• ベストアンサー

戦国武将のたしなみ、男色への疑問

戦国武将のたしなみ、男色への疑問 武士道の古風とかで、珍しくなかったようですね。 謎なのですが、そこには恋愛関係は発生したのですか? 同性愛者でなければ、そんな趣味のたしなみは行えないと考えるのですが。 下剋上防止策と聞きましたが、こじれると余計にややこしいのでは・・。 君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか? それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか?

  • kk71
  • お礼率89% (238/265)
  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数31

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

西鶴の「男色大鑑」および「武家義理物語」を読むと良く分かりますが、武士においては普通の関係で特に否定されるものではなかったとされています。戦国武将では豊臣秀吉のみがその方の趣味がないとされていますので、逆に言えばほとんどの戦国武将にあったことになります。信長と前田利家の関係は有名で、信長死後、利家がその関係で本人の前で話題にされている話が出てきます。また、その方の趣味のない秀吉が美少年を寝所に呼んだので、側近が秀吉様もやっと男色に目覚めたかと話しているうちに美少年が出てきたので首尾を聞くと、その方に姉か妹はいないかと聞かれたと言うのでド側近たちがドン引きしたとの話が伝わっています。 さて、男色は武士だけでなく、商人・農民にもあり、江戸時代には陰間茶屋などと呼ばれた売春宿があり、繁盛していました。また、現在の歌舞伎の原型である若衆歌舞伎は男色(売春)の温床になるとのことで禁止され(男色が否定されたのではなく、売春行為が問題視された)、野郎歌舞伎になった歴史を持っていますし、野郎歌舞伎になっても女形を中心に男色があったとされています。 なお、江戸時代初期の殉死の場合、主君と男色関係にあって出世した者(出頭人)は当然殉死するものと思われており、戦国時代であれば、最後まで主君を守って討ち死にすることが求められることになります。 「君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか?」についてはそれが当然の趣味だったので、部下はドン引きすることはありませんでした。 「それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか? 」日本における男色は女犯を禁じられた僧侶の間で古くから流行したとされており、武将だけの趣味ではありません。一般に戦場に女性を連れて行けないので、武士の間で流行ったとされていますが、前記のようにその他でもあります。 「こじれると余計にややこしいのでは・・」とありますが、こじれて殺人に至ることもありますし、敵方に逃亡されたりすることもあったようですが、男色関係がプラスに働いたことの方が圧倒的に多いようです。 「そこには恋愛関係は発生したのですか?」当然あります。西鶴の「男色大鑑」の中にも、一人の男を取り合った話が出てくるほどです。 男色は衆道、陰間などと呼ばれ武士、商人などの身分を問わず江戸時代には盛行しますが、江戸時代を通じて徐々に下火になり、明治を迎えると変態扱いされるようになっていきます。 以上、参考までに。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 時代とは、常識の変化がすごいのですね。φ(..)

その他の回答 (4)

  • Free20
  • ベストアンサー率20% (25/123)
回答No.5

知っている限りを箇条書きで >そこには恋愛関係は発生したのですか? >こじれると余計にややこしいのでは No.2の方が記されているように、武田信玄が部下に宛てた恋文は有名です。 ですからこじれると、小姓同士が寵愛を競って喧嘩しただの、主君の寵愛が無くなって、 主君の新しい相手やひどい時には主君を殺しただの(痴情のもつれってやつです)、色々あります。 >同性愛者でなければ、そんな趣味のたしなみは行えないと考えるのですが 私たちの感覚ではそうですが、そういう風に教育されていたので、抵抗はなかったのでしょう。 ただ、戦国の世が遠のいて行くにつれ、あまりそういう教育はされなくなったようですが。 >君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか? いえいえ、逆に男色の趣味がなくて、ドン引きされた武将がいますよ。豊臣秀吉です。 彼は、純粋な武家出身ではないため、「衆道」の教育は受けていませんでした。 天下人となってからの逸話ですが、全く男色に興味を示さなかった秀吉が、美少年の小姓のもとに 歩み寄りました。周りは、「とうとう殿下も武士のたしなみを受け入れられたか」と思ったのですが、 後から小姓を問いただすと、「『お前に姉はいるか?』と問われただけです」と答えました。 それを聞いて、他の小姓や部下たちは、ドン引きとはいかないまでも、溜息をついたそうです。 秀吉は無類の女好きと言われていますが、男性には全く興味がなかったようです。 >それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか? 江戸前期頃まではそうだったと考えられます。庶民に広がり始めたきっかけの一つは、 「若衆歌舞伎」(だったかな?)が挙げられます。今で言う、女形のみ(女装)の歌舞伎です。 3代将軍徳川家光も、家督相続前にハマっていたという話があります。 (自らも女装したとかしないとか) ただ、これも時期によっては綱紀粛正のため、禁止されたりします。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほどね~φ(..)

