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純粋理性批判(Q10)

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.10

 ハコブルさん お早うございます。  思わぬところからいい議論になりましたね。  カント論ですとか学説史とかから見れば 脇道にそれるなと言われかねませんが 議論がかみ合ったみたいでわたしもお応えしてまいりたいと考えます。  《現象》として 花火を取り上げましょう。ここでは 線香花火にしましょうか。  火をつけて火花がまさに飛び散っているその現象についてですが その化学的な分析による見方もあるいはそれをたとえば芸術作品だと讃える見方も おそらくどちらもそれのみとしては 《仮象》として捉えていることになるのでしょう。  それらはいづれも 現象にとっての《モノ自体》――ちょっと言い方に無理がありますか? 化学物質のさらに究極のそれとして当てるのでしょうか。それとも 人間の芸術への飽くなき欲求の究極なのでしょうか。といったかたちなのですが――については説明していませんし 現象の全体観にもまだ成っていない。  しかも モノ自体は もし経験合理性において知ることのできることではないのならば 究極の物質のことでもなく その知り得ないということにおいて今は措いておきます。  つまり何が言いたいかと言えば 現象の認識は けっきょくすべて仮象〔としての認識〕であると成りませんか? です。  ただし主観ごとに把握した(あるいは一人の主観にとっても いくつかありうるかも知れないところの)仮象についてともに議論するとき つねに元の現象に立ちかえって事実認識を繰り返し行なって行かねばならないというのは おっしゃるとおりのことだと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  相手に対する認識は、自分自身が思っているようにしか認識できないという意味では現象ということになるように思われます。  その認識の真偽に関わらず、思考という俎板に乗ることが可能になるのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 思いや思考に現象との接点があります。  けれども――ここからが問題になりますが―― ここでさらに特殊な例外的な仮象というものがあるのではないか。こういう主題に移ります。全部引いておくべきようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、相手に対して、  「自分自身の思いとは全く無関係に、そのような人間である」という認識をした場合に、それが仮象になるのだ、という気がします。  つまり、純粋に客観的に相手を認識し得た、と思ってしまった場合です。  実際には、主観がその認識に影響を与えざるを得ないことは確かでしょうし、そのようなこと自体を認識するかしないかの違いはあるのでしょう。  仮象の場合は、自らの認識が、相手を認識するに際して一切関与していないはずだ、という(誤った)前提で思考がなされることになり、俎板にも乗らなければ、噛み合いもしない、という状況が出現してしまうのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ さて《特殊な仮象は あるか》です。  ( a ) 自分の――おそらく人間としての――思いを殺して 何らかの認識を持ったというそのときの現象認識のことか。これは どういう事例がありうるか。  ( b ) あるいはこの( a )の場合について 実際は怒りや嫉みなどの思いを殺してはいなかったのにそれを客観的な認識であると思いこんだその認識のことか。  ☆ ( b )の場合は 仮象一般に入るのではないですか?  ( a )はどうでしょう? いまわたしには思いつきません。  よって今のところこうなります。   ○ およそ人間のおこなう現象についての認識は まづ   (1) モノ自体についてのそれは無理であり   (2) そうでない場合にも     (2-1) 全体観を得るのはほとんど無理であり 部分観に甘んじ       なければならず    (2-2) その部分観としても 観測し思考する主観のゆがみが何       らかのかたちで入って来てしまう。    ――ゆえに 現象の認識は そもそも人間にとって およそ仮象である。  ☆ そのほかに もし特殊な仮象があるとしたらと考えたのが 《無法者》のおこなう現象認識の場合です。言いかえると おのれの《心証》の一本槍による認識の場合です。経験合理性という物指しについては 知らないという意味で 顔(意志のありか)がのっぺらぼうな場合です。  もしくは経験合理性を知っているときには自分の都合に合わせて 当てはめるべき場合には使わず あてはめるべきではない場合に使うという意味で勝手に使う場合です。  