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「暴力」の定義

最近「暴力」の定義は変わったのでしょうか?  最近はちょっとしたことでも過敏に「暴力」だと騒ぎすぎていると、自分は思っているのですが。  無論やりすぎのケースもあると思いますが、親が物理的方法でしつけると「虐待」、教師が生徒を物理的方法で注意すると「体罰」。  このままエスカレートしていくと、部活動とかが成り立たなくなる世の中になるのではないかと思っております。 昔の有名なアニメでこういうシーンがありました。 「2度もぶった。親父にも殴られたことないのに!」 「殴られもせずに一人前になれるか!」  おそらく製作者側は殴られた主人公の甘え、軟弱性、一人前になる厳しさを表すためにこのシーンを作ったのだと思います。しかし現代では親に何もされずに甘やかされて育っているのが当たり前になっていて、実際自分が他人にこういった状況で殴られたら、「暴力」を受けたとして、殴った本人に文句を言うのではなく、ほかのところに訴える方法をとるのではないかと思います。  確かに、殴るなどの物理的手段をとらずに子供を導くことができるのが理想でしょう。しかしあくまで理想だと思います。 改めて聞きます。 「暴力」の定義は変わったのでしょうか?         また 「暴力」に関して、現代の風潮と昔の風潮はどちらが望ましいと思いますか? さまざまな意見が聞けると幸いです。

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noname#20467
noname#20467
回答No.7

>「暴力」の定義は変わったのでしょうか?          代わってきていると思います。どう代わったかについては1と2の方の言うとおりです。教育的暴力というのも基本的に否定するようになりました。基本的というのは、必然性が見えない暴力は否定されるということです。そして、ほとんどの場合、必然性など見えないという認識に学校教育などはなっていると思います。 殴られて痛さを知る、思いやりを知るという教育理念?に対しては、思いやりをそんなことをして育てなくても育つというわけです。暴力否定派は、世間が教育的効果として認める暴力にかりに一定の効果があるにしても、その必然性がないと主張しています。かえって弊害があるとしているので、否定します。でも、命に関わる問題など、若干の例外をもうける人もおりますが。 とにかく、暴力の必然性をどう理解するかで、意見が分かれますし、「場所によっては」変わってきてはおりますね。 でも、それって学校など特定の場所だけで、世間的にはさほど変わっていないというが私の感覚です。だって、この手のアンケートを以前にも見ていますが、圧倒的多数で容認・もしくは肯定的に暴力を含むしつけ (体罰と呼んでいます)を認めるのが多数派だからです。暴力か教育による体罰かの分かれ目は、世間の多数派にとって、教育する側の視点によって定義されています。そして、暴力は否定しても、体罰は容認している人が圧倒的多数です。この意味では、暴力の完全否定派はごく一部なのです。質問者さんが憂えるような状況は学校など苦情の入る場面・教育理念の先行する場面で、社会的には少数派です。 >「暴力」に関して、現代の風潮と昔の風潮はどちらが望ましいと思いますか? 難しいですね。 すくなくとも、次のことを明らかにしてから結論したいです。 1,「他人に殴られて、人の痛みを知る」という体罰(暴力)肯定派のいうデータの事実がどこまであるのか知りたいです。現在、加減を知らないで殴る若者が増えているとして、彼等が幼少時に殴られないで育ったものが多いというデータがありますか? ないのであれば、個々の親の判断だけが頼りだと思います。 2,青少年期に少年院などに来る子供達の、生育環境などはある程度調べられていると思いますが、甘やかされて育った子がどの程度いるか、調べる必要があります。反対に、親に「不当に」殴られて育つなどの環境劣悪な子の割合の調査もいります。ただ、この点に関しては、親に不当に殴られて育った子が多いと思います。暴力的家庭における暴力の連鎖ですね。DV家庭の夫も大抵、子供時代にはしつけと称して、激しい暴力を受けています。暴力を受けたか受けないかだけではなく、どのような方針の教育を受けたか、細かい追跡が欲しいです。そして、全体のうちの何割が体罰を受けないこと(=甘やかされた?)による弊害と思われるか、逆に体罰が行きすぎてしまってぐれてしまったなどの弊害か、調べた上で、教育理念を出していくべきだと思います。 3,2にある甘やかされた家庭の、「その他の」場面における教育方針に特に注目する必要があります。殴らないということと、甘やかしとは本来はイコールではありません。しつけや教育をしたか?ですね。教育放棄になっている場合が有れば、それは体罰を受けなかったこととは何の関係もありません。逆に言えば、殴って育てたこと「それ自体」が教育に役に立ったのか?という問いに対する答えでもあります。殴っても殴らなくても、愛情と厳しさを教える家庭の子供はちゃんと育った可能性が大いにあるわけです。これは必然性を明らかにするためでもあります。 最低このくらいは明らかにならないと「公的」な見解としては出せないと思います。 私個人の考えとしては、ちょっと殴った方がいいのじゃないか?ってくらいしつけが出来ていない家の親に限って殴られると血相を変えて苦情を言いに来ます。身勝手な方向に解釈しているのでしょうね。勝手を助長する論理ではないので、これは弊害かなとは思います。 反対にそんなに厳しくしなくても普通にやさしく言えばいいのにという家は割と体罰もふるいます。 昔より今の子が、思いやりが少ないという事実があるとしてそれが体罰を受けていないことによるものかどうか断言するにはあまりにも多くの要素が変化しすぎシマした。核家族になったこと・共同体社会の崩壊・その他社会環境の変化など。これらの要素を除いて、暴力問題だけで今の子供達が思いやりがたりないのは殴り合ってないからだとするのは、あまりにも一方的な論断になると思います。ただ、喧嘩(子供同士で、たたき合うことも含めて。ただしたたき合うことが必然と考えるのは早計。どもみちたたき合うことあるし、その部分にどう向き合うかも解決能力を磨くと思います)は交渉能力の一端を磨くものとはなると思います。