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.4

江戸時代の中心はどこでしたか? 江戸ですよね? 武士の町、江戸では盛んなのは想像に難くない。 ところで、貴方は地方へ行かれたことがあるでしょうか? 中央の流行は時間差で地方で流行るのです。 今はネットですぐに伝わりますが、江戸時代ではかなり時間差で流行ります。 ここで問題です。 倒幕派、明治維新で主導権を握ったのはどこの地方の人ですか? 今、話題の坂本竜馬はどこの人ですか? そこは都会でしたか?

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 戦国時代、京の都より、やっぱ江戸が中心ですか? 長州、薩摩に男色が多いと聞いたような・・・?定かではありませんが。 土佐は知りませんな。

  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.3

漫談です。 男色は江戸時代でも大はやりです。武士は戦場に女を連れて行けない、という考えもあったのと、僧侶が女性と結婚できないという理由で、武士・僧侶の知識層が男色しています。 となると、下々の者もやってみたくなります。花街には必ず、美少年をおいていた陰間茶屋(かげまぢゃや)という専門店がありました。 朝鮮から江戸時代にやってきた使節団を接待した高級官僚(武士)も、なぜ男色にこうも寛大なのか、との質問に「このたしなみを知らないのは、もったいない」と応えています。 明治になっても、男色は珍しくないものでした。陸軍士官学校は開設当時、グラウンドをはさんで陸軍幼年学校と隣り合っていましたが、士官候補生が幼年学校に「稚児狩り(ちごがり)」と称して、男の子を襲いに行くのを止めるよう、度々通達が出ています。また、初期の士官学校・幼年学校では接吻、自慰行為の見せあいなどもあり、これらの風習は男子間のつながりが強い薩摩の人が持ち込んだ風習といわれます。士官学校内では「ショーネン」という隠語があり、これは美少年の下級生を指す言葉でした。 もちろん花街にはこの時代も陰間茶屋がありました。 日本の男色は、事実上アメリカ占領軍がくるまで、珍しくないものだったと言います。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.2

それはですねえ、あの武田信玄が家臣の高坂弾正に送ったラブレターが残っているのですよ。有名な手紙なんですけどね。 「他の男を口説いたのは確かだけど、腹が痛いって断られたんだ。彼とはヤッてないよお。本当だよ本当だからね、このことは大明神様、富士山、八幡様、諏訪神社にも誓うよお」 って内容です。 元々なんで男色が流行ったかというと、戦場に女を連れて行くわけにもいかないですからね。特に大将みたいな立場の人ですとね。おそらく売春婦はいたでしょうから、下々の兵卒はそういう女を買えばよかったでしょうが、将ともなるとそうもいかない。売春婦を装った暗殺者かもしれないですしね。 だから、身の回りの世話をする者が、シモの世話もしたってわけです。もちろんそういうのは若くて可愛い子が選ばれた訳でして。ゆえに、森蘭丸は美少年キャラなわけです。 #1さんも回答するように、江戸時代になると下火になっていきました。おそらく平和な時代になっていつでもどこでも(?)女が手に入るようになったからでしょう。明治時代になると鶏姦罪となんと犯罪になってしまいます。でもここで重要なのは、わざわざ法律で禁止するってことは、禁止しなきゃなんないほど数が多かったってことです。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 授業で教えない日本の歴史は、摩訶不思議ですね( ∀ )

関連するQ&A

  • 戦国武将の男色史の研究

    戦国時代の武将の間では、男色趣味がはやっていたそうですが、 男色趣味を持っていた武将や、そのエピソードをお知りの方、よかったらお教え頂けませんでしょうか。 戦国武将に限らず、男色趣味を持っていた歴史人をお知りの方は、それもお教え頂けるとありがたいです。 例 こんな風に書いて頂けるとありがたいです 能動)織田信長→森蘭丸・前田利家 (受動

  • 戦国武将って相当声が大きかったのですか?

    何万もの兵の大軍を率いる場合、声を張って皆に指示をしていたのでしょうか? 拡声器なんてないのにすごいと思います。 それとも戦国武将が下の武士に伝え、その武士がまた部下に伝え・・・ と伝聞して指示をしていたのでしょうか?

