• 締切済み

ソクラテスの自殺。

友人と自殺について話していました。 私としては自殺はありです。絶対に○○(駄目、よい、悪い、etc)というものは存在しない。という観念から。 しかし、自殺は悪い、というイメージの方が先にたちます。なぜなら大切な人たちに勝手に死んでほしくないから。つまり私にとって自殺とは絶対にいけない、というものではないけれど回避できるならした方がいいもの。くらいです。 自殺論が問題ではなく(それはgooでも前に何度か質問に出ていましてそれらは参考にさせていただきました)タイトルどおりソクラテスの自殺です。 彼は友人が助けに来たときにそれを断っていますよね。それは正しくない、と。 その主張もわかります。 でも、それでも助けたい、という気持ちもわかります。 (例えば家族がそういう状況に陥ったら、たとえ不名誉でも生を選んでほしい、と思うと思います。私は、ですが・・・) さて、質問します。 ソクラテスの自殺は正しかったと思いますか?

みんなの回答

noname#3511
noname#3511
回答No.11

>ここでは「悪法もまた悪である」という言葉は否定されていますね。その>考え方自体が誤りである、と見てもかまいませんか?   では、ソクラテスの、悪法も法なりと、悪を悪で返してはいけないという格言を認めて、考えてみましょう。 しかし、悪法もまた法なりとソクラテスがいうのは、法は正義ではないと、ソクラテス自身が言っているようなものです。 >>金の力も悪法(なぜなら取引だといえるから) >そこには気づきませんでした。そうですよね。 >悪法には、悪法を、、、。 >しかしこれは「悪に悪で仕返ししてはいけない」という信念に外れるので>それはないだろう、と思います。 裏金は悪法であり、言ってしまえば、違法です(笑。 それは、ソクラテスの周囲(番兵など)、ソクラテスを被告とした周囲の判決によって、決められたことです。 このときソクラテスは、小さな悪法に従い、死刑判決を認めたのと同じように、逃げなければならない。 なぜなら、小さくとも、悪法もまた法です。 しかし、ソクラテスは、悪法を悪法では仕返さないと言っている。 だけれどもこの場合、悪法に悪法を重ねたと見れます。 悪法という法に従い続けた。それに違法でも、金の取引自体は、裏金とはいえ正法です。違法行為をしたのは、ソクラテスの友だちと、番兵ということになり、ソクラテスはあくまで、法に従っただけです。一回目はアテナイ市民として、二回目は、商品として。 だから、矛盾しません。 繰り返しますが、その両悪法は、ソクラテスが画策したものでなく、悪いソフィスト達と、ソクラテスを思う会(友人達)の行為であったので、ソクラテスの能動が叶ったわけではないのです。 >>ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 >もしお暇があるようでしたら、なぜ矛盾しないか、という点についてもう一度お答えいただけたら幸いです。これに対し私は「悪に悪で仕返しすることはよくない」という反論しかできません。それが無効になるようならば、決定は覆されるべきなので。   そして、ソクラテスは、悪法に悪法を重ねるという行為を、善い目的のために使うことができる状態にあったのです。(まるで、ソフィストの弁明ですね。申し訳ない。) だから、ソクラテスの場合は、悪法から悪法で逃れることは、矛盾しないのです。 三点 ・両悪法の判決は、ソクラテスが画策したものではない。 ・悪法という法に、ソクラテスは従い続けたと見れる。 ・その、のらりくらり行為を、善い目的のために使える。   >さて、悪法だから従わないとして、批難されようとも生き延びて活動を続けたほうがよかったのでしょうか?(脱獄したのでは市民からの批難は免れませんよね)   そうですね。スパルタなど別の都市国家に亡命して行ってでも、もしくは隠者になって、ソクラテスを名乗らずとも、やっていくべきだったと思います。なにせ、ソクラテスが活動するのはアテナイのためではなく、愚人のためだからです。それは、いたるところにいたのです。 また、彼の後継には、プラトンがいたので、公のことはプラトンに任せれたはずです。プラトンをソクラテスが教えることを、市民が避難するかどうかは分かりません。 プラトンは賢いのであり、アテナイの国益にかなっていたと見れます。そのプラトンを支えるのは、隠者となったソクラテスだからです。公には認められないでしょうが、巷には、ソクラテスに味方する噂、彼を見直す機会が流れると思います。 さらに、アテナイの市民の知性が上がるにつれ、公に、逃げたソクラテスへの非難は弱まります。烏合の衆ともいえる、志なきソフィスト達の結束は、民衆全体の知力上昇の前には、もろくも崩れ去ります。 市民としてのソクラテスの老後は、それほど心配ではないと、思われます。  余談ですが、  現代日本社会にも言えることでもあります。 民主国家の国益の源とは、国民全体が賢くなることに他なりません。 衆愚政治は不合理であり、国家として弱いのです。 現代、このようなアットランダムな場を起こす、インターネットの普及で、情報コントロール、世論操作が非常に効きにくいと思います。風よりも速く、噂は流れ行くでしょう。 国家のトップ達の少ない頭が、その速さについていけるわけがない。 ドサクサに、日本はまた武器を使おうとしています。 これが他国に使われることになれば、国民の知性はそこまでだったということであり、それが使われることなく、北朝鮮問題を国際的におさめることができれば、それだけ国民は賢かったとなります。 この速い速い世論の動きが、どういう行動を日本にもたらすのか。   >ソクラテスの弁明では「泣いたりすがったり、というのをやれば無罪を得られるだろうが、それはよくない」というようなことを言っていますので、自殺の話云々の前に、「回避できたかもしれない有罪判決を回避しなかった」という点も問題になってしかるべきかもしれません。何しろ、確定された死刑を前に逃亡ができる人ならば、回避できる死刑を同情をさそって回避していただろうと思うので)   同情は長続きしません。同情を買った時点で、ソクラテスの知者としての信頼は失墜しますし、なにより、何故、正しい方が謝らなきゃならないのか? 正しい者は、正しくない者の前では、毅然としておかなくてはいけない。 その姿勢が、彼の一貫性をあらわしていると思うのです。正しさを、証明するためにはその必要があった。すいませんなんて言ってしまったら、ソクラテスは正しくないと、彼自身が言うようなものです。 ソクラテスが冒険家でワイルドな遊び人なら、敵を欺き云々ができたでしょうが、。   判決がどうあるということが焦点ではなく、彼の一貫した目的、姿勢、善く生きることに適うかどうかという点で、ソクラテスの自殺は、悪者にどう巧みに導かれたにせよ、誤りだったといえます。ソクラテスは、悪に、自分を裏切ることなく勝てていたのを、負けたのです。だから、彼は、失敗したのだといえます。