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質問者

お礼

詳細な回答ありがとうございます。 >でも、それって学校など特定の場所だけで、世間的にはさほど変わっていないというが私の感覚です  確かに世間としてはそれほど変わっていないのかもしれません。しかし教育の中心の場である学校だけでも十分に影響があると思います。  といっても確かに回答者様のおっしゃるとおり、今の変化する時代「暴力」だけにしぼってデータを取るのは不可能のようですね。適度な物理的方法のレベルがはっきりと分からない限りは結局甘やかされたために曲がってしまったのか、逆に体罰を受けすぎてしまったがために曲がってしまったのかを判別するのは難しいのでしょうね。

その他の回答 (9)

noname#20467
noname#20467
回答No.10

7/9です。 戸塚ヨットスクールというのがありますね。殺傷に及んでしまったことはどうみても認められませんが、方針自体には支持者がたくさんいます。たしか、都知事は後援会代表だとか。父権がどうのという支持理由はよくわかりませんが^^ あそこに来る子供達は、もうたたかないと直らないというのもそれなりに説得力があります。 しかしあんなところまで行ってしまった原因が、そもそもどこにあるのか?ということも考えなくてはいけません。「たたいて直った」というその部分だけの効果ではなんとも言えません。さんざん放置しておいて、どうにもならないので放り込んだという人も中にはいるかもしれません。 でも、それでも体罰の完全否定派がごく少数で、一定の効用を世間が認めるのは、直ったという事実そのものはあるからなのでしょう。理念としては殴るのは良くない、しかしそれ以外の方法がつきてしまった。直してくれたのは、ヨットスクールだけ。という場合にこれを支持する人がいるのは分かります。 卒業生でも、感謝している人が現にいるそうですね。もちろんそうでない人も、どの程度か知りませんが、いると思います。また死んでしまったのはあきらかに行きすぎです。 ただこれは私設の刑務所に近いですから、普通の家庭にこの論理をそのまま持ち込むことはできないとは思いますけどね。

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質問者

お礼

3回も回答ありがとうございます。  ありましたね。戸塚ヨットスクール。たしかに更正施設の体罰について考えるには最適のケースかもしれませんね。 >ただこれは私設の刑務所に近いですから、普通の家庭にこの論理をそのまま持ち込むことはできないとは思いますけどね  確かに普通の家庭には持ち込めませんね。実際には自由に出られないという時点でも、結構更正効果はあると思います。質問者様のおっしゃるとおりある意味刑務所ですからね。本当は刑務所に入ってしまう前に親が何とかしなければならないのですが。

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質問者

補足

皆様、さまざまな意見ありがとうございました。そろそろ締め切ろうと思います。  やはりとてもデリケートな問題なので、正確な答えは今の時点では出せないと思います。  今の時代、痛みを知らぬゆえに子供が他人の迷惑・痛みを理解しない行為もしくは最悪親が厳しすぎたために親を排除しようとする行為は人事ではないように思えます。  自分は未婚ですが、将来少なくとも自分の子供に関しては、自分の経験・皆様の回答も参考にして、自分なりの答えを出した上で、的確に教育していこうと決意しております。

noname#20467
noname#20467
回答No.9

7です。 教育界がうるさい?のは、苦情とか責任が来る分野ですし、そういうことも実際あるのでしょうが、外国の流れ(欧米)と歩調を合わせているという部分もあるのでしょうね。 http://www.aba.ne.jp/~sugita/181j.htm (音が出ます) http://www.aba.ne.jp/~sugita/3genjyou.html (これも音が出ます) 上はアメリカの体罰状況だそうです。これによると、アメリカの半分以上は体罰禁止になっていますし、容認の州でも、昔のものよりはかなり軽減されていると思います。アメリカは、暴力の問題が社会問題として日本の比ではなくありますから、過敏なのでしょうね。体罰と虐待問題とは本来違いますが、アメリカでは隣り合わせとして認識しないといけないくらいの状況になっているのかもしれません。 あとは7でも少し触れましたDVなどの暴力的嗜好を持つ人の家庭環境追跡による活動などもあるでしょうね(ていうかあります)。 昔のイギリスでしったっけ?は、テレビ映画などでみると、ムチなんかもって、先生はものすごく怖かったんですけどねぇ(汗)。ただイギリスは今でも体罰容認の方向らしいですね。 日本の寺子屋の方がそういう意味では甘そうですね。今は、欧米では事情が事情で体罰禁止の方向かも知れませんが。それもあるのでしょう。 暴力禁止の理由は、マイナス面からの理由だけではなくてきっとそれに変わる教育理念もあるのはあるのでしょうね。現実効果がどこまであるのかは実験中というのが実情だとは思いますけどね。個々の事例では成果や実例があることでも、一般化できるほどの蓄積はまだないと思います。その意味では、質問者様のご覧になられた実例が体罰の問題として一般化できるかも分かりません。仮に一般化がなされたとしても、子供の個性は当然別にあるので、あくまでも一般論であることもまたそうなのでしょうね。