  • 戦国時代~明治初期の日本人奴隷の相場と戦国武将が要求する奴隷免除の身代金の推移について

    戦国時代から明治初期まで 武将が敵国の領地に攻め込んで敵の財産を没収し、自分の田や家その他財産を持つ敵国の農民や武士、領主の家族を奴隷にすることがその当時は戦勝国の当然の権利でその特権をえさに自国の農民から最下層の兵隊を集めていたとありますが、 戦国時代で身代金2貫というのは高いといわれますが、日本の歴史における奴隷免除の身代金の金額の推移や海外に輸出される日本人奴隷の相場の変動を見られるホームページというのはどこかにないのでしょうか。 あったら教えてください。

  • 戦国時代について2

    ちょっと前に「戦国時代について」という質問をした者です。 一度質問すると聞きたいことが増えてきてしまったので、我が侭ながらもう一度質問しようと書き込みました。 今、趣味で戦国時代あたりを舞台としたお話を書こうとしているのですが恥ずかしいことにあまり知識がないため、なにか知っていることがありましたら教えてください。質問は以下の通りです。 ・武将ではない人(例えばお茶屋の娘、女中、農民など)に名字はありますか? ・武将で真ん中に名前がある人がいますが(織田上総介信長など)、あれは武将なら誰でもあるものですか? ・武将の正室、妻になったらその女性の名前は変化しますか?(夫の姓を名乗る、名前が変わるなど) ↑で何かご存知のことがありましたらぜひ教えてください。または、この時代を書くなら知っておいたほうがいい、などのアドバイスがありましたらよろしくお願いします。

  • 戦国時代に詳しい方へ 家康はいつ秀吉を裏切った?

    NHKBSで「独眼竜正宗」を見ています。 さすが大河ドラマNo.1人気作品だけあって面白いです。 家康は秀吉の部下(と言っていいのかどうかわかりませんが)だったのに、 秀吉を裏切って戦いを挑んで勝ちました。 いつごろ、家康は秀吉を裏切ったのでしょうか? いつ、「勝ち目がある」と思ったのでしょうか? その時、どのぐらいの成功率、勝率だと思ったのでしょうか? というか、そんなことを思う方が現代の平和ボケした考え方であって、 あのころの武将、殿様というのは、たとえどんな時、どんな集団であっても 「家臣、部下はいつかは必ず自分を裏切るに違いない」 「家臣が裏切らないように教育するのも武将の努めてあるし、家臣が万一裏切って弓を引いてそれに負けたとしても、恥ずるべきは器量が足りなかった己であって、決して謀反を起こした家臣が”裏切り者、不忠者”というわけではない」 「たとえ今の主君に仕えていても、いつ裏切って謀反をしても決して人の道、武士の道にはずれたことではない。むしを下剋上や謀反を考えない方が武士、武将として誤った生き方である」 という考えの方が正しい考え方であったのでしょうか? もっといえば、徳川幕府300年が続いた時代も、一部の外様大名は「いざとなったら徳川幕府に刃向うつもり」という意識を隠さなかったようですが、それはそれであの時代は「正しい考え方」であったのでしょうか? (現代でもリクルー●社がを辞めた社員がベンチャー企業を立ち上げて、次々と成功していることをリクルー●社が、特段、裏切とか言わないように。あ、ちょっと違うか) 戦国時代に詳しい方教えて下さい。

  • 戦国時代の人々の名前について

    司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。 戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。 たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。 武田信玄は徳栄軒信玄 織田信長は織田上総介信長 明智光秀は明智十兵衛光秀 といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか? ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。 ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか? また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。 小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。 (苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています) (また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います) 苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。 小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。 質問がわかりづらいかも知れませんが、 1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。 2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。 (農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。) 3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。 (農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など) の3つ教えてください。 よろしくお願いします。

