• ベストアンサー

二元論に関して   

二元論に関して    “個人と社会”は近代の経済活動を論じる際に、二元論の対象となり得ますか?(哲学に疎いので易しい解説をお願いします^^;)

noname#106952
noname#106952

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ringouri3
  • ベストアンサー率63% (7/11)
回答No.3

「二元論」をどこまで厳密に扱うかによって、結論は違ってくると思いますが、「個人と社会」は近代の経済活動を論じる際には、興味深い二元論の対象となり得るのではないでしょうか。 質問者の意識(意志)として、このテーマに対して「二元論」を採用した場合の論旨の明晰さ、面白さ、奇抜さ等から判断してみてはいかがでしょうか。 構成の従属関係から言えば、個人と社会は絶対的背反の関係ではないので、電気の正負や男女の性別のような意味での「二元論」を採るのは難しいと思います。(別の回答者の通りだと思います) しかし、精神と肉体、あるいは意識と物質、のような関係と似たものとして論じるならば意味があるのではないでしょうか?(あなたが唯物論者ならば、肉体が無ければ精神も存在しえない、物質が無ければ意識も生まれてこない、というように、これらは疑似二元論である、と考えるかも知れませんが、歴史的にこのテーマは通常「二元論」として扱われてきましたので、この意味で「二元論」という言い方をすれば、それなりに本件のテーマに関して面白い分析が出来るのではないでしょうか?) もとのテーマを二元論で考察するのは個人的には有意義だと思います。 俗っぽい視点からでも、法人(会社)と個人、国家と個人、中国(共産主義的?)国家資本主義と「自由主義的」国家資本主義と個人との関係など、「二元論」的な分析・考察から新しい見方が可能かも知れません。

noname#106952
質問者

お礼

経済学的見地から、さらに考えてみたいと思います。 回答有難うございます。

その他の回答 (2)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

“個人と社会”は近代の経済活動を論じる際に、二元論の対象となり得ますか? 常識的には成りえないですね。 個人の集合が社会ですから、社会経済学は個人の消費(経済)行動の統計的処理という見方が正しいと思いますね。 つまり二元論のように相反するものではなく統計的従属性のものという意味です。

noname#106952
質問者

お礼

なるほど。回答して頂き有難うございます。

回答No.1

究極の二元論という概念ならば、ものごとの根源が二つあり、それぞれが独立していて、片方から他方は生み出し得ないという事になろうかと思います。 したがって、物質と心(意識を含む)とが二元論的に扱われる場合もあり得るわけです。 個と全体についても、よく似た状態にあるでしょう。 私が一人しかいない世界(個)に、貴方という人間がもう一人(個)加わったとき、「全体」=「個」+「個」という図式のみでは説明できない「何か」が「社会性(社会的)」という枠組みで捉えうるものになるでしょう。 そのことをもって「二元論的だ」という考え方で捉えるのもいいかもしれませんが、「個」と「全体」とは、それぞれが独立し得ない関連性で結ばれているということ。そうして、「社会的」という概念が、そういった関連性の一部として捉えられているということを考えるべきでしょう。 「全体」を構成する「個」が2人の時よりも、3人、4人・・・と増えるに従って、「社会性」という枠組みで捉えうる概念は、大きく変化していくことでしょう。 「全体」の中に、小さな「集団」が形成されているならば、「個」と「全体」との間には、大きな隔たり(ないし乖離)が容易に形成されうるでしょう。 そうすれば、ますます「二元論的」に捉えられるように思えるかも知れませんね。。。

noname#106952
質問者

お礼

分かり易い回答を、ありがとうございます(^ ^)

関連するQ&A

  • 二元論とは

    二元論という言葉について分からないことがあります。世界を二つの対になる概念から見る立場だとは分かるのですが、一つの対象の中に二つの概念を共存させても二元論なのでしょうか? 例えば「あの人は善である」は二元論だと分かるのですが、「あの人は半分が善、半分が悪である」という言い方も二元論になるのでしょうか?

  • 近代国家論について

    近代国家論のことについて質問があります。文献などを読んでもさっぱり言ってることが分からないのです。多少の人物についての知識はありますが、その内容が哲学的に見えてきて、近代国家に結びついていないように思えるのです。そもそも「近代国家論」を唱えている、主な人物は誰なのか(ホッブズでいいの?)、何を言っているのか、要約をどなたか教えてください。

  • 心身二元論と心身問題とは何ですか?

