• ベストアンサー

純粋理性批判(Q5)

純粋理性批判(Q5) 「下の( )内に適切な言葉を入れよ」という問題があったとして、 「命題」「認識」「判断」どれも入れても間違いにはならないでしょうか。 『「すべての変化にはその原因がある」という(  )』

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.4

(承前)  代入して読むと、ほんとうに単純な話ですが、純粋をめぐっては、おっしゃるような矛盾がみえます。 --------------- 005(篠田3)  (....)【経験的でない認識】のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を 純 粋 認識というのである。それだから例えば、『およそ変化はすべてその原因をもつ』という命題は、【経験的でない命題】ではあるが、しかし純粋ではない、『変化』という概念は、経験からのみ引き出され得るものだからである。  (....)第 一 に、ここに一つの命題があって、この命題が同時に 必 然 性 をもつと考えられるならば、それは【経験的でない判断】である。そのうえこの命題が、これまた必然的な命題だけから導来されたものであればそれは【絶対に経験的でない命題】である。また 第 二 に、経験はその判断に真の、即ち厳密な 普 遍 性 を与えるものではない、ただ(帰納によって)想定された比較的[相対的]な普遍性を与えるだけである(....) 。ところでもし或る判断が【経験が与えるのではない普遍性】をもつと考えられるならば(....)このような判断は経験から得られたのではなくて、【絶対に経験的でないことに妥当する判断】である。(....)例えば『物体はすべて重さをもつ』という命題のようなものである。これに反して或る判断に【経験でないこと】が本質的に属するような場合には、かかる【経験的でなさ】はこの判断が特殊な認識源泉から生じたこと、即ち【経験的でなしに認識する能力】によるものであることを示している。それだから、必然性と厳密な普遍性とは、【経験的でない認識】を表示するのに確実な特徴であり、この両つの性質は互いに分離しがたく結びついているのである。(....) 007(篠田5)   我々はかかる必然的な、また厳密な意味で普遍的な、従ってまた【経験的でない純粋判断】が、人間の認識に実際に存することを容易に証示することができる。その一例を諸学に求めるならば、数学の命題のなかからどれ一つを取ってきても事足りるのである。またこのような事例を、ごく有りふれた悟性使用に求めようとするならば『変化はすべて原因をもたねばならない』という命題でもよい。(....)もし原因の概念を、ヒュームがしたように習慣から引き出そうとしたら、この概念はまったく成り立たないだろう。ヒュームは、生起するものがそれに先だつところのものにしばしば随伴するところから、これら両つの表象を結合する習慣(従ってまた単なる主観的必然性)が生じたと言うのである。だが我々は、【経験的でない純粋原則】が我々の認識のうちに実際に存することを証明するのに、わざわざこのような実例をあげなくても、かかる原則が経験そのものを可能ならしめるために欠くことのできないものであることを【経験によらずに】証示できると思うのである。実際、もし経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがって偶発的なものだとしたら(....) --------------------- 経験そのものを可能ならしめる、という言葉によって、すでにカントはこれからの仕事を示しています。直観の形式という考え方をみちびいていくのですね。こうして、ヒュームを叩き台に経験を括弧にくくってその可能性を原理へひきずりあげようとしているところがこの箇所の面白さだなと思います。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >かかる(【経験的でない純粋な】)原則が経験そのものを可能ならしめるために欠くことのできないものであることを【経験によらずに】証示できると思うのである。 :という、amaguappa さんアレンジ付きの篠田さん訳を提示していただいたお陰で、やっと理解できたように思います。 特に、経験そのものを【可能ならしめるために欠くことのできないもの】という表現ですね。 中山訳の 007 では、 「わたしたちはこうした原則は、経験というものが可能であるためには不可欠であることを、アプリオリに証明できるはずなのである」 となっていますが、ここをもっと注意深く、素直に読むべきでした。 「変化というものは(新たな出来事[経験]なので)アプリオリではないが、その原因は(因果律という)アプリオリな原則に則っている」 となるでしょうか。 007 の『こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう』 という表現に過剰に拘ってしまったのがまずかったのだと思います。 辛抱強くお付き合いいただきありがとうございました。 みなさんの給水やバナナの差し入れのお陰でなんとか続行できそうです。   

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (4)

