• ベストアンサー

他者の喜び悲しみを自分のものとして感じるということでは、状況により、他

他者の喜び悲しみを自分のものとして感じるということでは、状況により、他者を自分として認識することがあると思いますし、常に誰に対してもそのように認識することさえあり得ることではないでしょうか。  では、なぜ、世はその方向へ進まず、逆行するのでしょうか。  それとも逆行しているのは私でしょうか。私は他者の悲しみを大いに喜び、他者の喜びを悲しむことがあります。

noname#116897
noname#116897

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

人それぞれです。多様な考え方こそが世界を破滅から守ります。

noname#116897
質問者

お礼

自由 ですね。わかります。 一方で、極端な思考が極端な兵器と結びつくと守り切れないという不安がこの質問の底にあります。

その他の回答 (8)

回答No.9

 文殊の智恵という処世や世間の知識や判断がでてくると、いろんな作用があるものだと経験します。  つまりいろんな状況を忘れた状況では、人は意外に素直に行動しているし、思っているのではないかと存じます。  それと(或いは上記と同じことかもしれませんが)、自分という存在を忘れる、或いは意識しないときは、人って生来のあり方で考え、言動すると存じます。

noname#116897
質問者

お礼

>自分という存在を忘れる、或いは意識しないときは、  確かに仰るとおりです。自他を扱っているので自分を忘れること即ち他を忘れることとなり質問が成り立たなくなります。しかし、そこが唯一、自他の合一点なのでしょうか。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

○ 人間は本来、「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする。」ように出来ているのです。これは個別であるように見える人の心は、本来自他一体のものだからですね。元は同じで分裂してできたという意味です。 これを否定するものが「嫉妬、疑い、慢心など」ですね。仏教では六大煩悩ともいいますが、これらは人間の性質ではなく「動物」の性質なのです。動物的人間を悪魔といいますが、肉体を持って生きるということは人間が人間と動物の狭間をさ迷うことでもあるということですね。 そこで、動物的思考や行動が起きた時、人間本来の自分が働きかけてくるのですね。それが「逆行してませんか?」という自問自答ですね。人間本来の自分を哲学者は「絶対理性とか純粋理性」とよび宗教家は「仏性、神仏の子」などと呼んでいます。 これがなくなり前向きに「人の喜びを我が悲しみとし、人の悲しみを我が喜びとする。」ようになれば、もう人間(人の心)ではなくなるわけです。人間の姿をした動物、悪魔と呼ばれる存在になるということですね。 このような人間も多いですから何が正しい自分かを常に見つめる姿勢が必要ですね。 日々人であるか動物であるかの選択が人生かもしれませんね。

noname#116897
質問者

お礼

仏教思想 でしょうか。 >人間は本来、「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする。」ように出来ているのです。これは個別であるように見える人の心は、本来自他一体のものだからですね。 おそらくそうなんでしょうね。私も最終的にはそうなるのでないかとイメージしていますが完成はおろか逆行します。 これは世の問題ではなく私の問題なのですね。 現実は単純ではなく、善悪を自分が判断し、他人の判断した善と対立する。どちらが優先かですね。

回答No.7

お金のために働く=他律的動機で動く=他律的社会化へ移行=ヒト型進化からアリ型進化 への移行 すなわち、社会進化が4千年かけて移行しているから。

noname#116897
質問者

お礼

内容は異なりますが、No2の方からも類似の記載を頂いてます。 >アリ型進化 面白い見方ですね。アリ型だと自分と他者の単純化ですから、自他は分離する一方、他の行動はほぼ予想することができる。心など必要がなくなりますかね。 誰もが他者がどう行動するか解ると言う世界ということは、管理しやすい画一化された世界。

