と、 / 許される「間違い」がありましょうか。  ☆ いえ 道徳の問題として見るのとはこれまた微妙にちがうとも思うのですが   ☆☆ けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか? / 〔あるとしても 惹かれて行くのは間違いであるとすれば〕どうすればよいでしょう?  ☆ とつながります。《ひとは神隠しを好むものなのでしょうか》と。  神隠しを好むとなると その夕占好きが高じて  ★ (占って決めると)いぢめられるようになるのぢゃなくて、 / いぢめるようになるような気もしますが。  ☆ だとわたしも思いますよ。アース役を探し出し(または 自分で作り出し)ターゲットにする方向へとすすむのだと。占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。それを《空気》として作り出すというのもうまいという人間も出て来るのでしょうね。  その場の空気があれば 自分は神隠れできますね。責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。それにこの社会は 無責任体制だとも言われています。ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。  もしこういう情況において――もしですよ もし――女が男とくらべて割り合いによく批判をも含めてしゃべりやすいとすればそれは 昔からのならわしで女が社会的にその地位が低く蔑まれているということの裏返しでもあるのでしょうね。《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》という扱い方です。  こういう社会の風潮が このくににはありますね。それは 数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。過半数かそれともそうではないか。あるいは少数でしかないけれどその少数のグループが全体の雰囲気を牛耳っているということなのか。  まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。もし憂うるところがあるとすれば。これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

こんばんは、bragelonneさん。 ● 逢魔時を借りました。 ↑ あらま、お気遣いなく信用してますから。(与信) で、みました? 何を? 借りたのって? レンタル――――――――――ビデオ?! 何の? ↓ 『逢びき』 http://www.geocities.jp/yurikoariki/briefencounter.html ↓ 『貨幣経済』 http://www.k-keiichiro.jp/neweco2-b-2.html 人間の性

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます リトルキスさん。ご回答をありがとうございます。  ▲ 『逢びき』 Brief Encounter 1945 英国  ▲ (~クラシック映画に魅せられて~) そして、ラストシーンで夫が妻(ローラ)にそっと、いたわるように言う「遠くへ行っていたんだね。帰ってきてくれて、ありがとう」は心に響いて来る。極上の叙情詩となった。  ☆ このくだりは 《山の中に迷い込む》ような情景を想わせて広い意味での神隠しに似ていますね。また 光の闇とのアハヒですね。  この映画は知らないなぁ。ほとんど映画は見なかったところ 一時期しきりに名画座という映画館があってたしかにクラシック映画を見続けていたときもあったけれど。テレビでも放映が少なかったし ましてヰ゛デオも何もなかった時代。漫画はあったが見なかったし アニメなどは考えられなかった。(いや あったかな。映画で。ディズニーなど)。  ▲ リーン監督は、男と女が一線を超えるか超えないかの、シーンを省くべきか、そのまま残した方がいいか、大いに悩んだそうだ。ともに家庭を持ちながら恋におちたアレックとローラが、ある夜、アレックの友人のアパートでしのびあうシーンだ。  ☆ この神隠しにはマが差さなかったのかな。  こんなふるいの見てんの? カサブランカと同じおもむきだろうか。  ▼ 『貨幣経済』 ~~~~~~~~~~~~~~  一番の問題は、生身の人間としての生き様であった。今は、そう言った人間性が削ぎ落とされ、物として、また、数値としての存在しか問題とされない。いわば、確立統計の対象でしかない。人間としての尊厳も、品位も、名誉も、道徳も関係ない。その究極的な思想が唯物主義である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論として言おうとしていることにけちをつけるのではないけれど 《唯物論》について明らかな誤解があります。  世間一般にその誤解は蔓延しているけれど そもそも物質とは 無神論の無神のことです。つまり神と同等のなぞのことです。  物質というなぞの場では 差別はないというところから出発します。そして唯物論は心にも特別な位置づけをしないので その平等で対等なモノの関係を人間の心はそのまま反映するはずだという考えです。人間のあいだに格差や支配はないという思想です。  モノが商品となり 商品は互いのあいだで――というよりは実際には商品のひとつである貨幣とほかの商品とのアハヒにおいて――いわばプラトニックラヴを起こすわけです。果てはあの商品はよさそうだと思えば よしいっちょうあいつを神隠しに遭わせてやろうと あやしい考えをいだきます。  そのすべては もし行きつくところまで行きつくならそれは 貨幣価値による人間の評価のみという風潮であるわけです。カネがモノを言う。カネがすべてだと。これをもし人間がそのまま実行しているとすればそれは 《物象化》と言われます。ヒトがモノになったというわけです。  このような哲学をマルクスは用意しました。この敬一郎とかいう著者は 唯物論を誤解しています。世間もそうですが。ただしマルクスは暴力革命しか道はないと考えていた節があり たぶんそれは論外でしょう。あほです。  《ともに家庭を持ちながら恋におちたアレックとローラ 男と女が一線を超えるか超えないか》 そのまだプラトニックラヴであったところから 商品どうしのあいだで 一線を超えてモノどうしの逢い引きが繰り広げられるのかどうか。リトルキスだけで終わるのか。人間はまだ保たれるのか。・・・次回をおたのしみに。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#156094
noname#156094
回答No.2

