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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

その他の回答 (71)

noname#117439
noname#117439
回答No.42

オコリザルです。 A47で人知と言う言葉を思考に仲介するものとして引き合いに出しましたが、これを社会の第三者、世論、などとすると当事者外の赦さざる人々です。 赦す許さないの話しに割り込む世間様です。 これが無ければ人間たるもの何事でも許せるでしょう。 世論とは自分で無い者の考えであり迷いや煩悩です。 世論は個人ではありませんから、何者でもありませんから、これが「我は無い」です。 この我は無いは神格化されていますからさらに掘り下げて検証が必要でしょうが、我で無い、何者でもない、そんな思考が煩悩です。 そうするとお釈迦様の無の悟りとは支離滅裂です。

bragelonne
質問者

お礼

 こちらのほうは 思索の問題のようです。  ★ 人知 / 社会の第三者、世論  ☆ これを持ち出すと 赦せない感情のほうへ片寄るということでしょうか?  人知は たぶん自分で 最悪の場合などを想像することを言うのではないでしょうか。その場合には 怒りもこみあげてくるということかも知れません。  世論は たぶん 世間の野次馬といったところのことでしょうか。たしかに すぐに首をつっこんできて損得勘定などの話をも交えるでしょうね。  そういうところだと思うのですが。

noname#117439
noname#117439
回答No.41

オコリザルです。 日常について世間話です。 10日ほど前私の勤め先に暴走した車が突っ込み壁を壊して柱を折る被害がありました。昨日内装の補修が終わったところで忙しかったです。 ちなみに車が突っ込んだとき私はトイレでおしっこをしていました。壁が破れた個所はといれから3メートルほど離れた場所でした。要するにドライバーさんのハンドル加減ではトイレに突っ込んで私はふりちんで、かつ、おしっこをちびった状態で救助される可能性もありました。 こんなのは笑い話ですよ。 わざわざ赦せなくするのは、ふりちんで発見される可能性を人知が教えるからです。 大袈裟に時わたりをもちだしますが、時間の流れに冷静でふりちんの醜態をさらす可能性を選択肢に乗せる必要が無い私にはその「もしも」は笑い話です。 ところが人知により判明しますが、そんな「もしも」に冷静でいられないで過度に被害者妄想をもつ方もいるでしょう。 そして赦せない理由を作るか、条件付きで赦すことを妄想します。 赦せない心情なんてそんなもんですよ。 現実に忠実であれば、または心情において現実に受け入れられない事がなければ、赦さないは発生しません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  災難でしたね。壁・柱ぢゃ そうとう中に入って来たようですね。  でも 感情は それほどでもないということでしょうか。  ★ 現実に忠実であれば、または心情において現実に受け入れられない事がなければ、赦さないは発生しません。  ☆ たしか こういう言い回しがありました。《理解できれば 赦せる》といった意味合いだったんぢゃないでしょうか。ことわざかどうかは分かりません。  そうですね。ちょっとなまなましくて 言葉を控えてしまいます。大きなけがなどに到らなくて不幸中のさいわいでしたと思います。  ★ 被害者妄想  ☆ といった問題も出てきました。

回答No.39

(質問文)人のあやまちを赦すことができますか  赦せないから 「法を強化しろ」  って言うんだろうね。  そうすると 司法関係の従事者が増える。  法がなくても豊かに暮らすことが出来るようになるのが 理想であるのを忘れてはいけない

回答No.38

 それから、法と 犯罪 についての関係性を理解するためにもこちらをご覧ください。 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-137903-storytopic-11.html ↑~~~高齢者による犯罪が急増している。高齢者人口の増加率をはるかに上回る勢いだ~~~ http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081107/trl0811071025001-n1.htm ↑~~~7日公表された犯罪白書では、高齢者犯罪のうち特に多い窃盗、傷害・暴行、殺人について、昨年東京地検・区検が受理した事件などをもとに特別調査を実施している。~~~ http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200612kourei/index.html ↑高齢者犯罪の今  -「異変」の現場から http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20080125/1201233045 ◇ 何が 問題なのか。 http://blog.goo.ne.jp/mks13/e/d3262139af3c4a81476dffc450404348 ↑~~~ことしの犯罪白書によりますと、刑法犯全体が減少するなか、高齢者による犯罪は増え続け、去年1年間に窃盗などで検挙された65歳以上の高齢者は4万8000人余りで、10年前に比べて4倍近くになったといいます。~~~ ~~~厳しい格差社会の到来で、「勝ち組」「負け組」の二極化が進んだといわれて久しい。~~~