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質問者

お礼

 世界の体罰のデータありがとうございます。世界でも色々変わってきているようですね。アメリカで南部・北部で体罰容認・禁止が大体分かれているのは、やはり歴史的・人種的経緯でしょうか。ミシシッピーの例なんかはさすがにひどいですね。黒人差別がひどかったもしくは今でもひどいこの地域のことですから、クビになるのに何か裏があるんじゃないかと邪推してしまいますね。  結局一番目の資料の最後のコメントが結局答えかもしれませんね。あいまいなままで残してはいけないということですね。  しかしこういったことはあくまで事象研究ですから、実験室などで要素を統一して実験的に研究することが倫理的にできないだけに、ある程度のあいまいさはずっと消えないのでしょうね。 >個々の事例では成果や実例があることでも、一般化できるほどの蓄積はまだないと思います  結局は事象のデータが足りない今の現状では親・教師の采配次第になるのでしょうか。そのためには親・教師が協力してその采配を調節しあいなければならないのでしょうが、現代ちょっとおかしいことになってますね。  またその調節ができなければ質問者様がおっしゃったとおり暴力禁止に変わる教育理念が必要だと思うのですが、これに関しても親と教師の協力が必要でしょうね。

  • meron006
  • ベストアンサー率12% (4/33)
回答No.8

「風潮」が変わったとお考えなのでしょう。 であれば 「定義」についても YES とお考えかと思います。 No.6 さんへの質問者さんの書き込み「回答へのお礼」欄について >暴走族抜け出せなかったから暴力団 みたいな感じだと >少なくとも振り込み詐欺で年寄りをだます奴等には。 これに関してのデータはありませんし 振り込め詐欺犯と暴走族の関連性も確たる根拠がありませんよね。 おそらく質問者さんには質問者さんの確固とした考えがあるのでしょうね。 某アニメの主人公は確か兵器の操縦者だったかと思いますが(笑)力の論理の脆弱性を示した名作であったと思っています。 暴力は弱いものです。それより選挙の宣伝戦略などの方が余程こわいですよ。

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質問者

お礼

>暴走族抜け出せなかったから暴力団  確かにみんながそうではないでしょうね。ただ悲しいことですが、身近に実例があったもので。 >少なくとも振り込み詐欺で年寄りをだます奴等には  こういったイリーガルな方法はまず彼らが関わっていると考えていいと思います。 >暴力は弱いものです。それより選挙の宣伝戦略などの方が余程こわいですよ  新しい意見で興味深いですね。どういう意味なのか詳しく聞いてみたいですね。

  • tempurel
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回答No.6

まあ思うに 昔=タテ社会、ですけど別に暴力で教育が上手くいってたみたいな 時代は今まで一度もないです。さも上手くいってる様に見えていただけなのです。(閉鎖的にそう感じざるを得なかった) 何で暴力団やヤクザ等の集団がそんなに減らないか? 殴っても掬い取れなかった子供達が次々に補充されるからです 何か社会が悪い→教育だ→子供を殴らなくなったからだ みたいな生贄を探すシリーズは自分に還元されない 自分が何故それを駄目だと思うのかみたいな どうしたいのか、みたいに考えさせられます

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質問者

お礼

>昔=タテ社会、ですけど別に暴力で教育が上手くいってたみたいな 時代は今まで一度もないです。さも上手くいってる様に見えていただけなのです なるほど、そういう考えもありますね。 >何で暴力団やヤクザ等の集団がそんなに減らないか?殴っても掬い取れなかった子供達が次々に補充されるからです  これに関してはどうでしょうか。ある程度の体罰が当たり前だった昔はそうかもしれません。どうしても変えてやることができなかったみたいな。しかし現代では 暴走族抜け出せなかったから暴力団 みたいな感じだとおそらく彼らは親・教師に殴られて育ったとは思えないんですよ。少なくともサシの喧嘩はしたことないでしょう。おそらく集団で一般人を攻めて自分たちは痛い目をみずに、相手だけを痛い目に遭わす奴等でしょう。最近のカタギに迷惑をかけることしか能がなくなった奴等が痛みを知っているとは到底思えないんですよ。少なくとも振り込み詐欺で年寄りをだます奴等には。書いてて思い出しましたが、子供たちだけでなく、奴等も相当変わってしまいましたね。暴力の定義の変化と関係あるかどうかは分かりませんが。

  • daidou
  • ベストアンサー率29% (491/1687)
回答No.5

行為としての「暴力」は変わりようのないものです。 ただ、その正当性を許容できるか? 許容するしたらどこまでか? という線引きが変わっていているのだと思います。 現在はいかなる暴力も許容してはならない。という風潮のようです。 個人的な見解ですが、 先生に拳骨でゴツンとやられる、 親に尻を叩かれる 子供同士の取っ組み合いの喧嘩 この程度の事は人間の成長過程で必要な事ではないかと思います。 自分が殴られて初めて殴られた痛みがわかります。 ある程度叩かれる痛みを知っていないと、弱いものに手を上げてはいけないということが判らなくなります。 いくら言葉で説明しても、実際に経験しなければ本当の意味で理解したとはいえません。 暴力はナゼいけないのか? 精神的にゆがむとか、人間性がどうとか・・・? そんな事ではないでしょう 単純に「痛いから」です。 相手も痛いし、自分だって痛い。痛いからダメなんですよ。暴力は。 殴られた経験の乏しい人には、こんな単純な事すら理解できません。 最近、暴力に歯止めが利かない人間が増えてきているのは、子供のころに殴られた経験のない人が増えているからではないのだろうか? などとも思えてしまいます。