回答No.5

あら、これは、お恥ずかしいことで。 こちらこそ失礼しました。 >変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。(005) >原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。(007) この件も、余計な修飾語に惑わされなければ、005では、「変化」についての記述で、007では「原因と結果」或いは「因果律」に関する記述でだと理解できるのではないでしょうか。 ついでですから、もう一度、確認しておきますが、 カントの場合は、あくまでも、カントの説として、 「感性」・「悟性」・「理性」を厳密に区別して、人間の認識の構造を説明しています。その際、重要なことは、経験的なことは現象ですから、学問の基礎づけとしては、不十分だから、経験にかかわらない、つまり、アプリオリとか純粋といった言葉を使って、感性における認識と悟性における判断を区別するとともに、その認識や判断のうちにおいても、経験的なものとアプリオリなものを、区別するわけです。 物理学の本でしたら、確かに仰るように、池谷さんの本が面白いですね。 他には、スティーブン・ピンカー、だったか、NHK出版から、二、三冊シリーズででていますが、面白かったですね。武田暁氏は、専門的すぎて、少々難関ですか、眺めるのもよいかも。分子生物学は、最近、専門的なものが多くなって、例えば「時計遺伝子」だけを研究するとか、で、ちょっと良書を現在は思いつきませんね。 失礼しました、頑張って読んで下さい。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >この件も、余計な修飾語に惑わされなければ、005では、「変化」についての記述で、007では「原因と結果」或いは「因果律」に関する記述でだと理解できるのではないでしょうか。 :まったくおっしゃるとおりです。 #4さんに提示していただいた「(経験を)可能ならしめる」という篠田さん訳の表現で、やっと気がつきました。 他のみなさんのお陰で、固い脳がある程度こなれていたお陰でもあると思って感謝しています。 >アプリオリとか純粋といった言葉を使って、感性における認識と悟性における判断を区別するとともに、その認識や判断のうちにおいても、経験的なものとアプリオリなものを、区別するわけです。 :悟性の定義自体まだあやふやな段階ですが、この記述を参考にしながら読み進めます。 また書籍のご紹介もありがとうございました。    

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.3

この分別に謎が隠されているのではと思われる気持ちはわかるのですが、わたしは、Q2でご質問の箇所は、「経験的でないもの」を代入できるところにすべて代入して読むくらいの感じで済ませ、矛盾に目を瞑っていいところなのではないかなと思います。(つまり矛盾はあると思います。) ところで、手元にある篠田英雄訳(岩波文庫)をめくってみますが、Q2ご質問の箇所につづく007の後半と008が面白く、ヒューム批判になっているところはちょうど、今日でもまだ「学習か、生得か」とされているさまざまな認知処理 の議論の初端だなと思うと感慨深い箇所です。 (たとえば族類似的構造といって、対象を認知するためには概念がなんらかの制約をうけているのですが、この制約が学習なのか生得なのかさえ検証できていない。推論というもののプロセスについても同様の議論があります。生得となれば誰でも同じであるはずで、カントの「認識能力の純粋使用」にかけて人間が同じはずであるということと、さほどかわらない。) カントからそうした問題提起を受け取るだけで、今日的役割は済んでいるのではないかなと思えます。当時の科学の限界を超えて、21世紀に概念をめぐってカントは役に立っているというわけです。 「必然性と厳密な普遍性」を「経験的なもの」に対置した図式を、筆を尽くして書いたところで経験的限界があるにきまっているとおもう不埒者ですが、カントは偉大でそんなことはなく誤解だとしても、図式を正しく見失わないように遠くまで読み進めることのほうが、小さな誤解を払拭することよりも大事のように思います。 ためしに上記のすさまじく寒い【対立概念による代入】を篠田訳にほどこしますと、こんな感じになります。 (つづく)

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

hakobuluさん。こんばんわ。 解釈、とか、理解、とか、主張、とか、 何でもいいんぢゃないかなあ。 ( )内に入れる言葉に、 そんなに拘らずに言葉を放ってる、 こともある、のだろうなあ、と思うので。

hakobulu
質問者

お礼

どうも、こんばんは。 ご回答ありがとうございます。 今回の質問の意図は、#1さんへのお礼をご参照いただければと思います。 >( )内に入れる言葉に、 そんなに拘らずに言葉を放ってる、 こともある、のだろうなあ、と思うので。 :いや、カントさんに対して畏れ多くも心強い?お言葉です。^^; まあ、私としても根がづぼらな人間なので、 >なんでもいい :と思うのは得意なのですが、 やはり、ある程度は納得した上で、なんでもいい、と思いたいな・・・。 とか思っているわけです。   

