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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

その他の回答 (71)

noname#135843
noname#135843
回答No.52

 こんばんは、ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。  愚生もmashumaro2 様のご意見を拝読させていただきましたが、mashumaro2 様の仰られることから、多くの知見を得られましたし、また多くの”考えさせられる”きっかけを頂戴致しました。また、社会公共的観点から見た考察力の深さには感嘆の感を禁じ得ませんでした。 > 「krya様の共同体論を拝見した上で、夫婦、家族単位で捉えることは可能だろうかと思いました。」  因に、愚生もkrya1998様の”共同体論”に感化され、投稿させていただいた次第でございます。  また、http://dell-support.okwave.jp/qa5311248.html No.32にもございますように、「わたしも何度か殺してやりたいという人間に出会ってきました。しかし、実際には、殺していない。一方で、殺してしまうひとがいる。この違いは何か?決して、わたしの心が良かったから殺していないのではない。もしじぶんが同じような境遇(つまり、「人間と人間の関係性」)に生まれついたら、殺人を犯してしまうかもしれない。」 との考えから、加害者に若干心情が近かったかと思います。  ですが、これだけの予算額の違いを突きつけられますと、被害者には非常に酷な社会になっていると考えさせられました。  『心にナイフをしのばせて』(奥野修司/文藝春秋刊)からでございますが、 > 「「更生は敗者復活戦ではない」、「更生は人生のリセットではない」という認識と罪の意識をしっかりと刻むよう処遇していくことが肝心」  この件につきまして、同意見でざいます。その当時の少年法は、GHQの介入によって、アメリカの伝統的保護主義を反映し、全ての非行少年は保護と教育によって充分に”更生”できるという理想を盛り込んで施行されたそうでございます。その後アメリカは「厳罰主義」に転換したそうでございますが。  従いまして、以下の文章にも意見を等しく致します。 > 「そしてさらに私が思うことは、加害者少年もまた、当時の社会の縮図として犠牲者となった部分が少なからずあるのではないかということです。たかだか14歳の少年、尋常ならぬ惨劇をもたらした当時の彼の心境だけを特異化して考察したり、事件を風化させてはならないはずです。」 確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉を喚起させられた次第でございます。  ですが、ご心証を害されるかもしれませんが、ここからも、犯罪者が社会的存在(定義が曖昧でございますが、自分で生活が可能という程度でございます)にもなりえること、また現在少年院にいる人にも幾ばくかの希望は与えられるとも思うのです。と申しますのも、この加害者も、弁護士になり、幾人かの無実のひとを救ったかもしれません。そう考えますと、社会的に認められるうるものに、自分もなり得るのだという希望を与えられるとも考えられるからでございます。  まだ、ご意見を頂戴していないのですが、《第三項(いけにえ)排除》の理論は、一般的にはよく見られることかと存じます。誰か(別段、それほど特異的存在という訳ではないのですが)を”仮想敵国”にし、他のものは仲間を形成する というものでございます。イジメ等でよくみかける光景かと存じます。一昔前ならば、ジャイアン役がイジメをし、スネ夫役がコバンザメと化し、ノビタをイジメるという構造だったのですが、学級崩壊が進んでしまったのでしょうか。現在では、ジャイアン役もイジメの対象にもなりうるのだそうです。すみません。話が飛んでしまったようです。  今後のお話の展開を楽しみにしております。  以上のように、誠にとりとめのない話に終始してしまった観がございますが、愚生も徐々に皆様のご意見にも、注意をむけていきたいと思っております。  かようなご機会をお与え下さり、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  お話を受け留めました。受け留めましたが どうお応えしてよいか なかなか言葉が見つかりません。考えがまとまりません。  いっそのこと 部分的に感じていること―― 一般とちがっていてもどうもこういう気もするということがら―― これを書いてみましょうか。  ★ 『心にナイフをしのばせて』(奥野修司)  ☆ のお話を聞いて その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕方がないのは 加害者のほうです。  何か ほとけごころがあり過ぎるからなのか。感情移入がゆたかすぎるのか。度を過ごしているような感じなんですが みなさんはいかがお考えになるでしょう?  全体の見方を少し外しても 何かそういう感じを持つのですが どうでしょう?   ★ 確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉を喚起させられた次第でございます。  ☆ そうですか。まだ学習が足りないのですね。  そうだと思いますが ただ 被害者やその遺族が なぜ つらい思いをしなければならないのでしょう。悲しみの極みというのなら 分かりますが うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならないとしたら これも 学習が足りない――あぁ 言ってしまいました――という側面を見ようとせざるを得ないのではないでしょうか。それとも わたしたち周りの者の支援が足りないということなのでしょうか。  部分的にと言いましたし 事実そうだと思っているのですが もうこれで全面的に ワルモノになった思いです。こうこうこれだから それは成り立たないといったおしえを垂れていただけるなら たいへんありがたいと思います。どうでしょう。

回答No.51

 回答番号:No.38(お礼欄) 【被害者の赦せないという感情の問題と 加害者の更生の問題】  ◇:私も、私たちも被害者とともに赦せないと存じます。これは頭脳の論理の話では参りません。  でもともに地上に来て、そして地上を歩き、去っていかなければならない。人間がどうこう考える事ではなく、赦せなく、そしてともに生きていく。  そういう無残な行為は、接触し、その後ともに地上に居る上で、ハードルになるであろうし、雲散霧消はしないでしょう。  事ある毎にそのことは意識され、影響し続けるでしょう。でも時間は展開していく。人生とはそんものかも知れません。  すべきとされていることはしていかなければならない。  ともに地上を歩くように、とされたことはしていかなければならない。のだと私は思います。  私たちの考えることはその範囲の事になると存じます。  こうすべきということを私たちが結論を出せないし、与えられた結論を度外視することもできない。  わたしたちはともに生きていく。赦せようが赦せまいが。  そして時間は経過する。私たちの思考はそういう中でのことになる。  のだと存じます。論議ではなく、演繹、推論、弁証でもない。思索でもない。  語り合う事はありえましょうが。これが人間の限界です。だと存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何とかして前向きにという願いのみで なお質問を引っ張っています 今は。  むつかしい問題のようです。ごもっともな見方を述べていただきました。  たとえば 被爆者の人びとは どうだろう?と思うとき おそらく述べていただいたように考えているのではないかと思われます。  あるいはわれわれは勝手に(つまり相手の国の弱きにかこつけて)ほかの国に入って行ったのですから そのとき土地の人たちに与えた被害については どうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしたちはともに生きていく。赦せようが赦せまいが。  そして時間は経過する。私たちの思考はそういう中でのことになる。  のだと存じます。論議ではなく、演繹、推論、弁証でもない。思索でもない。  語り合う事はありえましょうが。これが人間の限界です。だと存じます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ひとつすでに質問した主題ですが こういう問題もあるということで掲げておきたいと思います。  《因果応報》の説は だめだという問題です。なぜならこの説によれば 被害に遭ったということはその人の過去の悪業の結果であり 報いであるということになってしまうのです。一般にこのことは まだ承知されていないのではないでしょうか?   倫理的な意味での因果応報説は まちがいである。または 応報であるかどうかは 人間には分からないと言わなければならない。こうだと考えます。  あるいは この赦せないという憎しみの問題と輪廻転生説とをつなげるのは いただけないと思います。解決策にはならないはずです。二人として同じ人間はいないのですから。  ということは 恨みも憎しみも おのれの一世一代の問題として捉えなくてはならない。そこからひょっとして窓が開かれ 問い求めるものが あるいは 問い求める場所が 得られて行くのかも知れません。あるいは おっしゃるように  ★ 人間の限界  ☆ ということが 答えの入り口であるのかも分かりません。  のんきなことを言っていますが 過去をかかえつつも前向きにあゆむというすがたを問い求めたいと思います。