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質問者

お礼

>行為としての「暴力」は変わりようのないものです。ただ、その正当性を許容できるか?許容するしたらどこまでか?という線引きが変わっていているのだと思います  この線引きが正しく社会に浸透すれば、また違った未来になると思います。(データがないのではっきりこうなるとは分かりませんが) >現在はいかなる暴力も許容してはならない。という風潮のようです いつから、なぜこうなったのでしょう。現代の親や教師の物理的方法はまあ想像できますが(ほとんどなにもできない)、子供同士の喧嘩って現代どうなっているのでしょうか。  若者同士の喧嘩になるかは分かりませんが、こういう実体験があります。あるとき悪徳業者が家に来て色々問答になったのですが、彼らはひたすら挑発してきてこっちに手を出させようとしているのです。おそらく手を出したら小学校の子供と同じ方法をとるのでしょう。直接の相手ではなく、別のところ(小学生なら親)に訴えるといった方法です。  やはりバックグラウンドを何も考慮に入れないで、手を出したほうが一方的に悪いというのはおかしいと思います。 >相手も痛いし、自分だって痛い。痛いからダメなんですよ。暴力は。殴られた経験の乏しい人には、こんな単純な事すら理解できません  やはり子供が他の子供を、自分勝手な理由で、傷つけたときは、何らかの痛みを持ってその行為を諌めないと理解できないと自分も思います。

回答No.4

世間では騒がれてますね。しかし自分は現在の風潮には首をかしげます。確かに鬱憤を晴らす為、己がスッキリしたいが為の暴力には断固、反対ですが。 学校で「体罰だ」と騒ぐガキは家でも殴られず、頭をなでられて教育されている場合が多い気がします。店内で走りまわり、明らかに迷惑な状態でも叱らない親御さんも、昔に比べて多くなった気がします。いけない事をしても、後の説教が苦にならない為、また同じ様に騒ぎ出す=教育になっていない....このように考えてしまいます(そうじゃない子もいます)。全く、ヘタレな世の中だ、と。「こんな事で世間にもまれて育っていけるのだろうか」と不安になりますね。そもそも現代の子供、可愛いと思えませんし。変に利口というか、生意気な口調が。無邪気さが無くなる平均年齢が下がってて。 「昔の風潮万歳!」といったところです。

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質問者

お礼

>確かに鬱憤を晴らす為、己がスッキリしたいが為の暴力には断固、反対ですが  確かにこれはいけませんね。当然暴力だけでなく、暴言なども含めて、己のために怒るというのは自分も断固反対です。 >学校で「体罰だ」と騒ぐガキは家でも殴られず、頭をなでられて教育されている場合が多い気がします。店内で走りまわり、明らかに迷惑な状態でも叱らない親御さんも、昔に比べて多くなった気がします  子供は柔軟な存在ですから、変わる原因は身近な大人である親にあるというのは、やはり自分もそう思ってます。となるとこの問題はなぜ大人・親が怒れなくなったかになります。そうなるとさらにひとつ上の世代まで問題が繰り上がるのでしょうね。しかしそこまでいくとさすがにこういった状況だったと特定することは難しくなるでしょうね。 >こんな事で世間にもまれて育っていけるのだろうか」と不安になりますね  恐ろしい話ですが、こういった世代が多数派になれば今とは逆の意味で世間に適応できているのかもしれません。 >そもそも現代の子供、可愛いと思えませんし。変に利口というか、生意気な口調が。無邪気さが無くなる平均年齢が下がってて  万引きした小学生が体で払うからという返答をしたという話を聞いたときはさすがに愕然としましたね。もちろんこの例は暴力とは関係ないかもしれません、しかし今の子供のごく一部分とはいえ、こういった状況も起こっているというのはまさに無邪気さがなくなる平均年齢が下がっているといえると思います。無邪気とは決して思うがまま行動してもいいといった意味ではないと思います。

