• ベストアンサー

あなたにとっての「偽善」という言葉の定義は?

あなたにとっての「偽善」という言葉の定義は? 私は「偽善」というのは、 「悪意を持ちながら相手に良い印象を与え、  心理的・物理的な利益を得ようとする行為」 だと思っていました。 しかし「悪意はないけれど本人の為になるか怪しい」 など、他にもそう表現されるべきか怪しい状況でも とりあえず偽善と表現されている状況を、よく見かけます。 そこで、あなたにとっての  ・これは偽善だ。と思う事と  ・これを偽善と言うのはおかしいだろ。と思う事 を教えて欲しいです。 結構あいまいなお答えで構いません。 もし思いつくならば、適切な表現も教えて頂けると幸いです。 よろしくお願いします。

noname#202167
noname#202167

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • aymhfgy
  • ベストアンサー率43% (1472/3372)
回答No.5

心が健康な時とそうで無い時には偽善を受け止める感性が違ってくるものと思われます。 それに綿密な意味で完全に偽善の無い人というのはいないように思います。 それでも私が大雑把に言って大きな偽善だと思う言葉は(世の中の人は皆が良い人だ。)というのと(全世界の人を愛せる。)というこのふたつだと思います。 ありえないことで、そう思いたいというのと現実は大きくかけ離れているものだと思うからです。 又、先日、長い間、病気で引き篭もりだった青年が意見を欲しいと質問していました。皆がこの青年のことを考えて回答していると思えたのですが、彼は(皆、偽善的な答えだ)と怒っていました。 このように気持がナーバスになって居る時には人の親切が偽善に感じるものだということがわかりました。 人は結局、本質的に自分を守るように出来ていますので何か人の為にすることを偽善だというように捉えることは深読みしすぎの病的な発想だと思います。 又、自分の良い行いを吹聴すること、自慢すると親切が偽善になりやすいと思います。 興味深いご質問だったと思います。思いつくまま回答に参加させて頂きました>

noname#202167
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 心の健康度合いで偽善の受け止める感性が変わる。確かにそのように思えます。 >世の中の人は皆が良い人だ。 良い人とは言いませんが、悪い人もそうなる環境に居たに過ぎなく思えて なかなか・・。 >気持ちがナーバスになって居る時には なるほど。偶にそういう質問にめぐり合うのもそれなのでしょうか。 >人は結局、本質的に自分を守るように出来ていますので何か人の為に >することを偽善だというように捉えることは深読みしすぎの病的な >発想だと思います。 そうですね。私は普段偽善という言葉は意識しませんが、 結局自分が心配に思うからそうしてるに過ぎない と深く考えずに行動し 利己だと言われればそうしたいから利己だろうと言ってますね。 返答遅れましたが、ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • aiwaeien
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.6

慈善団体とかに寄付してることを示すマークを本に印刷してる 人たちがいますが、私には「半偽善者」に思えます。 寄付するのはいいけど、それをある意味「宣伝行為」に利用してることになるからです。 「私は良い行いをしてますよー!」と宣伝しながら寄付するのは、 宣伝料として寄付金を払ってるようなものですね。 本当の善行は、誰にも知られないように、隠れて助けてあげることですよ。 以前たまたまそういう人を見かけたことがありましたが「神々しく」 みえました。 「いい人に見られたい」ために寄付する人は逆に価値を自ら下げてます。 ★善行を宣伝に利用するのは私は好きじゃない。そんなことより、 コンビニでお弁当でも買って、ホームレスのおじさんにこっそり 上げる人のほうが素晴らしいと思います。

noname#202167
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですねー・・。寄付を広告してるのはよろしくないかもですが それを見た周囲の人が何もしない事への罪悪感を覚え寄付するように という願いが、寄付を促した人側に有ったりしそうにも。 >本当の善行は、誰にも知られないように、隠れて助けてあげることですよ。 そうですねー。 私は本当に相手の為になったのか? そこだけは確認したくて なってなかったら行動を改善するのですが、 それが本来あるべき姿なのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.4

