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三津七湊(さんしんしちそう)の意味

 室町時代の勘合貿易が盛んだった頃、 三津七湊(さんしんしちそう)と呼ばれる港が栄えたようですが、 津と湊は、どう違うのでしょうか?

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  • jgk99
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回答No.1

 室町時代の「廻船式目」に記されている日本の重要港だそうで、三津は、博多(福岡県)・堺(大阪府)・安濃津(三重県)で、七湊は、三国湊(越前・坂井市・九頭竜川河口)・本吉湊(加賀・白山市・手取川河口)・輪島湊(能登・輪島市(能登半島北西)・河原田川河口)・岩瀬湊(越中・富山市・神通川河口)・土崎湊(秋田湊・出羽・秋田市・雄物川河口)・十三湊(陸奥・五所川原市(津軽半島西)・十三湖(岩木川河口))の七ヶ所だそうです。  なお、明の「武備誌」では博多・安濃津と坊津(鹿児島県薩摩半島西部)が「日本三津」として記されているそうです。津と湊の別は地理・国語・歴史により諸説ありますが、概ね「津は湾などの地形、湊は河口などで船の停泊に便利な所」ですかネ。

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