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

「下の( )内に適切な言葉を入れよ」という問題があったとして、 「命題」「認識」「判断」どれも入れても間違いにはならないでしょうか。 『「すべての変化にはその原因がある」という(  )』 ちょっと、たまたま見ましたが、確かに失礼ですね。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 先の質問にも回答していただいてたんですね。 今、じっくりと読んでいる最中です。 「口蹄疫は危険であるという命題」 「口蹄疫は危険であるという認識」 「口蹄疫は危険であるという判断」 という表現はどれもできそうに思えますし、且つ同じ意味だと思うのですが、これと同様に、 「すべての変化には原因があるという命題」 「すべての変化には原因があるという認識」 「すべての変化には原因があるという判断」 という表現が(どれも)成立し、且つ同じ意味であるならば、純粋理性批判における、 『「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。(005)』 という記述と、 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。~~~。日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。(007)』 という記述は矛盾していることにならないだろうか、という疑問が生じたわけです。 無論、カントが矛盾を放置しているはずはありませんから、明らかに私の勘違いがあるわけでしょうが、(純粋理性批判における表現の)どの箇所を勘違いしているのか良くわからないという悲惨な状況に陥っていまして、もしかすると「命題」「認識」「判断」という言葉の(哲学的)解釈に私が疎いためであるかもしれないという観点からの質問でした。  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 純粋理性批判(Q2)

    純粋理性批判(Q2) 純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。 「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。 『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』 また、 「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。~~~。日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』 (ど)素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受けるのですが、どなたか私の勘違いを糾していただけないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q4)

    純粋理性批判(Q4) 度々お世話になりますが、よろしくお願いいたします。 1.「物体は広がり(延長)を持つ」は、分析的な判断によるアプリオリな認識。 2.1のような「分析的な判断によるアプリオリな認識」のみを純粋認識と呼ぶ。 3.「物体には重さがある」は、総合的判断によるアプリオリな認識。 4.「バラは赤い」は、総合的判断によるアポステリオリな認識。 5.アポステリオリな認識が分析的判断によってなされることは一切ない。 【質問1】 上の5つの解釈のうち、間違いがありましたら(いくつでも)その理由を添えてご指摘いただけないでしょうか。 【質問2】 「すべての変化には原因がある」という命題の解釈は上のどれに該当するでしょうか。 または、どれにも該当しないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q8)

    純粋理性批判(Q8) 「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」という問題設定をカントがした意味というか意図について教えてください。 「すべての出来事には原因がある」はアプリオリな総合判断だが、この文は、主語から述語が導き出される根拠があるわけではない(総合判断)にも拘わらず、アプリオリな(普遍的)判断に結果としてなっている。 その要因としてカテゴリー分類に基づく悟性というものの存在が想定されざるを得ない。 このような意図と考えてみたのですが、どうも理解力に乏しくてよくわかりません。

  • 純粋理性批判(Q3)

    純粋理性批判(Q3) 「(A)アプリオリ・アポステリオリ」「(B)分析的判断・総合的判断」 キーワードとして良く使われるこれらのの用語について、(A)と(B)の関連性などが今ひとつよくわかりません。 アプリオリな認識とは、経験の関与していない認識。 アポステリオリな認識とは、経験から導かれる認識。 と単純に区分できるわけではなさそうで、アプリオリな認識の中でも、 「全く経験という要素の関与していないアプリオリな認識(=純粋認識)」と、「経験的要素の含まれた(=純粋認識ではない)アプリオリな認識」がある、ということのようです(よね?)。 そこで、 【質問1】 『分析的判断とは、(当然アプリオリな)純粋判断(のみ)を指す。 総合的判断とは、純粋判断以外のアプリオリな判断、及びアポステリオリな判断全てを指す。』 と定義(分類)して差し支えないでしょうか。(なんかありそうですが・・・) 【質問2】 「経験的要素の含まれた(=純粋認識ではない)アプリオリな認識」と、「アポステリオリな認識」との違いは、どのように考えれば良いでしょうか。 極力わかりやすい表現で(中学生でもわかるかもしれない、ぐらいの表現で)教えていただけると助かります。     

  • 純粋理性批判(Q9)

    純粋理性批判(Q9) 判断表「判断の性質」の、 「否定判断:A は B ではない」 と、 「無限判断:A は B ではないものである」 の違いを説明してくださる方はいらっしゃらないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q7)

