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「述語的」とは?

「述語的」とは? 最近「述語的」という言葉があることに気づきました。 文法の話をしているわけでもないようです。 大抵「○○の話は述語的で…」と批判しているように見えます。 検索してみても「主語的とは主体的と言ってもよく、 述語的とはその反対、でも客体的とは違う」という 感じの掴み所の無い説明しかありませんでした。 「述語的」とはどういう意味なのでしょうか? なるべく平易な言葉でご説明いただけると嬉しいです。 論理学でも「述語」という言葉は使われているようですが 文法学や論理学と関係のある言葉なのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.3

「述語的」ないし「述語的○○」といった語は、 論理学、哲学、医学分野では相応の定義があったり論題になっています。 どのような分野、話題で遭遇されましたか。 私の場合、 「述語的」という表現が日常会話で発せられたら、   話がくどくどしくて何を言いたいのか分からん奴   主体性のない奴   何をしたいのかよく分からない奴 といった理解をしそうです。 主体=私を省略し、動詞が後ろに来る日本語では、述語部分で状況説明と情緒の開陳が延々と続き、主体である話者の意思が不明になりやすいからですね。時間浪費...でなくて、人間関係維持の女性のおしゃべりは延々とつづくのが効用ですが、ビジネスや意思を伝える会話では意図的に自分の決断・行動を明確に伝える心がけがないと「述語的」になるのかな。 >「○○の話は述語的で…」と批判 との例でしたら、案外私の日常理解と同類かも。 *以上経験を踏まえての私的解釈です。追及なさるならば専門各分野をお調べください。分野別に当たればネットでも材料はあります。

sak_sak
質問者

お礼

おそらくその意味で合っていると思います。 なぜ「述語」なのかも納得できました。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • ahkrkr
  • ベストアンサー率35% (109/310)
回答No.2

論理学では、 「私は人間である」という述語は真。 「私は犬である」という述語は偽。 と言う言い方をすると思いますが(つまり真か偽かの判定が出来る文が述語)、 例にお出しになった文の場合、単純に真か偽かの二元論で論ずることを批判して言っているのではないでしょうか。

sak_sak
質問者

お礼

掲示板やSNSの書き込みに対し、 別の人が発言した文章の中で見た言葉です。 はっきりと記憶に残っていないので、断言はできませんが 「論じた」という感じのものではなかったように思います。 論理学はあまり経験が無いので、回答者様に教えていただいた用法に 何かの際に接することがあるかもしれません。 ありがとうございました。

noname#204879
noname#204879
回答No.1

「述語的」なる言葉は初耳ですが、例えば「○○の話はジュツゴ的で、ちんぷんかんぷんだ」の場合の「ジュツゴ」は「術語」と書きます。 「術語」は、ある業界における専門用語(業界語)を指します。(英語では jargon) ご参考までに。

sak_sak
質問者

補足

回答ありがとうございます。 「術語」は学生時代から知っている言葉でしたので 見間違いや打ち間違いかとも思いましたが どちらでも無いようです。

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  • お答えいただけましたら幸いです。

    とある作文技術の本で、 「明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。」 を逆順にすると、 「私は、明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。」 になると書いてあります。 しかし私はこれに納得が行きません。 なぜなら、逆順という言葉を調べてみると、 順序が逆という意味であり、 本来であれば、 「明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。私は」 とすることこそが(主語と述語の順序が逆という意味で)逆順と言えるのではないかと思うからです。 「私は、明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。」 は単に、主語がその述語から少し離れた場所に置かれることになっただけで、どちらが先に来るかという点では何も変わっておらず、これが逆順と言えるのかと思ってしまいます。 どなたか、このことにしっかり説明ができる方は降りませんでしょうか?