以前に、余白の美についての質問があったように思います。 この日本的な感覚は言葉についてもあるように思います。 何も無い余白にこそ、全てが込められているとか・・・ 沈黙こそが、全てを語るとか・・・ いろいろですね。 故意に余白を描くとか、沈黙をもって応えるとか・・・すれば 間は活き活きとしてくるのでしょう。 間の生命観みたいなものと違いますか。 見当違いの答えでしたらご容赦ください。

bragelonne
質問者

お礼

 沈黙は金 ですか? 第一位の命題でしょうか。  ご回答をありがとうございます。  もし正確を期そうと思えば  ○ 間合い  ☆ ということも大事であるかに思われます。というのも 間と言えば――そしてさらに欲を申せば 真つまり真言にも 魔のほうにも―― 相手があるということであるかと考えます。  山の中で迷っているという場合にも 家つまり家族や村の知り合いとのかかわりこそが 光と闇とのアハヒを構成しているとも言えると思います。  真言を問い求めるというときにも じつは一般的に言って 人びとのアヒダのコミュニケーションの気まづさが 大きな主題として自分に湧き起こっているのではないか。  真意が伝わらない。心が通わない。それは わが本意ではない。そういった社会としての問題が 解決するかどうか ここを逃れて正解を求めるのではないと思います。  気合いが入っていて たましいがほとばしっていると感じたからには 失礼ながらのタコつぼ呼ばわりを控えましたが そのおそれはやはり失礼ながらまだ残っているというようにも思われます。  愛というのは けっきょくコミュニケーションをつづけるというところにあるのではないか。つまり一生つづけるということになります。  ところがわたしは この直近のニ三カ月 この対話が暗礁に乗り上げたといういくつかの事例に出遭いました。いまも尾を引いています。基本的な考えとしては その相手にとってわたしでは 間合いが取れない・つまりわたしは力量不足であるという認識に発します。言いかえると わたしがわたしなりにきちんと答えても 同じ反応が返って来る。二三度つづけば相手はそれを分かってやっているということになります。そこでタコつぼ反応を わたしがしたということであります。  ・・・  もっと早くに切り上げて余白をつくってしまえばよかった。・・・

bragelonne
質問者

補足

 単なる感想です。  どうも師匠がわるい。わるいと言わないとすれば 未熟である。と思いました。  ソリロクィです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

こんばんは、bragelonneさん。 ≪ま≫が差すときがある ●ひとは 神隠しが好きなのでしょうか?  ↑ 不安にかられるとときにひとは―――を隠してしまう どこに?―――――――――――――――>タンスへ それをなんとかして、あの手この手をつかって 資金の余っているところから資金の足りないところへ、<あやしい??? この眠ってるお金を動かそうとひとはやっきになる TVつければ銀行のCMバンバン流れてる 繰り上げ返済をお考えのあなた 持ってるお金は崩さずにそのお金を当行に口座開設していただき お預けいただけるだけで預金の利息でローンの利子がお支払いできます 不安にかられるとときにひとは―――を隠してしまう どこに?―――――――――――――――>銀行へ 利息制限法理の発展のために(1) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/03-1/arakawa.pdf 利息制限法理の発展のために(2) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/03-2/arakawa.pdf 反対債権 【QNo.3777030差押命令が出て第三債務者の銀行に預金はありましたが、反対債権があるため...】 http://okwave.jp/qa/q3777030.html

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。マが差しますか。  神隠しにも魅力があるのですね。    よわりました。  ご回答をありがとうございます。リトルキスさん こんばんは。  逢魔時を借りました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 神隠しってあるのでしょうか?

