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自我の解体なさってますか?
自我の解体、というコトバをお聞きしたのですが、教えてくださったかたが退会されてしまったので、自分で検索してみたら、仏教関係のコトバなのか他にもあるのか、よく分かりませんでした。 自我の解体、どうやってなさってますか?
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お礼
自我ができるとき同時に維持の原理が働き、そして価値観が貯えられて行くのは生命現象における必然であることも強調しておかなければならない。我々は生きて適応するために価値観を貯えざるを得ない。それならば洗練された教義を持つ"教え"に幼児のうちから触れさせておくのが得策というものであり、教えに疑問を感じ始めるほどに思考力が発達した頃、価値観からの解放を目指せばよい。この、解放の発想がなければ、教義を植えつけることに大きな躊躇が生じて当然であろう。 「クライエントは、嫉妬という表現を与えたが、後に、ライバルという表現を発見し、それから一気に仲が良くなった」 「かれにとっての」死 「われにとっての」死 戦うためのの土俵と武器は人それぞれ 一言惜しんで百しゃべる いらんよいらんよイライライラ(受容;) 勧誘電話のデータベース 先物取引勧誘電話よりシツコく生き残る何か旨い手ないものでしょうか(笑 毎度お世話になっとります。 下のほうでオカルトオッサンたちの悪口大会が盛り上がってます~。 同じことを繰り返えす愚かさを持っているワシらは さぞ正しいと思ってるんでしょう(笑 Kigurumiさんは少し事情を御存じでしょうけど >個を消滅させ、すべての人を一つにする >どこまでが自分でどこから他人なのかわからない状態 調べたところ、これを目指してたらしいです。 私も従わせられそうな立場だったわけですが。 『エヴァゲリ』私は詳しくないので、ふうーん、と感心しながら読ませていただくばかりですが エヴァゲリのお礼になりますやら、たまには私からも お返しさせていただきましょう。 (ずっと前、このカテゴリー常連でいらっしゃるかたを通して知った作品)もしかしたら、すでに読まれてるかもしれませんが、良い短編です、オモシロいですよ、ぜひ最後まで読んでみてください。 『女の決闘』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/304_15063.html
補足
絵画鑑賞するときのことを思い出せば分かるように、あまりに密着すると、かえって全然別のものに見えたり、何がなんだか分からないものに見えてしまったりする。 どっちにせよ、人は意味づけ、つまり、その人に合った物語をつくり上げようとします。 距離は、やっぱり必要な段階だと思います。それを犯して ただ、見ている者を見ていることができなかった者を、見ていることができなかった者。 「意味づけという再構成をうまく行えない人は、情動や環境へ働きかけるパターンが固定化してしまい、適応できない。」 圧倒的不利な条件に置かれている者にとって嫌なものと意味づけされた対象に対しては、これも自然なことで、侵されないよう自己を守ろうとします。自己から遠ざけようとします。 「他者あるところ恐怖あり」 未知のものに接する、そして自分が未知の状態に変化していくことには死を連想させ恐怖を感じずにいられない。死への恐怖感から自我は現状の維持を保とうとする。維持の原理は変化を嫌う。自己に変化を強いる環境に対し敵意を抱き、婉曲的にせよ環境を逆に変化させようと攻撃を仕掛ける。 相手が離れて行く感じがしたり慣れ親しんだ環境から疎外されている感じがするとき執着が起こり、相手を、敵と意味づけ、恨みや怒り、嫌悪を抱いて攻撃的になったりするが、それはやはり脱自我機制による。そうした怒りを基本的に持っているのに、価値観がそれを抑圧してしまっているとき、抑うつが起こる。 妄想的・分裂的ポジション 環境の自我化アフォーダンス 同じ対象に対する同じ意味づけを何度も行ううちに、その対象に対する「価値観」が定まり、それは前意識に蓄えられる。蓄えられた価値観は類似の対象に接するたびに類似の意味づけをすることができるので、意味づけスピードが加速される。そうやって人間はあらゆる環境を意味づけし、それぞれに対する価値観を蓄えてきた。そして一度与えられた意味づけは維持の原理によって頑に保たれ、自我は特別な理由なしではそれ以上対象の詮索をしなくなる。それは我々がいつも陥る落とし穴であり、一般に、偏見または先入観と呼ばれる。 投影も価値観によって引き起こされる。それは価値観にそぐわない自分の性質の一部を前意識の中に抑圧し、その抑圧した内容を髣髴させるような人物を攻撃したり嫌悪したりすることであり、また理想を高く持たされたが故に自分そのものを価値観にそぐわないものと捉え(自尊心が低い)、わずかに「良い」と前意識で認めている部分を髣髴させる人物に憧れを抱き、愛着したり嫉妬したりする。 意味づけは物に対してなされるだけでなく、他人に対し、そして自分自身に対しても意味づけを行い、強固な維持の原理を働かせている。これは臨床上の大問題である。この自他に対する意味づけと価値観は所属する時代や国家から家庭に至るまで大小の文化の中で培養されたものであり、極めて人為的である。それは社会を歪め、我々の心を歪める最大の原因であるといっても過言ではあるまい。 自己評価を満足させる価値観に安住することで我々は個人的には安定するが、周囲の人間に同じ価値観を当て嵌めようとするので大いに問題が起こる。自分の価値観に当て嵌まらない人物を蔑視し、いじめ、セクハラなどを引き起こすのである。 このような事態を受けたとき我々が取らなければならないと考える行動は"改革"である。しかしそうした大小の文化的環境を改革するのは大変骨の折れることであり、うまくいくとも限らない。それは"改革されるべきもの"のそれぞれに強固な維持の原理が働いているからである。 しかし自分自身が貯えている価値観を見直すことはできそうなことであり、しかも最も効果の上がりそうな"改革"である。 カウンセラー自身が自分が提供した価値観に嵌っていたのでは、それは単にクライエントを洗脳したことになるに過ぎない。それは絶対に慎まれるべきことで、宗教とカウンセリングの違いもここに集約される。ある教義の中に身を置き、その他の価値観や考え方に否定的になってしまうのは明らかに弊害である。 我々は生きて適応するために価値観を貯えざるを得ない。 "本当の自己"とは個人の実在感の源泉であり、赤ちゃんは身振りによってそれを母親に訴えかける。それに対して"ほどよい母親"は赤ちゃんの表現を理解し、そうしたコミュニケーションが発展することで赤ちゃんの自我は安定したものになる。ところが母親が赤ちゃんの身振りに応じず、彼女自身の要求を押し付けるなら、赤ちゃんはその要求をあたかも自分の欲求であるかのように演じなければならなくなる。それが"偽りの自己"の出発点である。 発達初期に"本当の自己"が支持されなければ、個人はその後の人生を周囲から押し付けられた価値観による"偽りの自己"として生きざるを得なくなる 「代用犠牲」