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類や種は、種差の述語になりえない?

アリストテレスが『形而上学』で次のようなことを言っているらしい。類や種は、種差の述語になりえない、それに対して『存在』は述語になる。であるからして、『存在』は類・種とは異なる普遍である、と。 先に言い訳をしておきますが、これは先にあった質問に関しての疑問ですが、その質問・回答に対する批判を意図したモノではありません。批判的な言辞も登場しますが、ご理解のほどを。 『存在』は類・種とは異なるという事に関しては、異を唱える気はありません。疑問であるのは、種差がどうのこうのということは、それを理由づけないのではないか、ということです。 「種差」を主語とし、種・類を述語とする、という文とはどのようなものか、がまず問題となります。その上で、「なり得ない」とはどういう意味で言われているのか、も考える必要があるでしょう。 (1)「種差」を直接の主語とするのではないのか?と思うのですが、そうではない例があげられています。 例えば、「蟻は社会的動物である」と言えても、(イ)「社会的動物は、蟻である」とは言えない。そうではありますが、これは「種差」を主語としているのか。「社会的」を種差であるとするのは疑問ですが、それは横に置いて、この文の主語は、動物ですね。主部の方が外延が広いというだけでしょう。述部に類を持ってくると、(ロ)「社会的動物は、動物である」は成り立つでしょう。あるいは、(ハ)「赤い花は、赤花である」であり、「赤花は、赤い花である」とも言える。この様に、外延関係の大小で真偽が定まる命題を「なり得ない」というのは、おかしいのではないか。 このタイプを『存在』との関係で見ると、いっそう問題をはらんでいます。「社会的動物は、存在する」「社会的であるモノは、存在する」これらが成立するのは、種差が掛かっている「動物」「モノ」がすでに存在していると見なされているからでしょう。「社会的カッパは、存在する」のか?あるいは、「社会的金属は、存在する」のか? (2)「種差」を直接の主語とする場合。 「人間は社会的である」と言えても、「社会的は人間である」とは言えない。これは(1)のような包摂関係ではなく、実体属性関係(正確には「性質」ではなく関係性でしょうが)をいう「である」なのだから、カテゴリーミスとして、不可である。この種の文は、種・類という階層と外れているので考慮外にすべきなのか。「社会的は存在する」とは言えるのか。これを言えるとするなら、『存在』が類・種と異なる事を示しているとも見えます。では「『社会的』は存在する」とはいかなる意味で成り立つのか。一つには、種差が何か存在するモノに掛かったとして存在するという意で、成り立つでしょう。だがそれは結局(1)と同じ事になるでしょう。もう一つは、「性質」というカテゴリーとしてある、と見ることも出来ます。他のカテゴリーも同様に存在するとするなら、『存在』がカテゴリーを超えている、と見ることが出来ます。そうであるとしても、「類や種は、種差の述語になりえない」とは関係ないのではないか。なぜなら、「赤いは、色である」等のように、性質そのものも類別しうるのだから、「『種差』は、『類』である」という文が成立します。 以上のように考えますと、「類や種は、種差の述語になりえない」という表現は不正確と言うべきではないか。述語になることもあれば、ならないこともある。 アリストテレスの『形而上学』とか、そのほかの述語付けを論じている箇所を読めば、おそらく論じているだろう程度のことですが、『存在』は類・種とは異なる普遍である、との理由付けにしては不十分な箇所であった、と思われますが、如何でしょうか。

みんなの回答

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.7

つづき 多分あまがっぱさんの述べていることと同じなのかな? ちらっと見て、もやもやしてたものが纏まったのかな。 あまがっぱさんはすごいー! それはいいけど、概念を区分けする場合は、共通概念のもとになった材料の搾りかすしか残ってないわけだから、種差が類や種の述語になるのは見かけ上可能。 ただ、あまがっぱさんが述べているように、その種差はフラグ、ラベルでしかないんじゃないかな?

old_sho
質問者

お礼

重ねてのご回答ありがとうございます。 >種差とは抽出されなかった性質であるというのは問題なかったようですね。 種差・種・類については、アリストテレスは、彼なりの厳密さで扱っているらしいですが、私の今回の質問では、ルーズにしているということです。 私の「赤いは、色である」に関しては、 アリストテレス大先生からは、ワシの講義の何を聴いていたのか、そうではない、 「赤は色である」 だろう、とキツイお叱りを受けるところです。劣等生としては、そこで、「赤い」と「赤」はどこが違うですか、と聞き返すのですが、 三段論法をみれば判るだろう。 この花は、赤い。 赤いは色である。 故に、この花は、色である。 これがおかしいことぐらい判るだろう。 劣等生としては、さらに、それは三段論法がいつでも成立すると思う方がおかしいということではないですか。と、反論して破門される。そんなところでしょうか。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.6

