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武田信玄は優秀か

信長の野望などの歴史ゲームでは武田信玄の評価がきわめて高いのですが、信玄は本当に優秀な人物だったのでしょうか。私としてはかなり疑問です。 以下少し長くてすいませんが私の考えも述べます。 まず政治家としてですが、諏訪よりしげを特段の理由もなく暗殺してますが、このようなことをすると後々政治家として信用されなくなりまとまる話もまとまらなくなり、調略もうまくいかないと思います。父親を追い出しているのも汚点です。儀に厚い(?)謙信からもかなり憎まれてます。 騎馬軍団も強かったかもしれませんが、隣の謙信との川中島の戦いでかなりてこずっていて断トツで最強だったとはとてもいえないと思います。勝頼が長篠の戦で惨敗してますし。 彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。 というわけでなぜ彼が極めて高い評価を受けているのかよくわかりません。ご意見お願いします。

noname#17465
noname#17465
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質問者が選んだベストアンサー

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  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.3

ゲームでの評価は別として 1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。  戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。 従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。 2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。 家臣達も同様の意見でしたから追放後信玄を国主としてよく補佐したのです。 勿論潔癖な上杉謙信などは嫌ったでしょうが。 3.信玄は治水や直線的軍道の建設、金山の開発など領内の統治に気を配り、領民の信服も厚く甲斐の内に城を築く必要はないほどでした。 領土を拡大して甲斐の中では戦争もない平和を維持し続けたのです。 4.信玄の軍の統制手段は特に優れていて、戦闘中も陣立ての変更を整然と行われる程で敵将をうらやませました。 手足のように軍勢を動かすので後に徳川家康は武田家滅亡後、武田の遺臣を多数召し抱えその軍制を採用し、先手を勤める井伊直茂に集中配備し朱色の具足で井伊の赤備えと恐れられた位です。 5.上杉との戦いは能力伯仲で、当時の上杉軍の強さは有名でしたから互角の戦いは当然といえましょう。

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noname#46596
noname#46596
回答No.20

武田信玄は戦術家としては優秀かもしれないけど、戦略家としてはさほど優れていたとは思えません。 一方、織田信長は戦略家として優秀だと思います。 信長は確実に勝てる見込のある相手にしか攻めて行かない。 強い相手に勝つことが目的ではないからです。 信玄は上杉謙信の強さを分かっていながら、戦いました。 そういう面では戦略家としては失格でしょう。 今川義元が死んだ後も、激戦だった第4次川中島の戦いの後になっても、まだ謙信と戦おうとしましたからね(実際に戦ったし)。 北方進出、あるいは上杉謙信対策にこだわりすぎでした。 ずばり、もっと早く南下すべきでした。 つまり、北陸への進出はあきらめて駿河に進行するか、あるいは三国同盟を大事にするなら「今川と共同で」三河に攻めて行けば良かったはず。 今川と共同ならそれほど前線に兵力を差し向けなくて済むので、謙信への備えとしてある程度の兵力を信濃に残せたはずです。

  • goomisato
  • ベストアンサー率28% (6/21)
回答No.19

優秀なのかどうか?それはある意味人の世の移り変わりと人の心の問題かも知れません。 古来色々な表現で信玄公が高く評価されているのは、それぞれの方たちが研究勉学された結果からと存じます。その個々の論説・解釈に対して、優秀でないとか評価できないと貴方が論破する事ができれば優秀では無いのかも知れません。ただし、後日ほかの人が貴方の論理の誤りを指摘し更なる正当な評価をするかも知れません。 小生もこの素朴な質問には些かの興味を感じるとともに、今でも世の諸氏方々におかれてはこのような事に深く関心を持たれている事が判り大変うれしく思います。

