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生」が消費されているとき、「生」が自覚される。

noname#194289の回答

noname#194289
noname#194289
回答No.22

生きているということを自覚するというのは、「我に返った」ときのことではないでしょうか。我に返るというのは体あっての自分だと思うことだろうと思います。しかしこの自覚は実に不愉快なものなので普通、人は我を忘れようとしています。つまり自分は肉体によって支配されていないと思いたいわけです。肉体はいつか滅びます。この意味で我に返るということは死をも意識することになると思います。

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