No.1です。お礼ありがとうございます。 種差とは抽出されなかった性質であるというのは問題なかったようですね。 では、捨て去れたものと考えていいわけです。 ということは、捨て去られた性質は類や種に含まれない。 もちろん、性質の材料になったものは含まれます。 正確に言えば類や種に共通の性質を軸にして、ぶらんぶらんぶら下がってイメージ。 別の言い方をすれば、アイコンというかシンボル、例えば犬という概念の内側には 共通の性質しか無いイメージ。 色でいえば分かりにくいけれど、「赤いは、色である」の赤というのは実体?の赤ではなく 赤いという概念の表面の内側にある共通性質の赤であるということ。

回答No.5

 こんばんは > 種差・種・類という話ではあるのですが、その関係を厳密には扱っていません。 > 種差という言葉は、種を分ける一つの性質、というほどに扱っています。属性に限るという意ではなく、種を分ければ取りあえず何でも良くは無いか、としています。 > だけれど、厳密でないからということで疑問に感じたのではないのです。そんな事もあって、取りあえず、何等かの徴表であれば良いとしています。 ↓ ↓ ↓  承知しました。 > さらに、類・種も、アリストテレスが触れている点も無視しており、現になされている、この世界の類・種体系に沿う、という意識もありません。このことが、主題を成り立たせない、とするなら、問題な訳ですが、多分大丈夫だろうと見ています。この点ご指摘戴ければ、私には有益ですが、煩瑣な話になるだけで、時間のかかるわりに益がすくない、という気がします。 ↓ ↓ ↓  確かに、そのように思えます。 ・「形而上学」も反プラトンの主張をも交えていること(プラトンのように「存在」というイデアがあるとは考えなかった)、 ・またこのためか、複雑なカテゴリー化の手法を取り入れていること(プラトンらは多くの事例から一なるイデアヘというやり方であったのに対し、アリストテレスの場合、まず動物とか生物とかいう一つの形相(エイドス:ある種類の事物を他から区別する本質的特徴)で人間を規定し、それからその一つの形相を有限多の形相に分割して、そのうちの一つの形相によって人間を規定するというように、一から多への方向をとる手法を採択した)、  これらのため、論を進め過ぎてしまいますと、確かに厄介になろうことは容易に推察できます。 > という訳で、種・類というのは、単に小分類、大分類という程度の意味で、更にその上の大々分類等は無視します。要するに、個・種・類の三段階だけを考えるということです。 ↓ ↓ ↓  厳密に申し上げるならば、 ・種: ある概念の外延のうちに別の概念の外延が含まれる場合、前の上位概念に対して後の下位概念。例えば、「生物」に対する「動物」。 ・類: ある概念の外延のうちに別の概念の外延が含まれる場合、前の下位概念に対して後の上位概念。例えば、「動物」に対する「生物」。  と定義付けられるようですが、この点につきまして、ご質問者さんのご意向に沿いたいと思います。 > 外延関係の大小で真偽が定まる命題を「なり得ない」というのは、おかしいのではないか と書きました。不正確で、舌足らずな表現でした。 ↓ ↓ ↓  いえいえ、どう致しまして。 > (2)「種差」を直接の主語とする場合。に関して・・・   ”真偽は不明ですが、「存在」は術語(V)になり”得る”ことだけは確かでしょう。” これに、すぐには同意出来ません。何に対しても「ある」と言うことは出来る、とするなら、確かでしょう。でも、カッパの件で、 ”真偽を問う命題として掲げる前に、まずカッパの存在を証明、もしくは定義付けすべきかと” と、おっしゃるのは、何に対しても「ある」という「命題」は出来る、という訳ではないからではないでしょうか。 ↓ ↓ ↓  これはわたくしの下足らずでございました。後述しておりますが、「存在(者)」を前提の元に、論を進めておりました。 > (2)「種差」を直接の主語とする場合。に関して・・・  「社会的金属は存在する」も、「社会的」が如何なる意味で「金属」にかかりうるかが定まらない限り、命題になった、したがって述語になった、とは言えないのではないか。要するに、主語が決め手ではないか、ということで、ハイデッガーに向かうのではなく、アリストテレスに向いているのです。 ↓ ↓ ↓  この場合では、”金属”は確かに”カッパ”とは異なり「存在」します。  ただ、今回の場合、「種差」、つまり、 多くの種において、ある種に”特異的”であり、その他のものから”区別する”特性という定義からしますと、この”金属”にその他のものから”差異”を見出す”特性(特徴)”としましては、「社会的」は不適であるとの考えから、前述のような判断をさせていただいた次第です。  つまり、「本当に真偽を問う命題ならば、「社会的」と「金属」の関係性も考慮に入れる必要があるでしょう。」も、もちろ関連してきます。 > 徴表として見て、(2)以下の事を考えています。が、nyan_nyankoさんは「種差が何か存在するモノに掛かった [モノ] 」が基本のようですね。 ↓ ↓ ↓  はい。そのように解釈しております。「主差」、つまり、特異性、差異をもたらすには、何かの「モノ(存在者)」がその前提にあると考えているからであります。と申しますのも、アリストテレス自身の、”「存在」を統一するひとつのものは「実体」である”との主張がその根拠にあります。つまり、実体としてないものは、原則対象外と考えたからであります。  とりとめのない文章となってしまい、誠に心苦しいのですが、お役に立てれば、幸いでございます。