悪意があったらもうそれは善では無いので偽善にすらないらないと思いますね。 偽善は自分のために、善意をすることで、ほとんどの善が偽善になると思いますよ。 やらない善よりもやる偽善の方が遥かに素晴らしいことです。 だから偽善だろうが善になる行動をしていることは素晴らしいと思っていますよ。

noname#202167
質問者

お礼

なるほど。 全てが偽善。私もその答えにたどり着いて開き直ってる感じでしょうか。 ご回答、ありがとうございました。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9772)
回答No.3

私の考え方では (つまり、質問についての考え方は千差万別と言うことになりますよね) 「善」というのは「行使した人間」に対して言われるべき言葉ではなく「受けた人間」がどう感じるか、と言うことなのだと思っています。 ゆえに、私は「偽善」という言葉を話しをするときにほとんど使ったことが無いし、あまり好きな言葉でも無いのです。 私は以前ボランティア(のようなもの)をしていました。 私としては「行動することが善なのだ」と思っていましたから、特定の思想など無くても運動をし、活動参加することは出来ました。 しかしある日、ある障害をもつ方に言われた言葉で、その「スタイル」を疑問に感じ始めました。 ただ一度「回り始めたコマ」みたいなものですから、中途で逆回転出来ないのはわかっていただけると思います。 結局は、いろいろな人や物事がすべて去ってしまった後でしか、考え直しは出来なかったのですね。 ボランティアは参加することを前提にしますが、それは必ずしも対象にとって利益かどうかはわからないんですね。 結局、受ける側にも「心のクッション」が必要で、それはやはり「善」だったりするわけです。 提供する側の行為を「偽善」だ、ニセモノだ、と言ってしまえば、それ即ちそういうことになりますよね。 なんのことはないのです。 「善」は誰の心の中にもあるし、それを「使うか使わないか」認めるか認めないかは「個人の判断や意思」に左右されるわけです。 だから私は「偽善」というのは「ある」とも「ない」とも言えないわけです。 だから私は「善心」に出会った時には「感謝」をします。 自分の行為で感謝してくれる人に対しても「感謝」をします。 誰かが誰かにできることなど、本当にささやかなものでしか無いのです。 真に偉大な事というのは「何かを行うこと」ではなく「何かを受け止めること」にこそ存在します。 少し方向は違いますが、このサイト上でも「エライのは回答者」なのではなくて「質問して、回答を読んで、考える質問者」なのだ、と思っています。 「偽善」を声高に叫ぶことは、本当に、本当に恐ろしいことです。 私にはそれが「軍靴の足音」に聞こえてきます。 ナチスの叫びのように、出征の行進のように聞こえてきます。 「本物」というものが、果たしてこの世に必要なものなのかどうか。 絶対なものである必要はどこにあるのか。 …例え偽物であっても、それを愛する人がいる限り、それは「本物」なのではないでしょうか。

noname#202167
質問者

お礼

>「善」というのは「行使した人間」に対して言われるべき言葉ではなく >「受けた人間」がどう感じるか、と言うことなのだと思っています。 なるほど。確かにそれが現実かもしれません。 私もどうするのが相手の為になるか? その為になら相手に嫌われてでも 意見をしたりもしますが、それで相手が前に進む姿を見ると嬉しいから 常に相手の事を考えて行動しがちになって、偶にそれで反発されても 相手の意見を聞いて自分の落ち度は悔い改めたり そんな感じですね。 相手あってこそ。なるほどです。 >「善」は誰の心の中にもあるし、それを「使うか使わないか」 >認めるか認めないかは「個人の判断や意思」に左右されるわけです。 この手の質問に答えが出ないのは、ここなのでしょうね。 人による と。 >真に偉大な事というのは「何かを行うこと」ではなく >「何かを受け止めること」にこそ存在します。 確かに。 恋愛でも人間関係でも、受け止める容量の大きい人は やはり人として周囲に好かれ、負ではない良い人間関係の循環を 起こしていますよね。 私ももっと懐の大きな人間になりたかったものです; 哲学的なご回答、ありがとうございました。 >「偽善」を声高に叫ぶことは、本当に、本当に恐ろしいことです。 親から子への価値観の遺伝と、社会が持つ負の伝播 (日本で言えば中国韓国への頭ごなしへの否定でしょうか。) 双方が重なった人は非常に危険に思えますが、 人の自我なんて、環境に育てられた仮初の物に過ぎませんからね。 そこまで見ない人にはその人はそうとしか見えない様ですが、 人の性格の根本はそう大差がなくて、経験が全てを作ってる様ですし。 とても興味深いご回答をありがとうございました。 とても参考になりました