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.10

 私は「ソクラテスの自殺」はいわゆる自殺ではなく刑罰だと認識しています(事実認識の誤認があればごめんなさい)。  私にとってこの問いは「悪法も法か」というものと同じ意味になります。これは自分が納得できない理由で捕まったのであれば脱獄してもよいかということですから、理屈としては、「悪法」の判断は主観であり「法」は客観ですから、主観的には正しいと思っても客観的には誤りの場合に「主観は客観に優先するか」という問題にすり替わることも可能ではないかと考えています。  そうですね、ソクラテス自身が「悪法も法である」という信念の元に動いているのですから正しいと思いますけれど。つまり「客観は主観に優先する」という「主観」を持っている場合は正しいということですが。

noname#3511
noname#3511
回答No.9

すいません、訂正です。 >悪を、善く使っているからです。 という部分、 >悪法から悪法で逃げるのは矛盾していません。 の次においてください。

noname#3511
noname#3511
回答No.8

あなたの話は、筋が通っており、話がしやすい。ていねいでうれしいです。 >ただ、彼は自分の言動(悪いことをされたからと言って悪いことを仕返すのは悪い、など)と一致させるために逃亡はできない、というようなことをいいます。彼の中では生き延びること=悪く生きる、んではないかと思いますが、どうでしょう? 悪法に従うことは、悪いことだと考えられます。法を監視、よりよくするのが、民主国家の、市民の義務です。ソクラテスも、一市民です。 彼が生き延びることは、市民を賢くすることであり、市民を賢くするのは、民主国家では、国を善くし、法をよくすることに直結します。以下でも、同じ事を重複して説明していますが、ソクラテスが過ったとは、そういう理由からです。  >善く生きるということは、自ら死を選ばない。 これは彼の信念ですか?それともayamatiさんの信念ですか?   私の抱く、ソクラテス像が、語るものです。私の想像のソクラテスと私が、出した、結論ともいえます。 善とは、悪を超えています。善は、悪よりも狡猾で、悪よりも賢く、悪よりも怒りに強く、エネルギッシュで、かつ俊敏的確なものとおもいます。よく善と悪は対立概念として使われますが、私の使うところは、悪は善に及ばない。そう考えて、見てください。善と悪は、対等ではない。 >もしソクラテスがそう思っていたのならば、確かに彼は信念に基づいて自殺したのだからそれは正しいとは言えなくなります。 そして、彼は「悪法もまた法なり」で知られる人物であり、悪法を許容するわけではないのでしょうが、その結果は受け入れるというような姿勢であったと思います。いくら彼や彼の知人に不正と映ろうと、法や大多数がが彼に死を命じたのなら受け入れる、という信念であったかもしれません。   彼は、自分より賢いものはギリシャにはいないと、思っていました。 彼が、一番の知者であったのです。ですから、法は法でも、判決を下すのは民衆であり、その民衆の中には、ソクラテスより賢いものはいなかった。 このとき、法は、ソクラテスの知恵よりも劣るものであったのであり、ソクラテスの弁明は、「悪法もまた法なり」というよりも、悪法は悪法、よりよい法を目指すべきと、あるべきだと思います。 なぜなら、民主国家(当時は奴隷がいましたが)の裁判は、事例というものに左右されるのであり、ソクラテスを死刑にしたなら、次、同じようなことが起きても、同じような判決を下さなければ、法の、国家における普遍性を損ないます。 ですから、なんとしても、ソクラテスは、この判決を認めていはいけなかったのです。悪法もまた法、だけれども、それをソクラテスの死刑判決によって、より堅固にしてしまってはいけなかったのです。悪法は、より善くならねばならないのであり、民主国家の場合、それが、民衆全体の知恵を上げることなのです。つまり、ソクラテスが普段からしていたことは、悪法をより善くすることになっていたのです。その当のソクラテスが、悪法をより堅固にすることにつながる行為を認め、受け入れたなら、普段からやってきたソクラテスの行いと矛盾します。ソクラテスの死刑は、民衆の知恵を停滞、ないし低下させるからです。 そういうわけで、ソクラテスの場合、悪法も法なり、だけれども、その悪法をまるまま受け入れるのは、ソクラテスの目的にそぐうものではなかった。 ほかの方法を思案すべきだった。 だけれども、彼は、悪法を、まるまま受け入れた。 だから、あれは、過ちだと、私はいいます。 悪を、善く使っているからです。 ソクラテスは、法を司る市民の一人として、悪法を救わなければならなかったのです。法の判断を受けるのも市民の義務なら、法を監視し、正しく行われるかどうかを吟味するのも市民の義務です。 ソクラテスは、判決を受けることで、その市民の、最たる知者としての義務を放棄したと見れます。   追記ですが、ソクラテスが逃げるとき、金持ちの友だちが味方してくれたと思いますが、金の力もまた悪法です。ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 それは取引であり、そこには小さくとも、法が成立しているとみれるのです。別に、番兵を殴り殺して逃げる方法だったわけではないのです。