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.18

信玄は戦国大名の優等生です。    No.3の通りです。     軍略、部下や人心の掌握、治水、新田開発、金山の開発などの治世、情けある政治、時には情けを切り捨てる厳しさも持ち、みな一流で全くそつが無いといえます。    失敗も何度もしていますが、これを教訓にして先に進んでいます。     大名として最も優れた経営者でしょう。     現代において評価が高いのは当然でしょう。      ただ日本を経営するとか、変革するという戦略は持っていなかったのが、大きな欠点です。    矢張り信長ですね。 私個人としては信玄は、優等生すぎてあまり好きではありません。    ちょっと、おっちょこちょいな、謙信の方が人間味があり好きです。

回答No.17

こんにちは。私の手元に参考となる資料がありましたので掲載します。 1598年の検地高をもとに石高 甲斐…22万7616石               尾張…57万1737石 これを元に100石で3人の足軽を雇ったとして動員できる兵力は甲斐が7000人程度。尾張が1万7000人程度となります。地図で見ると同じくらいの大きさですが、国力の差はかなりあったみたいですね。 以上、参考になれば嬉しいです。

回答No.16

皆さんが大体いいつくしていますが、 個人的に。 武田信玄はやはりそれなりの人物だと思います。 まずもっとも重要なのは死ぬまで領土を拡大し続けれたということがあるでしょう。 あの時代に死ぬまで数十年間にわたり領土を広げ続けることができた大名は何人いるでしょうか? その時点でトップクラスに入ります。 上杉謙信と武田信玄の最大の違いは下でもかかれてますが、 上杉謙信は戦術的に、 武田信玄は戦略的に優れているというところではないでしょうか? また謙信から憎まれていたからといって信玄の評価が大きく変わるものとは思えません。 騎馬軍団については強い云々ともかくとして、 武将の人心掌握術が上手くできてなかったために、 また戦術的にも戦略的にも信玄にも信長にも劣ったために 勝頼は惨敗しているわけです。 ほかにもいろいろあるでしょうが、 最も重要なのはいろんな要素、 信玄の人格、行為、思想、部下、戦闘、統治、死後の評価、死後の部下の行動などなど。 をごちゃまぜにして考えているところがあるからわからなくなると思います。 ただ、ある一面だけ取り上げたら、 いわれているほど優秀じゃないのかもしれません。 しかし、全体的な功績からいけば先ほども上げたように戦国時代のトップクラスの人物であったことは否めないと思います。

noname#17465
質問者

お礼

みなさんありがとうございました。

  • koon1600
  • ベストアンサー率51% (200/390)
回答No.15

まず、信玄が過大評価されている理由についてですが、徳川と江戸期における風潮が密接にかかわっています。 まず、徳川の陣立てですが、これが武田流なのはよく知られています。最初のころは三河系の陣立てだったのですが、後に改革をおこなって武田系の陣立てに変えています。 そして江戸期になると、甲陽軍艦は軍学書の最高峰的な扱いを受けます。甲州流も同様です。 質問者さんが見ていたかどうかはわかりませんが、大河ドラマの新撰組に武田観柳斎なる甲州流軍学術の使い手がでてきましたね。つまり、徳川が天下を取ってから200年以上甲州流は軍学の最高峰であり続けたのです。西洋式にくらべればはるかに古臭い戦術論ではありますが、200年以上も幅を利かせていたというのは大きいです。 信長が勢力を伸ばせた理由は、いろいろあります。都から遠からず近からずの土地(これはかなり重要)であり、国力もそれなりに高い。尾張が守護の地位陥落によって小勢力(といってもほとんど織田一門)が乱立している状態だったのも大きいです。 対して信玄は、都からは遠すぎ、国力は最低ランク。起伏が大きい上に、山間部はいまでもそうですが集落点在型の構造をしていますから寡兵が困難、さらには塩といった必需品を交易に頼っていたという経済的な面も大です。逆に回りは高い国力を誇る国が多くあります。 私としては信玄は「戦略的勝利の達人」であったと見ています。戦では五分でも戦略的な勝利が多いのが彼の特徴です(代表的なのは川中島)。負けを負けとも思わせない収集力、丹念な人材登用などが大きいですね。 なお、勝頼の信用については、資料的な裏がないものの、その後の彼と重臣の軋轢を考えれば、関係は甲陽軍艦に近いものであったというのもうなずけるかと思います。 なお、官位と官職は別物です。名前で名乗るのは官職。官位は正六位とかのことで、厳密には尉といったものは官職にあたります。さらに戦国時代において官職は、勝手に名乗っている人はゴマンといますし、正式任官している人のほうが少ないです。というかほとんどの人は正式任官していません(官職を名乗っていても正式任官を断るケースもありました)。さすがに大名クラスならば任官していることも多いのですが・・・ また、確実な資料というのは実際には本当にごく一部であり、第1級資料とされている信長公記であっても、怪しい部分はあります(これは日記からの転載という点から、第1級よりも少し落ちるという説を出す人もいます)。第1級資料を無視するのは論外ですが、2級3級4級であるからといって、内容をすべて嘘と捉えるのは明らかに問題があり、また1級を1級たらしめているのはBC級の資料による裏づけであることも忘れてはなりません。そのため第1級といっても内容がすべて正しいわけではないです。 もっとも、甲陽軍艦はかなり怪しい資料ではありますが・・・

