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武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?

tatsuya815の回答

回答No.4

武田勝頼は正式な当主ではなく、嫡男信勝が成長するまでの代理「陣代」です。今は甲斐武田20代当主として認識されている向きもありますが、元々武田信玄が後継者に指名したのは信勝でした。 勝頼は諏訪頼重の娘、諏訪御料人を母に信玄の4男として生まれました。そして諏訪領の安定を求めた信玄の考えにより諏訪氏を後継して諏訪四郎勝頼と名乗りました。つまり養子として他家に出た訳です。そのころは信玄嫡男の義信が存命で、武田家の後継に問題がなかったからです。 しかし、義信のクーデター事件の後は急遽、一番後継に近しいところに位置しましたが信玄はあくまでも一親戚衆の1人として扱いました。これは武田信豊や穴山信君など同じ位置に過ぎません。 信玄としては一度、他家に出た勝頼を直接後継者に指名するよりも親戚衆として武功を積み上げさせて家臣団に認めさせるつもりだったかも知れません。しかしこれが徒となったみたいです。 また勝頼も信玄没後、自分の家臣団形成を急ぎすぎた節があります。そういう時は往々にして新旧の諍いが起こるのも世の常と言えましょう。 勝頼としては自分を武田の後継者として認めさせたい。父、信玄を越えたい。という気持ちがあり、焦りもあって強引に物事を運ぶ。重臣達はそんな勝頼を危なっかしく思い、また信玄以来の古法に則って物事を運びたいと考えお互いの気持ちが折衷できなかったのではないのでしょうか。 いくら指揮官が優秀でも配下が統一出来てなくては軍隊としては野力を発揮させることは難しいですから。

qazxcvfr4
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変参考になりました。 状況的に早く組織を整えたいところだったろうし、武田勝頼は不憫なものですね。

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