old_sho
質問者

お礼

重ねてのご回答ありがとうございます。 >実体としてないものは、原則対象外と考えたからであります。 と言われる点ですが、アリストテレスは、色々と言っているのでしょうが、 「類や種は、種差の述語になりえない」 ということは、述語付け可能かどうか、という述語分析の中で言われていることを指しているのではないか。『形而上学』を繙けば判るかも知れないし、明確には触れていないかも知れないのですが、質問に挙げた(1)の指摘でケリはつくかとみました。nyan_nyankoさんは「対象外」とされるのですが、われわれの常識を読み込んでいるというおそれは無いでしょうか。「存在」が述語付けられうるという言葉が続くので、その方向で見たくなるのはわかりますが、疑問が残る、というところです。 実際どう言っているかは、またの機会に図書館で読んで確かめます。 ありがとうございました。

old_sho
質問者

補足

この場所借りて、自己レスです、悪しからず。 結論から言いますと、私の疑問は対象を失しています。 話の発端は、『存在と時間』において、アリストテレスがこう捉えていると言う引用部に対する疑問です。何処から引用しているかを確かめてみると、直接にはその様な引用はなされていません。「存在はすべてのもののうちで最も普遍的である」「存在は類ではない」という二件だけです。序論第一章の当該箇所で引用が明記されているのは。中公クラシック『存在と時間』では、「この統一をアリストテレスは類比の統一と認めた」という文章の「類比の統一」に対する訳注で、件の話に触れています。また、宮原勇編「ハイデガーの『存在と時間』を学ぶ人のために」においても、触れています。つまり、これはハイデガーの引用ではなく、解説として在るようです。 中公クラシックp13訳注4では、『形而上学』第五巻第六章を指していますが、そこは類比の統一であって、種差がどうのという論点は有りません。従って、アリストテレスの引用としてではなく、解説として、類・種は種差の述語になり得ないのに対して、存在はなり得る。「理性的」は「人間」であるとか「動物」であるとか言えないのに対して、「理性的である」とは言える、と書かれています。 宮原勇編『学ぶ人のために』では、有馬善一氏の筆で、詳しく解説されており、『形而上学』第三巻第三章において論ぜられているとしています。有馬氏はアリストテレスの錯綜した文章をまとめて分り易くされています。そのため若干異なるように見えます。当該箇所で、岩波のアリストテレス全集ですが、類が種差の述語にならないという件は、訳注でトピカ参照とありました。トピカを見ますと、「類が述語されるのは、種か個物についてである」とあります。但しそれは訳注としてアレクサンドロスp452にあるらしい文です。トピカ第六巻第六章の本文は整理するのは面倒なものですから、ここで打ちきり、要はアリストテレス式の捉え方では、「赤は色である」とは言えても、「赤いは色である」と言ってはいけない、ということのようです。ただし、個物の「赤い」、個々に見たそれが赤いことは、色と言っても良いが、種差としては不可、ということでしょう。 単純化してまとめますと、アリストテレス的「類・種・種差」の捉え方で言えば、類が述語になるのは、 個物は類である。 種は類である。 の二種のみである。従って、 種差は類である。 というと、種差が、個物あるいは種になっておかしなことになる。 「種差が存在する」と言う件は、例えば、 「赤い」 ということを、amaguappaさんの「赤いは(赤いとして)存在する」と同じ事でしょうが、 「赤いがある」 と言い得る、というほどのことではないか。つまり種差が「ある」から、種・類体系が定義し得る、という捉え方ではないか。 と、一応しておこう。 お粗末様でした。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.4