noname#135843
noname#135843
回答No.50

 夜分恐れ入ります。Hidocchiです。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > それはそうと Hidocchi さんも このmashumaro2 さんとのやり取りに参加していただきたいとも思いますが いかがでしょう?  愚生でよければ、喜んで、ご参加させていただきたく存じます。早速明日にでも、mashumaro2様のご意見に対する感想を添えさせていただきたいと思っております。  それでは、こちらこそよろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。遅くなりました。  Hidocchi さん それはよかったです。  ご回答をお待ち申し上げております。  【Q:復讐に意味はあるのですか】と同じような主題になっていると思いました。いえ もともと主題は同じなのですが その焦点がともに 憤り・恨み・憎しみの感情の問題に当たってきたようです。  それでは。

noname#135843
noname#135843
回答No.49

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 感情の扱い方 これが気になっております。《触らぬ神にたたりなし》の風潮と比例しているのでしょうか。そうではなく 人間のこころの底から起こる憤りなのでしょうか。  第三者にとりましては、少なくとも、当初は《触らぬ神にたたりなし》の風潮がおおいかと思っております。ですが、被害者に感情移入した際には、”憤り”の感情が心の底から起こるように思われます。先ほどにも出てきました「罪を憎んで人を憎まず」でございますが、特に人(加害者)の反省のなさ等が見られた場合等はその傾向が見られるように見受けられました。 > 死刑廃止論をめぐっては わたしのほうからは深入りしない方針です。(ずばり切れるという理論がありましたら おしえてください。ただし 死刑は 刑罰には該当しないという理論はあるそうですね)。  Wikipedia ”死刑存廃問題” を参照致しましたが、特別な理論はないようでございました。ただ、世論調査からは、国民の80%近くが”存続”を指示しているのだそうです。この数値からでは、当分は”廃止”の方向にはいきにくいかと思われます。また、下記の書籍はアマゾンでは”死刑問題”では、人気上位に位置(2位)しておりました。ただ、木村氏につきましては、批判的な方もブログでは散見されました(奥様の弥生様への批判も何故か多かったです)。  門田 隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか」  下記videoをご参照いただければ、ご記憶の方もおられると思われます。  http://www.dailymotion.com/video/x2morw_yyyyyyyyy-yyyyyyy_news > よろしかったら おしえてください。(というこのような質疑応答の場で学んで行こうという姿勢になっていて やや申し訳ないのですが)。  いえいえ、むしろ、愚生こそ、学習させていただいている次第でございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > Hidocchi様の様が脱落しておりました。 深く深く反省いたしております。 本当にごめんなさい。 すみません。  全く気にしておりませんので、お気遣いは無用でございます。ただ、ご丁寧なお詫びの言葉には、厚く感謝申し上げます。  駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  mashumaro2 さんのお言葉を ぶっきらぼうにも放っておいて澄みません。いつも 様をつけてくださっているていねいな方です。  それはそうと Hidocchi さんも このmashumaro2 さんとのやり取りに参加していただきたいとも思いますが いかがでしょう? というよりわたしが応えられないところを補っていただければという虫のよいお願いになるかと思うのですが。よろしかったら 主題は広く共通ですので 規約に対しても 大丈夫かと思いますから どうぞよろしくお願いいたします。  憤り の問題。第三者から見た場合と 被害者に感情移入した場合とに分けて考えてもらっていますが なぜかご見解と同じような傾向がわたしにもあります。あるいはわたしは 感情移入がより少ないと言わなければならないかも知れません。  《罪を憎んで人を憎まず》は それでいいと思っております。  ★ ”死刑存廃問題”  ☆ 本村氏のヰ゛デオを見ましたが 正直に言えばわたしには かれは何か別の観念をたずさえているかに感じます。別の観念に振り回されているというのではなく その観念を自分のものとして自分のもとにたずさえているとは思います。  ▲ ( 門田 隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか」)~~~~~~~~~~~  何度も挫折を繰り返し、司法の厚い壁に跳ね返され、絶望の淵に立ちながらも、青年はこの日、ついに犯人の「死刑判決」を勝ち取った。  人は、これを九年にわたる青年の「孤高の闘い」だったという。巨大弁護団を一人で敵にまわして、今は亡き妻と娘のために、若者が愛と信念の闘いを最後まで貫いた――と。  だが、その裏には、この九年間、青年を支えつづけた、これまた信念の人たちがいた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 本人でなくては分からないことがあるでしょうし 当事者の話をしっかり聞かないと予断を許さないということでしょうが 何か どういう闘いでどういう信念であるのかが いまひとつ分かったという方向へ行かないようにも思っています。(言いっ放しになりますが そういう感想もあると言いたいような思いです)。  あと味のわるいことを書いてしまいました。  吹っ切っていただきたいと思います。  もう少し この質問にあたりたいと思っております。