回答No.3

私は中学時代、なにかあると教師にぼこぼこにされてました。しかしその時はむかつきましたが、よくよく考えて見ると殴られて当然のことをしたので、恨みには思いませんでした。 私観ですが、中学生くらいまでは子供なんて動物と同じですから殴られないとわからないことが多いです。 その本人だけでなく周りの子供の権利や安全を守るために悪いことをした子供は殴ってでもわからせるべきです。子供は大人をよく見ていますから殴られないとわかると調子に乗ってどんどん悪いことをします。 刑罰と同じで重くすれば抑止力が高まるのと同じで体罰は誰がなんと言おうと絶対必要です。 こういうと人権バカが目の色変えてかかってきそうですけど。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。今までとは逆の意見ですね。 >こういうと人権バカが目の色変えてかかってきそうですけど  人権まで絡むと範囲が広がり、ややこしいことになりそうですが、結局短期的か長期的かどちらで考えるかになりますかね。  短期的に考えたら、他人を殴られるというのは人権を侵害されたといえるでしょう。しかし長期的に考えたら、正しい理由で殴られるときは、基本的に他人に迷惑をかけた、つまり他人の人権を侵害した状況でしょう。殴られることで悪いことを理解できたのなら、2度とその悪いことはしなくなる。他人の人権侵害の増加を防げるということになると思います。  回答者様のように中学生のときぼこぼこにされ、そのとき恨んでも、今になって思えば自分が悪かったと悟れるのなら、少なくとも次の時代にかつて自分がしたことはやってはいけない悪いことだということを伝えていけると思います。    法律などに明記されてなくても悪いことは無数にありますが、万が一これは怖いことですが、ある時代で先の時代に悪かったことが誰も注意されなかった、もしくは軽い注意のため子供がそれが本当に悪いことだと理解できなかったとしたら、次の時代にはそれが当たり前、特に悪いことではないということになる可能性もあるのではと思います。 >子供は大人をよく見ていますから殴られないとわかると調子に乗ってどんどん悪いことをします  特に問題と自分が思っているのが、教師にしかられる子供を親がかばうときでしょう。もちろん著しく適正レベル(適正レベルに関しては色々意見があると思います、自分は多少の物理的手段は適正レベルと考えています)を超えた体罰に対して、親がかばうのは当然ですが、ちょっとしたことでも親がかばってしまうと、子供はどうせ悪いことをして、教師に怒られても親が逆に教師を怒ってくれると考えたら怖いと思います。

  • Forseti
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回答No.2

>「2度もぶった。親父にも殴られたことないのに!」 >「殴られもせずに一人前になれるか!」 これの続編を見ましたか?殴る行為は”修正”といって、軍隊での教育となっています。 修正された後、従順に戦闘に参加する姿を見て、「修正した甲斐があった」と言うんです。 この行為には1ミリグラムだって、一人前になる厳しさを教える意図はありません。 あるのは暴力による服従を求めることのみですよ。 結局、暴力による教育は、鞭で叩きながら動物を調教する行為となんら変わりません。 本能で生きる動物には恐怖が一番。知性の乏しい子供を修正するにも暴力が一番、ですか・・・。 私だって昔は、学校のクラブでは拳骨と鉄拳制裁、家庭では無言で飛来する灰皿の中で育ちました。 しかし、部活動ではそういった暴力が出る場面なんて3年間で一度きりだったし、 しかもそれを実行するのが、強面の生活指導の先生でした。生活指導なら鉄拳の頻度が多いはずなのに一度きりですよ。 部活での指導は練習によって行われるべき、そう考えてか水着で校庭を走らされた事もありましたが。 また私の恩師である女教師は、たった一度ファイルで頭をはたいたことがあるだけで、 他は全て、理と論を持って私たちを教育していました。 1時間目に怒るとお昼になろうが放課後になろうが、週末に怒れば月曜日だろうが、私たちが理解するまで絶対に引かない。 それだけの熱意と力量を持ち続けていれば、あなたの言う理想で教育することも可能。 しかもそれを小学生相手にやってのける教師に出会っている以上、私はおいそれと体罰を認めるわけにはいきません。

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質問者

お礼

>殴る行為は”修正”といって、軍隊での教育となっています。修正された後、従順に戦闘に参加する姿を見て、「修正した甲斐があった」と言うんです  なるほど、そういう続きがあったのですか。しかし軍隊の教育は確かに過酷なものですが、本当に一人前になる意図は何ひとつないのでしょうか。 >結局、暴力による教育は、鞭で叩きながら動物を調教する行為となんら変わりません。本能で生きる動物には恐怖が一番。知性の乏しい子供を修正するにも暴力が一番、ですか・・・  恵まれた環境にいるはずなのに、最近は本能の赴くままに行動する若者が多すぎるとは思いませんか。「暴力」が一番でないことは自分もそう思います。しかししつけることに物理的手段を何も使わないというのには、限界があると思います。親があらゆることを論理的かつ子供に分かりやすく伝えられるまさに聖人でない限りは。問題はどこまでが「しつけ」でどこからがただの「暴力」になってしまうのかという点だと思います。全てを「暴力」としてしまうのはやはり反対です。 >また私の恩師である女教師は、たった一度ファイルで頭をはたいたことがあるだけで、他は全て、理と論を持って私たちを教育していました  すばらしい恩師をお持ちのようですね。他の教師の方もそうなら、そこの小学校はとてもいい学校ですね。そういう学校に通える子供たちは幸せです。 >それだけの熱意と力量を持ち続けていれば、あなたの言う理想で教育することも可能  最近疲れてしまう教師の方が多いそうです。もちろんそれは教師の能力が落ちたといわれればそうかもしれませんが、子供を正しく教育する方法が制限されたのも少なくとも理由の一端は担っているのではないかと考えております。

回答No.1

(1)教育の為の暴力 (2)鬱憤を晴らす為の暴力 あなたの言う暴力には2つありますが、教師や親がやる暴力でまず問題になっているのは(2)の暴力です。私は(1)の暴力であっても否定しますが、暴れまわっている不良を止めるならともかく、体罰という暴力は意味があるとは思いません。 (1)の暴力に頼らず、論理的に今を把握して、適切に言葉で説得するのが、本当の大人のやり方ではないでしょうか。「オヤジにもなくられたことない!」とは、私も同じなんですが…暴力に訴えて教育されてきた人は、本質を見失っていると思います。 暴力を施されなくても、人間は育ちます。暴力をふるわないと統制できない段階まで来ていたら、それは教育の敗北です。鞭を打って抑圧する手段で、本当の人間性なんて育てられるわけがないでしょう。 万引きした少年にゲンコツをするよりも、理屈で人間社会の原理を教える方が、意義のあることだと思いませんか。