「蟻は社会的動物である」について 1) 種差を抽出する話題では、すでに類概念が知的背景を構成しているとともに、その同じ類概念に属するほかの種との区別が念頭にあるという按排になります。 つまり昆虫というとりあえず近接する類概念において、種にあたる蝶やセミや蟻の種差を述べているというのが、「蟻は社会的動物である」の話題の一般的な運びです。 2) 種差というのは表徴として、非常に大きな集合にならざるをえません。そしてその集合自体がまた、内にいくつかの種を想起することによって、類概念となりえるのです。 このことから、質問者さんは「社会的動物」を種差から類へすり替えているものと思われます。 つまり蝶やセミや蟻といった昆虫のうちのひとつに付けられていたフラグを、 {チンパンジー、猿、人間、イルカ、蜂、蟻、....}といった種を内包する類概念に読み直したわけです。 3) また、種差がいかに大きな集合であろうとも、その外にいくつかの種が同じ類概念に属すると考えうるなら、その文脈がたちあがるときに、同じ言葉が種概念ともなるのです。 このことから、質問者さんは「社会的動物は動物である」と書いたわけです。蟻の話題を離れた社会的動物は、すでに種差ではなくここでは種であることがおわかりでしょう。 4) しかしこれらは、ごく自然な思考回路であって、むしろこのように類概念や種概念となりうる構成的な要素がわかっていなければ、語を表徴として抽出することもできません。 幼稚園児に蟻はシャカイテキドウブツだというのがわからず、小学生に蟻は社会的動物だとわかるのは、社会的動物を類として刷り込み済みか、またより大きな動物の生態の類における種として横の概念に繋いであるか、 そして柔軟な相関関係にあるそれらを駆使して主題について概念の絞り込みをおこない、表徴する能力があるかの差です。つまり種差を述べるという作業は、言語活動のわりと深い段階にあるといえます。 話題を形成する背景にあるのは、遠近や深度にも似た構成的な知的労働です。まあ、おっしゃるように外延の小さいものが外苑の大きいものの主語となるというのは、種差以前の種・類関係のみに着目していますから、振り出しに戻っている感があります。 「『存在』は述語になる /『存在』は類・種とは異なる普遍である」について  >類や種は、種差の述語になりえない、それに対して『存在』は述語になる。 何の述語なのでしょうね? 『存在』は(種差の)述語になる、というのは無理でしょう。 だってまず『存在』についてそれが、そもそも種差の抽出された、表徴のフラグの付いた種概念であることが必要になってしまいます。ということは、これを内包する類概念を描かねばなりません。 {梅、松、杉、桜、桃、檜、楢、栗、楓......}の中から 「梅は花を咲かせる木である」が、「花を咲かせる木は梅である」とならないような按排に。 (偏屈者が梅に限ると言う意味では日本語だとこんな表現もややありですが) 「存在は実体と属性にわけられる形而上学的問題である」 どうでしょうか。 「実体と属性にわけられる形而上学的問題は存在である」 いえいえ、 「実体と属性にわけられる形而上学的問題は(実体と属性にわけられる形而上学的問題という)存在である」 「存在は永遠の約束である」 どうでしょうか。 「永遠の約束は存在である」 またまた 「永遠の約束は(永遠の約束という)存在である」 「持続的状態は(持続的状態という)存在である」 「ウンコは(ウンコという)存在である」 「尊いは(尊いという)存在である」 「多様は(多様という)存在である」 「虚無は(虚無という)存在である」 「非存在は(非存在という)存在である」 「不在は(不在という)存在である」 なんでもありになってしまいました。 種かな、類かな、こんなことが種差かな、と括ってみても、すべて包括するというわけで、 アリストテレスは『存在』は述語になると言ったのではないでしょうか。

old_sho
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 手間を惜しんで適当なところで手を打った点を、不適当であるとご指摘を受けたようです。先の方にも言い訳を連ねたのですが、もう少し、言い訳を追加します。全く冷や汗もので恐縮です。 「蟻は社会的動物である」の例は、この質問が向かっている意味を象徴するものとして出したものです。仰るように、種差・種・類を適当に、正確には不適当に、扱っています。不適当とは言え、意味としては通るだろうという見込みでした。すなわち、 「社会的」が、種差に当り、「蟻」が、種で、「動物」が類に当る。この時に、「社会的動物は蟻である」が、種差を主部に据え、種を述部とする命題である、との見方がある、という話であることは、通ずるであろう、と。種・類をこのような例で済ませているのは、私のルーズな点ではあるのですが。 >2) 種差というのは表徴として、非常に大きな集合にならざるをえません。 表徴の多寡は対象に依存するとして、と反問しつつ読んだのですが、 >その集合自体がまた、内にいくつかの種を想起することによって、類概念となりえるのです。 と接続しますと、その集合とは、或る種差を表徴とするモノどもの集まりのことですね。 >このことから、質問者さんは「社会的動物」を種差から類へすり替えているものと思われます。 と、ここまでは、私のルーズな点のご指摘ではないかと思います。 しかし、 >このことから、質問者さんは「社会的動物は動物である」と書いたわけです。 という点は、説明を加えたいと思います。 図式的に、「種差:種」あるいは「種差:類」という記号は、「赤い・花」とか「二足歩行・動物」とか、種差による種・類の限定を示すとします。(ここでは当然に、類・種は上位下位関係にあるとします) 「蟻は社会的動物である」は、「種は、種差:類である」と解します。「社会的動物は蟻である」は「種差:類は、種である」となります。この時、 (イ)「種差:類は、種である」というタイプの命題は、必ず、主部の方が外延が広くなって、偽である、のか? あるいは、 (ロ)「種差:類は、類である」 もある、というのが私の申し立てであります。それはもとの問題が、「類や種は、種差の述語になりえない?」であるのですから、述部に類が来ることも含まれるべきだろう、ということです。ただし、種差:類=種となるとするなら、「種は類である」に戻ってしまう、というのはご指摘の通りです。私としましては、そのことも含めて、「種差:類は、何々である」あるいは「種差:種は、何々である」という命題が、種差を主語として述べているとすることに異を唱えたい処ですが、これは別、という見解に譲ることも含めて、(ハ)を立てています。その言い訳は先の方にしているところです。(イ)のタイプであっても外延が等しいというケースはある筈であると考えます。 「Aは(Aとして)存在である」という見方は面白いと思います。それがアリストテレスのものであるかどうかはさておき、その見方は「存在」は述語ではないという方に傾きそうにも思いますが、私には手に負えない、正しくは頭のついて行かない領域になります。 貴重な時間を戴きありがとうございました。