happy365days
質問者

お礼

遅くなって申し訳ありませんでした。再びありがとうございます。 >悪法に従うことは、悪いことだと考えられます。法を監視、よりよくするのが、民主国家の、市民の義務です。ソクラテスも、一市民です。 なすべきことをなさなかったので、ということですね。確かに、許容してしまうことでその悪法を強固にしたのでは、「善い」とは言えませんね。特に彼はそれに気づいていたと思われるので。 ここでは「悪法もまた悪である」という言葉は否定されていますね。その考え方自体が誤りである、と見てもかまいませんか? さて、悪法だから従わないとして、批難されようとも生き延びて活動を続けたほうがよかったのでしょうか?(脱獄したのでは市民からの批難は免れませんよね) でも、それならば、最初から死刑になるような言動を謹んでおけばよかったのかもしれません。多分裁判でも自分を貫いたのでしょうが、生きて活動を続け、なおかつ批難も免れるためにはその方がよかった気がします。 (ソクラテスの弁明では「泣いたりすがったり、というのをやれば無罪を得られるだろうが、それはよくない」というようなことを言っていますので、自殺の話云々の前に、「回避できたかもしれない有罪判決を回避しなかった」という点も問題になってしかるべきかもしれません。何しろ、確定された死刑を前に逃亡ができる人ならば、回避できる死刑を同情をさそって回避していただろうと思うので) >金の力も悪法(なぜなら取引だといえるから) そこには気づきませんでした。そうですよね。 悪法には、悪法を、、、。 しかしこれは「悪に悪で仕返ししてはいけない」という信念に外れるのでそれはないだろう、と思います。 >ソクラテスの場合、悪法から、悪法で逃げるのは矛盾していません。 もしお暇があるようでしたら、なぜ矛盾しないか、という点についてもう一度お答えいただけたら幸いです。これに対し私は「悪に悪で仕返しすることはよくない」という反論しかできません。それが無効になるようならば、決定は覆されるべきなので。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.7

mmkyです。追伸まで >本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 これは、どこかからの引用ですか?それともmmkyさんの想像ですか? 返事:mmkyさんが感じるところということです。想像としてくださいね。 追伸まで

noname#3511
noname#3511
回答No.6

ソクラテスへの判決は、ソクラテスの見る目からすれば、不当だった、不正だったのにもかかわらず、ソクラテスがそれを受けいれたのは間違いです。 ソクラテスは、死刑を受け入れるべきではなかった。 ソクラテスは、自分の信念に従い、不正を受け入れるべきではなかった。 何故なら、 ソクラテスは、自分、彼自身の信念に従う、つまり、善く生きるという生き方に背いたという点で、自分を裏切っています。 善く生きるということは、自ら死を選ばない。 死ねば、善くも何も、それ以前に、生きてないからな。 だから、正しくない。 生を、全うしていない。 当時の法を正しく守ったとしても、彼は、自分の生き方を正しく守れなかったのです。あの瞬間においては、正直ではなかった。 善く生きるという信念、自分のあり方を、あやまったといえます。 しのびない、。

happy365days
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 判決そのものが不正であって、それを彼は知っていたのだから、それに従ったことは間違いだった、ということですか? 確かに、彼は正しいことをすることが大事だ、と言っていますので判決が不正ならばそういえると思います。 ただ、彼は自分の言動(悪いことをされたからと言って悪いことを仕返すのは悪い、など)と一致させるために逃亡はできない、というようなことをいいます。 彼の中では生き延びること=悪く生きる、んではないかと思いますが、どうでしょう? >善く生きるということは、自ら死を選ばない。 これは彼の信念ですか?それともayamatiさんの信念ですか? もしソクラテスがそう思っていたのならば、確かに彼は信念に基づいて自殺したのだからそれは正しいとは言えなくなります。 そして、彼は「悪法もまた法なり」で知られる人物であり、悪法を許容するわけではないのでしょうが、その結果は受け入れるというような姿勢であったと思います。いくら彼や彼の知人に不正と映ろうと、法や大多数がが彼に死を命じたのなら受け入れる、という信念であったかもしれません。 (ただこれには疑問を禁じえません。クリトンにソクラテスは「周りの意見を気にする必要はない」というようなことを言っています。ならば彼が判決を不当だ、とみなしそれに反対するのが例えそのせいで周りからどう思われようと彼の信念にもとるとは思えません・・・)

