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土佐藩、武士が立ち上がった理由は

幕末活躍したのは土佐藩の武士だと聞きました。「山ノ内」が土佐に乗り込んできてからというもの、武士のあからさまな階級制度があり、それに憤懣爆発し、ほかの国でみられるようなものではなく、いち早く階級、ということに敏感なおかげで、平等という制度を勝ち取りたかったと聞きます。つまり、山ノ内の政策が非常にわるく、その反動が、国を動かした、ということでしょうか?

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3033)
回答No.1

山ノ内の政策が極めて高圧的であったため、土佐藩士を動かしたという解釈は成り立つと思います。 彼らの受けた差別的階級制度が、土佐藩郷士を動かしたとはいえるでしょう。 ただ直ちに日本を動かしたと表現するのは、行き過ぎかも知れません。 土佐藩士および土佐藩の動きは、維新において重要なファクターの一つです。 ですが最も主体的だったのは薩摩・長州であり、また土佐藩の主体的な部分はその山内侍であったりします。さらにその後自由民権運動を続けた板垣退助なども、山内侍です。

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その他の回答 (4)

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.5

つまり、山ノ内の政策が非常にわるく、その反動が、国を動かした、ということでしょうか? NHKの竜馬伝で、今、土佐の下士を写していますのでみんなそういうふうに考える(笑)、大なり小なり上級下級はどこの藩にもあった話しで、長州にも薩摩にもありました。伊藤博文なんかも相当ひどい生活をしていましたよね。開国と攘夷に割れて権力闘争に明け暮れて、長州が倒幕にうごいたのは、長州藩の関が原以来の怨念でもあったのでしょうし。同じく土佐も中央からの派遣軍の山之内への潜在的な反感を(縁もゆかりもない大名がいきなりやってきてのまま統治なんてことざらなことでしょう。)、地侍達は、われらの主は大君(天皇)であり、主の大意である攘夷を決行することにおいて、臣下たらしめるとのことて゜しょう。その点では山之内も同じ身分ということになる。その状況がペルーの来航から噴出してきたということでしょう。江戸期の武士はうえから下までみんな破産者といえるぐらいの財政状況だったこともちょっと頭にいれておくのは必要なのかもね。

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  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.4

既に述べられている土佐藩の構造が、特異な行動を取らせたとは言えると思います。 山之内の政策は藩を治め始めた時点は当然で、山之内家の出自からは佐幕攘夷と言う方針で、関が原の去就で危機に陥った長州・薩摩藩の様な「勤皇攘夷」に組しなかったのを責めるのは酷でしょう。 武市の様に土佐藩全体を動かそうと言う動きが早々に潰えたため、その後の脱藩者は多かったですが、それでも戦力としての数にはなりえず、結局は藩全体で動いた長州や薩摩に与力としての働きに過ぎませんでした。 「平等」と言う処まで行ったのは、龍馬等ごく僅かであった筈で、イメージ先行の様な気がします。