回答No.37

訂正: 誤:それから私は 保護監察官にはなってはいませんが 正:それから私は まだ保護観察官にはなってはいませんが http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/25/nfm/n_25_2_2_4_3_4.html (引用)~~~高齢者は,その実人員は少ないが,各罪名中に占める比率が総数に比べて高い。これら高齢犯罪者に対しては,検察,裁判,矯正及び更生保護の各段階において,その身体的・精神的状況に応じ,適切な処遇が行われている。~~~  とのことです。 ☆高齢犯罪者について http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10022439673.html  御参考まで。

回答No.36

 あ、それから私は保護監察官にはなってはいませんが、高齢の保護観察処分を受ける人もいるようです。  御参考まで。 http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/48/nfm/n_48_2_5_5_2_2.html

回答No.35

 回答番号:No.38:友人もこういうことをしていますが、ご覧頂いていると存じます:ご参考に:  http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo04.html  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E5%8F%B8

回答No.34

回答番号:No.30  こうお尋ねしたいと思いますが いかがでしょうか?  ○ 罪のつぐないをした(つまり 刑期を終えた)人間をひとり そのおたくの町内に住まわせて 更生するまで面倒みてやってくれませんか。という依頼が舞い込んだら どうなさいますか? ◇:そういうことを委嘱される人って、名称がありましたよね。   町内の誰かにその方が、ちょいとお話になるのでしょうかね。   そしたら話がみんなにいって、商店の人にもいって、   “・・・だって。”   “ふぅん、あぁそう。”と別に手出しも、特別のことも必要や、求めがない限りしないで、普通のとおりにやっていきます。   会話、世間話、相談事、挨拶。みな同じにします。なにかをわざとやることはありません。    ★ 対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。  ☆ ぜひこの島流しに遭わせるのではなく 一人前の市民になるよう面倒を見てやってくださいというお願いです。 ◇:普通の市民生活ができるようにするのは、近所つきあいではないし、島流しにもしません。   面倒はご近所さんという関係です。  委嘱を受けた方や公的機関のやりかたに無関心にはしておりません。  日常どのようにしているかはみんなが、目の端にして必要あれば、話し込む。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。赦すのなんののはなしではないですね。人間同士であり、お互いだということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 日本中をこのような町にしたいと思いますので。島送りだけはしないで済むようにという方向なのですが どうでしょう? ◇:日本の庶民は、普通は人を島送りにしないと存じました。   大それた事を考えないし、普通のお互いで毎日やっていますが。

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998 さん ご回答をありがとうございます。  分かりました。自然体というのでしょうか。日常性の範囲である。とのこととうけたわりました。  ◇:日本の庶民は、普通は人を島送りにしないと存じました。   大それた事を考えないし、普通のお互いで毎日やっていますが。  ◆ かくなる上はですね 日本中をそのようにしたいわけですから 次のご投稿にある保護観察官や保護司の仕事も大事ですし そこに次のようなことを合わせて考えようと思うのですが いかがでしょう?  たとえば小学生の頃から 人に対して取り返しのつかないことを行なってしまった人が その罪の償いを終えてふたたび社会に復帰するとき その人が住む町や村は 更生の手助けをするし 手助けもしつつ更生することを見守っていくのだということ このことをおしえておく。  特に保護観察官などの仕事をするわけでなくとも 人びとの誰でも そういった公共の仕事をささえる考え方を持つようにという趣旨です。  ともかくこの問題は きめの細かい配慮をしないと何もうまく行かないような実際の仕事とかかわっているようです。  被害者の赦せないという感情の問題と 加害者の更生の問題と これらは一見すると こちら立てればあちら立たずといったふうに両立しがたく見えるのですが そこを探っていくということではないかと思います。ありがとうございました。