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質問者

お礼

さっそくの回答ありがとうございます。 >論理的に今を把握して、適切に言葉で説得するのが、本当の大人のやり方ではないでしょうか  そうですね。これができればこれ以上のことはないでしょう。しかし子供の問題の前にこういったすばらしい本当の大人が少なくなっているのも現実ではないでしょうか。注意される大人が逆切れすることが最近多いように思えます。大人が曲がってしまっているのですね。 やわらかい子供は伸びるとき、往々にして曲がろうとします。それを優しくされどきっちりまっすぐに戻せる大人が増えてくれれば問題ないのですが、両方持っている大人は少ないです。優しく・きっちり両方行うが難しいのなら、せめて片方ならどちらを選んだほうがいいでしょう? >鞭を打って抑圧する手段で、本当の人間性なんて育てられるわけがないでしょう 今は鞭を打って抑圧する手段は批判され、ほとんど使われませんが、昔の子供と今の子供、どちらが本当の人間性に近いのでしょう?

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     良い悪いは別として、終戦後直ぐ位の社会は  軍隊上がりに人が居り、その人達にとって  「自分が暴力(体罰)により育ったので それでしか表現できない人達」  だったのだと思います。  この時代の寿司職人の修行を描いたドラマ「イキのいい奴」(NHK)がありまし  た。この主人公(小林薫)は 弟子(金山一彦と益岡徹)に「口よりも先に手が出 る」形で教え込むが、弟子の為と思うが、この主人公も柔道の道場や 寿司屋の修 行 軍隊等で暴力(体罰)日常で育ったので、その様な方法でしか出来ないという 事だったのではと思います。  だから、桜宮高校の問題もありましたが、指導者もその様な処はあるのでしょう  か?  「確かに奮起させる」と言う事もあるかもしれませんが、   ついていけない者も出て来ます、それで方向転換という道もありますが、  その様な人の中には「偽善者」「超えられない軟弱者」といい認めたくない者が居 ります。  又、「鍛えらて 強くなる」かもしれませんが、それで「力の強い者に服従し、  立場の弱い者には横柄な態度を取る者」も居りますが、この考えを肯定する者は  「それで殺人などの犯罪を犯さなければよい」と肯定して居る者も居ります。  私の経験から今の体罰完全否定も問題ですが、幼稚園 小学校 中学時代苛めっ子や性格悪いタイプの家庭は「強ければ全て通る」「暴力で服従」という形がおおかったと思いますが、この人達は世の中そんなもので、「悔しかったら 俺を負かせ」と 云う事なのでしょうか?  ご回答お願いいたします。

  • 本能の処だけで考えると暴力的な生き方が最適?

     日本は法治国家で、犯罪も少なく、秩序もあり、  法律 憲法が守られているので、世界からはその面に於いては評価されておリますが?  だから、私自身にも云える事ですが、越えられない弱い軟弱な人間が増えたのですね?  今、日本は弱腰で毅然たる態度でと云う 戸塚宏 田母神俊雄 坂爪捷兵 等の  各氏はその辺りを憂いているのですね?  だから、戸塚宏氏は本能を鍛えるべく体罰を行使すると云われますが、人権や法律を無視し  唯本能の処だけで考えると、体罰肯定、強く成る為には手段を選ばず、脱落者は沙汰されていくと  云う事なんですね?  だから、本能を強くする為には  1 罰則ではなく闘争心を養うために幼少時より体罰の日常により鍛えよ  2 2.3歳頃より、周りに喧嘩を売り支配欲を持て  3 いじめや暴力の犠牲者も  災害の犠牲者も 「自力で脱出する」人間以外は    弱いとされ、援助しない  4  経済優先 軍事優先なので、公害の被害 原子力発電の事故等も、それ位の事で騒ぐと     国家の目標が遅れるという理由で目をつぶり問題にしない     私はこの様な考えが嫌いで、多分此方で云われるような国家だと軟弱者で沙汰される人間だと思いますが、   秩序を無視し、唯本能を強くする為ならこの様な社会、生き方が理想なんでしょうか?   又、日本に内政干渉をする中国 韓国 北朝鮮を上記の人間が嫌っているのは   日本を悪く言うからであり、国民性は中韓北の様にすると、   1 絶対服従   2 越えられる強い精神   3 暴力 公害の犠牲者は問題にされない   4 強い者は好きなだけ設ける事や突っ走ることができる   と云う縮図に成り、強く逞しい国家、その国家の首脳陣には逆らえず、   近隣諸国への攻撃や下の者へのいじめや暴力も適度に認めてもらえる   と云う縮図なんですね?   ご回答宜しくお願い致します。

  • デビルメイクライシリーズってそれほど暴力的?

    デビルメイクライシリーズが最近気になりだしてやってみてみたいゲームなのですが、暴力的シーンが多いとパッケージに書いてあるのが少々気になって質問させていただきます。 私はホラーを題材にしたものは全般的に大の苦手ですし、激しい血の描写があるのも苦手です。 ここの質問に検索をかけてみたのですが「それほどグロくはない」という回答がほとんどでした。「それほど」、というのは洋モノのアクション映画ぐらいの程度のものなのでしょうか?もしそれ以上のものであれば、このゲーム、15、16才の人はやらないほうが懸命でしょうか……?親に止められてしまいます? できればどんな暴力的シーンが入ってるか教えていただけると嬉しいです。

  • 暴力的な人間の方が単純で使える?