    神隠しと呼ばれる現象が起きると、人・モノはどこに行ってしまうのでしょうか?戦時中に中国の兵士数千人が忽然と消えてしまったとか、船の人々だけがいなくなって、暖かい食事だけが残った・・・などという話がありますが、実際ありえるのでしょうか?

  • マ(間・間合い)の理論

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

  • マ(間・間合い)の理論

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。    この理論は けっこう広い範囲で有効ではないかと われながらひそかに期待していたのですが 一向にわたしの中で進展も発酵もしないままです。いまいちどみなさんの前に提出して ご見解をうかがいたい。こういうコンタンでいます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

  • マ(間・間合い)の理論  (つづき)

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。        〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で        鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる        ためにそうするのだということのようです〕。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。

  • 神隠しについて

    実話を元に、皆様にお聞きしたいことがあります。 信じていただけるか分かりません。 私も人から聞いた話なら信じないかも知れませんし…(^_^;) なので、信じていただけた方、是非ご意見お聞かせいただけたらと思います(>_<) *数年前* 私の祖母は、毎朝、若くして亡くなった祖父のお墓にお参り&手入れに行くのが習慣となっていて、毎朝決まった時間にお墓のあるお寺へ向かい、同じような時間に帰宅します。 当時の祖母はまだ若く、とても元気で頭もしっかりしていました。(今でもですが…笑) その日は友人と一緒にお墓へ行く約束をしていて、いつもと同じ時間に家を出て行ったのですが… 2時間近く経っても帰ってこなぃので、みんな心配してたんです。 普段は20分やそこらで帰ってくるのに…、友人と一緒に行った時でも、帰ってきてお茶してるので寄り道なんて有り得ません。 そもそも近所のお墓なので、20m程の一本道なんですけども。笑 そして、何かあったのかと心配していると、ようやく祖母が帰宅。 「何しとったんや!」と訪ねたところ、 「歩いても歩いても家に着かない。角を曲がれない」 と息を切らして怒って(?)いました。 よく話を聞いてみると、いくら歩いても曲がり角のとこへ辿り着けない、延々真っすぐ歩いていたと言うのです。 お寺から2分程度で角を曲がってすぐ家なんですが、むしろそこ以外に曲がるとこないんですが、1時間以上ひたすら"同じ道"を歩いてたんですって… これって何現象なんですか? 親戚陣はタヌキに化かされたとか言うけど、ただのタヌキにそんなこと出来るとは思えません。 時空間の歪みに巻き込まれたってことなんでしょうか?? =神隠し?? 神隠しって、突然ふっと人が消えて、数年経って突然出て来ますよね?? それが、この"たぬきに化かされた"現象の第三者目線なんでしょうか?? 当事者は同じとこをずっと歩いてるつもりでも、第三者はそのループを見てるとは思えません。 その証拠に、"化かされてる"人達は人と遭遇しないですよね?? つまり、ループに入ってしまった瞬間、その人の姿が見えなくなる=神隠しってことに…?? *私自身の体験談* 上記の例と関係があるのかどうか分かりませんが、同じく10年以上前のこと… 私と妹だけ父方の祖父母の家に遊びに行くことになって、祖父に迎えに来てもらったんです 車に乗って、妹と"たまごっち"で遊んでて、祖父に「見て見てー♪」って二人してたまごっちを運転中の祖父に見せてたんです でも、祖父が、"今は危ないから家につくまでしまっときなさい"と言ったので、素直に私も妹もカバンにしまったんです 父方の祖父母の家に着いて、早速たまごっちを出そうとしたら… 私のたまごっちがなぃ((((゜Д゜;)))) 妹のはあるのに… カバンの中はもちろん、車の中も探しましたが見つからず、妹と従弟と3人で家の中を探したのですが見つからなくて… 車の中も、いくら探しても見つからないので、泣きながら母に電話… すると… 「あんた何言ってんの?? たまごっちなら玄関に忘れてったでしょ。」 って言うんです;;; 確かに車の中で持ってたのに… 妹と祖父が証人なのに… 帰ってから、いくら私と妹が話してもちっとも信じてもらえず… 私のカバンどこと繋がってたんだろ… これも神隠しの一種なんでしょうか?? これを利用したらタイムマシンも作れたりして…(^_^;)

  • マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。  では マをうまく取るというのは どういうおこないか?  一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。  静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。  ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。  この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。  芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。    この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。  また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。  芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。   【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。   【Q:音楽って何のためにあるの?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html  芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。  要するに あなたの美学をご披露ください。  ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。    (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。

  • 呪術廻戦二期

    呪術廻戦二期の41話最新話の質問です。 宿儺と魔虚羅(まこら)が対戦し、宿儺が領域展開をする前に 「あの時の俺なら敗れていたかもしれんな」 と伏黒の写った画面で言っていましたが、あの時とはいつの時を指すのでしょうか? よろしくお願いします。

  • KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。

     ( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。  ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。  民主制の社会では わざわざ《空気》を読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。  KY というときのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。  そのウッタエとは いわば意識の排泄となって現われる。  いろんな意味でのみづからの党派の意向を押し通そうとして 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。  さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としてのクウキも 上昇気流となること請け合いであるようだ。  かくて 先ほどの意識の排泄は ガミガミ電波となって現われ それをアース役が引き受けるかたちとなる。このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。  たぶん その場合にも KY としてのクウキも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。  人間の人間による人間のための未来社会構築の過程のひとつである。またそれは もし仮りに疾患だとしても 明らかに社会源病である。  おのおの《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためであり そうであるが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのであろうか。やがて陰画の現像が陽画と成って現われて来るであろうか。

  • 今、”人に教える難しさ”で悩んでいます。

    今、”人に教える難しさ”で悩んでいます。 最近、友人と2人で勉強会を開いて勉強しています。 ちなみに、私は現在大学生で、友人は高卒でフリーターしてます。 この2人で勉強会を開いたのはよかったのですが、 あまりにも友人の知識や理解力がなく、勉強が全然進みません。 まぁ、大学に通っている私のほうが勉強している量が違うので当たり前で、 最初から教えてあげながら勉強を進めていくつもりでした。 しかし、友人の知識や理解力のなさが限度を超えており、 勉強会を開いてから1カ月間(現在まで)、様々な工夫をして教えていこうとしましたが、 全く駄目です。 私もまだまだ未熟というのは十分理解しているのですが、 次第に、友人の知識や理解力のなさにだんだんイライラするようになり、 私の言葉遣いも少し悪くなっています。 そして、友人もきつく言われているストレスかなにか知りませんが、 少しなげやりな態度をとったりしてきます。 もう、どうしたらいいのかわかりません。 どなたか知恵をかしてください。 ちなみに知識・理解力のなさの例 ●ツイッターでワタミの会長にツイートしているんですけど、友人に、私が「これいいなぁ」と、下の文章を友人に見せた時の私と友人の会話↓ mikiwatanabeBot 白紙のフリーメモは、「メモ魔」と自他共に認める私が「忘れないため」に使うものです。いつでもどこでもさっと取り出しメモを取る。これが夢につながることもしばしばです 友人:「ん~、メモ魔って?」 私:「まぁ、そのままだけど、メモ魔っていうのは何でもすぐにメモするような人のことかな。」 友人:「あと、この自他共に認めるの意味がよく・・・」 私:「・・・、これもそのままなんだけど、漢字の通り、自分と他人が共に認めるってことよ。」 友人:「ああ!わかった、わかった。もういける。」 私:「(ほんとかなぁ?)じゃあ・・・、最後の「しばしばです。」はわかる?」 友人:「しばしば・・・、稀にってこと?」 私:「・・・。いやぁ・・まぁ・・、英語でいう「often」のことよ。」 友人:「????」 私:「あのー、「よく」ってこと。んん~、結構頻繁があるよってことよ。」 友人:「・・・・。」 まぁ、こんな感じの会話を毎回やってるような気がします。 今回はツイッターの話をした時の話を取り上げましたが、 これはほんの一例です。 ちなみに、現在勉強会で勉強しているのは「流通」についてなのですが、 こっちの話はもっとひどいです。 まぁ、「やめれば?」といわれるとそれまでなんですが、 逃げずにどうにかしたいと思っています。 暇なときでいいんで、アドバイスお願いします。 (長文になりました。すみません。)

  • 一瞬しか見られない絶景はありますか?

    有名な例をあげると、富士山のダイアモンド富士のような 自然現象から起こる絶景場所って、日本国内のどこかにないでしょうか? いつ行っても見られるというものではなく、限られた時しか見られないからこそ、より一層感動するといったような所です。 あまり知られていないレアな情報でも結構です。 よろしくお願いします!!!