  • egg_moon
  • ベストアンサー率48% (248/509)
回答No.2

1です。 ご返答を見て思ったのでもう一言。 偽善の前提には「善行」があります。 企業の社会奉仕活動などは明らかに「自己宣伝」の範疇に入ります。 大きく「偽善」と言うことを考えるとこれもその一部のようにも思われます。 自営業の人がおっしゃったのは「社会貢献」と言うことなのではないでしょうか。 近所の金融機関の職員が毎月日を決めて近所の清掃を行っています。 これは社会貢献として善行と言えるでしょう。 でも、よく見ると普段自分たちが借りている駐車場にゴミが落ちていても拾いもしません。 と言うことはどうなのでしょう。 せっかく行っている社会貢献活動も「企業」としてみれば善行かもしれませんが、それを構成する企業人にとっては偽善でしかないと思わざるを得ません。 ことほど左様に、たった一つの事例をとっても何をして「偽善」と捉えるかは大変難しいことです。

noname#202167
質問者

お礼

社会貢献・・企業と企業人 見方の差。 なるほどですね。 やらない善よりやる偽善 人の印象 気持ちの変化。 背後には色々微妙な人間心理が渦巻いているのでしょうね。 ご回答、ありがとうございました。

  • egg_moon
  • ベストアンサー率48% (248/509)
回答No.1

確定した答えが得られい、また、人の主観によって回答が著しく異なる質問は「アンケートカテゴリー」です。 悪意があるのは偽善でさえないと私は思いますので、質問者の「悪意がある」と言うことには賛同できません。悪意は悪意です。 ・これは偽善だ。と思う事と ・これを偽善と言うのはおかしいだろ。と思う事 こんなものの具体例を挙げていれば切がありませんよ。 ですので普遍的・客観的な回答を ・自分への見返りを期待する ・自己宣伝のため ・「小さな親切大きなお世話」的なおせっかい。 でも、こんなことを言い出すと、世に広く喧伝されているような善行はすべて偽善ってことになりかねませんね。

noname#202167
質問者

お礼

アンケートカテゴリ・・使った事が無く人生相談にしたくて、申し訳ないです。 あと具体例がきりがないのは解るのですが、 哲学的質問より人の生の声がわかると思いこの形にさせて頂きました。 そして、ご回答ありがとうございます。 悪意が有るのは偽善とすら言わないのですね。 そう表現する人がいたので、私はソレが偽善だと思っていましたが、違ったのですね。 >3つのお答え なるほど。3番目のを当てはめれば、大抵の行動は偽善になるのでしょうか。 以前自営業のある人に2番目について偽善だと言った所 その考え方は間違ってるだろうと経済の話をされ 私は2については偽善だと思わない頭に現在なっている様です。 普段意識していない言葉なだけに、人によってかなり、 また私の捉え方にも差が有る事がわかりました。 とても参考になりました。 ご回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • これ偽善だろ‼っと思うこと ありますか?

    これ偽善だろ‼っと思うこと ありますか? 私は24時間テレビです。 毎年誰かが走ってるけど なんの意味があるのか… 偽善の意味をまず調べてみた。 偽善 偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。また、これを行う者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。

  • 「悟り」や「悟る」と言う言葉を心理学的に定義すると

    「悟り」とか「悟る」とか言う言葉を、 心理学的に定義すると、どういった表現になると思いますか? 「悟り」、または「悟る」という言葉を、 具体的で簡単に定義して、教えて頂きたいと思います。 それでは回答、よろしくお願いします。

  • 募金を偽善だと思いますか?

