解決済みの質問
信濃の有力大名だった村上義清の息子の村上国清について質問します。
川中島の合戦の結果、信濃のほとんどが武田領に確定して上杉・武田が「自然休戦」の状態になった後、村上父子は上杉家の客将、次いで重臣に落ち着いたようです。国清は、上杉景勝の代になると上杉(長尾)一門の山浦家を継ぎ、偏緯を与えられて山浦景国と名乗り、上杉家の有力武将として活躍したようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%9B%BD%E6%B8%85
ところが、関ヶ原の合戦の頃から「消息不明」になってしまったようです。これはどうしたことでしょう?
上杉家は関ヶ原の合戦で「敗北」しましたが、米沢盆地と会津盆地の一部を領する30万石の大名として存続し、以後も知行を半減されながらも国持大名という高い格式の大名として明治まで続き、子孫は現在も健在です。上杉家・米沢藩の文書も多数残っているはずです。
例えば宇喜多家や最上家のように江戸時代初期に大名家として消滅してしまった家であれば、史料がほとんど残らず、今では詳しいことが分からないのも当然です。しかし、上杉家の場合は違います。
仮に山浦景国(会津時代の知行は確実に万石以上)が、関ヶ原の合戦後に大幅に減封された上杉家を退転したのであれば、上杉家にその旨の記録が残っていると思われるのですが。どなたか、詳しい事情、もしくは関係する文献をご存じないでしょうか?
投稿日時 - 2007-07-05 18:40:40
こんにちは
戦国時代等系図などキニナル分野ではありますね
私がよく目を通してるサイトを貼っておきますのでご参考ください
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/murakami.html
投稿日時 - 2007-07-05 18:53:03
お礼
早々のご回答ありがとうございます。
参考URLの情報は、小林計一郎氏の著書
「信濃中世史考」 小林計一郎、吉川弘文館、1982年
が出典のようですね。図書館を通じてでも探して読んでみようと思います。
「国清はその後の消息が明らかでなく、村上氏がどうなったかはよく分からないが、小林計一郎氏の研究に拠ってまとめたい。村上義清の系統を称した家は二つあるという。一つは水戸藩士村上氏、もう一つは信濃に住んだ浪人の村上氏である」
としていろいろ書いてありますが、いずれも途中で系譜が途切れたり諸国を流浪していたりして怪しげな感じですね。
ただ、「水戸藩士村上家」は、
* 幕末まで200石の禄高を得ていたということは、水戸藩関係文書に記録があるはず。
* 水戸藩は、夭折した武田信吉(徳川家康の五男)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%89
の家臣団を引き継いでおり、武田家に仕えていた信州武士が水戸藩士にかなりなっている。村上家に近い信州武士が水戸家に仕えた縁で、信濃の名族である村上家の後裔が水戸家に「高家」のような形で召抱えられたという話は合理性がある。500石という石高も、「水戸家の高家の石高」として納得が行く数字。
と思われます。
ちなみに、レイテ沖海戦の「謎の反転」で知られる栗田健男海軍中将は水戸藩士の家柄です。信濃善光寺の別当であった栗田家の一族が、武田信吉の家臣を経て水戸家に仕えたのでしょうね。
投稿日時 - 2007-07-05 19:25:50
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ベストアンサー以外の回答(3件中 1~3件目)
村上国清は山浦氏を継いで上杉景勝の家臣となったのち、関が原の役に際して景勝に従わず、信濃へ戻り旧臣を糾合して村上氏の再興を図りましたが、東西両陣営のどちらに付くか旗色を明確にしなかったので、再興ならず浪人したとの話があります?。
これが事実なら後は先賢の資料通りになりますが。
投稿日時 - 2007-07-06 19:14:16
お礼
No2,No3,No4のお三方にまとめてお礼させて頂きます。
No.3の方が言及しておられる、関ヶ原戦後に越後村上藩を安堵された村上氏は、信濃の大名であった村上義清とは別系統のようですね。戦国末期の混乱の中で出てきた「出自の良く分からない大名」の一人のようです。
同じく信濃の大名であった小笠原氏は、武田滅亡後に徳川氏に忠勤を励み、最終的には豊前小倉という要地を任される有力譜代大名に出世しました。諏訪氏も、宗家は滅びましたが傍系が生き残り、徳川政権下で旧領の諏訪に復帰して明治に至りました。それと比べると、子孫も定かでない村上氏の末路は何とも…
山本勘助の実在を示す書状を持っていたので有名な、もともとは北信の国人の市河氏は、「川中島合戦の前に武田氏に服属→武田氏滅亡後は北信を領した上杉家に服属→転封した上杉家について会津、米沢へ移り、米沢藩士として明治に至る→明治になって屯田兵として釧路近郊に移住」し、特に明治以降は苦しい開拓で大変だったでしょうが、現代に家を伝えています。信濃村上氏の「消息不明」ぶりは、武田信玄を二度の会戦で打ち破った村上義清の武名と比べるとさびしいですね。
村上氏と並ぶ北信の有力大名だった高梨氏は、明治まで米沢藩士として続いていたようですね。
投稿日時 - 2007-07-07 09:49:24
系統が違う子孫ですが、異伝も少なくないようですし、念のために
紹介しておきますね。
↓兵庫県篠山の村上忠勝の墓所
http://kirinosato.fc2web.com/sasayama-rekisi.htm
投稿日時 - 2007-07-06 09:40:11
昔、下記のホームページの掲示板で何人かで話題にしたことがありました。
参考:http://kotatujo.cool.ne.jp/
「戦国放題 こたつ城」→「議事録」→「「戦国武将一覧」・議事録」→<村上義清の子孫の系図>
以下に載っていました。
その中に水戸藩士になった御子孫の家に伝わる家伝も書かれています。
投稿日時 - 2007-07-05 22:02:51