noname#100121
noname#100121
回答No.48

bragelonne様、忍耐強くお付き合いくださいまして本当にありがとうございます。 >☆ 被害者の母娘さんに わたしのほんとうの気持ちとこころを述べたいです。 >みづからの意志行為でないものごとに振り回されるのは 気の毒で仕方ないのですが どうかそれに対しては距離を置いて欲しい。もともと隔たりがあるということです。 >他人の意志をひとはどうにもすることが出来ません。その境目を捉えて欲しい。その上で怒りを見つめて欲しい。じぃっと見つめて行ってそこから みづからの言葉をつむいで欲しい。きっとあたたかい光を宿した言葉が 自分にも敵にも 得られ与えられるのではないか。・・・   そうなのですよね。 本当に本当にその通りだと思います。 自分自身の気持ちの整理はこれでつくかもしれません。 問題は「亡くなったあの子(兄)がさぞ無念だったろう、悔しかっただろう。」と故人を想い偲ぶ気持ちだと思うのです。 病死の子の歳でさえ親というものはいつになっても指折り数えると言いますから、ましてや…。 >☆ というこの種の問題は もはや哲学が考えるよりも たとえば文学が物語にして さまざまな人物像を描いていくことによって 共同体意識を持つようになるのでしょうか。テレビドラマでもけっこう流れているのでしょうね? はい、仮名手本忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入った時期もそろそろですね)も「敵討ち」が主題です。 封建制を経た歴史を持つ日本人の意識として深く沁み込んでしまっているのでしょうか。 私の大好きな「Le Comte de Monte-Cristo」の個人的な復讐劇とはちょっと性格を異にすると思います。 そういえばbragelonne様のお名前の由来をまだお伺いしておりませんでしたが…もしや”Le Vicomte de Bragelonne”? すみません、テレビドラマは殆ど見ないのであまり詳しくはないのです。 復讐劇や敵討ちの題材って、他に何かありますでしょうか。 アガサ・クリスティの全員が犯人で一人一回ずつ刺していった、などに代表される推理小説なども復讐の題材の宝庫かもしれませんね。 なにげに日常のルサンチマンをはらしていたりもして?! >えらそうに言いっ放したままに 却ってしておきます いえいえ全くその逆で、根気強く説き続けなければならない大切なことと拝察致しております。 本当に骨が折れることと存じますし、別質問(復讐)におけるご回答も拝見させていただいた上で申し上げている次第です。 ましゅまろは頭が下がる思いで一杯なのです。 >中国では《人肉の食肉》が 一部の人びとの間では 習慣にまでなっていたとか。歴史上 中国だけではないようですが 宮刑と呼ばれる刑罰を受けて宦官がつくられました。 なるほど、そうなのですね。 中国では椅子とテーブル以外は何でも食べると揶揄されることがあると聞いたことがあります。 たしかオスマントルコのハーレムを司る男性召使(チーフ格?)も宦官でした。  アジアの専制君主に使える男性宮廷人の宿命だったのでしょうか。 ウブな私には全く想像すら出来ないことですが。 >愛するという行為に出て しかも相手の鳥黐(とりもち)か膠のようなねばねばした態度に足を取られてのように もはやもがいても出られなくなってしまうという問題。 >これは 自分の意志行為でないものについては そのそうでないという距離をつねに保つとよい そうなのですよね。わかります。本当に。 ただ、北朝鮮を思い出すと、ちょっと、と思うのです。 ですが、例のポルノ・痴漢問題を克服するには相応しいと考えます。 …「蚊がさした」とはこのことだったのですか?! >★ 理念 > ☆ につきましては 経験現実にもとづいているとは考えています。《あやまちの認め》として おのれの身体=精神において《やましさ・後ろめたさ あるいは 顔の赤らめ》といった広義の生理現象が起こる(α)。 > これは 自由平等あるいは意思疎通の可能性が 経験現実であることを物語ると考える者です(β)。 すみません、αとβがどのように繋がるのかもう少しご教授いただけますでしょうか。 >いけにえをめぐる議論として 《第三項(いけにえ)排除》の理論があります。 これは次回に必ず。 明後日の朝にまたご回答申し上げます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。 

bragelonne
質問者

補足

 ★ 忍耐強くお付き合いくださいまして・・・  ☆ いえいえ こちらこそこんなに刺激的なご見解を それもいくつも寄せられるとはと――あぁ 《知らんがな もう》と言ったからですね ついついホンネが出ました まぁうれしい悲鳴ですね―― 久しぶりにたのしくいそがしくしております。その前の primeape さんにはわるいですが ri_rong さんのご投稿の頃から ギアがかかってきたでしょうか。いえ はじめからギアは入っています。ものは言いようですけれど。かれは怒らないと思いますが 景色が変わってきたのは 実際ですね。  mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  ★ …「蚊がさした」とはこのことだったのですか?!  ☆ なつかしいですし そのこころなんですよね。ベルギーの被害者少女が 事件は関係ないんだと宣言して ボーイフレンドと会見したとか。そうすすんで行って欲しいです。  ★ 北朝鮮  ☆ を同列に語れるのか?! とお叱りを受けるのも覚悟の上で 《ゆるす・ゆるさない》の能力は どうも 人間にはないように思われます。抵抗・批判・損害賠償そして罪の償いとしての制裁・更生 これらはすべて 当然のこととしてです。  ★ 理念の αとβ  ☆ これは 《広義の生理現象であること》が 経験現実であるということです。理念も この経験現象に基礎をおいていると言えると思います。《良心の呵責》というのは 観念の想像〔だけ〕ではなく 胸の生物物理的な現象だと思います。極悪人にも同じように起こるだろうと。だったら理念は 空想ではないのではないか。  ☆☆ 食人風習  ☆ は調べたら 日本でも記録・言い伝えがあるようでした。中国では 市場価格がどうのと書いてありました。  ○ ヰキぺ:カニバリズム   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0#.E6.97.A5.E6.9C.AC  ☆☆ 宦官  ☆ については 対馬海峡は大きな防波堤になっているのでしょうか。ヨーロッパにもあるようですね。  ★ ブラジュロンヌ子爵  ☆ おっしゃるとおりです。ほんとは 英雄にあやかってダルタニャンと言いたいところでしたが 歳を考えて ぎゃくに次世代の若い人の名前にしました。でもかれは 戦死してしまうんでしたっけ。  モンテクリスト伯は ドラマで見たのですが なんと重い復讐劇でしょうか。生涯をかけてですか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問題は「亡くなったあの子(兄)がさぞ無念だったろう、悔しかっただろう。」と故人を想い偲ぶ気持ちだと思うのです。  病死の子の歳でさえ親というものはいつになっても指折り数えると言いますから、ましてや…。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここなんですよね。もしわたしが 《 sans coeur 》と呼ばれるとしたら ここなんです。親の死に悲しくはなりましたが 泣きはしなかったです。むしろうれし泣きを――と言っても 涙がこぼれるというだけですが――よくします。ワ゛イオリン演奏に泣きましたから。  言ってみれば もうわたしのこころの中に入ってしまっていると割り切っているというような状態でしょうか。無理に何とかするというわけにもいかないですし。  ☆★ テレビドラマ  ☆ たとえば町の人びとの寄り合いを 演劇の上でかたちづくって行ってもよいかと思いました。やわらぎの集まり。井戸端会議のほかにも 何かいい名前があるといいですね。  《ゆるす・ゆるさない》がわれわれ人間の能力にないという命題は どうも《自分の意志行為でないものごとと直接のかかわりを持たない》という考え方が いまのところ基本であるようです。  そしてそのように意志行為でないことは その限りで無効の行為ですから 損傷を受けたら原状復帰が必然です。むろん損傷の結果 原状がそのまま回復されることは稀れなことですから いわゆる損害賠償となります。  ということは 損害を賠償されてよろこぶわけには行かない。この気持ちが どうも《赦さん。赦せない》という発言につながるのでしょうか。  いやぁしかし まだ分かりません。取り返しのつかないことについては 前向きにかかわっていくという行き方は むつかしいのでしょうか。

