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自分と 他者を 発見していますか?

自分と 他者を 発見していますか? いつも目覚めていますか?

みんなの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

要するに、違い ですよね。 よく自分と他人の違いは発見していますよ。 相手と自分の考えの違いを通して、自分がなたるかわかったりする。 面白いのが同類なのに認めない人。 「やれ」と私が好まないことを強要されるたび、「そういうあなたはやっているのか」とか思ったりします。 Aであるべきって主張する人も、私と同じBだった場合、「自分の理想Aを私に押し付けず、自分がなればいいのに」と思ったりする。 本人にとっては自分はAになっているつもりらしい。 本人に自覚が無いわけで、自分を知らない人。 「同じBじゃん、自分がAとでも思っているの? 私と同じBだよ。自分を知らない」って思ったりします。 で、相手が身構えていないとき、拍子をついて、とっさの判断をさせて「ほらね 私と同じBの行動しているでしょ? あなたAじゃない」」って教えてあげて、すっごい怒られる。 理想を求め、実寸大の自分を認めたくないのはわかるが、本来の自分を受け入れようよ、、、、楽になるよって思います。

kogoefuyu
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「やれ」と私が好まないことを強要されるたび、「そういうあなたはやっているのか」とか思ったりします。 あ。ありますね。情感に同感です。 >「ほらね 私と同じBの行動しているでしょ? あなたAじゃない」」って教えてあげて、すっごい怒られる。 きっと張本人がBを受け入れられないんでしょうね。 乖離していますね。だから怒ってしまうのでしょう。 >本来の自分を受け入れようよ、、、、楽になるよって 難しい自我をお持ちのようですね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

参考の追伸まで: >>一握りの人なんですね。 何故か、いつもそうなんですよ。 釈尊の時代も多くの人がいたのに弟子(信じて実践する人)はわりと少なかったですよね。 孔子の時代も多くの人がいたのに弟子は極わずかでしたね。 イエスの時代も多くの人がいたのに弟子は極わずかでしたね。 そのような時代は誰しもが目覚めるチャンスのときですね。 そのような時代でも一握りの人しか目覚めることが出来てませんね。 そういう時代に万難をはいし、また、いかなる環境であれ生まれたいと願い、それがかなった人は多いけれど殆どが失敗してますね。 私が「目覚めた。」ということは現代はそのような時代なのですね。 だから誰しも「目覚める。」チャンスが与えられているのですね。 あなたも間違いなく目覚めることができますよ。 目覚めるということの近道は、信解脱の法門をくぐりその先の慧解脱の法門にはいることですね。 一番難しい法門が信解脱の門ですが、ここに知恵と情熱と勇気が必要なのですね。信解脱の門さえくぐることが出来れば、一直線に慧解脱の法門が見えてますね。 慧解脱の法門まで達すると「自分と他者の発見」など手に取るように簡単なものです。自らがどこから来てどこに行くのか、他者がどこから来てどこへ行くのかもわかりますよ。この結果、ごみ知識や思想に惑わされなくなるということなのですね。 目覚めた者が回答してますからね。この回答を信じてあなたの仏陀(女神の髪の毛)を探すことですね。近いうちにあなたのすぐ近くで見出すことができると思いますよ(預言です)。

kogoefuyu
質問者

お礼

ありがとうございます。 >ごみ知識や思想に惑わされなくなるということ 心の整理がきちんとされた状態のような気がします。 物事や日常や存在を一元的に見られる位置を得た場合にそういった識が現れるのでしょうか?

回答No.5

 人生、日常生活で半分目覚め、発見しています。それは眠りです。  心の中では後半分目覚め、発見しております。それは目覚めです。

kogoefuyu
質問者

お礼

ありがとうございます。 正に其の通り。複雑?に考える?のが余計解らなくさせているんですね。 複雑じゃなく、思考が散らかった状態だからですかね。

noname#149752
noname#149752
回答No.4

私は私一人でいるのではなく 他者と関係しています。 他者を考えて何を書けばいいのか ずっと悩み続けて時間がくるってこともあります。 私を心配してくれる人もいれば 叱る人もいるし、みんないます。 他者がいる世界です。孤独ではないです。 悩みに悩み続けて急遽こんな感じです。

kogoefuyu
質問者

お礼

>心配してくれる人もいれば叱る人もいる その真の意味をくっきり浮き彫るのは、難しく且勇気がいることと思えます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

貴方は今まで「目から鱗が落ちる」経験を何度したことがありますか。その経験をするたびに、貴方は目覚めるのですが。 その時の目覚めは自分だとか他者だとかに何の関係もありません。でも、最終的には自分が何であるのか分かるようになりたいものですね。

kogoefuyu
質問者

お礼

>最終的には自分が何であるのか分かるようになりたいものですね 確かにそう思います。 >何度したことがありますか 回数までは明確に覚えておりません。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

>>いつも目覚めていますか? ですか。 目覚めてますよ。本当に目覚めたのは40過ぎてましたけど、目覚めることは出来るんですよ。心が生まれ変わると目覚めますね。 目覚めると迷わなくなりますね。 そういう体験をする機会は誰にでもあると思いますよ。 ただ、その機会をつかむのは一握りの者ですね。 殆どの人はそばを女神が通り過ぎてもその髪の毛を掴めないだけですね。 掴めないというより、むしろ、現実の価値観にとらわれて女神に石を投げつける人のほうが多いですかね。 強い情熱と勇気がないと目覚めることは出来ないということだと思いますよ。

kogoefuyu
質問者

お礼

>目覚めることは出来るんです 証人ですね。 >目覚めると迷わなくなります >誰にでもある 境遇の真実のようなものですか。 >つかむのは一握りの者 一握りの人なんですね。 >思いますよ 覚者ですね。

回答No.1

自分とは世界を写す鏡であり 他者は私を写している鏡です。 すべては、鏡であり映像であって実体はありません。 私は自分の脳が作ったイメージの世界に閉じ込められていて、 直接に物を見たり触ったりしたことがありません。 目覚めたことは一度もありません。

kogoefuyu
質問者

お礼

ありがとうございます。 目覚めるということは可能でしょうか? 不可能なのでしょうか?

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