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.5

ソクラテスの死が自殺かどうかから、論ずる必要があるのでは ないでしょうか。 ソクラテスは、アテネ市民から死刑を言い渡されました。 毒酒を飲んで死ぬというのは、手段に過ぎません。 日本の武士の切腹を自殺と言いきれるか、という話と同じ ことだと思います。 ただ、非合法な手段を使えば逃げられたにも関わらずそう しなかったのは、自殺と考えられるかもしれません。 ただそこには、ソクラテスなりの信念─悪法もまた法なり─ に基づいたものでしょう。 その他にも、肉体が死んでも魂は不滅であるという己の信念 に基づく行動だったかもしれません。こうなると殉教に近い 行動かもしれませんね。

happy365days
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 死刑を言い渡されての毒杯を仰ぐ、という行動(または切腹)が自殺にあたるか、と言われたら考えるものがありますが。。。 切腹もそれ自体では死ぬのは難しいので介錯人がいるはずですし、毒杯を仰ぐという方法も、本当に死にたくない、というような中々行動にうつさない囚人に対しては無理やり飲ませたかもしれません。 それを自殺とみるかどうかは私はその死刑囚の意思しだいだと思います。 その死を受け入れ、行動したなら自殺、最期まで死にたくないと思いつつも執行されてしまった、というような場合は死刑(ここでの言い方は他殺のほうがいいでしょうか)だと思います。 そういうわけで、ソクラテスの場合は自殺で良いと思います。 case_ri2さんの指摘するとおり、彼には生き延びる道も残されていたわけですから、他の事例に比べれば自殺色が強いと思います。

  • rainman
  • ベストアンサー率27% (5/18)
回答No.4

正しかったと思います。 前回のご質問に対する回答に出遅れてしまいましたが、私は自殺の肯否はその本人の思考思想次第だと思うからです。 昔で言われる自害、切腹等が何かを守るため、信じる為の自殺であった事に対して今現在俗に言われる自殺は何かから逃げる為のそれである事が多いと思われます。 逃げる、つまり対処する為の策なら生きている間にはいくらでもあるのに死という苦痛や悩みからの解放をいの一番に選ぶことは周りの人々に対する裏切りである上に人を必要外に傷つける最悪な行為ではありますが、自殺、死によってのみ戦いに、あるいは勝利になりうる事があるというのも事実です。 ソクラテスの自害はまさしく戦いであり、彼は自分の思想やプライドを守るという点では完全な勝利者であったと思います。 *彼が肉体を信じていなかった、という点もまた事実であったようです。 これはソクラテス本人の言葉としてでてきた自殺の理由でした。

happy365days
質問者

お礼

rainmanさんは正しいと思っておられるんですね。 ご意見ありがとうございました。 >ソクラテスの自害はまさしく戦いである、彼は自分の思想やプライドを守るという点では完全な勝利者であったと思います。 そうですね。「クリトン」での対話にみられるように、ソクラテスは自分の信じるもの(最善だと思うもの)を最期まで貫きましたね。そういう意味では、確かに言動が一貫していて彼は勝利者であるかもしれません。 自殺の肯否はその本人の思考思想次第という意見に同意いたします。 その観点で考えれば、ソクラテスは確かに自身の自害を正しい行動だと思っていた(と、少なくともファイドンなどからは認識できます)ので彼の自殺は正しい、と言っていいのかもしれません。 しかし、自殺は周りの人々に対する裏切りである、という意見にも賛同します。 クリトンなどはソクラテスがそのように死ねばそれはとても彼らにとって不名誉だ、と言っています。それでもその意見をありがたいと言いつつもソクラテスは退けます。 自らの信念を通すか、周りに妥協するか、ということなのでしょうか。