noname#100121
noname#100121
回答No.47

申し訳ございません!!! Hidocchi様の様が脱落しておりました。 深く深く反省いたしております。 本当にごめんなさい。 すみません。  

noname#100121
noname#100121
回答No.46

bragelonne様、こんにちは。ご丁寧なお礼を下さりまして本当にありがとうございます。 >     ○ 与: 同意してゆるすこと。仲間になること。《与党》 >     ○ 允: 承知してゆるすこと。《允許》 ご教授下さった一連の漢字を拝見しつつ、ふと漢字発祥の隣国を想起しました。 ≪ゆるす≫にまつわる漢字の種類の豊富さもさることながら、≪容易にゆるさない≫についてです。 たしか…死してなお墓を暴き死体に鞭打つ、或いは子々孫々まで彫像を侮蔑の対象にする等々、容易に赦し水に流すを美徳とする日本とは隔たりがあった(ある)かと思います。 また、別の隣国韓国における歴代大統領の極刑判決と恩赦のパターンも日本とは何か違う≪ゆるす≫を感じさせられます。いかがでしょうか。 >☆ そりゃあもう 加害者の更生以上に被害者およびその身内の保護支援が大事です。更生の段階で 当事者どうしを会わせるということも試みられているようです。 >「修復的司法」Hidocchi さんにおそわった次の理念かつ施策。 >加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。 こちらのご教授につきましても大変勉強になります。Hidocchiにも感謝申し上げます。 欧米主導の司法システムなのですね。 修復的司法を支える共同体意識のコモンセンスも日本のそれとは異なるのでしょうか。 キリスト教といえば前回の痛ましい事件の父親が事件後に帰依していたようです(被害者少年、妹、母親は以前より信徒、両少年の通学校もカトリック系)。 また、被害者の慟哭、赦し、救済費用に関する引用を先の書より引用させていただきます。ご参考までに。 「父はよく神父さんにこう言ったそうだ。『息子が殺されたからといって、人を憎むことはできない。ただ私は平和でいたいのです』 人を憎まず、平和でいたい──。「シャローン」という名前は、平和でいたいという父の気持ちをあらわすために、ヘブライ語の「シャロム(平和)」からとったという。」(p170) 「父はキリスト教に帰依してまで兄の死を受け容れようとした。そして兄の死を納得したはずだった。だが、そんな表面の冷静さとは裏腹に、父の胸の奥底では、死の際まで無念さが渦巻いていたのではないだろうか。今でもそんな気がしてならない。」(p228) 「私は、みゆきさんの話を聞くたびに圧倒され続けた。 母親が二年近くも寝込み、髪が真っ白に変わり、自殺未遂まで引き起こしたなどとは想像もつかなかった。 またみゆきさん自身も、涙を忘れるほど感情をあらわさなくなり、親には猛然と反発し、はてはリストカットを繰り返しと、波乱万丈の人生を辿ったことに驚愕した。   とりわけ驚いたのは、母娘そろって、加害者を恨んだことがなかったと言ったことである。 恨まなかったのは、自分たちの家族を回復させ、本来の姿を取り戻すことに精一杯で、加害者を恨む余裕がなかったためだと知ったとき、あらためてあの事件の凄まじい破壊力を思い知らされることになった。… …みゆきさんは、いまだに見つめられると身体が震える。 これもすべてあの事件を引き起こしたAが原因である。 それなのにAからいまだに謝罪の言葉ひとつなく、これで「更生した」といわれても、みゆきさんやくに子さんには白々しいだけだろう。   ごく単純なことだが、Aが『更生した』といえるのは、少なくとも彼が加賀見君の遺族に『心から詫びた』ときだと思う。『更生』とは、そのとき遺族が加害者のAを許す気持ちになったときにいえる言葉ではないだろうか。」(p267-268) 「2004年度で、日本政府が犯罪加害者の更生にかける支出は年間466億円。 これでも他の先進諸国にくらべたら少ないといわれるが、被害者のための予算が年間わずか11億円と聞けば、いかにこの数字がいびつかがわかる。 これも神戸の連続児童殺傷事件以降であり、それ以前はわずか数千万円と、加害者にかける費用の一千分の一以下であった。」(p250) そして先の『少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と実印を用意してくれ、今は忙しいから一週間後に店に持って行くよ』と言い放ったA(本来なら慰謝料を払わなければならない立場でいまや地元の名士)が提示した金額はたったの≪50万円≫でした。 >罪にはきびしく人にはやさしくと言うとき 更生者には この和解と修復の道のりを自分で考えてあゆんで行けるようにと 辛く当たってのようにしてでも学ばせることが大事でしょうね。 はい、仰ることはごもっともなことでして、「更生は人生のリセットではない」という認識と罪の意識をしっかりと刻むよう処遇していくことが肝心だと思います。 上述の被害者の慟哭も加害者に罪の意識と謝罪があれば多少は緩和されたでしょうか。 そしてさらに私が思うことは、加害者少年もまた、当時の社会の縮図として犠牲者となった部分が少なからずあるのではないかということです。 たかだか14歳の少年、尋常ならぬ惨劇をもたらした当時の彼の心境だけを特異化して考察したり、事件を風化させてはならないはずです。 また、北朝鮮問題にも通ずるような被害者家族への世間の風当たりと現状の日本社会の支援活動の実態を鑑みても、なにか社会そのものにはスケープゴート(=被害者への差別意識)が必然なのではないか、その予防としての何か理念はあり得るのだろうかとも思いました。 >☆ 触らぬ神にたたりなしといった考えですよね。小学生の時から 修復的司法ないし町における和解会議のことを学ぶとよいかも知れないとは思うものの・・・です。 はい、本当にその通りだと思います。 小学生には「加害者の犯した犯行と更生に関する修復的司法、和解会議の必要性」を諭しながら、なお犯罪の芽を摘むべく、社会全体を通じて「社会のこどもたち」として目をかけることも大切と考えます。 簡単なようで結構難しいことかもしれません。 また、こどもの親世代の(共働きなどの理由による)地域社会への参加促進とコミュニティ意識の高揚は言わずもがな、高齢者の諸先輩方のお知恵とご助力が更に望まれるところとお願い申し上げる次第です。 >★ 「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。 >☆ 長い目では 然りと答えていくべきなのでしょうね。 はい。私もそのご意見に賛同致します。 但し、仮に惨劇の被害者家族になってしまった際には、心変わりするかもしれません。 すみません、移り気で。 以上、昨夜の補足もかねてご回答申し上げました。 被害者関連に関してはもう申し述べることは冗長ですので私の方からは控えさせていただきますね。 長文をお目通しいただくだけで十分感謝致します。本当に有難うございます。 また、信仰類型論に関してもゆっくり拝見させていただきたいと思います。 ちなみに私はbraglonne様の「意見を少しでも近づけるため」の対話の試みを高く評価するスタンスです。 意見の相違は致し方なくても、お互いの理解に少しでも努めることが何よりも肝心だと思うからです。 >男女の違いの説については 引っこめます。 >《愛していた》ではなく 《そのとき雷が走ったごとく愛した》という想定(読み)になるでしょうか。 いえ、bragelonne様の男女の違いの説は、私にはとても斬新に映りました。 ひっこめなくても全然よろしいと思います。 ≪そのとき雷が走ったごとく愛した≫など、どこからこのような絶妙な表現が出てくるのだろう?とも感じました。 作家の水村さんならよろこびそうな。 はい、そうですね、bragelonne様のお勧めもありましたので、早速本日から読み進めることに致します。 「本格小説」は、何と申しましょう、行間に隠れた「孕み」(=感情)を想像するのが一番の醍醐味かもしれませんね。 小説に限らず、たとえばこちらでのやり取りのように、日常使用する語彙の持つ多義的で曖昧な「孕み」によって対話の展開がうつろうのと若干似ておりますでしょうか。 私には「本格小説」が「心境小説」としてカテゴライズされることを理解するよりも、bragelonne様が「本格小説」に対し「う~ん。はっきりせい!」と困惑なさるご様子を想像する方が容易なのですが?!