noname#156094
noname#156094
回答No.6

人間だからではないですか・・・ 人の不幸は蜜の味・・・と言いつつも、心のどこかで引っ掛かっている・・のが人間でしょう。 状況によって、その人間らしさを試される時があります。 そうした体験を実際に味わった人ほど、人の不幸は蜜の味・・・と口に出すようです(わざとでしょうかね?) 私の友人の体験ですが 仕事に行く途中で、田舎の田んぼ道を車で走っていると 田んぼの中にトラクターが逆さになって仰向けになっているのを見つけたそうです。 あれっ、どうしたのかな、と思って近くまで行ってみると そのトラクターの下から、人の腕が伸びているのが見えたそうです。 急いで駆け寄って、声をかけると、返事が聞こえたので おいっ大丈夫か、しっかりしろ、家はどこなんだ、〇〇〇〇〇〇〇 一人ではどうしようもない状況の中で、とにかく近くの農家へ駆けて行って助けを求めてあげたそうです。 皆なで協力して、別な機械をもってきて引っ張ってトラクターをずらして、何とか下敷きになっていた親父さんを無事に助けることができたそうです。 友達は仕事が待っている事もあったので、すぐにその場を立ち去ってしまったそうですが 困ったのは、助けられた親父さんの方で、お礼をしたくても相手が分からない 命の恩人にお礼をしたくてもできないので困ったそうです。 幸い、一緒にいた人が車のナンバーを覚えていたので、警察に事情を話して調べてもらったそうです。 そうして、友人に電話をして確認してから、お礼に来たそうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 友達いわく・・・ ただ夢中だったよ、それだけだ。 その友人がよく言うのです・・・人の不幸は蜜の味・・と・・・ 人の不幸を喜ぶ心と、そうでない心と 両方の心を知っているから言えるのでしょう。 また、その心の比重の違いは体験してみないと分からないものなのかもしれませんね。 試される時ってありますね。 或いは、常に試されているのかもしれません。 逆行している、と思っているうちは案外大丈夫のような気がします。 ご参考まで。

noname#116897
質問者

お礼

いいお話をありがとうございます。 心がどうあれ行動こそがその人の意志だと思います。 >逆行している、と思っているうちは案外大丈夫のような気がします。 確かにそうですね。逆行していると思っているうちは大丈夫な方向の行動を選択するでしょう。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.5

三つ子の魂百まで とも言うし、肉食をしているのも原因でしょうか。

noname#116897
質問者

お礼

肉食でもあるから脳が発達して人間となったと言う説がありますね。 天敵がいないということも関係するのでしょうけど、人間は協調しあい、そして殺し合うという不思議な種ですね。

回答No.4

知性筆さん。こんばんわ。 >他者の喜び悲しみを自分のものとして感じる :なかなか美しい光景ですね。  と言っている当方も、  つい、こうなっちまうんですが。 まず、 知性筆さんは、「他者(がいる)」というのを、 どのように認識しているのでしょうか。 類似性があって、 だけど「ちがい」があるもの、でしょうか。 >私は他者の悲しみを大いに喜び、  他者の喜びを悲しむことがあります。 :いいんぢゃないですか。  たとえば(古い話になりますが)、  ホリエモン(?)にさんざん文句を言って  エクスタシーを感じている人たちに  「文句言ってるお前らムカつくわ」と思ったり、  オレより先に専務とか常務になったヤツに  「オメデトウ」と「思わずに」、  「なんかあいつムカつくわ」と思ったり、  する、のを、大切に、しても、  いいんぢゃないですか。 喜ぶ【べき】時に喜び、 悲しむ【べき】時に悲しむ、 というのは、 実はとても簡単でラクだと思いませんか。 自分の感受性の世話をしなくて済むから。 過剰な適応であっても、 適応するのは簡単でラクだから。 >では、なぜ、世はその方向へ進まず、  逆行するのでしょうか。 :「オレ」が大事だと分かってきたからかなあ。  特に、オレの「不快」を、  堂々と大事にすることが大事、  だと分かってきたからかなあ。  「不快ぢゃ!」と言い合えることが大事、  と分かってきたからかなあ。   >それとも逆行しているのは私でしょうか。 :「逆行」と名づけても「順行」と名づけても、  どっちでもいいんぢゃないですか。  知性筆さんが選んだらいいんぢゃないですか。  「逆行」だとしても  別にトラブルではないと思いますが。  知性筆さんが納得してるなら。

noname#116897
質問者

お礼

なるがままに。すばらしい知恵ですよね。 他者と言っても結局その他人は自分の中にいます。 現実は、善人が悲しむことを喜び、悪人を応援したりして--- 善がひろがると、悪が牙を剥く。 悪がはびこれば、善が立ち向かう。 そして、自分と他者とは、同じもので善と悪が同居したりする。 それをなるがままとするなら、この同居状態なんです。 この質問を自分側からみると、自分の反射である他者がある状態であろうと自分が判断していることに、 なぜ、自分が素直に反応しないのかですね。 つまり、この人はうれしがっている。私もうれしい なのか くそ頭に来る なのか。 背景や状況によりますが、問題は、善がひろがると、悪が牙を剥く でしょうか-- 最終地点を自分と他者(自分の中の他者)の合一だと思っていることに考えが引っ張られているのかも知れません。