回答No.3

 こんばんは  思ったことを以下に列記してみました。ご参考になれば、幸いです。 > 「種差」を主語とし、種・類を述語とする、という文とはどのようなものか、がまず問題となります。その上で、「なり得ない」とはどういう意味で言われているのか、も考える必要があるでしょう。 ↓ ↓ ↓  了解!! > (1)「種差」を直接の主語とするのではないのか?と思うのですが、そうではない例があげられています。 例えば、「蟻は社会的動物である」と言えても、(イ)「社会的動物は、蟻である」とは言えない。そうではありますが、<中略>それは横に置いて、この文の主語は、動物ですね。 ↓ ↓ ↓  確かにそうですね。「動物」は、この文の主語(S)となります。 > 主部の方が外延が広いというだけでしょう。述部に類を持ってくると、(ロ)「社会的動物は、動物である」は成り立つでしょう。あるいは、(ハ)「赤い花は、赤花である」であり、「赤花は、赤い花である」とも言える。この様に、外延関係の大小で真偽が定まる命題を「なり得ない」というのは、おかしいのではないか。 ↓ ↓ ↓  (ハ)については、後のカント”分析判断 [analytisches Urteil]”と同様、術語の概念を主語に含まれていれば、当然「真」となります。「白鳥は白い [鳥である]」などはその一例かと思います。もちろん、(ロ)も当然ながら成り立ちます。  そこで、   「主部の方が外延が広いというだけでしょう」。という問いにつきましては、  「主部の方が外延が広い」、これも事実でしょう。  「種差」、質問者さんはご存知かと思いますが、このわたくしのこの駄文をお読みの方のためにも説明させていただきますと、英語では”specific difference”となります(こちらの方が意味がわかりやすいと思いますので)。つまり、多くの種があった場合、ある種に特有(specific)で、それを他のすべての種から区別(difference)する特性、のことをいいます。  そうなりますと必然的に主部の方が外延になるものと考えられます。  また一方、「外延関係の大小で真偽が定まる命題を「なり得ない」というのは、おかしいのではないか」につきましては、わたくしの拙いオツムではわかりませんでした。 > このタイプを『存在』との関係で見ると、いっそう問題をはらんでいます。「社会的動物は、存在する」「社会的であるモノは、存在する」これらが成立するのは、種差が掛かっている「動物」「モノ」がすでに存在していると見なされているからでしょう。「社会的カッパは、存在する」のか?あるいは、「社会的金属は、存在する」のか? ↓ ↓ ↓  まず、”社会的”はともかく、”カッパ”については、この文章からしますと、「類」に近いと思われますが、ただ命題の真偽はともかく、「存在」は術語(V)になり”得る”ことだけは確かでしょう(真偽を問う命題として掲げる前に、まずカッパの存在を証明、もしくは定義付けすべきかと)。「社会的金属は、存在する」は存在するのか? これも同じです。真偽は不明ですが、「存在」は術語(V)になり”得る”ことだけは確かでしょう。  ですが、  「種差が掛かっている「動物」「モノ」が”すでに存在している”と見なされているからでしょう。」に一言だけ言及致しますと、  元来ハイデッガーは、そもそも、その「存在」という概念について疑問提起しているのですが・・・ > (2)「種差」を直接の主語とする場合。  「社会的は存在する」とは言えるのか。 ↓ ↓ ↓  ただ、上記の例で言いますと、これのみでは、”社会的”が「種差」か否かの判断は不明かと考えられます。  例えば、「二足歩行の」からすれば「種差」になりますが、”地球上の”からすれば、「類」にあたります。  従って、言える場合もあれば言えない場合もあると考えられます。ただし、その前に、「種差(specific difference)」の定義上、「種」を述べておく必要がありましょう。  このため、  「 種差が何か存在するモノに掛かった [モノ] として存在するという意で、成り立つでしょう。」は、確かにそうです。