noname#100121
noname#100121
回答No.33

bragelonne様、こんにちは。 論理的な思考が苦手で返答に窮すると煙に巻く反面、曖昧な解釈の余地を残すことで相手との決定的な亀裂を避けたいと願う悪い癖を私自身痛感しております。 かねてよりご指摘いただいていた答責性、明晰性を第一に心がけてまいりますし、身も蓋も無く何ら建設的でない内容であっても、他意など一切持ち合わせておりません。 >《ゆづる》があれば 《ゆるさん》という感情は 消えはしないでしょうが 主観の内におさまるかに望みが持てます。 はい、万人が≪ゆづる≫の精神を多少なりとも持ち合わせていたならば望みが持てます。 ですがどちらかというと理念上の指針的性質のものである以上、現実にこれに則るべきとは残念ながら言い難いです。 >《承知しない》といえば 《ゆるさない》と言っているのと同じではないかという物言い >《おまえの罪を承知せんぞ》とは言わないですね。 はい、何か違和感を感じます。 ≪おまえの罪を「認めないと」承知せんぞ≫というのはいかがでしょうか。 この「認めないと」の部分、相手の意識に対する干渉の有無が≪ゆづる≫と≪赦す≫の差の一つではないかと考えております。 >存在じたいは おのれの存在と同じように 愛している。だけれども まちがいやあやまちについては とことん憎んでやって 直さなければ承知しない。 はい、仰る通り、まず何よりも存在自体を認めることが大前提で非常に重要なことだと思います。 そしてそこから先が問題で、夫婦家族の間柄でさえ上述の理屈が容易ではありません。 あかの他人だからではなく、身内だから、愛しさがこみ上げるからなおのこと。 ≪存在のみを果てしなく愛し、間違い過ちだけを憎み是正させる≫というのはとてもとても難しいと思います。 いえ、だけれどもの手前の≪愛する≫という段階で既に破綻してしまっているとも考えられます。 夫婦であれ、家族であれ、例の北朝鮮問題であれ、相手を愛そうともがいても、結局は逆に相手に自らを貪り取られてしまう、というパラドクスを内在しているのです。 >個人の意識における赦しの変遷ですか はい、そもそも≪赦す≫ということはどういうことか。 近代以前のそれは専ら神との関係性が主として意識づけられ、むろん中世ヨーロッパでは「社会」を通じた更生システムなどありようもなく。 その≪赦す≫が幾許かの個人という意識の萌芽と共に徐々に神の手から離れ、より深く自らの内へと深化していき、他方では「社会」「法」との関係性に主眼が置かれつつ共に変遷していったとみなすならば、≪赦す≫そのものの判断基準も時代と思想哲学の影響を大いに受けてきたとは考えられます。 >☆ の問題が いわば更生者とのつき合いの問題以上に差し迫ったかたちで起こっていて もしその問題をときほぐすことが出来たなら 更生者の受け容れも あるいは容易にできるようになるかも知れない。そういう見方ですね。おそらく krya さんの町の共同体論と重なっているのでしょうね。 はい、krya様の共同体論を拝見した上で、夫婦、家族単位で捉えることは可能だろうかと思いました。 たしかに社会に対する理念はやはり大事だと思います。 アナーキーではとても済まされません。 しかし≪ゆづる≫≪赦す≫それ自体に相手から搾取されてしまいかねないという矛盾を孕むことを鑑みると、例え理念上の希求であれ、いっそのこと≪無私≫を持ち出した方が手っとり早いとも考えます。 また現実的には、同じ地域共同体とはいえ赦す立場の人間と傍観者の人間とでは自ずと更生者に対する意識の温度差が異なるはずです。 そこの摺り合せに関しては理念よりも情や法、社会システムに則った方が「幾許かの個人」の意識が尊重されるのではないでしょうか。 ps: >―― 《殺したいと思った》は どうも男女間の感覚に起因しているのではないか。とも思うのですが どうでしょう? はっきり言えば 男はないですよね? つまり太郎は男ですが 書いているのは 女性です。――これも課題です。(問い求めの上での発言の範囲ですよね)。 この件につき男女の意識差について考えてみました。 ですが、私自身の半生に照らし合わせても、正直なところ全く思いつきません。 イメージ的には男女差というより≪殺したいと思った≫ほど≪愛していた≫愛憎の深さや自己愛の強さだと思いますが。 また、こちらの書は皆様方のご感想が薄れてからでないと先入観ばかりが先行してしまうと思い、手元に置きながらも未だ読めずにおります。申し訳ございません。 >☆ これは ちょっと問題あるんぢゃないですか。けっきょくのところ 作品の内部世界とは別個の世界を 読み手が創作し繰り広げるということでしょう? はっきりとした第二次創作ということではないでしょうか。わるいという問題ではなく 主題が別になると思うのです。ma・・・さんにでも訊いてみますかね。 ある一冊の本に感銘し、時をおいて何度か読む度ごとに新たな発見をしたり、作中の人物に興味を抱いてみたりと、私は以前読んだときと随分印象が異なることが殆どです。 作家のメッセージ性が変質しているのではなく、読み手である自分自身が以前と変化しているのだと思い、我ながら楽しいと感じます。 根が優柔不断でストイックさが大の苦手だからかもしれません。 これにつき、やはり作品の主題とメッセージ性を第一義と捉えて問題ありと思うのであれば、自らが作家の意図したものを可能な限り忠実に正確に捉えようと読めばよろしいわけで、仰るところの第二次創作であろうが主題が別になろうが、作家が書いたものとはそのように変質していくものだと思うのであれば、そのように愉しんで読めばよいだけのことのように考えております。 どちらに魅力を感じるかは個人の読書スタイルの自由でしょうし、このような場合にこそ「個人」という呼称は相応しいと思います。 ちょっとゆっくり回答させて下さい。どうぞよろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないます。今頃ですが 漢和辞典を引きました。(ヱブでは 見つかりませんでした)。  ▲ (《ゆるす》を表わす漢字のそれぞれの意味) ~~~~~~~~~  ○ 許: それでよいと認めてゆるす。勝手次第というたぐい。《許可》  ○ 与: 同意してゆるすこと。