  • gon1234
  • ベストアンサー率14% (42/293)
回答No.3

私の場合は2つ思いつきます。 1.彼は肉体を信じていなかったのではないでしょうか。 だから「死」についての特別な考え(生への執着)をもっていなかったのではないかな?と思います。皮肉にもこれほどの時を経て、彼の死について議論がなされているのですから「彼の生」は意味があったということになるでしょうが。 2.自殺でしか教えられないモノを残したのではないでしょうか? さまざまな教示を残した彼が「自殺」でしか教えられないモノがあったのではないでしょうか。

happy365days
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 確かにソクラテスは肉体には意味がない、と言っていますね。死はただ魂が体から抜けることでしかない、と言ったとプラトンの書物には載っています。 それから、今だに彼の死について議論がなされているのだから意味があったといえる、という意見には共感いたします。 彼の死(生)を通して私たちは本当に色々なことを学んでいるのだなぁ、と思いました。 有名な「悪法もまた法なり」というのも、自殺でもって示されたものの一つですね。 gon1234さんはどちらかと言えば彼の自殺について肯定的(正しい)とお考えだと解釈しました。 もし違ったらまたお書き込みください。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

参考までに 「ソクラテスの自殺は正しかったと思いますか?」 当然、正しくないですね。ソクラテスほどの方が牢獄につながれて少し混乱されたからでしょう。元気であれば絶対に自殺なんかするかたではありません。一時の迷いで自殺して、本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 どのように立派な方でも、完全はないんですね。完全さを求めても地上では得られないんですね。だからよりよい生き方を、より長く生き続けて教えを説くというのが立派な方々の生き方なんですね。ソクラテスさんはちょっと混乱しただけですね。より良い生き方でいろいろな経験を積むというのがいいんですね。自殺は絶対にいけないんです。より良い人生、いろいろな経験を積んで、平均80年程の人生をいききるというのが基本的な人生です。自殺はその基本から外れていますので、えらく神様に怒られます。生きていた何倍も霊的には苦しむということですね。 参考程度に

happy365days
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 >本来の仕事が出来ていないではないかと、神様にえらい怒られたそうです。 これは、どこかからの引用ですか?それともmmkyさんの想像ですか? もしそういうことを正式に言った人がいるのなら教えてほしいです。 >完全さを求めても地上では得られないんですね。 本当にそうだと思います。基本がよりよい人生、いろいろな経験を積んで80年ほど。それに外れるから自殺はいけない。っていうのは面白いと思いました。ただ、「よい」というのは主観的な言葉になると思うので絶対にいけないとは思いませんが。

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    友人に、 「自殺名所へ行き、見事に果てよう。そうしたら、新しい生を受け、状況は生まれ変わるだろう」 と言われました。 そこで、自殺名所へ行き、果て、新しい世界へと旅立ち、キリストになろうと思います。 経験者の方、新しい世界は、やはり、素晴らしいですか?

  • これは自殺に当たるのでしょうか?