    宜しくおねがいします。 こちらのカテゴリーでいいのか、悩みましたが・・ 以前に言われた事なんですが、私が何かの震災や被害があった時に少しでも募金する話をしたら、ある人から「それは偽善だ」と言われてしまいました。 もし助けたいと思うなら全財産まで投げ出してでもやるべきでは?みたいな事を言っていて、多分自分の生活を確保した上でちょっとだけ募金する行為自体偽善だと言うことを言っているのだと思ったんです。 私は「かわいそう」という言葉が嫌いで、人に対して可哀相と言うこと自体、自分を優位な立場から見てる事で、そういう同情は偽善だと、考えます。 でも募金することは偽善だと考えたことがなかったので、結構衝撃的で、先日もちょっとだけど募金しようと思ったとき、やっぱり「これって偽善なのかな?」とちょっと考えるようになってます。 自分が余分に使えるお金を少しでもと、募金することって偽善だと思いますか? 賛成、反対の色々なご意見を頂けると有り難いです。

  • 『改ざん』という言葉の使い方について

     『改ざん』という言葉からは、悪いイメージがあると思います。 単に、文字や字句を書き換えることと言う意味であれば、『書き換え』で良いと思いますし、『修正』や『訂正』は、良くない点や間違いを正すという意味で使われます。 『改ざん』は、悪意を持って、自分に有利になるように『書き換える』事だと書いています。    であるならば、書き換えることが、自分に有利に働かないのにもかかわらず、また悪意はないにしろ、書き換えることが悪いことだと知りながら『書き換える』行為は、やはり、『改ざん』という表現になるのでしょうか。 正しい表現方法があれば教えてください。 また、『改ざん』と言う表現で良いならば、その理由を教えてください。

  • 言葉の定義についての質問

    こんにちは。 色々な理由から理科3教科を学ぶ事の必要性を感じ、 今までやって来なかった物理を独学で学ぼうと奮闘している者です。 さて、非常に初歩的な質問で申し訳ないのですが、 物理の変位という言葉の定義において出てくる「向き」と「方向」が 良く分かりません。 この二つは何が違うのでしょうか。 自分では勝手に、向きとは変位ベクトルを方向ベクトルとする直線の傾きで、方向はその傾きを持った直線の進む方角の内の一つなのだろうか、 と解釈してしまっていますが、 どうも自信がありません。 どなたか上手に説明出来る方がいらっしゃいましたら、 教えていただけると幸いです。 何卒御教授、よろしくお願い致します。

  • 「定義」、其の言葉の壁

    私達は前提として、意思や思考を直接に他者と交わす事が出来ません。 あくまで言葉のフィルターや身振り手振り等の媒体を通してのみでのコミュニケートしか取れません。 平たく言えば、「人の心は判らない」です。 これは他の動物でも同様で、特に配偶時に顕著に見られますが、配偶の欲求と攻撃・拒絶の恐怖からの一連の行動が「求愛ダンス」として広く知られます。 彼らはそれぞれの生物が、それぞれに一つ(もしくは複数)の定義(一連の行動パターン及び形態)でコミュニケートします。 上手・下手はありますが、パターンは種によって決まっています。 然るに人間はどうでしょう。 別に配偶の問題を提起している訳では無いのですが、プロポーズの言葉一つでもオリジナリティを求めようと、あれこれ模索します。 秘密の暗号や合図まで存在します。 他の生物において、此処まで捏ね繰り回して情報を操作する例はありません。 人間も何かしらの約束事を決めて、そのルールに則りコミュニケートをしていますが、「本心」が其処にあるか、「真実」が其処にあるかは、他人には見えません。(場合によっては本人にすら見えていません) 「定義」と言うモノの、其の足場の脆さを知らずに議論を重ねてる事 時には其の根本になる「定義」そのものを延々と議論し続ける事 何故に「定義」が其処まで重要になってしまっているかと言う事 言葉に『真理』を載せる事が叶わない理由が此処にあります