    1 ある中学教師が「体罰はしたくないし、最終手段だと思う。 どうしても、生徒が授業妨害したり、命の危険を犯す時等の体罰も今教師が悪いと いうのは問題だが、暴れる生徒は幼少時から親や周りの大人からの暴力で育ってきた子が多いので、善悪、関係なく強いから従う傾向にある。だからその様な生徒に接するのは暴力的な指導にならざる得ない」というコメントがありました。  2 私自身の小中学時代(昭和50年代)も暴力的な同級生は家庭も暴力的で、 「暴力や恫喝で相手を諦めさせる」タイプの親が多かった様に思えました、 その様な態度が子にも伝播している様に思えましたし、 子に対しても「思いやり」や「譲り合う心」「優しさ」「きまりを守る」 という事より、「負けるな」「いわしてこい」という風に躾をして、 「強ければ全て通る(実際は相手がうるさいので何も言わないだけだが)」と いう思いで子に接していた様です。  3 2の彼は運動神経抜群で野球部に属しており、高校も推薦で野球部に入った  そうですが、今、運動部の体罰で問題に成っている事をそのまま矛盾なく受け容れている感じでした、正しくは無いが、彼は自分が叶わないと思う相手の云う事は聞き、それを弱い処にぶつけるが、未だ運動部という大枠があるので、辛うじてドロップアウトしないで救われているということなのでしょうか? (数年前に高校の運動部で体罰を苦にした自殺や、プロ野球の暴力の見直しを始め、体質改善を桑田真澄氏や古田敦也氏が提案されましたが、「口で言っても聞く」者に適応されるレベルであり、「口で言っても聞かず」「暴力で始めて従う」タイプには この方法は無駄という事なのでしょうか?)  4 体罰の代わりに小中学生も「周りに迷惑かける問題生徒は停学や保健室等に隔離される罰則」」を設けてはという意見がありましたが、「そうすると 彼等を見捨てる事に成る」という事を島根開星高校の元教諭野々村直通氏が云われていたと思います。 彼等の人間性を発揮させてやるのが、暴力に依る統制で、それで弱い者苛めをするが、大枠があるので辛うじて犯罪者にならずに済んでいるということなのでしょうか?     4 暴力嫌い、口で言って聞く人は間違いでは無いが、暴れる人間に基準を併せないといけない。だから、大人しい人や暴力が嫌いな人がその様な組織に居ては、間違いではないが、彼等にとって自分の思いから外れる目障りな存在となるのでしょうか?   この辺りの事をご回答戴ければと思います。  

  • 暴力的な生き方を礼賛する人

     私の小中学時代(昭和50年代)に親も暴力的で暴力による  育ち方をした者が同級生でおりました。  彼は2.3才頃から私が公園のベンチに座っていると、いきなり  「俺の席に座るな」と蹴ってきました。  幼稚園でも理由も無く人を殴ったりしておりました。  先生に理由を聞かれると「あいつは生意気だから」と  言っており、理由は後付けで手当たり次第に喧嘩をし、  自分が喧嘩で制したので、従え的な事だったと思います。  小学校の時に、彼にぶつかり、私は「ごめんなさい」  と謝りましたが、彼は「俺が真ん中を歩いているのにお前が  道を譲らんからや」と云って怒り狂いました。  法律で暴力や障害や人権侵害がいけない事は当然であり、  もしこれを犯せば罪に成る、未成年はまだ保護される身なので  罰則の一つとして、体罰があったのだと思います。  (体罰が駄目なら未成年の犯罪行為も厳正化せよ と云うのは  理解できる話ですし、私自身は完全な体罰否定ではなく幼稚園~  学生の時にも罰則としては受け容れておりました)  唯、彼を始め、彼等は「罰則」「此方が悪い事をした」と云う事を 超えて「暴れてみたい気持ちがある」のでしょうか?  彼の家庭そのものも暴力的でしたので、暴力で制する事しか知らなかったのでしょうか?  昔の国士館等の大学、体育会系の部活動や警察官 自衛官 刑務官 教師 職人等の中にも、この様な気質の者が多く、それで統制が取れていたのでしょうか? 暴れる→強い者によって抑えられる→強い者の理不尽な事は従い 弱い者苛めは行う という人間の方が上述の組織では上手い事行き、 その様な形で彼等は感情がコントロールされていたのでしょうか? その様な彼等を活かす道と云う事で野々村直通氏等の思いがあるのでしょうか? スポーツ選手でも体罰肯定を説く人(長嶋茂雄氏 星野仙一氏 等) は罰則を超えて「暴れてみたい気持ちがある」人間の気持ちが理解できるのでその様な気質を好んでいるのでしょうか? 彼等が今憂いているのは、非行や犯罪ではなく、 殴りたい気持ちや暴れたい気持ちを法律と言う名で封印させられた事なのでしょうか? ご回答お願い致します。       

  • 動物的本能の強い者が暴力的になる?