    他の方の質問の中で、自死についての質問があり、 回答者の中に >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< という方がおられたので、少し考え込んでしまいました。 定型発達の方にとって自殺とはどの辺までを言うのだろうと? 私はアスペルガー症候群を医師より診断されていまして、モノの考え方や感じ方が「一般的な範囲」と重なっていないことが多いです。 自殺というワードでも、多くの方が抱く共通概念と違う捉え方をしていないか、少し確認してみたくなりました。 以下、私が自殺と思う事例をいくつか挙げてみるので、自殺かそれ以外の何かになるのかなど、皆さんの思われるところを教えていただけると嬉しいです。 積極的自殺(自己の気持ちで完結する理由の自殺) ● 借金・病気などの苦で命を絶つ ● 何らかの犯罪の被害者になってしまい、生きていく活力より死への渇望が上回り命を絶つ。 ● 将来に望みを持てなくなり「死んだほうがまし」と思い命を絶つ。 職務的な自殺(軍人の犠牲的献身など、立場上称賛される死に方) ● 敵機動部隊を見つけた偵察機が、より確実な接敵成功のため帰りの燃料が無いのを承知で攻撃隊を敵機動部隊に誘導する。帰還は不可能、着水しても助かる見込みもなく「先鞭」として敵艦に突っ込む。 ● 護衛対象の民間商船に魚雷が迫っており、商船側での回避は不能。火器運搬船であるため、一発当たれば大爆発してしまう。敵潜を警戒していた警戒機が「これも俸給のうち、100人より2人の方が被害も少ないですしね」と商船側に伝え、魚雷に体当たりをする(真冬のベーリング海近海で着水すれば確実に助からない)。 ● 羽柴軍に責められ水責めされた城の城主が、城の人々の助命と引き換えに船上で割腹。 信仰や信念による自殺 ● 古代アテネの様に、生贄になることが社会的な名誉となり、自ら志願して命を落とす。 ● 衆生救済のために即身成仏をする。 ● 信仰を守るため、改宗を拒み命を落とす(断れば殺されるのが自明で、他者の手を借りた自殺とも思える)。 こんな感じですが、私はこれをすべて「自殺」と思っています。社会的な貢献や時代背景、個人の立場など加味して、注意深く考える必要があるのは当然ですが、 自ら命を絶つ(立たれる状況に積極的に持ち込む)ことが自殺だと思うのです。 行為の崇高性とは別で。 上記の行為は、定型の方は私と同じように「自殺」だが崇高な行為や多くの人を救う行為もあると捉えるのか、 やはりいけないことと考え  >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< と思われるのでしょうか? 法律的なところや、学問的な部分ではなく、皆さんがパッと見て感じた部分を教えていただけると幸いです。 私とのずれや、感じる手順やモノの見方の違いを勉強させていただきます。 どう思われます? 注意 私が自殺したいとか、希死観念が強いということではなく、純粋に同じ語句ので、他の方との感じ方のずれがあるのかを知りたいという趣旨です。 私が死にたいと思うという立ち位置からの回答はご遠慮願います。質問の内容を書いてください

  • 【再質問】自殺未遂をした非常に弱い女ですが、そうは見てくれず、男が寄ってきません。

    以前に質問を投稿させて頂きましたが、ご回答の内容が、観念論的、抽象論的、総論的なものが多いように感じました。 ”具体的な行動方法”をご提示して下さい。 電車男みたいに、その通り、明日から必ず実践致します。 ●出来れば、30歳以上の方にご回答願います。 ●あなたにも悪いところがあったのではないか、という推測での回答はご遠慮します。 ●私は、長身、小顔、骨太、標準体重で、がたいが良いです。 ●男性には絶対依存しないという考えが染み付いています。 例えば、以前の彼とは、完全ワリカン、「私も働くから、あなたの収入は気にしない。あなたを養う覚悟もある」とまで宣言したことがあります。 ●男性とのつきあい経験が、乏しいです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3958131.html 以前の質問内容(↑URL書く必要ないなあ) 「ネット上、あるいは男性が書いた恋愛マニュアル本を読むと、 男性は「自分を頼りにしてくれて、守ってあげたくなるような、か弱い、可愛い女性が好き」と書いてありました。 私は、二十代の頃に、男性がらみで自殺未遂を起こし、それに懲りずに今も週末には、カッターナイフで手首を切っている、究極的に、弱い女ですが(今夜も今から切ります…)、男性諸君は、そうは見てくれません。 大したミスもなく仕事をこなし、長身、小顔、骨太の体型だからでしょうか、「強い女」、「男がいらない女」みたいに思われています。 本当は、泣きながら眠りにつく毎日で、男性に支えて欲しいくらい精神的に弱いです。 弱さを示すために、男性に手首の傷あとを見せたら、一体どうなりますか?男性は引きますか?ごめんなさい、こんなことも分かりません。」