    純粋理性批判(Q7) 「空間と時間という直観の形式によって(よるのだから)、客体は物自体ではなく現象として認識される」として、あくまで例としてですが、 「我思うゆえに我あり」の、「我(思う)」が認識の主体で「我(あり)」が現象と言えると思われます。 この場合、デカルトは(よく知りませんが)どちらも同じ「我」と考えていたことになるのか、という気もしますが、それはさておき、 「認識主体としての我」と「現象としての我」についてカントは何か述べているでしょうか。 いるとすれば、その概略を教えていただけないでしょうか。 それとも「我」という概念には、物自体・現象という基準を適用させてはいないのでしょうか。 前提に間違いがございましたら、それもご指摘いただけるとありがたいと思います。     

  • 純粋理性批判(Q1)

    純粋理性批判(Q1) 『純粋理性批判』入門(講談社選書メチエ)という黒崎政男氏の本を読み出したところです。 「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」というカントの記述に対して、黒崎氏は以下のように解説しています。 〇--------------------------- ~経験が可能となるためにはいくつかの条件がある。 例えば、空間・時間はものが存在するたの形式ではなく、私たちの直観の形式であること。「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。 これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、<認識>が成り立つことと、その<認識の対象>、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。 --------------------------〇 ここで、 (1)空間・時間が、私たちの直観の形式である。 (2)「原因と結果」などの因果律が、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している。 とは、どのような条件を指しているのでしょうか。 カントの思想(に関係はしてくるのでしょうが)というより、黒崎氏の意図していることを、まず知りたいと思っています。 素人にもわかりやすくご説明いただけると有難いと思います。   

  • 純粋理性批判(Q10)

    純粋理性批判(Q10) 悟性のカテゴリーによって認識されるゆえに、我々が経験する対象は現象である、ということだと思うのですが、 「仮像」 の意味がもうひとつよくわかりません。 物自体と現象の違いは(たぶん)理解できていると思うのですが、この仮像についてわかりやすく解説してくださる方はいらっしゃらないでしょうか。 物自体を認識しようとすれば、あるいは、したと思った時点で、それは主観にすぎない、ということらしいことはわかったつもりです。 仮像も主観的と言われていますが、どうも明確に定義できません。   

  • 純粋理性批判(Q6)

    純粋理性批判(Q6) 「感性による直観と悟性のカテゴリーによって、対象は物自体ではなく現象として認識される」 この考え方は一応わかります(正確ではないかもしれませんが、その場合ご指摘いただけると有難いと思います)が、 「それゆえに現象としての認識には【客観的妥当性】がある」という結論になぜ至るのか、よくわかりません。 悟性のカテゴリーという分類は、認識のあくまで枠組みであるように思うのですが、この枠組みに対して客観的であるとか主観的(恣意的)であるとかいう表現が可能なのでしょうか。たとえば、 『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』 というような意味での客観的妥当性、というわけではありませんよね。 「客観的妥当性」が何を意図しているのかよくわかりません。 また、同様に、「物自体の認識は主観的である」という記述があったように思いますが、これは、認識できないものを認識したと思うことが恣意的=主観的である、という意味でしょうか。 悟性に関する箇所はまだ読んでいないのですが、客観的・主観的という従来の概念に照らし合わせると、何か違和感があり、どうも気になっています。 非常に初歩的な質問だろうとは思いますが、どなたかわかりやすく解説していただけないでしょうか。     

  • 純粋理性批判のアプリオリについて

    「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識なんですよね? 上記がアポステリオリである理由は「落下という現象は経験しなければ認識できないはずだから」ですよね なのにどうして「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識なのでしょうか ”変化”もまた経験しなければ経験できないはずです この点以前の質問で以下のような貴重な回答をいただきましたが、 https://okwave.jp/qa/q10184750.html 改めて考えてみて「”変化”は経験ではない」「”愛情”は経験ではない」というのであればどうして「”落下”は経験である」といえるんでしょうか 区別する基準がわかりません カントはアプリオリについて直観的に容易に判断できるポイントを説明しているのでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • EP-707Aのインキの残量表示が表示されなくなりました。カラー印刷したときに色がおかしくなっているため、どの色が不足しているのかわかりません。解決方法を教えてください。
  • EP-707Aのインキの残量表示がなくなりました。カラー印刷時に色がおかしくなる問題がありますが、どの色が不足しているのか判断できません。対処方法を教えてください。
  • EP-707Aのインキの残量表示が表示されません。カラー印刷時に色の不均一さが生じており、どの色が足りないのか分かりません。対処法を教えてください。
回答を見る