old_sho
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 詳しく触れていただけ、ありがとうございます。 いくつか言い訳を挟んでおきたいのですが、 種差・種・類という話ではあるのですが、その関係を厳密には扱っていません。この件での眼目は、存在が類・種と異なるという点にあるので、種差という言葉は、種を分ける一つの性質、というほどに扱っています。属性に限るという意ではなく、種を分ければ取りあえず何でも良くは無いか、としています。大辞林で「例えば、『動物』という類において、『人間』を他のすべての動物から区別する場合、『人間』に特有の『理性』など。」この「理性」の件はどこかの大先生が触れているのではないかと思いますが、動物に備わる「理性」とは何だと言い始めるとその方が大事件ではないですか。また、この件で疑問に感じたきっかけとなった例として挙げられているものは、厳密に「種差」と言えるのか疑義があります。だけれど、厳密でないからということで疑問に感じたのではないのです。そんな事もあって、取りあえず、何等かの徴表であれば良いとしています。さらに、類・種も、アリストテレスが触れている点も無視しており、現になされている、この世界の類・種体系に沿う、という意識もありません。このことが、主題を成り立たせない、とするなら、問題な訳ですが、多分大丈夫だろうと見ています。この点ご指摘戴ければ、私には有益ですが、煩瑣な話になるだけで、時間のかかるわりに益がすくない、という気がします。 という訳で、種・類というのは、単に小分類、大分類という程度の意味で、更にその上の大々分類等は無視します。要するに、個・種・類の三段階だけを考えるということです。 「AはBなり」という命題で、外延の大小で真偽が定まるというタイプであるなら、ABは必然的関係とは言えないのではないか、というほどの意味で、 外延関係の大小で真偽が定まる命題を「なり得ない」というのは、おかしいのではないか と書きました。不正確で、舌足らずな表現でした。 (1)のタイプでは、外延の関係で、 (イ)大は小なり。「社会的」動物は蟻である。 (ロ)小は大なり。「社会的」動物は動物である。 (ハ)A=B。赤い花は赤花である。 この三通りが、あり得ると考えましたので、「主部の方が外延が広い」必然性はない、ということを言いたかったということです。 (ロ)は「種は類である」という文であるとして、別ものと見なし横に置いて、(ハ)を補充しているのですが、これも説明不足でした。花を類と見立て、赤花、青花を種と見立てると、「赤い」「青い」が種差と見れます。そうしますと、 「『赤い』花は、赤花である」は、主・述の外延の等しい命題になる、という段取りであったのです。 さて、 >真偽は不明ですが、「存在」は術語(V)になり”得る”ことだけは確かでしょう。 これに、すぐには同意出来ません。何に対しても「ある」と言うことは出来る、とするなら、確かでしょう。でも、カッパの件で、 >真偽を問う命題として掲げる前に、まずカッパの存在を証明、もしくは定義付けすべきかと と、おっしゃるのは、何に対しても「ある」という「命題」は出来る、という訳ではないからではないでしょうか。 「社会的金属は存在する」も、「社会的」が如何なる意味で「金属」にかかりうるかが定まらない限り、命題になった、したがって述語になった、とは言えないのではないか。要するに、主語が決め手ではないか、ということで、ハイデッガーに向かうのではなく、アリストテレスに向いているのです。(といいましても、アリストテレスがこの件だけで『存在』が類・種と異なると言っている、というのではありませんが) 種差は、種との関連で言わなければ、というのはそうではあるのですが、先に言い訳しましたように、徴表として見て、(2)以下の事を考えています。が、nyan_nyankoさんは「種差が何か存在するモノに掛かった [モノ] 」が基本のようですね。

noname#194996
noname#194996
回答No.2

ありストテレスは哲学、特に論理学の元を作った人だそうですから、その人の言ったことは正しい、というより、そのひとがいったことが間違っていれば、哲学は根本から揺らぐでしょう。特にこういった基本的なことは疑わずに尊重するべきです。 >類や種は、種差の述語になりえない ?はつけるべきではありませんね。 そっくりそのまま理解するべきだと思います。 単純なことだと思いますよ。 類や種は、種差の述語になりえない 新しい種が発見されて、たとえば「ありすと」とか命名されます。 種差の述語というのは、その種の種たる所以を、これこれこういうものだから新しい種として命名されたのだ、他とはこのように違う、ということの表現をいうのでしょう。 「ありすと」という種は、単に他と区別するための記号なのであって、名前自体がそういうせからしい機能を持つことはない。名前は単なる名前なのであって名前以上のものではない。 そういっているのでしょう。 >、『存在』は類・種とは異なる普遍である その通りです。 「ありすと」は存在するから「ありすと」と命名されたのです。 存在しなければ「ありすと」は命名されません。存在 したあとに種が現われるので、逆はありえません。異なるというよりも次元がひとつ上の概念だと思われます。

