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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――)

ひとは神隠しを好むものなのか

noname#156094の回答

noname#156094
noname#156094
回答No.2

以前に、余白の美についての質問があったように思います。 この日本的な感覚は言葉についてもあるように思います。 何も無い余白にこそ、全てが込められているとか・・・ 沈黙こそが、全てを語るとか・・・ いろいろですね。 故意に余白を描くとか、沈黙をもって応えるとか・・・すれば 間は活き活きとしてくるのでしょう。 間の生命観みたいなものと違いますか。 見当違いの答えでしたらご容赦ください。

bragelonne
質問者

お礼

 沈黙は金 ですか? 第一位の命題でしょうか。  ご回答をありがとうございます。  もし正確を期そうと思えば  ○ 間合い  ☆ ということも大事であるかに思われます。というのも 間と言えば――そしてさらに欲を申せば 真つまり真言にも 魔のほうにも―― 相手があるということであるかと考えます。  山の中で迷っているという場合にも 家つまり家族や村の知り合いとのかかわりこそが 光と闇とのアハヒを構成しているとも言えると思います。  真言を問い求めるというときにも じつは一般的に言って 人びとのアヒダのコミュニケーションの気まづさが 大きな主題として自分に湧き起こっているのではないか。  真意が伝わらない。心が通わない。それは わが本意ではない。そういった社会としての問題が 解決するかどうか ここを逃れて正解を求めるのではないと思います。  気合いが入っていて たましいがほとばしっていると感じたからには 失礼ながらのタコつぼ呼ばわりを控えましたが そのおそれはやはり失礼ながらまだ残っているというようにも思われます。  愛というのは けっきょくコミュニケーションをつづけるというところにあるのではないか。つまり一生つづけるということになります。  ところがわたしは この直近のニ三カ月 この対話が暗礁に乗り上げたといういくつかの事例に出遭いました。いまも尾を引いています。基本的な考えとしては その相手にとってわたしでは 間合いが取れない・つまりわたしは力量不足であるという認識に発します。言いかえると わたしがわたしなりにきちんと答えても 同じ反応が返って来る。二三度つづけば相手はそれを分かってやっているということになります。そこでタコつぼ反応を わたしがしたということであります。  ・・・  もっと早くに切り上げて余白をつくってしまえばよかった。・・・

bragelonne
質問者

補足

 単なる感想です。  どうも師匠がわるい。わるいと言わないとすれば 未熟である。と思いました。  ソリロクィです。

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