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デリダはフッサールをどう脱構築したのでしょうか?

デリダは、「声と現象」という本で、フッサールのいう超越論的主観性と時間性との根源に「生き生きとした現在」があるという考えを「脱構築」した。「根源」などなく、そこには「差異の戯れ」しかないんだということを明らかにした。それによってフッサールの近代哲学の前提を、その「現前の形而上学」を暴くことで、近代哲学を葬ったのだ。… というデリダの解説を読んだのですが、これはよく分かりませんでした。フッサールの言う超越論的主観性と時間性の根源に「生き生きとした現在」があるという考え、とはそもそもどういう考えなのでしょうか? そしてそこには差異の戯れしかない、とはどういうことでしょうか?

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  • manuke22
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回答No.1

『声と現象』は副題から伺えるように記号の問題について論じています。フッサールは表現的expressiveと表示的indicativeな記号を分けます。表示的記号とはたとえば鶏の鳴き声。鶏の鳴き声は私に「朝」を表示しますが、しかし鶏にそんな意図はない。では私が他人に「ごめん」と言えばどうでしょう。それは私が謝罪の気持ちを声によって表現しようとしたもの、と言われるのではないでしょうか。赤信号が「止まれ」という意図in-tentionを表示しないのに対して、「ありがとう」は私の内なるin-ternal意図を表現ex-pressしたものなわけです。フッサールは、書かれたもの(エクリチュール)が書き手の意図と「間接的に」関係するのに対して、話されたこと(パロール)は意図と「直接的に」関係すると述べました。つまり、生きた主体たる意識が記号に意味という息吹を吹き込むanimateと。古典的な語彙では、記号に生命を与えるanimateのは精神animaであり、フッサールでこのアニマに当たるのが意識です。もちろん書かれた記号にも意図は関わります。遺書willはまさに書き手の意向・意志willを表しています。しかし声に比べると文字が間接的であることに変わりはありません。なんにせよフッサールには古典的な音声中心主義じみたところがあり、彼によれば生き生きとした現在が記号に生命力を与える。 内in-外exという二項対立、さらに内や声を上位に据えて外や文字を下位に据える手法がなんとなくわかるでしょう。声は生き生きとした現在という時間性をもつ意識と近くあり、文字はその意識から遠くあるわけです。意識-音声-文字。音声は思考に近い。アリストテレスも「話された言葉は精神的経験の象徴であり、書かれた言葉は話された言葉の象徴だ」と述べます。文字は声に従属する、と。音声を中心とすれば文字は周縁です。 現前presenceの形而上学ではこの音声中心主義が支配的です。音声は思考を直接的に示し、書字と違ってペンや紙を使うこともなく、書字と違って話すや否や自分の声が聞こえる。音声は思考が直接的に現前するために適っており、文字は書く手間や、相手に対する書き手の現前を要さないため、下等なわけです。頭を叩かれて「いたっ!」と発話するのと、頭を叩かれて「いたっ!」と文字を書くのとでは、やはり発話のほうが直接的だと人は考えるでしょう。生活世界でのこうした日常茶飯事からも、音声が上位であり記述が下位であるという見解が受け入れやすくなっています。「た」と書くより「た」と言うほうが、意識との関係において「直接的」なわけです。 ところで記憶memoryとはまさに「心」に書き込まれたmemorizedされたものであり、声に出される記号と言えどこの「内面に」書かれたもの(エクリチュール)と切り離すことはできないのではないでしょうか。生き生きとした現在の現前presenceが意味をもつには不可避的になんらかの欠席absenseが、存在者ensではない不在者が伴うのではないでしょうか。デリダが幽在論hantologieを語り、現象ではなく痕跡を語るのはこれにも関係すると思います。純粋な「現在presense」という前提が、そもそも不在absenceによらなければ成り立たないのではないかと。 生き生きとした現在について。 「この時間化においては、つねに今であり今でありつづける自我が、この生き生きとした今として、またこの超時間的な今として、いっさいを遂行する自我である。超時間的な今とは立ちとどまり滞まりつづける今としてであり、物的な(時間化された意味での)今ではない」 フッサールの言う時間性とは、大雑把にいえば過去把持・現在・未来予持です。私が札束を「1、2、3」と数えているのをあなたが見るとき、2と数えた時点ですでに1と数えたことは過去ですが、しかしあなたは2の時点でもさっき1と数えたことを把握しています。また、「1.2.3.5」と私が数えたとき、「4を飛ばすな」と言えるのも、私が5と数えた時点で「さっき3と数えたこと」をあなたが把握しているからです。私が4を飛ばして5と数えたさいにイラっとしたり些細な驚きを感じるなら、それは3の時点で「次に来るのは4だ」と暗黙ながら予期していたからでしょう。 こうした時間性の根源に「生き生きとした現在」がある。この生き生きとした現在は「立ちとどまり滞まりつづける今」とされ、ここにデリダは目をつけます。静態的現象学で扱われた時間性はつねにすでに働いているものですが、発生的現象学はそうした時間意識の発生を考究していきます。そして、その発生の根源が生き生きとした現在とされたのでした。生き生きとした現在とは時間性における現在ではなく、言語化される以前の「純粋な」体感とでも言えると思います。千円札を数えるときの「1.2.3」で過去把持や未来予持が成り立つのは、数えている現場や手繰られる札束や手の動きや声などを五感で直観しているからです。意識にそうした現象が現れている現在という根源・基盤なくして、過去把持や未来予持は成り立たないだろうと。 「孤独な心的生における独り言」は『論理学研究』でフッサールが表現の根本としたものです。私は頭の「なかで」言葉を語ることができ、かつ、語っている言葉を把握できます。いわばこれが心的生の独白です。フッサールはこれを重視することで、身振り手振りさえ指標であるとして、表現から除外します。また、発声器官における声も、声変わりや男女の違いなど物体的なファクターが関わるので、それゆえに心的な独白における「声」を重視します。ようやく『声と現象』における「声」に言及することができます。還元という名の純化の果てに行きついたこの心的な「声」、はたしてこれは「表現」なのか。 記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)は記号(シーニュ)に関わります。フッサールは、発話に伴うしわがれ声や高低などもいわば汚染物質であると見なしたのでしょう。それゆえに、発声器官という物質的なものに「汚染」されない内面的な独白を、「純粋な」「声」としたように思われます。それが手による記述や口による発声に内容を与えるのだと。しかし記号表現なしに成り立つ記号内容などありうるのか。すでに内面的な「声」にもシニフィアンとシニフィエがあるのではないか。まず、私の頭の「なかの」「声」は日本語であり、それゆえに日本語話者でもある私はその「声」を理解できます。内面的な「声」によって私が私に向けて表現する内容は、日本語という形式をもつから私は理解できる。しかしフッサールは「言葉が実在していなくともわれわれの妨げにもならないし、かといって関心を引くわけでもない」とか言い出す。日本語や英語といったラングさえも除外するわけです。シニフィアンをもたないシニフィエ、つまり内容そのものが内容そのものだけで成り立つと。フッサールにとっては日本語というラングさえ形式いわば指標であり、表現からラングという指標をも除外してしまったわけです。 「シニフィアンという現象学的<身体>が、産出されたまさにその瞬間に、抹消されてしまうように思われる」『声と現象』より 「表現/指標」においてフッサールは、表現に純粋さを、指標に不純物を、当てはめているわけです。そしてデリダの戦略は、フッサールの現象学における還元が「現象学的身体」たるシニフィアンを抹消してしまっていること、それを示すことでしょう。 私の読みがあなたの読みの参考になればよいですが、あくまでこの読みは読み方の一つにすぎないし、私はフッサールの現象学が「葬られた」とは思いません。また、「生き生きとした現在」がないというのは、フッサールが考えたような純粋な生き生きとした現在がないということでしょう。 「生き生きした現在は、つねに既にひとつの痕跡である」 このようにデリダが言っているわけですから。

