• 締切済み

「自我」という言葉をどう解釈してますか。

bananasandの回答

回答No.9

>違いがあるなら、知りたいのです。 それを知りたがっている人のことじゃないですか。

yy8yy8az
質問者

お礼

 それを知りたがっている心。  で、どうでしょうか。  ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 意味深な回答なので、単純な頭では少々時間をかけて考えてみないと。  ちょっと待ってください。

関連するQ&A

  • 哲学における自我の話を持ち出してみました

    悪夢の葛藤は今、君たちに何を回顧させるか? 過去からの亡霊。 Primeape 〈オコリザル〉だ。 今回は自我論に関してだよ。 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感したり、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していら。 それド同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 さて、今回はPrimeapeという8年ほど前に退会した旧IDでさんざんやっていた仏教研究を久しぶりに引っ張り出しました。自分で納得していたんでわざわざ続きをすることはなかったんだけど、まとめてみると何か研究を先に続ける意見でも集まるのではないかと思って質問しました。 学問カテゴリーの研究会として、自由にご回答ください。

  • 自我の解体なさってますか?

    自我の解体、というコトバをお聞きしたのですが、教えてくださったかたが退会されてしまったので、自分で検索してみたら、仏教関係のコトバなのか他にもあるのか、よく分かりませんでした。 自我の解体、どうやってなさってますか?

  • 仏教は「性欲」及び「恋愛欲」という煩悩をどうとらえているのか?

    仏教の教えによれば、(簡単に言うと)「全ての苦しみは煩悩から来るものだ。だから修行をして煩悩をなくせ」ということになりますよね。 ですが、性欲は簡単に「処理」をすることができても「恋愛欲」については「処理」をすることも「なくす」こともなかなか難しいことだと思います。 私は一般人であり、修行僧でも何でもありませんので、山にこもって恋愛欲をなくそうとするつもりは(少なくとも今は)ありません。 ですが、この恋愛欲によって現に今、私は苦しんでいます。「大切な人」がおらず、孤独であることに苦痛を覚えています。 この解決方法として仏教はどのように答えてくれるのでしょう? 仏教にこだわらなくてもいいかもしれません。他の宗教や哲学・思想・学問等によってこの苦しみが癒されるのであればそれもいいと思います。 思想系に詳しいお方のアドバイスを頂ければと思います。どうぞよろしくお願い致します。

  • インド哲学では 《自己と自我は違う》らしい。

     ▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・チッタ)とは峻別されています。  (い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調されています。  (う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。  (え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。  (お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。  (か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因も持ちません。 ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。  (き) それに対して 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ その我執があらゆる迷妄のもととなり 人を苦しみの輪廻的な生存に縛りつけるのです。   (『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008  pp.149-150 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。  (け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。  (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。  みなさんの読みは いかがあい成りましょうか?

  • 美しさについて

    素朴な疑問です。 私は、花を見ると「美しい」と感動し、元気がでます。 美術館に行って、絵画を観ても「美しい」と感動し、元気がでます。 私は男性ですが、内面・外面含め、女性に対しても同じ心の動きかもしれません。 しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが、 東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。

  • 自我の崩壊

    高校生の時の友達が、父親と仲が悪くてここ1年ほど顔を合わせても一言も会話をしていないらしいのです。 なぜ父親としゃべらないのかというと、友達にとっては父親が抑圧的な態度を取っているように思うらしく、昔はがまんして話していたけれど、そのときには自我が崩壊しそうになったからだそうです。 よく分からないのは「自我が崩壊する」という言葉です。 辞典で調べてみたところ、自分の存在を否定されたりして「自我」が傷つけられそうになると、「防衛」が作動し心の安定を保つ仕組みになっているというようなことが書いてありました。 自我が崩壊するということは、守るべき自我そのものがなくなってしまうということですよね? これはどういう状態なのでしょうか。 また、一度自我が崩壊してしまったら、どうやって自我を再構築したらいいんでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 1.近代的自我とは 2.自我と自己の違い

     いつも大変お世話になっております。  現代文(高校)のなかで、「近代的自我」という言葉が出てくるのですが、 辞書で調べても、受験参考書で確認しても、漠然としか分かっていません。  お分かりの方がいらっしゃいましたら、高校生でもわかるように具体的に 解説いただけないでしょうか。  それと「自我と自己」の違いについても併せて教えて頂けると助かります。  よろしくお願いします。

  • 自我研究の意義は案外疑問が挟まる。

    すり抜ける風の声は、その意味を君たちが理解できるなら、「さようなら」だ。 木霊は常に君たちにそんな風におどけるとも。 実在する妖精 セレビィだ。 今回の前提↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html そこから抜粋。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 まあこれだけだといいたいことは伝わらないね。 物理学とかには新しい哲学が求められていてね。 そもそも哲学で予言された原子の科学的検証に成功したからこそ、原子の発見という成果が上がった。 哲学者が証言したのではない、科学者の証言だ。 さて、人類に学びの原点は神学だろう、このことに異論があったらそれも回答で寄せてくれ。 哲学は歴史と並んでその神学から早いうちに派生した学問だ。 哲学が原子に言及した目的は、神学と共通項のある、宇宙観、世界観といった研究課題で、基盤となる原理の検証とかの意図だろう。 さて、原子は解明されたね。 だからどうした。 宇宙はいまだ謎のままだ。 現在の宇宙論は、おおむね現在の手法での観測の限界についてを、たたき台にした仮説だよ。 これと同じだ。 人間玉ねぎ論で自我が解明したとして、総括的に自己を解明したことにはならないんだ。 自らとは何者か? それの解明でない。 まあこんなこと書いてみたよ。 学問カテゴリーの研究会として無駄な抵抗をしてくれ。

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 自分探しと自我の確立

    私は洗礼を受けたばかりのクリスチャンなのですが、信仰に疑問を持ち、理屈っぽいキリスト教批判をして、牧師に相談しました。 もらった答えが「デカルトの発見した近代自我の常道であるところの自己から出発する思考は、どんなに突き進んでも信仰にいたらず、自分探しに終始します。救いを信じることから始めましょう」というものでした。 しかし私には、自我を超えて信じることも難しい上に、デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも、それを前提にして、倫理や価値を見出していく自我を確立できずにいます。 生まれてから何十年間も、親や妻、周囲の倫理、価値を借りて生きてきたことに気づきました。親と絶縁後、昨年妻が亡くなり、しばらく時間を経て、気づくと道しるべを失ったように思います。日本人として、西洋における近代的自我さえ獲得できていなかったのでは、とも思います。 そういう悩みを哲学した方はいないでしょうか。何かこれから生きていくためのヒントを探しています。