  • rabbit_cat
  • ベストアンサー率40% (829/2062)
回答No.14

そもそも徳川氏の戦力編成とかは武田氏のものをほぼそのまま使っていますし、旧武田系の譜代大名・旗本はかなりの割合を占めていますね。

noname#204885
noname#204885
回答No.13

戦国時代の中では優秀な武将だったけど過大評価されている面もあるんだろうね。 三方が原の合戦で大敗しちゃったので、徳川家康が信玄のことを持ち上げざるを得なくなって、江戸時代は甲陽軍監が流行ったと言うのを聞いたことがあるけど、案外この辺が真実ではなかろうか。

  • eqw-102
  • ベストアンサー率24% (93/381)
回答No.12

読みづらいですが、まあまあ合っています。 >離反しましたし。 対立の原因になったと言う意味でしょう。 >甲陽軍艦 アテにはなりません。^^ >今川家を破りながら領土を奪わず、 首を返さない場合、攻め立てると脅され、 やむを得ず返したのが実情であり、 ここから崩れ去るのを待てば良かったのです。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.11

* 「信玄が勝頼の長男の信勝を武田家の後継者に指名し、勝頼は信勝が成人するまでの陣代とする」と遺言したという話は甲陽軍艦に書いてあるらしいですが、いかにも荒唐無稽である上に他の史料の裏づけがなく、史実とは認められておりません。 * 一方、信玄が死去する少し前に、足利将軍の側近に手紙と進物を送り、「勝頼に武田家当主にふさわしい官位と将軍の偏緯を頂けるようご斡旋ください」と依頼している史実があります。 信玄が廃嫡した義信は、成人後に足利将軍から「義」の字を受け、三管領に準じるという礼遇を受けていました。 義信の死後、信玄が勝頼を後継者とし、それにふさわしい「箔づけ」を考えていたのは上記の史実から明白です。 なお、勝頼は結局朝廷から官位を受けることなく滅亡したので、無位無官の「武田四郎勝頼」のままで終わりました。大名が勝手に官位を名乗るわけには行きませんでしたので。 * 武田義信と穴山信君が親しかったと示す史料は聞いたことがありませんし、穴山が武田家から離反したのは武田家滅亡の時のことです。義信の死から15年も後です。 * 桶狭間の合戦で今川義元が死んだといっても、今川領国は無傷で残っており、武田・北条との三国同盟が健在です。尾張一国も押さえていない信長が攻めていける相手ではありません。西三河に勢力を持つ松平元康と結んだのは素晴らしい判断であったのは事実ですが、当時の信長の勢力は、松平家とそれほど違うものではなく、今川家より明らかに劣るものです。

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