     この様な言い方をすると、偏見になるかもしれませんが、  運動部でも進学校の高校や国立大学等では規則や上下関係があっても、  変ないじめや暴力は少ないと思いますし、  幼稚園 小学校 中学校でも環境が良い処は暴力的な人間は少ないと  思います。  青山学院大学の陸上部の監督である原晋氏が部員の自主性を重んじるが、  決まりを守らせる事を徹底させた事で上手く言った例を挙げておりましたが、  あれはある程度理性がある者に適応されるレベルなのでしょうか?  「暴れる人間は逮捕させる」「小中学生でも教室に入れない 隔離させる」  これは全うな意見なのですが、  「暴れる人間」の「強いから従い 弱い者は服従」という感覚をコントロール  しているのが、問題に成った大阪の桜宮高校の体罰問題なのでしょうか?  大半の教師も組織も「体罰はしたくない」と思って居ると思いますが、  この様な生徒の親や家族も暴力的で、暴力により、従うという感覚で育っている者  もいるので、このやり方しか適応できないということなのでしょうか?  (多分、本当はいけない事なのでしょうが、職人やスポーツの世界も  あのような環境で育ち、その方法しか知らないので「殴って仕込む」事に  成ったのだと思います。)

  • 暴力団的感覚が居心地の良い人も居る?

    昔(1980年代)に小中学生でした。 罰則としての体罰は受け容れて居りましたし、時に根性論的な手法で 研修や運動会の練習も行っておりましたが、その賛否ではなく その事を踏まえた上で、 暴力団的感覚(この様な書き方をすると可笑しいかもしれませんが)が居心地が良く、 それで感情がコントロールされていく人も居るのでしょうか? 例えば、1980年頃に某大学の体育学科に入学すると、「誰が強いか」と云う事で殴り合いの喧嘩を行い、序列が決まると云う様な事が当時の卒業生から述べられておりました。 又、殴られてこの人に叶わないと思わないと、基本的な事も聞かないと云う同級生がおりました。 彼は、女の教師が私語を注意したり、宿題の提出を催促すると、 「女の分際で宿題の催促をしたからや」と云って暴れ、 怖い教師に殴られて云う事を聞くと云う感じでした。 反面怖い教師や先輩が「気合いを入れる」と殴っても「有難い」と 受け容れる様な感じでした。 彼は所属する野球部でも怖い先輩の云う事は聞くが、大人しい先輩や 同級生には何かと因縁を付け暴力を振るっておりました。 ① 彼には此方には解らない苛立ちがあったのでしょうか? 「何か知らないけれども暴れてみたい→それが叶わない存在に於いて 抑えられる」と云う心理なのでしょうか? ② 運動部の暴力等を顧みると、私が居た小中学時代も顧問や指導者 は「暴力や苛め」は否定的でした。が、一部の彼等の様な気質の者が いるとどうしてもその様な風潮になってくると思います。 ③ 彼は同級生に暴力を奮い、それを教師に云うと  「殴り返してこないあいつが悪い、俺なら殴り返す」  と云うものでした。 ④ 罰則や身の危険を伴う場合は別として (多分漁師等の肉体労働や警察や自衛隊もそうだと思いますが)  彼の家は父親が 「食事を兄弟で喧嘩させ勝てば与えられ負ければ与えない」 「自身が主である事を鉄拳で仕込ませる」と云う躾をされました。 彼の中に 「喧嘩で勝つ事が全てでそうしないと父親から罰則を受ける」と 云うもので彼は「勝たないと馬鹿にされる」と云う感覚が培われた様でした。結局「正しい方向に向かわせる事も→暴力で服従させる」的な感覚でしかないのでしょうか? ⑤ 自衛隊や海上保安庁で「どうしても身の危険を伴う時への 体罰もセクハラパワハラ」と云われてやり難いと云う声を聞きます。 (それを全否定しませんが)唯上述の体育大の様な気質の者が残り、 「訓練は厳しいのは解るが、理不尽に暴力を受けるのは可笑しい」と 云う者が扱いにくく、辞めて行っている様な気がします。 ⑥ 此方は小中時代から現在に至るまで出世とかは別として、 支配したいと云う気はありませんでしたが、上述の彼は 「喧嘩して勝たないと居場所が無い」的な感覚でした。 (勿論野球の実力あっての事ですが)野球選手でもこの様な感覚が少ない人は、暴力沙汰や喧嘩も少なく、多い人が暴力を行っている様な気がします。 ⑦ 所謂保守と云われる戸塚宏氏や田母神俊雄氏は私より  彼の様な子育てが望ましいのでしょうか? 「いじめ肯定→彼に殴られ私は奮起する」 「体罰で育てる→耐性 超えられる精神は身に付けている」 御回答戴ければと思います。

  • 彼氏の暴力依存症(反抗期?)

    彼氏の暴力 中学生の彼氏が暴力をふるいます 元々すぐカッとなる性格で場所・相手・時間関係なしにキレるような人です でも、孤独ですごくさみしい人だとわたしは思います きっと昔から親に甘えられなかったんだと思い せめてわたしだけでもと心から彼を愛してきました でも、ここ最近不安定で親にまで暴力をふるい病院送りさせました わたしが暴力を受けることはないんですが 同級生の男子とかが気に入らなかったりすると暴言・暴力をふるいます そんな彼なのにわたしと二人っきりになると 人格が変わったかのように甘えんぼになります わけがわかりません こっちもどうしていいのかわからないし 自分はどの彼が好きなのかもわからなくなります 彼を直したい と心から思います でも、具体策が思いつきません 助けてください