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純粋理性批判(Q10)

amaguappaの回答

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

遅くなりましてすみません。取り急ぎ。。。 > 現象とも物自体とも異なる仮像が、「>完成され、全体的・統合的」であるというのは、どのような視点からの表現でしょうか。 >「物自体」はおいといたとして、「現象」が悟性のカテゴリーによって客観的に認識された対象であるとすれば、人間の認識という範疇では、「>完成され、全体的・統合的」、あるいは普遍的であると言えるように思うわけです。 > 「>完成され、全体的・統合的」という要素を仮像が持っているならば、現象と差別化される要素とは何なのでしょうか。 アドルノはよく音楽を論じたのですが、そのとき、仮象とは楽曲の全体性のことでした。経験上は把握不可能なのですが、やはり、わたしたちがモーツァルトのトルコ行進曲なんてものを思うとき、健常な人はあまり混乱せずに「それ」として受け入れられます。出だしの音列とか、調子良い感じとか、全体的な雰囲気とか、サビ部分のズンチャッチャとか、ぐるっとごたまぜにしており、他人と話が通じる対象となり、楽譜や録音に値段が付きます。 また、絵画を見ますと、たとえば風景画では、水車があるなとか、羊飼いがいるなとか、空と雲と道だなとか、遠景に都市が書いてあるとか、眼は細部を確認しているわけですが、あとで「あの絵は見たことある」などといとも簡単に考えることができ、他人と「あの絵は綺麗で好きだな」と容易に話し合ったりできます。市場で絵の題と作者名だけで取引することもできます。 実際の風景でさえ、都庁でも通天閣でもマッターホルンでも、あ、わかる、と思う何かに成り変わっており、その何かとは、数分から数日かけて登らねば把握できない手合いのものではありません。 こういう何かが仮象であり、この仮象自体が社会や経済において「物象化している」と言えます。物象化して、物自体を覆い隠すように、人間社会に機能しているわけです。 ざっくりと、英語のアピアランス(=見かけ、うわべ)がこれにあたると考えることにしますと、アパリシオン(=出現)が現象という語であることも思い出すことになります。 認知や脳の障害がある方が音楽を聴いて、一音一音一打一打しかわからない、つながりがただの時間経過でしかない、という場合があります。音楽の現象とはたしかに一音や一打の連続で間違いなく、つながりも時間経過で間違いないのですから、この人は純然たるアパリシオンを経験しているのだと言えそうです。 しかし、美的とは程遠く無味乾燥な経験らしいので、どうもアピアランスと呼べるものは手に入れられずにいるのでしょう。 同じように、絵画を見て、頭の中で統合出来ない場合、あの絵と言われてもどの絵かわかりませんし、再現してと紙を渡されても、要素の記憶を配置できません。音楽と同じように目が時間をかけて印象の中に完成したものがあるべきなのですが、それがないわけです。このことから、経験する時間は現象に触れる時間であり、仮象を成型する時間でもあるのだとわかります。アピアランスにおいては部分というものが、全体を参照して存在していると同時に、全体というものが、部分を構成して存在しているという、部分と全体の妙な依存関係も見えてきます。それが、芸術を即自存在であると妄想するような恰好にさせているともいえます。 芸術の形象特性ということをアドルノは言うのですが、芸術は現象となること、出現することをとおして形象となり、ハコブルさんの言葉を借りれば「悟性のカテゴリーによって客観的に認識された対象」となろうとしながらモノ化していくわけです。そのことが客観的には物象を生み、主観的には仮象を生むのではないかなと思います。 アドルノの論調では、その過程で芸術は自己疎外を起こすことに力点がおかれており、たぶん、瞬間瞬間(経験上は細部か、構成要素)は自立した輝きであろうとしていて、すばやいカテゴライズから逃れ、全体と対になる束縛から逃れ、つまり客観化を撥ねつけるパワーなんだけれども、経験のうちに仮象へとりこまれて埋没してしまうという状況を論じているような気がします。何しろ難解(げんみつとばかりもいえない)。。。 カント批判に割かれた《主観対客観》の章が『美の理論』のなかにありますので図書館でパラパラしてみるのも一案かもしれません。そこに限らず随所から引用しようと思って2,3日眺めたのですが、切り取ると金言集みたいになりそうなのでやめました。では。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 音楽・風景(画)などの例を用いて優しく(易しくの誤植ではありません)示していただきました。 >こういう何かが仮象であり、この仮象自体が社会や経済において「物象化している」と言えます。物象化して、物自体を覆い隠すように、人間社会に機能しているわけです。 :ということですね。首肯できます。 >しかし、美的とは程遠く無味乾燥な経験らしいので、どうもアピアランスと呼べるものは手に入れられずにいるのでしょう。 :そうなのかもしれませんね。 こういった流れから、 >経験する時間は現象に触れる時間であり、仮象を成型する時間でもあるのだとわかります。 :というご説明が導かれているので、わかりやすいです。 ただ、カント風に言うならば、 経験というのはあくまで主観が関与するのだから、人は、「この絵は美しい」と主観的に見ることしかできない。それが現象である。 ということになるのかもしれません。 そして、主観的であることを認識している、という意味で、客観的な認識の方法だと言える。 この場合、その絵が実際に美しいか否かは問わない、ということになるのでしょうかね。 そして、そういった主観が全く関与することなく、その絵自体(=物自体)が美しいものとして存在している、と認識した場合、それは仮象になる・・・。 なぜなら、主観的認識というフレームを通さずに、絶対的な(美しい)ものとして、その絵が存在しているわけではないから。 ここからは、「客観的に美しい絵は存在しない」ということにもなりそうです。 今までのみなさんのご見解や、中山訳を再読したりして、このように思うようになっています。 おそらく「客観的に美しい絵が存在する」という認識が観念的であり、そこに仮象が「>成型」されるのかもしれません。 私は悟性のカテゴリーというものをまだ良くわからないまま使ってしまったかもしれません。 amaguappa さんやみなさんのお陰で、どんどん膨らんでいきそうな嬉しい予感があります。 しかし、しばらくは低空飛行していきたいです。 >『美の理論』 :ぜひ、 >図書館でパラパラして :みま~す。^^;     

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