kgat0769
質問者

お礼

大変長大なご解説をいただき、ありがとうございます!すみません、まだほとんど理解できてはいないのですが…また時間があるとき、じっくり読み返させていただきたいと思います。ありがとうございました!

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回答No.2

 こんにちは。  デリダはまるで知りません。フッサールもつまみぐい程度です。  参考になるかどうか 次のようなお話を紹介します。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》を取り上げ アウグスティヌスが 議論しています。  もしそれがあるとするなら 絶対者へと開かれた窓であるかも知れないけれども そのこころの言葉も いかに偶有的で可変的なものかを心得なければいけないと言っているようです。    ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばでは   なく 疑いそのことについてのことばがある。疑っていることがどう展開す   るか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っ   ているというそのことについての言葉がある。    (『三位一体論』15・23)  それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。  それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  有限・可変的・可謬的ながら 真実のことばだと考えられる。    けれども このことばが いかに 神のことばから遠いかを わたし   は 見なければならない。(同上15・15)  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないからだと思われる。  思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。  疑いを持ったゆえ思考することと その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟することと いづれも ある種のかたちで 《精神が旋回しつつ運動する》ようである。  だから 旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解のあたかも ほかに真実のことばが 別にあって しかも《日本語なら日本語に属するような音や声もなく》 こころに語られているかのようである。  もしそうだとしたら わたしは なお この《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》の窓を さらに 開かねばならない。   つまり まだ そのことばは 窓であって 到達すべきことばではないのだというのだと考えます。 

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