《允許》  ○ 免: 刑の執行をやめる ゆるしてやる。《赦免》  ○ 放: 追いはなして自由を与える。 《放免》  ○ 宥: なだめゆるす。罪をみのがしてやる。《赦宥》  ○ 原: 罪のある者をその実情によってゆるすこと。《原宥》  ○ 恕: あわれんでゆるすこと。《寛恕》  ○ 容: 堪忍してゆるすこと。《容恕》  ○ 赦: 罪をゆるすこと。《大赦》  ○ 釈: ときゆるめて ゆるすこと。《釈放》  ○ 肆: 心まかせにさせること。《放肆》  ○ 縦: 肆に同じ。《放縦》  ○ 聴: 先方の望みをききとどけて ゆるすこと。《聴許》   (貝塚茂樹ほか編:角川漢和中辞典 1959初版)  ▲ (承知) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 承: 【解字】 ・・・手を上にのば(昇)す。手でうける(請)意。  【字義】 うける。うけいただく 2.うけつぐ。ささげる 3.とどめる 4.たすける 5.しのぐ 6.次第。順序 / [国訓]うけたまわる  ○ 承知: 主旨をうけたまわって知る 2.知っていること。わかっていること / [国訓]聞き入れる。承諾   ○ 承諾: 承知する。許す。承知。  (同上辞典)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ≪おまえの罪を「認めないと」承知せんぞ≫というのはいかがでしょうか。  この「認めないと」の部分、相手の意識に対する干渉の有無が≪ゆづる≫と≪赦す≫の差の一つではないかと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだしっかりとしたお応えをし得ないでいます。澄みません。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なお No.36補足欄の中間のまとめも ぜひごらんください。  何本かイッポンを取られて bragelonne くんは立ち直れるのでしょうか。  ★ 仰るところの第二次創作であろうが主題が別になろうが、作家が書いたものとはそのように変質していくものだと思うのであれば、そのように愉しんで読めばよいだけのことのように考えております。  ☆ つまり《創作》も《読み》である。何の問題もない。  そうしますと――ただしですが―― 本格小説と心境小説を分ける意味もないことになると思うのですが それでいいですよね?  ★ どちらに魅力を感じるかは個人の読書スタイルの自由でしょうし、このような場合にこそ「個人」という呼称は相応しいと思います。  ☆ 分かりました。イッポンの上塗りを喰らいました。《自由》は とうぜんわたしの専売特許ではないです。  ここまで見通しておられるのなら もう今すぐに読まれても何の問題もないと思いますよ。  ★ イメージ的には男女差というより≪殺したいと思った≫ほど≪愛していた≫愛憎の深さや自己愛の強さだと思いますが。  ☆ 男女の違いの説については 引っこめます。ただ 感情の深さ強さにつきましては 初対面でのその思いという想定(額面どおりの解釈)ですので どうだろうかとも思ってしまいます。でも雷に打たれたのなら そうなるでしょうか。これは 保留・継続ですね。  つまり 《愛していた》ではなく 《そのとき雷が走ったごとく愛した》という想定(読み)になるでしょうか。  ★ 理念  ☆ につきましては 経験現実にもとづいているとは考えています。《あやまちの認め》として おのれの身体=精神において《やましさ・後ろめたさ あるいは 顔の赤らめ》といった広義の生理現象が起こる。これは 自由平等あるいは意思疎通の可能性が 経験現実であることを物語ると考える者です。  ということは 《ゆづる》ときには ゆづっても共通の理解が得られないなら どこまでも対話を求め続けてもよいという考えも出来ます。  ただ すでに取り返しのつかない事態が起きていて 赦せないと感じる場合というのが この質問ですね。  歴史的な変遷につきましては きわめて大雑把なことを言いますが 現代のいわゆる法治社会においてという条件で考えていただいて結構だと思います。ということは そうでなかった時代と社会との比較対照をとおして 現代を考えるといった見方になるでしょうか。   人間交通のあり方→ここでは特に 町における生活共同のあり方  →ひとりの個人が《赦せない》事態に遭ったとき   (1) その憤りと憎しみと恨みをどのようにあつかうのか。  (2) 加害者の更生をどうあつかうか。   ☆ (1)は個人が個人としてその内面において処理せざるを得ないもののようです。なお どう考えていけばよいか。  (2)は 法律の問題を望み見ながら 共同体がどう対処できるか。どう対処するか。  あとには 大きな問題が提起されています。愛の逆説でしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いえ、だけれどもの手前の≪愛する≫という段階で既に破綻してしまっているとも考えられます。  夫婦であれ、家族であれ、例の北朝鮮問題であれ、相手を愛そうともがいても、結局は逆に相手に自らを貪り取られてしまう、というパラドクスを内在しているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 継続審議ということになると思うのですが いまひとこと述べておけとなれば 安易には次のように言うことになります。  《赦す・赦さない》の思いそしてそれにまつわっている憎しみ等々の感情 これについては 人間はその能力において むしろなじまない現象なのではないか。これです。  きわめて直截的なこころの底から起こるような人間現実なのですが それでも その現実は 《わたし》の意志行為とは基本的に別である。その限りで なじむべき現実ではない。  論証がまだです。初めからの命題ですので みなさんともども 論究していっていただきたいと思います。  昔の対話に戻りましたでしょうか? その間お互い水準を挙げて来ているでしょうか。この環をひろげて行けますでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.32