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回答No.3

ご存知の通り、関が原の戦いによって敗れた長宗我部の部下=下士 長宗我部の後に土佐の国を治めた山内の家臣=上士 です。 改易後から、山内(一豊)は旧長宗我部の部下の扱いに手を焼いて いたようで、相撲大会をやると宣伝し、浜辺に集めたところを、一斉 射撃した歴史もあります。 これからというもの、下士は山内家を敵対し、上士は下士に対して 厳しい身分制度で縛り付けました。 ですので、下士にとっては国(土佐)のために立ち上がる、というより 国を捨てて(脱藩)立ち上がろうとしたのです。 幕末当時の土佐の殿様は、時流に上手く乗ろうとしたため「酔えば勤皇、 覚めれば佐幕」と揶揄されていました。 この殿様を上手く利用したのが、武市端山と中心とした土佐勤皇党で、 時流が勤皇の時は、下士とは思えないほどの待遇を得ていましたが、 長州征伐が始まると、土佐勤皇党は一斉に処刑されました。 土佐勤皇党から離れ、個人で活動してた坂本龍馬や中岡慎太郎などは 長州・薩摩と深い関係を築いて、個人的に知名度を上げていきます。 土佐の国は、土佐勤皇党を処断してから国の方針は佐幕に傾向して いましたが、時流は再び倒幕。 これに焦った土佐藩は、板垣退助や、後藤象二郎を使い、坂本や 中岡の尻馬に乗るかたちで(龍馬や中岡はもはや土佐(国)のために 働いている思いはないのだが)板垣、後藤、坂本、中岡は土佐藩代表 だといわんばかりに、幕末後期に台等してくるわけです。 まとめると。。。 幕末期に活躍した土佐藩士は、厳しい身分制度のため国を捨てる ものが多く、国のためよりも国を変えるために活動した輩が多いです。 土佐勤皇党は、幕末中期までは活動したが、目だった功績は残せず。 長州からは、再三にわたって殿様の山内容堂を倒幕派にして、国を 挙げて統幕の狼煙を上げろ!といわれてましたが、結局叶わず。 土佐の国のために活動したものの、殿様によって処刑。 勤皇党の残党である、坂本や中岡、またそれに従事する土佐藩士 は海援隊や陸援隊に属し、武器の受け渡しなど倒幕に向けて長州や 薩摩に多大な貢献をする。 (歴史的には、こちらの活躍の方が取り上げられるかと) その活動に目を付けた、板垣、後藤などが尻馬に乗っかり、坂本や 中岡が死んだ後、後釜に座り土佐藩の地位と名誉を受ける。 こんなかんじでしょうか。

taka_2008A
質問者

お礼

みなさん、ありがとうございます。 中岡や坂本がその方向に向いていったのは単なる偶然とは思えません。 中岡の努力、坂本の奔放な生き様、それが功をそうしたのでしょうけど、彼らは、やはり土佐であり、長州でも薩摩でも、京都、大阪でもなかった。 抑圧との意見もいただいていますが、単なる、偶然もありうるでしょうか?

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  • phantom1
  • ベストアンサー率24% (184/748)
回答No.2

寧ろ、国論を動かす始動エネルギーになったのは水戸人の国粋主義的攘夷思想でしょう。土佐郷士は、桜田門外の変に匹敵する、国政に直接インパクトを与えるような活動はできませんでした。 土佐勤王党の階級意識から来る反発エネルギーは、上手くいなされて上士(山内侍)に利用されてしまったのだと思います。新政府の重鎮として生き残ったのは、後に下野するとはいえ、結局の所、上士出身の後藤象二郎や板垣退助です。 政治の世界では目立たずに、名より実を取った岩崎弥太郎だけが経済界で成功できたのですが、彼は上士の走狗として活動した故に生き残れたのです。

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    (1)ウィキペディア年表では、 ■「1867年」 8月28日(慶應3年7月29日) 中岡慎太郎が陸援隊を組織 ■「8月28日」 1867年(慶応3年7月29日) - 土佐藩の中岡慎太郎が京都で倒幕浪士軍「陸援隊」を組織。 ■「7月29日 (旧暦)」 慶応3年(グレゴリオ暦1867年8月28日) - 土佐藩の中岡慎太郎が京都で倒幕浪士軍陸援隊を組織 (2)ウィキペディア個別の説明では、 ■「陸援隊」 陸援隊(りくえんたい)は、幕末期の1867年(慶応3年)6月27日、薩土討幕の密約に基づき土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織され、活躍した武力討幕の為の軍隊(浪士隊)である。 ■「中岡慎太郎」 6月27日、かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。 ------- このように陸援隊の設立日は、2種類に分かれています。他のサイトでもウィキペディアに影響されたのか、同様の混乱が見られます。 (1)の1867年8月28日が正しいのでしょうか、それとも、(2)の1867年6月27日が正しいのでしょうか。また、(2)が正しいとすれば、それは、西暦でしょうか、それとも旧暦でしょうか。 よろしくお願いします。