意識の中に「自分」は存在するのか?

このQ&Aのポイント
  • 意識の中に「自分」は存在するのか?肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。他人、他の物体、を見るのが主である。鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。
  • これを、意識に当てはめて考えてみよう。体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。
  • こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか?しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか?との、疑問が生じる。本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか?
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意識の中に「自分」は存在するのか?

. 意識の中に「自分」は存在するのか? 肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。 他人、他の物体、を見るのが主である。 鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。 しかも、鏡に映った像は「自分」と左右が反対の歪んだ像だ。 自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。 「自分」への関与度の高い「顔」は直接見えないのである。 ※繰り返すが、基本的に「自分」で「自分」を見ることは出来ない。 これを、意識に当てはめて考えてみよう。 (ここでの意識は、心、精神、魂、等と区別していないので、意識という言葉で統一している。) 体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。 同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。 ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。 例えば、自分の手、足を、自分の意識で思い通りに動かすことが出来る。 これを、自分の部位とすると言うことである。 (他人の手、足は、自分の意識で動かすことが出来ない。) ここで、対象を意識に移して考えてみる。 その中で、自分の意識で制御できない部分があれば、自分の部位と言うことは難しくなるという考えである。 ・例えば、痛みである。  これは、制御できない。だから、意識の中での「自分」の部位から外せると思える。 ・次に考えるのが、喜怒哀楽である。  喜びも、悲しみ、等も制御できない、どこからかやってきて、どこかに消えていく。  同様な理由で、喜怒哀楽も、意識の中での「自分」の部位から外せる。 ・・・・・  こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか?  しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。  あとから、思い起こして、「あの時は、集中して考えていたな。」と認識できるぐらいである。  まるで、手足をわずかに自分の物と、感じる様に・・・  そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。  物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか?  との、疑問が生じる。  本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか?  現状では、雑な、思考だが、皆さんの意見を聞かせて下さい。 .

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noname#136007
noname#136007

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

 「意識」の「意」は心。「識」は「知る」ということで。    物理的には、自分の顔は鏡に映す事で見ることが出来る。  それを心の世界にあてはめると、   心の鏡に映った自分を見る。ということになります。  そこで疑問が湧きます。  心の鏡って何、その鏡に映っている自分ってこの私だよね。  と、ここまで考えたら、物理的な例えが通用するなら、自分の手足は直接見えるので、心だって鏡を通さずに見える、という理屈になります。「顔」は見えませんが。  そうしてごく普通に「自分」を意識したりするけれど、自分の心って常に揺れ動いていて、真の自分ってあるんだろうかなんて不安にもなります。  そこで意識を活発に働かせて、心の鏡を用意しました。多分「顔」が見たくなったので。  でも衣服を重ね着した自分が映っているだけで、肝心な顔は良く見えません。  前に戻って、それじゃあ心の鏡ってなんだろう。  やっぱりここは、物理的世界でなく、精神界のことなのだから、鏡は心の働きと捕らえるべきではないかと思いました。  この働きを「意識する、認識する」という言葉に置き換えてみましたが、安易過ぎるでしょうか。(‘大円鏡智’なんて難しい言葉を思い出しますが、この世界の事でしょうかね)  意識の中の「自分」が自分でないように思うのは、衣服を着込んだぼんやりとした自分しか見えないからだと思います。心を映す鏡だってぴかぴかに磨かれているわけではないでしょうし、歪んでいるかもしれません。  心は「自己なるもの(があるとするならば)」が、煩悩という衣服を纏っていると解釈します。例えて、たまねぎのような構造をしているのではないでしょうか。(十界なんて世界をダブらせて考える事も可能かもしれません。誤解の可能性もありますが)  普通に社会生活をしていても、心構え次第、努力しだいでたまねぎの皮の一枚や二枚をはがす事はできるでしょう。  でもそれ以上になると、山奥に籠もり(欲望の刺激を避けて)修行する(心の垢を落とす、鏡を磨く)事が必要になるようで、だから「真実の世界」なるものに、心惹かれる人たちは出家する事になるのです。  そして修行が進めば、だんだん核心に近づいてくるというわけです。  でも最後の一枚の中に核はあるんでしょうか。  あると思います。  たまねぎが芽を吹くので分かります。  これがいわゆる「自己」というものだと思いますが、凡人は“想像”するしかないので、多くの心の探検者は“思索”する事になるのでしょう。

noname#136007
質問者

お礼

. yy8yy8az さん、回答ありがとうございます。 それから、お礼が遅れてすみません。 >でも衣服を重ね着した自分が映っているだけで、肝心な顔は良く見えません。 心の中を観察したんですね。 そう、よく分からないんですよ。意識の中の自分って・・・ >例えて、たまねぎのような構造をしているのではないでしょうか。 そうかも知れません。でも、タマネギじゃなく、キャベツかも知れないんですよ。 >でも最後の一枚の中に核はあるんでしょうか。 >あると思います。 >たまねぎが芽を吹くので分かります。 >これがいわゆる「自己」というものだと思いますが、凡人は“想像”するしかないので、 >多くの心の探検者は“思索”する事になるのでしょう。 たまねぎだと芽を吹きますが、キャベツだと芽を吹きませんね。 やはり、思索の旅を続けるしかないのでしょうか? .