noname#122427
noname#122427
回答No.3

他者の感情・感覚を自分のものとして感知する、と言う事自体が不可能というか、 傲慢と考えた方が良いのではないか?と考えております。 他者のものは決して自分のものにはなり得ないのです。 感知は不可能と思います。 でも、理解しようとすることは可能と思います。 ただし、完全な理解は不可能かと。 理解へ向かって進む事は可能で、その姿勢こそが「理解」なのだと私は考えます。 ただ、、、理解って、主体者が意識して臨むほど、困難で過酷なものです。 意識無く行う理解が理解となり得る場合はとても希少で、 或いは浅い範囲で留まり、誰かの心に力添えできるほどの力を持ち得ないように思います。 お望みの回答にはならないかもしれませんが。。。

noname#116897
質問者

お礼

孤独 ですね。この質問の原点です。 でも、傲慢と知りつつも、そこは既に飛び立っているような気がします。

回答No.2

今や分業化の発達により、産業や経済はグローバル化し、 個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、 そうした社会性の範囲での「利己」は「利他」を包含します (組織の順調な営為こそが、その構成員の最大の利益)。 そこに自己存在の本質に根差した“生きる意志”として求めら れるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命 =助け合うために集まっているものとしては、働くことが 生きることとなる。 しかし今、そうした「人を助ける」=愛のために働いている人が、 どれほどいるだろうか? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)” という虚構の価値であって(他律的社会性)。 本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”である にもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と) それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになって しまっている(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて役に立つ ものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた 紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)。 真の生きる目的たる“人生を通算した精神的充足量の最大化”は、 衝動的な物質的豊かさや虚栄心に置き換えられて希薄化するのみ ならず、その“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北 となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。

noname#116897
質問者

お礼

愛 ですね。わかります。 この質問は「人を助ける」=愛のために働かない傾向にあるのはなぜかです。それは私でしょうか?

関連するQ&A

  • 「他者に勝つ喜び」の実体とは何か?

    「他者に勝つ喜び」の実体とは何か? 我々は、出世競争から、テレビゲームまで、 ありとあらゆる場面で、他者を倒している。 また、それを喜ぶ。(特に男は女を獲得する競争まである) 話を動物の「猿」に投影してみよう。 ボス猿は、たくさんのメスを囲い、弱いオスは 隅で自慰行動しているのが、いい例である。 いったい、この喜びの実体とはどういう物?で、 どう付き合っていくべきなのか?

  • クラシックを演奏する悦びとは?

    プロ、アマチュアを問わず、クラシックの曲を演奏する人に質問です。現代においては、演奏する曲は大昔の天才が創った(自分ではない、他者の)曲であると思いますが、それを演奏している時は代弁行為になっている様に感じます。どんな所に「悦び」を感じておられるのですか?演奏家の人達の「創造的悦び」の在り方を知りたいので、教えて下さい。

  • 自分と 他者を 発見していますか?

    自分と 他者を 発見していますか? いつも目覚めていますか?

  • 他者の宇宙は他者の宇宙があるはずという仮定なのか

    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5744144.htmlにおいて、 存在は、絶対的ではなく、量子的な不確定性に基づいていそうなことは 解ったような気になっています。 多くの人間のそれぞれの宇宙が独立して存在することになるはずが、 自分は他者の宇宙を決して知ることはできないので、 他者にとって他者の宇宙が存在するに違いないという認識も 自分の宇宙の一部以外のなにものでもないと言うことなのでしょうか? はたして私はいったい誰にこの質問をしているのでしょうか?

  • 他者と自分の違い 

    今、大学生男子ですが、 好奇心旺盛な人だと感じました。 ほとんどの人は、語学だの、地理だの、音楽などなどに 関心がない。 知らないことがあっても、調べようともしない。 自分は、どんどん新しいことを学ぼうとしてしまいます。 なので、勉強をしているつもりはまったくありません。 勉強というと少し堅苦しいので、自分としては遊びと言った 方がしっくりきます。 最近、自分と他者の違いに気がついてきました。 下に羅列します。 自分:努力をすることが楽しいし、語学でもスポーツでも 一番をとれるように最大限の努力をしてしまう。 他者:努力はしたくない。しても、そこそこレベルでいい。 適度で十分。義務は果たすが、それ以上は求めない。 自分:好奇心旺盛で何にでも興味を持つ。語学、勉強、 スポーツ、音楽、芸能、パソコン、ITなどなど。 他者:自分が好きなこと以外、特に関心がない。 なんか、すごく悲しいです。 なんで、みんな努力しないんだとか、 なんで、いろいろなことに興味を持たないんだっと。 中学、高校の時は、すごく悩みました。 みんな、勉強したくないとか、努力したくないって言って なぜ俺だけ、それを楽しいと思ってしまうのか? 自分はおかしいのではないか? みんなと同じように、自分も勉強や努力を嫌いにならなければ ならないのかなど。 他者と自分との違いで悩んだ経験はありますか?