  • 秀吉への嫉妬と差別

    戦国時代のことをボーっと考えていて、いくら「下剋上の世界」とは言っても、守護とか、守護代とか、有力国人とか、所詮は「上流の武士・武将の競争の世界」だったのではないか???と考えてしまいました。そして、そんな中で、豊臣秀吉は、どこの馬の骨ともわからない人物でありながら、武士社会の中で、初めて「天下統一」を成し遂げています。晩年の行動は別にしても、目が眩むほどにまばゆい人物だという気がしてきました。それだけに、表題のように、秀吉に対する、他の武士・武将連中からの強烈な「嫉妬と差別」というのがあったのではないかと、ふと疑問に感じたのですが、知識がないので、ただ、想像しただけです。 教えていただきたいのは、4点です。すべてでなくても構いません。 1 「所詮は「上流の武士・武将の競争の世界」のことだったのではないか???」という認識は間違っていますか??? 2 「どこの馬の骨」ともわからない人物で、戦国時代に、のし上がった人物を紹介してください。私のつたない知識では、斎藤道三(2代)なんかも該当するのかもしれませんが。それとか、蜂須賀小六なんかも出世したほうなのかも???明智光秀も、「どこの馬の骨」ともわからない人物に該当するのでしょうか??? 3 私の、「他の武士・武将連中からの強烈な「嫉妬と差別」というのがあったのではないか」という疑問は当たっているでしょうか??? 4 仮に、「嫉妬と差別」があったのとすれば、具体的に、どのような事例があるのか、教えてください。「言い伝え」でも構いません。

  • 武田勝頼と戦国を生き抜く武将の知恵

    「流れをつかむ日本史」(山本博文著)の「武田氏の滅亡」の項(下記)を読んでいて、疑問が生じました。            記  天正8年(1580)、信長は、途中講和をはさんで10年にわたって敵対してきた石山本願寺を屈服させ、畿内全域をほぼ支配下におきました。  次に信長がめざしたのは、甲斐の武田勝頼の攻撃でした。  天正9年3月、勝頼の前線基地だった遠江高天神城が、徳川家康によって落城しました。このため、これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。これを好機とみた信長は、家康と北条氏政に、武田領に攻め込むよう命じ、嫡子の信忠を武田攻めの総大将としました。  南信濃の武田方の城将は、城を捨てて逃げ、あるいは服属していきました。救援のため諏訪に着陣していた勝頼は、新府城に引き返します。このとき、7、8千ほどもいた軍勢が千にも足りないほどに減少していました。遠江では、重臣の穴山信君が裏切って家康に服属しました。勝頼の弟仁科盛信が守備していた高遠城は、徹底抗戦しますが、信忠によって落城します。  勝頼は、天目山を望む田野というところに陣屋を建てて籠もり、滝川一益の軍勢に発見され、周囲の家臣たちが最後の奮戦をする中、切腹して死にます。  戦国大名は、一門や譜代の武将のほか、その地域の武士団である「国人」を家臣団に編成していました。彼らは、主家が傾くと、主君を見限り敵に降ることになります。このときの武田家も同様で、周囲を敵に囲まれ、抵抗できないと思った国人たちが離反し、勝頼が田野に籠もったときには、従う武士がわずか41人に減っていたということです。                             以上 上記の文章で気になったのが、「これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。」ということです。調べてみますと、WIKでは、勝頼にも事情はあったようです。それに、「城中にいた軍監の横田尹松は、援軍を送らないように、とする旨の書状を本国に送っている。」とありますので、勝頼の判断が必ずしも間違っているわけでもないように思います。なのに武田家は滅んでしまった。 教えていただきたいのは2点です。 1 これは勝頼に、「時の流れ」、「地の利」が味方しなかったし、「運がなかった」と理解するしかないのでしょうか???それとも、勝頼に、「国人」たちに裏切られないほかの良い「知恵」、「方法」は、あったでしょうか??? 2 戦国時代の大名が、部下から裏切られない、あるいは裏切られても、それを克服できる「方法」、「知恵」というものがあったら教えてください。具体例でも、一般論でも構いませんし、「克服」ということにもいろいろあるかも知れません。

  • 戦国武将の男色と感染症

    戦国武将の男色で疑問なんですが、アナルセックスの性病で男根やお尻が腐り落ちる等・・・創造するのも恐ろしいケースが多々あると思うんですが何故そうゆう話を聞かないのでしょうか? いくらお風呂や油で身奇麗に整えて儀式したとはいえ、しょせんは400年以上昔、感染症も心配です。

  • 武士の教育

    歴史小説を読んでいて武将や商人達の判断に感服する事が多いのですが、 年齢に関係なく物事を懸命に実行する彼らの心(忠)を鍛えていったのはどのような教育(方法やカリキュラム)だったのでしょうか? 今なら小中大学…などの教育機関で指定教科書を使いますが、 戦国時代、また江戸時代~幕末などはどういった師弟教育が行われたのか、将たる者の胆を練っていったのか…教えていただければ幸いです。 (平時の武士の1日の過ごし方等も教えて頂けると嬉しいです)