  • 嫌いな言葉

    マスコミがたまに使う言葉 言い方で 周囲に印象づけました という表現が大嫌いです。 例えば ある男性が人前で犬を可愛がったとします、彼は純粋に犬が好きなので犬の頭をヨシヨシと撫でました。 するとニュースでは 彼は自分は犬好きだという事を周囲に印象づけました と報道します。 なんかこの言い方 ムカつきませんか? なんで素直に彼は犬が好きなんですねって言わないんだろう? 犬好きだと周囲に印象づけました なんて言ったら まるであたかも本当は犬は好きじゃないのに周囲に優しい人間だと思わせる為にわざとやったみたいに感じる。 こういうところにマスコミの悪意や人間の汚さを感じます。 皆様はどう思われますか?

  • 「暴力」の定義

    最近「暴力」の定義は変わったのでしょうか?  最近はちょっとしたことでも過敏に「暴力」だと騒ぎすぎていると、自分は思っているのですが。  無論やりすぎのケースもあると思いますが、親が物理的方法でしつけると「虐待」、教師が生徒を物理的方法で注意すると「体罰」。  このままエスカレートしていくと、部活動とかが成り立たなくなる世の中になるのではないかと思っております。 昔の有名なアニメでこういうシーンがありました。 「2度もぶった。親父にも殴られたことないのに!」 「殴られもせずに一人前になれるか!」  おそらく製作者側は殴られた主人公の甘え、軟弱性、一人前になる厳しさを表すためにこのシーンを作ったのだと思います。しかし現代では親に何もされずに甘やかされて育っているのが当たり前になっていて、実際自分が他人にこういった状況で殴られたら、「暴力」を受けたとして、殴った本人に文句を言うのではなく、ほかのところに訴える方法をとるのではないかと思います。  確かに、殴るなどの物理的手段をとらずに子供を導くことができるのが理想でしょう。しかしあくまで理想だと思います。 改めて聞きます。 「暴力」の定義は変わったのでしょうか?         また 「暴力」に関して、現代の風潮と昔の風潮はどちらが望ましいと思いますか? さまざまな意見が聞けると幸いです。

  • 定義はどこまで可能ですか?

    初歩的な質問です。 科学全般に言えることですが、哲学的思考は言葉を定義できないと正確な議論ができません。 辞書をパラパラひも解くと、 【定義】ある概念の内包を構成する諸属性のうち、本質的な属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 とあります。 では、とまた見ると、 【概念】事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容 【属性】それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質 【本質】存在者の何であるかを規定するもの これを一部乱暴に置き換えると、 【定義とは】「ある事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容」の内包を構成する諸々の「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質」のうち存在者の何であるかを規定するものの属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 分かりやすいような呪文のような言葉になります。 さらにこの文章を緻密に「定義」していくと、さらにエンドレスです。 さらに「真理」だの「永遠」だの「存在」だのを定義しても同じようなジレンマに陥ると思います。 と言う事は、定義は重要でありつつも、どこかで「まあ、だいたいこう意味だと。」と妥協しないと、いつまで経っても肝心の思考が始まらず、言葉の定義作業だけで終わってしまいます。 とどのつまり、哲学にとって定義とは何なのでしょうか? 。

  • いじめ反対の偽善者に反吐が出る

    いじめ反対!とか言う偽善者はアホだと思います。 職員室で先生どうしいじめをしてるくせに棚上げですか、大人のくせにいじめありますが棚上げですか。 人を傷つけたことが一度たりたもない人 、悪意ある行動した事が一度たりともない人、目の前のいじめすべてに介入して解決した人。このすべてを満たす人以外から言われても、偽善の言葉にしか思えません。 自分だってどこかで誰かにいじめられたと思われてるかもしれない。傷つけたかもしれない。気づいてないだけかもしれない。 醜いくせに周りに綺麗であることを求めるわがままであると思います。 そんな奴らだから、口先ばっかり、見て見ぬふりなどでいじめを止めることもできず犬死するんじゃないですか? そして、後から加害者をよって集って袋叩き。それだって醜いですよ。人として尊敬できないです。 馬鹿みたいです。 そんな奴らが私は嫌いです。