  • 《オタク》は 他者性を避けているか

     次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・  このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・  オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。  (III オタクという謎 pp.109-110)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一点 論点のようなものも示します。  ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。  ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?  差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。  この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

  • 他者との関係・自分が分からない

    男性/22歳 はじめまして。ネット上で初めて悩み相談します。人間関係についてです。 私は友達が少ないです。親友と呼べるほど何でも打ち明けられる友人もいません。 交際経験もありません。人と深く関わった経験がありません。 家族との関係は悪くはありませんが、両親を大切に思えません。 人と会話することに問題はなく、話すことも聞くことも好きです。 人からは物腰が柔らかいとか人当たりが良いと言われます。 数年前までは思ったことをすぐ口にする性格で、話し相手の気持ちを考えることはほとんどありませんでした。 いろいろ経験し自分自身が人間関係に悩んでだことで、自分の性格を見直し、相手の気持ちを考えて行動できるようになったと思います。 ですが、新しい人と出会った後、親しくなるということがありません。 いつも出会ってそこで終わりです。 私から食事や遊びの誘いをすることはあっても相手から来ることはありません。 再度会うことがあっても同じことの繰り返しです。 男女問わずこうなんです。 誰も自分に関心がないかのようです。 そして、自分なりにいろいろと問題の原因を探しました。 そもそも自分が、自分の内面に意識が向きすぎなのではないか。 自分でも気がつかないうちに素の自分を隠しているのではないか。 まだまだ他者への思いやりが足りていないのではないか。 などなど、他にもたくさんのことを考えました。 それで誰かと会うたびに自分のふるまいを意識してコントロールするように心がけました。 それでもやっぱり人と親しくなることができません。 どうしても相手とお互いに一歩踏み込めていないように感じられます。 どうしてなんでしょう? 小学校の頃は誰とでも仲良くなれました。 年々歳を重ねていくごとにどんどん自分と他者との溝が広がっていくように感じられます。 正直に言うと、寂しいです。 大げさに思うかもしれませんが、このことで絶望に近いものを感じています。 まさか自分が人との関係でこんなにも困るなんて夢にも思っていませんでした。 なんとなく過ごしていても人との関係が上手くいっていた過去があり、仮に問題が起きても努力や工夫で何とかなるものと思っていました。 なので、あれこれ考えて試行錯誤してみても改善しない現状にだんだんと諦め始めるようになりました。 意識しすぎるがゆえに、目には見えない緊張が感じられているのかもしれないと考え、 あえて自分の好き勝手にふるまってみたり、相手に嫌われてもいいと自分に言い聞かせて人と接したこともありました。 それらも効果が見られず、最近は自分から積極的に行動しなくなりました。 他者を変えることはできないので、自分が変わってもダメならもうどうしようもないと思うようになりました。 ただ、それでもこうやってokwaveで質問しようと思ったのは助けてほしいからです。 いろんな人生があっていろんな生き方があると思いますが、人との関りだけはなくしてはいけないと思っています。苦しいです。切ないです。やりきれないです。自分にも他者にも腹が立ちます。でもやっぱり、誰かと信じ合ってお互いを思い合う関係を築くことを諦めたくないです。 自分を責めることも他者を責めることもやめて信じあえる人間関係を作りたいです。 どうしたらいいか教えてください。

  • 他者に存在する自分の記憶を消し去りたい

    他者に存在する自分の記憶を消し去りたい もう恥ずかしすぎてたまりません。どうすれば救われますか?

  • 過去に他者に裏切られたことから

    他者を信用できなくなり極力、他者と関わらずに自分一人で必死に生きていこうとする生き方をどう思いますか? こんな生き方は、いけませんか?

  • 働くことの喜びってなんでしょうか?

    働くことの喜びってなんでしょうか? 自分は29歳の男性で今は無職です。前職は介護職員でしたが、先輩のパワハラを受け続け、適応障害を患い、就職してわずか2ヶ月で退職しました。以来、様々な老人介護施設に面接を申し込んでも、全て不採用とされてしまいます。これまでで10件を超えます。田舎なので、地元の会社は少ないです。 ある知り合いに、 働く喜びを知れと言われましたが、職場がブラック企業、パワハラを受け続け、面接で不採用され続けた人間に言ったって仕方ないです。こんな劣悪な環境で働く喜びを見出せる人間は絶対にいないと思います。 これらの経緯で働くことが嫌いになり、就職活動に嫌気をさして、現在は在宅ワークで稼いでいますが、それなりに稼いでいます。 みなさんにとって、働く喜びとはなんですか?働く生き甲斐とはなんですか?