オコリザルです。 連続投稿です。 条件付きで赦す。 条件付きで謝る。 このような行いが「赦す」と言う観念に色を付けているだけでしょう。 主観内に収まる個人的心情から発展させて、全ての場合で赦せる事が相互に理解できるかどうかが今回の御質問なのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 全ての場合で赦せる事が相互に理解できるかどうかが今回の御質問なのでしょう。  ☆ いや そこまでは 実際の問題としてむしろ無理だと考えています。それは ううーん 哲学の問い求めとして 理念的に考え方の上で追究することがあるのかも知れませんが どうですかねぇ。どうもそれだと あたまの中での体操であるように思えるのですが。  ですから それよりは 出来ることがらにおいて処理をきちんとやっておくということ。それをやっておけば むしろそのような・つまり更生の実現というどちらかと言うと外面の態度や生活の方面で きちんと事後処理が出来たならば 〔むしろ〕その外面のつぐないによって 内面が影響を受けるとさえ考えられるかも分かりません。  どうも厄介な問題を扱っているようですね。

bragelonne
質問者

補足

 みなさんへ。  中ほどのとりまとめです。  踏み出しは こうです。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  われらは ひとを愛しあやまちをにくむべし。  あやまちゆえに ひとをにくむべからず。  ひとゆえに あやまちを愛すべからず。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    * (アウグスティヌスのぱくりです)。  旗じるしを得ました。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から        《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  里程標の先に見えるものは   ○ あやまちをおかした人にやさしい社会  ○ 悪人や罪人にやさしく 悪や罪にきびしく。   (= 罪を憎んで人を憎まず。)  ○ これを 隣近所 町や村でならわしとする。  ○ 隣りびとというよりは 男女の間柄や夫婦そして家族という人間関係の問題が 基礎にありました。これが 集団としての核であるでしょう。  ○ 《ゆるし》の思想というものもあるでしょうか。  ○ 文学(アニメ・マンガを含むのでしょうか?)・映画演劇 あるいは美術・音楽などなど幅広く芸術は 《罪を憎んで人を憎まず》の思想を体現した創作活動なのでしょうか。  (中身の吟味も必要でしょうね)。  ○ 法律やもろもろの制度については 追って考えよう。  ☆ そこでなお 罪を憎む気持ちが《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ》といういきどおりになって治まらない という問題があるでしょうか。そして 憎しみや恨みつらみの問題も扱っておくべきでしょうか。あるいは ふるいのですが 復讐という問題もくすぶっていましょうか。  サハリン島やオーストラリアは 島流しの行き着く先でした。今では――変な言い方であり 失礼にあたるのですが―― 更生しきっています。この時間の幅を短縮させて つぐないを終えた者を町のど真ん中への島送りとする。といった方向は どうでしょう?  ちらっと触れるならば 人間には 非思考・超現実のもんだいがあります。  【Q:慈悲は経験現実か】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html  【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】   (わたくしの回答No.4&17&19)   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html  ☆ うまく哲学に導けるというひとは そのようにご回答をお寄せください。  

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