old_sho
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そっくりそのまま理解するべきだと思います。 まあ、ガキの頃からのことですが、納得できないことはまともに記憶することも出来ないのです。 >種差の述語というのは、その種の種たる所以を、…… 説明として述語が付くのは分かりますが、疑問は、「述語になりえない」というところにあるのですが、 >「ありすと」という種は、単に他と区別するための記号なのであって……。名前は単なる名前なのであって名前以上のものではない。 言わずもがなのことですが、名前は、名前として、名前以上のモノであるのではないか、と思うのです。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.1

しゅ‐さ 【種差】 論理学で、同一の類に属する多くの種において、ある種に特有で、それを他のすべての種から区別する特性。例えば、「動物」という類において、「人間」を他のすべての動物から区別する場合、「人間」に特有の「理性」など。 なるほど。 共通の性質として抽象化されなかった性質なのですね。 >「赤いは、色である」等のように、性質そのものも類別しうるのだから、「『種差』は、『類』である」という文が成立します。 概念を区分けすることと共通の性質を抽出することは別なのでは? 結果として同じようなカタチになるが成り立ちはちがうのでは?

old_sho
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >概念を区分けすることと共通の性質を抽出することは別なのでは? 「概念を区分けすること」と「共通の性質を抽出すること」とは、違うとは言えるでしょうが、関連しうるとも見えます。 >結果として同じようなカタチになるが成り立ちはちがうのでは? といわれる意味は、概念の分類と、実在物の分類とは別種のモノである。あるいは、概念は元々それとして構成されたのに対して、実在物は抽象作業を経て形成された、ということでしょうか。要は、アリストテレスのいう種・類は、概念には当てはまらないとして処理するということですね。そう捉えることも可能であるかもしれません。ただそれだと「類や種は、種差の述語になりえない」という意味が、種・類の定義からしてそうだということで、あまりにおもしろくない、という気もします。

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    ハイデガーの「存在と時間」の中の記述です。 アリストテレスのいう、「類や種は、種差の述語になりえないのに対し、「存在」は、類種はもちろん、種差に対しても述語づけられうる。」 というのはどういう意味ですか?

  • 文節区切りと主語述語

    ・これは私の描いたものだ。 という文があった場合、 「描いたものだ」で1文節ですか。それとも「描いた」と「ものだ」に分かれるのですか。(質問1) また、この文の主語を抜き出すとしたら「これは」、述語は「ものだ」でいいでしょうか。(2) 「私の」や「描いた」は主語述語にはなりませんか。 複文の中の主語と述語であって、立派な主語述語といえるものなのでしょうか。 もう一つ。 「彼をつれてきたことを」 というものがあった場合、文節に区切ると 「彼を つれて きた ことを」 であってるでしょうか。(3) 「つれてきたことを」のあたりが自信ないのですが。 「つれて」と「きた」は補助の関係の連文節で、文節は別々に区切るということはないですよね。 普通に二つの別々の動詞と考えていいですか。(4) よろしくお願いします。

  • 二階述語論理と高階述語論理について

    (1)二階述語論理というものが調べても分からないのですが、一階述語論理の発展形なのでしょうか。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110226389... 具体例を調べても、これぐらいしか出てきませんでした。 例えば、対象aの性質Pについて、一階述語論理だとP(a)と書けますね。 二階述語論理では対象だけでなく述語も量化できるそうですが、すると、P(a)を量化してQ(P(a))といった記述が可能になるのでしょうか。 (2)二階述語論理のさらに上の三階・四階述語論理といったものは存在しないのでしょうか。 (3)高階述語論理と二階述語論理の関係は何でしょうか。 二階述語論理が、高階述語論理の一部なのでしょうか。

  • 外延性動詞と内包性動詞について

    英語の勉強中ですが、外延性動詞と内包性動詞が具体的に分からず、困っています。Wikipediaで、外延と内包という言葉を調べると次のように表示され、概ね意味は理解できるのですが、動詞という言葉とつながりません。 もう少し、具体的に教えて頂ければ助かります。 Wikipediaより抜粋引用>>>> 【外延と内包】 ある概念を類と見たとき、その類に含まれる種のすべてを外延(Extension)、その種に共通な性質を内包(Intension)という。

  • 象は鼻が長い。

    象は鼻が長い。 という文について、昔(35年~40年位前)、小学校の国語で、 「象が」が主語で、「鼻が長い」が述語 述語の中の「鼻が」が主語で「長い」が述語と習った記憶があります。 これに対し、「象は」は主語ではなく、主題という説があり、かなり有力になっています。 中国語の文法で言えば、 名詞述語文 形容詞述語文 動詞述語文 に加えて、主述述語文があります。 名詞述語文 形容詞述語文 動詞述語文 の3つは日本語にもあります。 中国との2000年以上の深い関係を考えると、 日本語にも、 主述述語文 があり、その典型例が、「象は鼻が長い。」となる思います。 これなら、小学校で習った考えと合致します。 にもかかわらず、最近、「象は」は主語ではなく、主題という説が有力になっているのはなぜなんでしょうか?