その他の回答 (13)

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.3

こんにちは。 >本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか? 良く分からないけど基本的には「自分」は無だと思います。 痛い~。 哀しい~。 思う~。 見た~。 これに自分をつけると、 自分が痛い~。 自分が哀しい~。 自分が思う~。 自分が見た~。 何か変ですね。自分が三人称になっちゃってますね。 本当ですか~って、誰かに言われそう。 まるで嘘ついているみたいに。 嘘ついているわけでもないのに。 だから、やっぱり自分は無であると考える方が自然な気がしますね。

noname#136007
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 >良く分からないけど基本的には「自分」は無だと思います。 いや~、困ったな。 heartmind さんの、この結論は正しいかも知れない。 しかし、いきなり「無」まで、行くには、飛躍が大きすぎる気がします。 もっと、飛躍せずに、着地点までの思考プロセスを、飛躍を感じないレベルまで小刻みに提示するのが、哲学って思っています。 それから、根拠と示している例も”?”がつきますね。 (1)自分が痛い~。 (2)自分が哀しい~。 (3)自分が思う~。 (4)自分が見た~。 の例で、(3)、(4)、は、普通に違和感ない感じがします。 (1)、(2)、で違和感を感じるのは、 自分が痛い   → 足が痛い 自分が哀しい → お金を落としたことが哀しい という風に、無理に、「足」とか、「お金を落としたこと」を自分に置き換えている違和感だと思います。 つまり、(1)~(4)は、例えのレベルが全然違うと思います。 この、根拠で、「無」を持ち出すのは、早いのかな・・・・って感じます。 .

回答No.2

 「意識」という言葉を「こころ」と同意語的に使って、考えようとしているんでしょうか。  私には「意識」は、心の持つ「能力、性能」のうちの一つ、という解釈しか出来ません。  だから肉体を動かすのは心の働き(能力、性能)の一つである「意志」によるものであって、「意識」は、それらのある事を認識する、あるいは自覚できるという働き(能力、性能)をするものという受け止め方をしています。  こうした考えで質問文を読むと、このままでは意見のやり取りがかみ合わないように思うのです。  そこで以下の考えは、質問文の中の部分的な事柄になりますが、kunobouさんの使う「意識」を「意志」に変えてしまいました。  その部分的な事柄とは、痛みとか喜怒哀楽についてです。  痛みや喜怒哀楽は「意志」により、ある程度コントロールできるのではないか、と思っています。  痛みは心の状態によっては、それこそ“意識”しなかったりする事があります。痛みを忘れて、なんて表現をしますが。  喜怒哀楽も、怒りを抑えてとか、悲しみを忘れてなんて言うように、ある程度「意志」によってコントロールできるのではないでしょうか。  そう思うと「喜怒哀楽」を「自分」から外せるのだろうかと、考えてしまいます。  

noname#136007
質問者

お礼

. yy8yy8az さん、速い回答ありがとうございます。 mintarou1 です。パソコンの調子が悪く、再設定しているうちに、別のハンドルネーム kunobou になってしまいました。 言いたいことは、山ほどありますが、色々な意見を聞いた後、それを参考にしながら、補足にコメント書かせていただきます。 暫く、お待ち下さい。 .

回答No.1

。 。。 。。。 。。 。 。こんにちは 。。意識の中に自分は存在します 。。。これに賛成します 。。 。 。これは確認なのれすけろも≪≫こぴぺ≪≫しかも、鏡に映った像は「自分」と左右が反対の歪んだ像だ。≪≫こぴぺeND≪≫ 。。鏡に写った像は鏡の法線ベクトル方向に反対であると表現しない意図をお伺いします 。。。あなららんんららなあ 。。でぃすぱてぃこんトふれkX 。新たニいデ亜 。

参考URL:
http://dpar-ya.blogspot.com/
noname#136007
質問者

お礼

. 済みません。 自分は日本語しか、理解できないんです。 外国語での書き込みは、ご遠慮下さい。 .

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