この仮象に悩み苦しみました。この上なくうつくしい火花が散りました。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 > つまり何が言いたいかと言えば 現象の認識は けっきょくすべて仮象〔としての認識〕であると成りませんか? です。 :カントに限らず哲学は実地応用できて初めて意味があると、私は思っています。 それで、このようにおっしゃられると、非常に触手が動いてしまうのですが、まだ、かの書の入り口でうろうろしている現状では、とりあえず(カントの)基本を押さえたいという気持ちがあります。 基本ということで言えば、こう言ってしまえばそれで終わり、ということになるのでしょう。 仮象は、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」というコベルニクス的転回から生まれた現象という概念を裏付けるために必須の概念でしょう。 カント以前は仮象としてしか対照を認識していなかったわけですが、言ってみれば素朴実在論的思考方法を人は取りやすいものだ、ということは言えると思います。 >仮象〔としての認識」 :とおっしゃる意味は、おそらくカントを離れて、つまり、カントの意図した仮象とは別の意味であるという条件をつけてよければ、わかるつもりです。 カントの場合は「誤った捉え方によって現れた象」という意味だと思いますが、bragelonne さんがおっしゃるのは、「未確定の仮の象」といったような意味なのでしょうね。 この意味で、 >ゆえに 現象の認識は そもそも人間にとって およそ仮象である。 :とおっしゃる内容には同意できます。 > ( a ) 自分の――おそらく人間としての――思いを殺して 何らかの認識を持ったというそのときの現象認識のことか。これは どういう事例がありうるか。  ( b ) あるいはこの( a )の場合について 実際は怒りや嫉みなどの思いを殺してはいなかったのにそれを客観的な認識であると思いこんだその認識のことか。 >( b )の場合は 仮象一般に入るのではないですか? :そう思います。 >( a )はどうでしょう? いまわたしには思いつきません。 :これは現象と私は思います。 「思いを殺して」という主観的選択が自覚としてあり、それに基いて対象を認識しているからです。 『憎いと思っているから、こちらに向かって駆けてくる相手が気概を加えようとしている、と認識してしまう。とびきりの美人が駆けてきたのなら、たとえ手を振り上げていたとしても、そのようには認識しないはずだ』 と(常にそう捉える必要はありませんが)【そう考える余地のある認識の仕方によって認識された対象=現象】と相手を位置づけることが可能になります。 そして、おそらくここが重要だと思うのですが、この場合、その認識の正否を問う必要はありません。 現象・仮象は、あくまで原理としての概念ではないかと今のところ捉えています。 ですから、 >   (2-1) 全体観を得るのはほとんど無理であり 部分観に甘んじ       なければならず    (2-2) その部分観としても 観測し思考する主観のゆがみが何       らかのかたちで入って来てしまう。 :という「主観が存在すること自体」を認識している場合は、現象と思います。 >部分観に甘んじなければならず :あるいは、 >観測し思考する主観のゆがみが何らかのかたちで入って来てしまう。 :といったことが、あくまで主体である「私」の主観によって規定されているものである、という自覚に基いて認識された対象は、 「未確定の仮の象」ではあるでしょうが、 「誤った捉え方によって現れた象」とは言えないでしょう。 さらに付け加えてみれば、この未確定を確定させることができるのは他者ではないように思われます。 カント言うところの仮象とは、 『主体である「私」の主観によって規定されているものである、という自覚に【基づかないで】認識された対象』の場合であって、この場合は、不可知であるところの物自体を認識したという誤謬から逃れることはできない、つまり、思考原理から外れるために、確定のしようが無い状況に陥ってしまう。 大体、このようなことが言えそうな気がします。 >言いかえると おのれの《心証》の一本槍による認識の場合です。 :これは特殊というより、仮象そのものと言えるように思います。 >もしくは経験合理性を知っているときには自分の都合に合わせて 当てはめるべき場合には使わず あてはめるべきではない場合に使うという意味で勝手に使う場合です。 :いくらでも広がっていきそうな課題満載です。 さて、この書に足を踏み入れたばかりの者にしては、いくぶん妄想が入ってきているやもしれません。 自戒しつつ、感想披露を終わります。   

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