    今、授業で心身二元論について学んでるんですが、教授が何を言ってるかわからないので、哲学の本で心身二元論について調べようと思ったのですが、難しい言葉で書き連ねられていて、意味を理解することができません。わかりやすく教えていただけたら、幸いです。

  • 行為無価値論二元論者は客観主義(古典学派)を基本としつつ主観主観(近代学派)を取り入れようとしている、とあります.

    行為無価値論二元論者(大谷先生)は客観主義(古典学派)を基本としつつ主観主観(近代学派)を取り入れようとしている、とあります. この考えが現われた事象はなにがありますか? たしかに折衷しているのがわかるなあ、大谷先生は。 というのがわかる論点は何がありますか?? 刑罰以外でお願いいたします。 (2)行為無価値二元論者は、違法性判断の対象を結果 と態様 の二つを設定しておりますが 行為無価値二元論者は、犯罪の本質の対象を客観主義と主観主義の二つを設定してる というのを比べればパラレルのような感じがします。 とすれば、客観主義=結果=法益侵害重視、主観主義=態様=社会秩序重視 と=で結びたいのが整理好きの私なんですが あやまりですか?

  • 哲学の考察-その2:哲学における方法論とは

      建築や土木では様々な工法が考えられ、実際に試されている。 工法は建築や土木における言わば方法論であり、最も重要な技術であり、生命線である。 では哲学においてはどーか。 哲学における方法論とは何か、 哲学に方法論は確立されていると言えるか、 どのよーな哲学の方法論があるか、 哲学において方法論は独立した考察対象なのか、 未来の哲学に新たな方法論が出現すると言えるか。  

  • コンヴェンション論について

    ヒュームのコンヴェンション論についてどういうものかロックとホップズの社会契約論と比較して説明していただけると助かります。 哲学の授業なんですけど理解するのが難しくて

  • 方法論的社会主義

    経済学を学んでいるとき出てきた、方法論的社会主義の意味調べても解らないです 方法論的個人主義ならネットサーフで出てくるんですが・・

  • 何でも二元論。どうしてこうなったのでしょう?

    こんにちは。 我が国の中央省庁に勤めている事務系の公務員さん、 所謂「官僚」と呼ばれることの多い人達が作成する文書の内容等を、 曖昧だとか玉虫色だとか、そういってTV番組などで叩いている人達が居ます。 また、タバコや原子力発電、所謂「体罰」に反対する人達の多くが、 ゼロリスクを主張して、完全否定をしています。 しかし、いつから、我が国はこんな風になったのでしょうか? 何でも「白か黒しか認めない」というような、二元論の社会だったでしょうか? 石原慎太郎先生の「NOと言えない日本」は社会現象にもなりましたが、 西洋文明には無い機微、曖昧さを否定するものではなかったと思います。 其々の意見を汲み取り、調整、すり合わせ、そうやって、落としどころを設け、 みんなで仲良く幸せにやっていこう、豊かになっていこうというのが、 我が日本文明の育みし、文化ではないのかと思うのですが・・・。 何がきっかけで、何でも二元論になってしまったのか、 別の目的がある一部の声の大きい人達だけの仕業なのでしょうか? ご存知の諸兄諸姉にご教示頂きたく、宜しくお願いします。

  • 社会契約論についての議論

    はじめまして、質問失礼します。 社会契約論についての代表的な議論をとりあげて、概略を説明し、その思想的な意義(近代社会ないし近代国家の形式とどのようなところで切り結んでくるのか)を明らかにしなさい。 という内容のレポートの作成にあたっているのですが、 「社会契約論についての代表的な議論」 というものがどのようなモノなのか、本やネットなどを見てもいまいちつかめません。 詳しい方おりましたら、教えてもらえるとめっちゃ嬉しいです! では、失礼いたしました。。。

  • デリダはフッサールをどう脱構築したのでしょうか?

    デリダは、「声と現象」という本で、フッサールのいう超越論的主観性と時間性との根源に「生き生きとした現在」があるという考えを「脱構築」した。「根源」などなく、そこには「差異の戯れ」しかないんだということを明らかにした。それによってフッサールの近代哲学の前提を、その「現前の形而上学」を暴くことで、近代哲学を葬ったのだ。… というデリダの解説を読んだのですが、これはよく分かりませんでした。フッサールの言う超越論的主観性と時間性の根源に「生き生きとした現在」があるという考え、とはそもそもどういう考えなのでしょうか? そしてそこには差異の戯れしかない、とはどういうことでしょうか?