bragelonne
質問者

お礼

 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性あるいは同じ歌の合唱という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見なされない。  そこで 一定の基準を持とうとする。この誰にも共通の基準となるものが 《第三項》である。  第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。このときそ社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項 たしかに《除け者》として扱われる。  第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 互いの承認が実現し 人びとは安心して安定した《仲良し》状態となり《秩序》を楽しむと言います。  このような傾向を人類は 悲しいかな残念なことに持っているのだと。今村仁司『排除の構造――力の一般経済序説』1992です。  もっとも そもそもにおいて自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。  排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを《聖化》すると言います。呪われて去った除け者を 生け贄と見なし それに聖性を付与する。  したがって今度は この《聖なる第三項》を みなであがめる。このことを通して あらためて秩序と安寧をたしかなものにする。  ですからそこでは はっきりした敵が新たに出来たなら 戦争にまでも 社会がこぞって容易に飛びつくことができる。うんぬんと。  字数ぎりぎりです。ごあいさつをはぶく無礼をおゆるしください。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  mashumaro2 さんの湧き出るような社会公共的な共通感覚から繰り出されるご発言には たぢたぢです。これは いまはわたしは 急がば回れをひとつの方針にしている事情ゆえとは思っております。重心をまだ移さないでいようという心づもりです。(その前は 信仰と神学でしたから。さらにその前は ふつうの人間でした)。  さてお応えのしやすいと思ったところまいりますが。  ★ 私には「本格小説」が「心境小説」としてカテゴライズされることを理解するよりも・・・  ☆ これは前回 両方とも大きく《読み》の自由な成果として捉えるならば カテゴリのような区別にはならないと理解したのですが どうでしょう? どちらも文学である。文学とは スサノヲ市民の自治・自立そして共同自治を扱う表現形態であると。  ☆★ 雷が走ったごとく  ☆ これは 《 coup de foudre 》だったですよね? ぱくりですよ。  ちらぁっと思ったのですが――まだお読みになる前に敢えてですが―― よう子のほうが この雷の一撃を初対面で受けて しかも《殺したいと思う》ほどであったところ その気持ちを相手の太郎が引き受けてしまったということはないでしょうか? もしくは二人とも同時にであったか。――ううーん。いや 分かりません。全体として辻つまが合わないとだめですよね。  ★ 《ゆるし》をめぐる日中韓の比較対照  ☆ やはりまだこれから学ぶという感を深くしますが 聞くところによりますと 中国では《人肉の食肉》が 一部の人びとの間では 習慣にまでなっていたとか。歴史上 中国だけではないようですが 宮刑と呼ばれる刑罰を受けて宦官がつくられました。韓国朝鮮でも オリンピック会場になった場所は チャムシル(蚕室)というところで そのような形をした建物の中で 去勢の手術をしたと聞きます。  日本はほとんどこれを受け容れなかったようです。これらは 牧畜(それへの去勢習慣)の関係からでしょうか。たとえばこういった慣習が影響しているのでしょうか。  交流が望まれますね。  ★ 更生したと世間では言われる少年の問題  ☆ この少年には どういう言葉を言えばよいか分かりかねています。それでこちらは放っておいて 被害者の母娘さんに わたしのほんとうの気持ちとこころを述べたいです。  みづからの意志行為でないものごとに振り回されるのは 気の毒で仕方ないのですが どうかそれに対しては距離を置いて欲しい。もともと隔たりがあるということです。  他人の意志をひとはどうにもすることが出来ません。その境目を捉えて欲しい。その上で怒りを見つめて欲しい。じぃっと見つめて行ってそこから みづからの言葉をつむいで欲しい。きっとあたたかい光を宿した言葉が 自分にも敵にも 得られ与えられるのではないか。・・・  (えらそうに言いっ放したままに 却ってしておきます)。  ★★ 事件当事者が帯びる有徴性の問題 言いかえると 人びとが落ち入りがちな「異質を排除する」性質  ☆ これには――失念していましたが―― いけにえをめぐる議論として 《第三項(いけにえ)排除》の理論があります。  まづ 人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかも その自由への変身を まちがって追い求める傾向があると。    独立主観であっても基本的に 関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。そのとき ややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。  この承認欲望がおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。

