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純粋理性批判(Q10)

noname#131234の回答

noname#131234
noname#131234
回答No.7

アマガッパさまの説明に准じて言葉という観点から、説明いたします。 発言 「夜空に花火が見えます。あそこ!花火はきれいですね。」 仮象とは、存在という観点からは距離を置きながら、言語的意味関連のユニットチェーンとして、なるほどと納得できる「合理的表現結果」です。それが仮象の骨組みです。花火は仮象の代表的例です。 つまり測定の可能性という観点から、仮象とは、まず一面的に捉えるとすると「ひとこと」で言い表せる物理的構成体であるということです。 例「花火」 仮説的定義 花火は、夜見える相対的に明るい光で、音を伴いきれいな模様を空に描く人工的な現象です。 ここで 花火は、「ハナ」とも「ほのお」ともまったく関係のない複合現象です。 次の文章をよく読みながら、考えてください。 感覚的に知覚できるのもは、「存在」する可能性が「たかい」し、存在するはずであるとかんがえましょう。 人間は5感をもっていますね。 味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚のいつつです。つまり、世の中には、アジ・異臭・キモイべったり・色・おと の五つの要素しか存在しないのです。 ここで、「はな」とは、花弁・ガク等からなる植物のいやらしい部位です。 「火」とは、実体のないプラズマ現象であり、さまざまな規模に及びますが、地理的な規定は難しく、分子の周縁部位で起こる「揺らめく局地的量子雲の一時的高速化=揺らぎの高熱化および一時的相対的低熱化現象(相互作用としての高熱ガイエン・赤い炎・青いほのおの便宜的立体的揺らぎ=プラズマ)です。火の周縁及びその中では、日事態と関連付けが行われながら、酸化燃焼が進んでいきます。 本定義 花火とは、夜間の金属の動的炎色反応に関するプロセスプランニングである。火薬をベースに混合物個体として密着させ、人的観照のため利用する。燃焼時、普通いわゆる「炎」が上がらず金属が混入した内部発光する粉末を空間的に発散させる(スキャッタリングさせる)ために高温で着火し、金属片等の花火含有物が酸化燃焼・破裂する際のサウンドや火花の発光・物理運動を中心とした全体の平面的・立体的形状などを鑑賞するためのもの。酸化鉄の赤色発光・銅の緑色発光は、代表的構成要素である。 こう改めて定義するとこの表現では、ぜんぜん定義になっていないことがわかります。 花火とは、定義的には炎色反応の視覚的人為操作ですが、発光する金属含有物質が花火なのでしょうか? 花火の金属は、花火本体なのでしょうか、それとの花火の部分部位なのでしょうか? さて、この花火の内容として、存在している部分は一体何処でしょう。感覚器官という側面からすると、光・音・光の軌跡更には、火薬の匂いです。 更に、花火が存在する為には、夜空・観衆・技師が不可欠なのです。 花火がきれいといった場合何がきれいであるといっているのでしょうか。 花火の本質としての答えは「チリざま」です。チリざまは、存在しません。 美しくない花火は存在しないという観点から考察すると、人間による「金属炎色反応」に対する価値判断が、花火の存在根拠なのです。美しいはなっびだけが存在するのです。美しくない花火は、「火花」という別の名前を人の手によって授かります。 発言に戻りますと、文章中、見るといっているが見るのではなく、夜空の発光の集積が、意味の全体として「花火である」という判断をともなうということです。それが見えるです。指差すことのできる時事性(アクチュアリティーDeixis)が必然的です。最後に価値判断が花火の存亡に関係する根幹部分(心魂)であるということです。 でも、仮象と空想は区別するべきです。 こどもたちが、 ボクチンのヒーローは「カXンライダー・オーズ」よりスンごく強い「ちょうめちゃつよ らいだー」だもん。といっても、それは仮象ではありません。 「めちゃつよ らいだー」は、ただのごっこ遊び。ユニコーン等と同じで想像の産物であり、一時的空想より更に陰の薄い妄想です。仮象とはまた一段違った劣化的非存在物なのです。 「あまてらすおおみかみ」が存在しないのと同じで、スーパーアマテラス・アマテラスの民とかという「あほらしい夢物語」がそんざいしないというのも言及するまででもないとでしょう。

hakobulu
質問者

お礼

お初の nananisse さん、ご回答ありがとうございます。 仮説的定義と本定義の比較は面白いですね。 本定義は、カントいわくところの物自体に迫ろうとする試みであるようにも見えます。 しかし、 >花火とは、定義的には炎色反応の視覚的人為操作ですが、発光する金属含有物質が花火なのでしょうか?~ :となり、結局は、 >花火の本質としての答えは「チリざま」です。チリざまは、存在しません。 :のようになるのかもしれません。 この、 >花火がきれいといった場合何がきれいであるといっているのでしょうか。 花火の本質としての答えは「チリざま」です。チリざまは、存在しません。 :という新鮮なご見解に大変興味を惹かれたのですが、 これは、私たちがきれいだと認識するからこそ花火は存在可能になる、ということですよね。 私たちの中に「きれい」という感性がアプリオリに存在していて、その感性によって花火は存在している、ということかもしれませんね。 >最後に価値判断が花火の存亡に関係する根幹部分(心魂)であるということです。 :という箇所は、このことをおっしゃっていると解釈しました。 よくわからない部分もありましたが、相当視野を広げていただいたと思います。   

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