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生」が消費されているとき、「生」が自覚される。

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.21

連続投稿お許し下さい。 「女性の哲学者が少ないのはなぜ?」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5479497.html の、No.23にて >>> 本来の主体は、「愛する」の側にあるべきなのに、「知」という対象にのみ関心があるというのは中途半端な状態と言わざるを得ないと思います。 人間という総体が男女という概念区分にて二極を持つと言うことは、同じように総体を二極にて捉えるような概念にて、片方のみを重視した場合に破綻をきたしうるものを想像すれば、いいのかもしれません。。。 たとえば・・・ 中島みゆきの「炎と水」 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54014/index.html <<< と記載させていただいておりますが、知と「知以外」(特に情)といった二極的思索にも当てはめうると思っています。 中島みゆきは、本来、男女の関係になぞらえて「炎と水」を「Flame & Aqua」として記述しているのでしょうが、たとえば、水を知に、炎を情に置き換えても、しっくり来るところがあります。このことは、男性性とか女性性とかいった概念から受ける一般的な感覚と結びついているからなのかもしれません。。。 >>> 中島みゆき 「炎と水」より (前略) 私はあなたを傷つける者 誰よりあなたを傷つける者 けれども唯一癒せるすべを それとは知らずに持っている者 (中略) Flame & Aqua 求めずにいられない 私たちは あまりにひとりでは担い過ぎる炎と水 <<< 一人が一人のみでは「生きていく」ということは担い過ぎるでしょうし、知・情・意がそれぞれ単独では「知情意といった全体」は担い過ぎるものでしょう。。。 互いに傷つけ合うことを恐れていては、癒し合うことすらできないのかもしれません。。。

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