  • 植物は何故、種を運んでくれる動物がいることを知っているの?

    種を運んでくれる動物が存在することを知っているかのように、植物は甘い果実や服にひっかかる種をつけているように思えますが、「進化」に脳は関係ないのでしょうか。

  • 漢文の白文について

    白文に送り仮名をつける問題をしていてふと疑問が浮かびました。 問 :水流。 答案:水は流る。 というのがテキストの答えです。注訳には「主語+述語」の文構造とかかれていました。 このとき、「水が流る。」ではだめなのだろうかという疑問がでました。 主語と述語の関係ならむしろ主語を作る助詞「が」を使うほうが適切なのではないかと思います。 おそらく「どちらでも大丈夫」というものなのだと思いますが、なにぶんテキストにはそのように書かれていないし、自信が持てません。 どうか教えてください。よろしくお願いします。

  • ハイデガーの「存在それ自体」について

    ハイデガーの『存在と時間』を読んだのですが、 「存在それ自体」というものを追求することに疑問を感じています。 「存在それ自体」というのもやはりカテゴリーにすぎないのではないでしょうか。 以下のような箇所があるのですが、私には理解できません。 三角形は「形」の一種であり、勇気や節制は「徳」の一種です。 そして、現存在も「存在」の一種なのですから、「存在」も類なのでは? 確かに存在が、徳や形よりも探究しにくいものであるのは同意するのですが、類を「それ自体」として追及するとイデア論の二の舞になるのではと思います。 未完に終わった『存在と時間』の存在自体が、「徳それ自体」を追及してアポリアに陥るソクラテスを思わせます。まぁこれは冗談ですが。 <引用開始> 「存在」は、類と種との関係に従って概念的に分節されている存在者全体の、最上位の領域を画定する概念ではない。「また存在は類ではない」。存在の「普遍性」は、あらゆる類的普遍性を「ふみこえる」ものである。(中略)事象的実質をそなえている最上位の類概念は多様であるのに対して、この超越的「普遍者」は一様である。この統一性を、アリストテレスがすでに類比の統一として認識していた。 <引用終了> M・ハイデガー(細谷貞雄訳)『存在と時間(上)』筑摩書房、1994年、29頁

  • センター過去問での質問です

    宜しくお願い致します。 2000年度本試験第4問に於いて Children at about the age of twelve discover that the logic-based strategy is needed to solve the problem. 「12才くらいの子供はこの問題を解くのに論理的な戦略が必要だと気づく」 という文でaboutの語順に就いてですがthe age of about twelveの語順でもいいのでしょうか? つい、数字語に前置したくなってしいまいます。 また、the number of についても同様の疑問があります。 the number of about one hundredよりabout the number of one hundred と言った方がいいのでしょうか? 2001年度追試験第3問Bに One of the most important things to remember when making a public speech in English is the opening. 「公での英語スピーチの際に最も重要な事の一つは始め方である」 という文でwhen以下は節の筈ですよね。どうして主語と述語が存在しないのでしょうか? 複文に於いて、従属節の主語・述語が主節の主語・述語と同じ場合には従属節の主語・述語は省略できると辞書に書いてあったのですがこの文は単文ですよね。 どうしてwhen以下は主語・述語が省略できるのでしょうか? 因みに上記文はwhen (we are) making …openingの省略形かと推測します。

  • 主語はどちらですか?

    中学時代「象は鼻が長い」という文を例に挙げて 主語は「象は」ではなく「鼻が」であると教わりました。 つまり、「象は」長くないので、あくまで述語に対する主語は「鼻が」という説明だったと思います。 その時はそれで納得していたのですが、 あらためて考えてみて、複文節という概念をいれたとき 述部が主述の関係でつながった「鼻が長い」で主語が「象は」と言うことになると思うのです。 となると 1、複文節をという概念入れると入れないでは主語は変化する。 2、「鼻が長い」というのは複文節ではない。 3、主語は「鼻が」ではなく「象は」である 複文節を使うか使わないかで「主語」が変わるというのは、「主語」の位置づけがあまりにあいまいだと思いますし、この文の趣旨からすると「象」が主役で、言いたいことは「鼻が長い」というのが一番すっきりとする答えだと思います。ということで個人的には主語が「鼻が」と教わったのは先生の間違いではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?