noname#100121
noname#100121
回答No.45

bragelonne様、こんばんは。遅くなって申し訳ございません。 先の拙文につきbragelonne様が≪ゆづる≫を示して下さったように思います。 また、漢和辞典でお調べ下さって本当に有難うございます。 私など、全く思いもよらず、大変勉強になりました。 No.36の補足を拝見致しました。  ○ 悪人や罪人にやさしく 悪や罪にきびしく。  ○ あやまちをおかした人にやさしい社会。  ○ これを 隣近所 町や村でならわしとする。 仰ることはお世辞抜きで大変素晴らしいものと思います。 ですが残念なことに、高い理想を掲げるほどに、世知辛い現実の酷さが露呈するように映るのです。 この理念を推し進めるにあたって更に考えるべき事柄が幾つかあるように思いますので補足要求させていただきます。 「あやまちをおかした者を赦す」というのは哲学の命題になり易いのだと思います。 また、共同体社会そのものが独自の使用言語(方言)や風習などの文化による「自他の差異性を認める」「異質を排除する」性質を有しています。 ある犯罪が生じた際、事件を通じて加害者、被害者ともに「有徴性」を 帯びるのです。 裁かれる被告人として加害者は公私ともに非難を浴びるものの、一連の裁判上、人権という観点からは最低限守られていると考えます。 ですが被害者はどうでしょう。 先の一昨年に成立した改正法により、殺人、強姦等の被害者家族は検察官を通じて裁判長に申し出ることが可能となり、晴れて許可された暁にようやく「被害者参加人」として一定の範囲で参加できるようになったばかりです。 また事件後に強いられる被害者の心身の苦痛は尋常ではなく、十分な補償を受けられず、相対的に加害者のそれより冷遇されているのが現状なのです。 『心にナイフをしのばせて』(奥野修司/文藝春秋刊)というノンフィクションをご存知でしょうか。 昭和40年代、高1の少年が同級生を殺害し(47か所めった刺し、かつ首を切り落とし放置)、少年院に収容され国家から無償で教育を享受し、出所後に大学を卒業し弁護士として「更生」した人物です。 かたや殺害された被害者の母親は苦しい年金生活を強いられ、少年からはロクな謝罪や賠償もなく、「お金がないのなら金を貸してやる。印鑑証明と実印を持って来い」とまで母親に言い放ったとされています。 これは本来の少年法が犯罪を犯した少年に対する保護処分と責任(刑罰)を課するべきものにもかかわらず、実際は一生償うべき責任認識や被害者家族への謝罪をおざなりにしてまで加害少年の更生第一と変質してしまっているたとえです。 むろん加害者全員が罪の意識を背負わないとは全く思いません。 ですが、中にはこのような輩もいるのです。 ですから、 > (2) 加害者の更生をどうあつかうか。 >法律の問題を望み見ながら 共同体がどう対処できるか。どう対処するか。 に関しては、加害者の犯した犯罪の程度質量を相応に鑑みたのちに、「更生≠敗者復活戦」と罪の認識、再犯防止と監視強化(出所後の被害者宅へのお礼参りの防止)、並びに被害者家族への全面的支援(カウンセリング費用や休職手当の拡充)が求められますし、共同体も一丸となって支援すべきと考えます。 そしてこれが完璧に成されてから加害者の更生を考えるのがスジではないでしょうか。 そして >人間交通のあり方→ここでは特に 町における生活共同のあり方 > →ひとりの個人が《赦せない》事態に遭ったとき  > (1) その憤りと憎しみと恨みをどのようにあつかうのか。 やはり≪赦す、赦される≫当事者間の問題と捉えます。 たしかに日本は法治国家ではありますが、被害者の憤り憎しみと加害者の更生とでは果たしてどちらが尊重されるべきなのかという問題だと思います。 ちなみに被害者の権利利益の保護のための刑事訴訟法の一部改正法が一昨年ようやく成立したばかりで、それ以前は被害者は加害者に対して損害賠償を求めるために民事訴訟を提起する必要があり相当苦痛を強いられたものと推察致します。 「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。 刑に服せば犯罪を犯した「有徴性」は薄まっても、被害者に刻印された「有徴性」は何ら薄まるどころか生きることさえ望みを絶たれるかもしれません。 社会の内に生きる私たちは多かれ少なかれこうした事件の「有徴性」と隔てた自分たちを暗黙のうちに認め安堵しきっている部分があると思います。 高い理想理念を掲げるには、まず何よりも、共同体社会を構成する一人一人の意識の高揚が一番欠かせないと思います。いかがでしょうか。 少しご意見を伺いたいと思います。 長くなりましたので、他は次回にまわさせていただきたくよろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  いやぁ むつかしくなってまいりました。  まづ訂正があります。  ☆☆ No.37お礼欄  まちがい:○ 与: 同意してゆるすこと。《允許》  ただしい:~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      ○ 与: 同意してゆるすこと。仲間になること。《与党》      ○ 允: 承知してゆるすこと。《允許》      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まづ Hidocchi さんにおそわった次の理念かつ施策を確認します。  ◆ (No.46回答:“修復的司法”) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。  加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。  欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そりゃあもう 加害者の更生以上に被害者およびその身内の保護支援が大事です。更生の段階で 当事者どうしを会わせるということも試みられているようです。  いくつか大事な問題点を挙げていただいています。  ★ 「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。  ☆ 長い目では 然りと答えていくべきなのでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  刑に服せば犯罪を犯した「有徴性」は薄まっても、被害者に刻印された「有徴性」は何ら薄まるどころか生きることさえ望みを絶たれるかもしれません。  社会の内に生きる私たちは多かれ少なかれこうした事件の「有徴性」と隔てた自分たちを暗黙のうちに認め安堵しきっている部分があると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 触らぬ神にたたりなしといった考えですよね。小学生の時から 修復的司法ないし町における和解会議のことを学ぶとよいかも知れないとは思うものの・・・です。  罪にはきびしく人にはやさしくと言うとき 更生者には この和解と修復の道のりを自分で考えてあゆんで行けるようにと 辛く当たってのようにしてでも学ばせることが大事でしょうね。  ★ 「異質を排除する」性質  ☆ これは 島国根性でしょうか。これはある程度 哲学の問題としても扱えるでしょうね。手前味噌になっておもはゆいですが わたしには信仰類型論という議論があります。ちょうど先日 amaguappa さんとやり取りした質疑応答がありますので よろしかったらざっと目をとおしていただければさいわいです。  【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html  いま調べたら長い応酬になっていて申し訳ないようなのですが No.55・111・*139・*164・167・226で * 印の二件に信仰類型論を書いています。  けっきょくこのように 基本的な考え方をおさえておこうという或る意味で横着な出発だったかも知れません。具体的な議論や施策にはまだ踏み込まないという考えを じつは むしろ持っています。つまり 長期的な見方をしようという心づもりではいます。  でもここまでのことを学べて わたしもありがたいと思っています。  どうなんでしょう? ここまで来ると  ★ やはり≪赦す、赦される≫当事者間の問題と捉えます。  ☆ というこの種の問題は もはや哲学が考えるよりも たとえば文学が物語にして さまざまな人物像を描いていくことによって 共同体意識を持つようになるのでしょうか。テレビドラマでもけっこう流れているのでしょうね?  愛のパラドックスの問題もありました。  愛するという行為に出て しかも相手の鳥黐(とりもち)か膠のようなねばねばした態度に足を取られてのように もはやもがいても出られなくなってしまうという問題。  これは 自分の意志行為でないものについては そのそうでないという距離をつねに保つとよいのではないかと考えました。この点も さらに進めてすっきりとした見通しが得られればよいと思います。  実際編・現場の問題 これにはまだへっぴり腰でいて歯痒く思っていらっしゃるかと思いますが ただし出していただくことがらについては 受け留めてまいりますので よろしくお願いいたしたいと思います。

noname#135843
noname#135843
回答No.44

 こんばんは、Hidocchiです。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。  また、Wikipediaにて補足してくださりまして、厚くお礼申し上げます。 > 町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  申し訳ございませんでした。愚生の舌足らずでございました。今回は司法のみのご説明となっておりました。 単に、司法の面から見ましても、共同体(コミュニティ)による“更生”の可能性が示唆されているわけでございます。従いまして、「他の(司法だけでなく)コミュニティによる協力体制」により、更なる“更生”効果が望めるのではないでしょうか? ということでございます。  別言しますと、社会での現実生活におきまして、コミュニティが自然と(自ずから)、かような“更生”等の諸問題を課題として取り組んでいくということは、ベストな状態かと思っております。 > ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  確かに、仰るとおりかと存じます。ただ、こうした風潮(無視 or 空気による判断)をどのようにして排除していくことができるのかという問いに対しましては、現時点では、愚生には知恵はございませんが..... > 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。  以下に愚見を述べさせていただきます。 (1)《私的報復》の否定について  2つの考え方があるようです。ただ、“復讐の連鎖”の阻止という概念は共通にあるようでございます。 1. 国家により、被害者の代わりに報復する。復讐の権利あり。 2. 社会秩序を守る。復讐の権利なし。  なお、本国でも明治6年2月までは、復讐(仇討)が認められていたようです(太政官布告第37号として、仇討禁止令が発布)。ただし、その権利を行使できるのは、武士階級のみだったそうです。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E からでございます)  おそらく、上記2説におきましても、主張者の信条に関わるように見受けられました(単に、ブロブで適当に見ただけなのですが)。  例えば、“復讐の権利あり” とは、加害者の心情を汲み取ったものであろうかと考えられますし、一方、“復讐の権利なし” では、一般的には、国家権力への危惧感を抱くひと、死刑廃止論者に多いように察せられました。 (2)《自力救済》の否定について  ただ、民法に入るだけで、趣旨は上記と同じかと考えられます。ただ、「通説・判例は原則禁止の姿勢をとっている」 そうです。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E6%95%91%E6%B8%88 からでございます)  ご参考になれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ありがとうございます。よく分かりました。  わたしは 私的報復で検索していたので 見つからなかったようです。急いでそうしただけに終わってしまいました。  まづ 次のように公共の機関との連携は必要であるように思うようになりました。  ▲ (ヰキぺ:自力救済) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、自転車が盗まれて犯人と自転車の所在が分かっているとき、この自転車を奪い返す行為は自力救済にあたり罰せられる。  こうした自力救済を容認すると、力が正義ということになり、実力行使を請け負う私的機関がはびこって社会秩序の維持が難しくなるためである。近代化にともない、権利のあるなしの判断や執行は裁判所によってなされるべきとされ、私人の介入を排した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 市町村を単位として権力を考えてもよいかと思いますが 司法との連携も必須なのでしょうね。うかつでした。  この説明は けっこう分かりやすいように思います。しかもそれでいて 殺害事件などに到ると 遺族の悲しみと怒りとは 《赦せぬ。死刑を要求する》となりがちです。(そう言えば この種の回答もあったようです)。自力救済の不可を受け容れても 刑罰には 個人の主観が介入しているかに思えます。やむを得ないのでしょうか?  つまり 罪のつぐないとして極刑を望むという《憎しみ》の公共化も 感情や心情として一般に強いようです。なかなかこれをなだめることは容易ではないと思われます。  例外についても述べているようです。  ▲ (ヰキぺ:自力救済) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 民法のなかで自力救済を規定した条文は存在しない。しかし通説・判例は原則禁止の姿勢をとっている。  ○ 1965年の最高裁判決では、当該事件そのものについては自力救済にあたるとして棄却したものの、一般論として「力の行使は原則として法の禁止するところであるが、法律に定める手続によったのでは、権利に対する違法な侵害に対抗して現状を維持することが不可能または著しく困難であると認められ緊急やむをえない特別の事情が存する場合においてのみ、その必要の限度を超えない範囲内で、例外的に許される」と述べた。しかし判決として自力救済を容認した例はほとんどない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 緊急避難という場合で それとしての例外規定はふつうということなのでしょうか。そうなのでしょうね。  感情の扱い方 これが気になっております。《触らぬ神にたたりなし》の風潮と比例しているのでしょうか。そうではなく 人間のこころの底から起こる憤りなのでしょうか。  死刑廃止論をめぐっては わたしのほうからは深入りしない方針です。(ずばり切れるという理論がありましたら おしえてください。ただし 死刑は 刑罰には該当しないという理論はあるそうですね)。  よろしかったら おしえてください。(というこのような質疑応答の場で学んで行こうという姿勢になっていて やや申し訳ないのですが)。

noname#131237
noname#131237
回答No.43

>人知は たぶん自分で 最悪の場合などを想像すること >を言うのではないでしょうか? こういう発言に偏差値はないのでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 そうですね。補足要求と言われても おっしゃっている意味が採れません。  まづこの発言にも とうぜん 文脈があります。回答者の発言を受けてのものであることを踏まえて欲しいと思います。  踏まえているということでしたら   ★ 発言に偏差値がある・ない  ☆ という意味がよく飲み込めないのですが どういうことなのでしょう? 大した内容の発言ではないという意味でしょうか?  もしそれだとしても その理由を述べるのが きわめてふつうの投稿だと考えます。

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    今年から法律に興味を持ち、学び始めたものです。 法における制裁には、民事制裁・刑事制裁・行政制裁の3つの種類があると知りました。 そこで、質問なのですが、 もし、交通事故の加害者が母親、被害者が実の子どもだったとします。 子どもがけがを負った、もしくは亡くなってしまった場合、それぞれ3つの制裁の意味は何なのでしょうか。 加害者でもあり、被害者家族でもある母親には何らかの制裁が与えられるのでしょうか。 また、 被害者である子どもの実の父親と、加害者の母親が結婚している場合と、離婚していた場合では制裁に違いが出てくるのでしょうか。 非常に気になっているのですが、調べても自分では結論が出なくて・・・。 ぜひ法律に詳しい方にお力をお貸しいただきたいです。 質問がたくさんあって、分かりにくくすみません。 補足したほうがよいところがあれば、教えていただけたら補足させて頂きます。 どうかよろしくお願いします。

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • いじめ裁判 敗訴

    子供が自殺している時点でいじめがあったと分かるようなものなのに、なぜ裁判官は被害者の訴えを退けるのでしょうか? 加害者の写真も公開されない。海外ではネットいじめで自殺させた女子生徒二人の写真をテレビで公開し、加害者の親にも直接インタビューしていました。 学校側が隠蔽したがっているのは明らかなのに? 大津の加害者は少年院に入れられず、まだのほほんと暮らしているとか。 いじめ加害者は社会的制裁としても少年院に入れるべきでしょう。加害行為を行ったものにしかるべき制裁がなければいけないと考えているのですが。 回答お願いします。

  • 教師いじめ問題

    被害男性教諭が警察に被害届を出しましたけど 問題から事件になりつつありますけど… 個人的にはこれはれっきな犯罪行為であり、逮捕されて、名前と顔を出し、社会的制裁受けなければならないと思いますけど どう思いますか?

  • 法律関係が分かりません。

    こんにちは。いつもお世話になっております。 法律について考える機会があったのですが、 私は法律初心者のため、結論を出すことができませんでした。 どなたか、アドバイスをよろしくお願いいたします。 事例 Aは、B株式会社に入社以来、C課長の執拗な嫌がらせに遭い、「早く辞めてしまえ」と言われ続けてきたところ、ある日、書類の作成ミスに対する制裁として暴力をふるわれた。 この事例について次の(1)(2)の質問に対して説明してください。 (1)一般論としてA,B,C三者間の法律関係はどのようなものであると考えられますか。 (2)Aは、訴訟を起こしてでもC課長に謝罪してほしいと考えているが、 仮に訴訟になったとしたら、どのような結論になると思われますか。 私は、 (1) 法律用語がよく分からないので、回答できません。 Aは、被害者、Bは、加害者でしょうか。。。。。 (2) いくら、仕事でミスをしたといえ暴力は許されないから、 Aが訴訟を起こしたらAが勝つと思います。 このような貧弱な回答しか出せないので、 どなたか、この問題に結論を出してください。 よろしくお願いいたします。

  • 氏名公表の考えは「魔女狩り」の精神ですか?

    いつもお世話になっています。 先日「おにぎり食べたい」と言って餓死された方がいました。 その後市の調査で「収入などを調べることなく男性の生活保護を不法に廃止していたことがわかった」と報道されていました。 不法と市が認めた以上、何らかの法律的な処置が市の名で行われるのでしょう。しかし失われた命は戻ってきません。何も調べず生活保護辞退届けを提出させた役所の人間を「殺人者」と私は思っています。 公務員ですから個人で責任を負うことは決してないのでしょう。責任も追及されることは無いのでしょう。しかし、報道の一部が勇気を持って?個人名を出すと言うことは無いのでしょうか?こう考えるのは「魔女狩り」の精神ですか? 私は、この事件を起こした公務員にきちんと責任を感じてもらいたいと思っています。その為には社会的制裁を民間人同様に受けてしかるべくと思っています。氏名の公表は社会的制裁の一つと思います。問題を起こした公務員の名を出すと言うことは、二度とこの様な事件を起こさないと言う抑止力になると思います。しかし、こう考えるのは危ない精神の現れかも?とも考えます。自分でもよく分からなくなっています。宜しくお願いします。

  • ネット上での批判について

    ネット上で他人を批判することは今も昔もよくあることだと思います。 特に最近ではいじめの問題や違法行為をした人に対するバッシングをよく目にします。 非人道的な事件や国民が恥をかくような事件は確かに憤りを感じますし、それに対する意見をネット上で言いたいと思う人も多いはずです。 しかし、これが度を過ぎている・本来の意図と違っているのではないかと最近感じます。 いじめの問題では、過熱したネットの人々が犯人捜しを進め、様々な憶測が飛び交いました。 個人情報を載せたり顔写真を無断で公開したりもしていました。 しかし中には誤った情報や誤解が発展したものもあり、実際に無実の人がバッシングを喰らって傷つくということまで起きました。これは最近もあったので覚えている方も多いと思います。 違法行為をして取り上げられた人物に関しても、バッシング・批判が集中するのはよくあることです。 罪を犯すことはもちろんその社会の中に所属している限り許されることではありませんし、 周りの風当たりが強くなるのは仕方ない事だと思います。 しかし、過度のバッシングや批判に耐えきれず、自ら命を絶ったという事件が何度かあったと記憶しています。 ここで疑問なのですが、社会的に良くないことをした人たちとはいえ、一般市民がネット上でその人の個人情報をさらすという行為は、問題ないといえるのでしょうか。 犯罪者や悪い事をした人だからと言って、私たちが個人・集団のレベルでこのような制裁行為を行う権利はあるのでしょうか。 個人の基準と社会の基準と違いはありますが、構造上はいじめと大差ないような気がします。 (そういう人に限って「いじめはよくない」なんて言うものですが・・・) 法律に関しては素人なのですが、社会的に悪だから制裁していい、いじめてもいい・・・というのはどうも個人の価値観が混入している気がしてなりません。 また、最近ではSNSやまとめサイトなどで、批判を加速させるような投稿が多く見受けられます。 中にはコラージュを作って馬鹿にしたり、事件と関係ない個人の「ディスり」などもあります。 どこか事件の人物をネタにして盛り上がりたいという動機が強いように見えて、このような風潮に危機感を覚えます。 批判をしている人たちの多くが真面目に問題について話し合うのであれば問題ないと思うのですが、そうではない人たちのほうが多いのではないかと感じています。 心理学的に、事件に対して抱く不安に対する一種の防衛反応が、ネットの匿名という性質(厳密には違いますが)や集団心理などと絡んでこのようになっているのではないかと考えているのですが、一つの社会問題になりつつあるのではないかと思います。 ネット上の批判・叩きなどの行為について、皆さんの意見をお聞かせください。 感情的な意見や冷やかしは求めていません。 真面目に話し合いたい方の意見をお聞きしたいです。 法律や社会学・心理学、またはこういった内容に通じている方の意見ならぜひ参考にさせてください。 長文失礼いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

  • いじめ加害者の家族

    いじめ自殺事件の加害者の個人情報がネットに流され、 家に脅迫状や脅迫電話が殺到し、 「もう耐えられない…」と親やきょうだいが泣いているそうですが、 未成年のした事である以上、 その親等への社会的制裁はやむを得ないのでしょうか?

  • セクハラの仲裁について

    会社で総務部に務めているのですが、派遣で働いていた女性の家族、その他数人から「セクハラされている」と怒鳴り込まれ、「誠意を見せろ」との苦情を頂きました。女性本人からは派遣会社にも、会社の総務にも相談が無く、突然でした。 会社側で調べた所、担当上司が密室になった時にセクハラに当たる行為をした事実を確認したため、その者を解雇する処置をし、女性にも会社からお見舞いをいくばくか支払ったのですが、加害者は被害者の家族より賠償金を払うことになったようです。 裁判にするとお金がかかる、加害者が家族に知られたくないだろうという所を突いてのことだと思うのですが、後日、弁護士に聞いてみたところ、この件を総合的に判断した場合の賠償金としては高すぎる金額だろうと言っていました。 加害者のしてしまったことは悪いことですが、解雇という社会的制裁も受けて、高額な賠償金ですからかなり厳しいかと思います。また、女性側も会社も全く相談をしてこなかったという事実もあります。 今回、初めてのことで会社として正しい対応であったか不安です。セクハラ被害者の相談場所はかなりあるようですが、セクハラ問題の仲裁について相談をする組織があるようでしたら教えて下さい。

  • この国の法律はどうかしている!!

    今まで何かある度に法律相談へ行きました。 不法行為に遭った時、公平を取り戻し、被害の回復を望む場合、法律に頼るしかないと思いまして。 しかし、ほぼ毎回、なんらかの理由で、「難しいだろう。」と言われてしまいます。酷い被害に遭って、例えそれは人生を変えるような被害であっても。 真実は一つしかない。普通の常識的な考えであれば、私の遭った被害は事実であることも推定できるのです。 しかし、毎回、毎回、訳の分からないほかの推測が言い出されます。こういう推測を完全に覆せない限り、丸で相談者の私が嘘を言っていて、こういう推測のほうが真実かもしれないのような感じでした。聞いている当事者のこちらまで、真実は別にもあるじゃないかと思ってしまうほどです。 そして、毎回、しょうがない、難しいという結論となります。 ほかにも被害者が泣き寝入りしなければいけなくなる、訳の分からない理由が一杯あります。 この国の法律は本当にどうかしていると思いました。 法律の機能は社会正義と秩序を守り、被害者を守ることにあります。しかし、今の現状では悪質が加害者は酷いことをしても、頑なに認めていなければ、安易に法の処罰から逃れることができます。何の落ち度もない被害者には被害の回復もなく、泣き寝入りばかり強いられてしまいます。 こんなのどうかしています。 社会正義、秩序を守り、被害者を守る、今の法律はこの機能をキチント果たしていないです。 民事事件では慰謝料の相場はあまりにも低く、加害者を処罰する意味では全く機能していません。 刑事では一人殺したって、所詮10年~15年程度の実刑です。最近6年の判決も出来ました。丸で被害者よりも加害者の権益のほうを考えているようなものです。 この国の法律はどうかしています。根本的に間違っているような気がします。 皆さんはどう思われますか。