  • デュルケム『自殺論』について:その現代的意義と批判

    日本における自殺者数は、4年連続で3万人を記録しました。この現象は、デュルケムの『自殺論』的な観点からどのように読み解けるでしょうか。また、それに対して、どのような処方箋をもたらしてくれるでしょうか。 デュルケムは、近代以降の社会における[個人]と[社会]の関係が危機的状態に陥っているために、"アノミー的自殺"が急増していると主張しています。つまり資本主義社会の急激な進展的変動が、かつて人々の欲求や生活指針を規制していた社会的な諸規範を根底から動揺させ、また人々に社会的諸規範を見失わせている。その結果、人々は止めどなく乾きがたい無規制な欲望に駆られ、自由と孤立、欲求の解放と挫折という不安定な状態の中におかれる。デュルケムの言う"アノミー的自殺"(および自己本位的自殺)は、現代の日本の自殺にも少なからず当てはまると思います。 そこで疑問です。だから個人を包摂するような新たな社会集団環境が必要だとし、デュルケムは結論として、[同業組合]を挙げています。しかし私は、社会的規範としての[道徳]の重要性をもっと前面に出してもよかったのではないかと感じました。じっさい、デュルケムの思想は道徳的色彩が強く、『自殺論』もそうでした。「道徳は自殺を抑止する」、くらいに明確に論じられてもよかったのではないか?自殺と道徳の明確な接点は何だったのか? 質問をまとめます。 (1)現代病としての日本の自殺は、『自殺論』的な観点からどのように読み解けるか。どのような処方箋をもたらしてくれるか。解釈や、ご意見をお聞かせください。 (2)『自殺論』における、道徳と自殺の関係について、明確な接点は何か(あるのか)。例えば「道徳が自殺を抑止する」という観点は可能か。 (3)最後にくっつけたようで申し訳ありませんが、デュルケム批判論者、および関連の著作(特に『自殺論』についての批判)をご存知でしたら、ご案内いただけませんか。

  • 自殺における考えに対する考え。

    こんばんは。 質問の内容は、gooやyahoo知恵袋に多々ある、「死にたい」「自殺したい」といった内容の質問に対しての回答に、疑問をよく持つようになったからです。それを以下に挙げて、そして自分の考えを書きます。それに対して何かお考えを頂けると、自分の考える材料となるので嬉しいです。 1:「死ぬ気があればなんでも出来る」 一念発起して、返り咲いた人もいなくはないでしょう。しかし、そもそも「死ぬ気」と「なんでも出来る」というのは、ベクトルが違いませんか?凡人の私たちには、そうはうまくいかないと思います。 2:「生きれなかった人もいる」 今回の大地震のことを引き合いに出してくる人もいらっしゃいます。確かに、今回の地震で、私も生に対する実感、とでも言えばいいでしょうか、そういうのを感じました。しかし、やはり毎日嫌なことが起こってくると、こういう実感もたやすく打ち消されてしまいます。現に「地震で死にたかった」なんて言う人もいます。 3:「ネットで相談している分には自殺なんてしない」 なぜでしょうか。確かに、死にたいと言っているのに相談するということは生きたいの裏返しかもしれません。しかし確証はないと思いませんか。 4:「あなたが虚しく過ごした今日という日は昨日死んでいった人があれほど生きたいと願った明日」 有名な言葉だと思います。ただ気になります。その死んだ人は所詮、他人ではないですか。その人が大切な人ならまだ分かります。でも、この言葉を受けて死にたい人の明日が光り輝くというのでしょうか…… 5:「生きていればいいことがある」 気休めの言葉です。 6:「自殺すると後処理も大変だし、飛び込みでもしたら鉄道からの多大な請求が家族に来る」 こちらのことを考えて自殺を踏みとどまる方もいらっしゃいます。でも、死んでしまえば後処理や請求なんてどうとでもよくなるではないですか。死後にはこういうことは持っていけませんし。 7:「死ぬと天国にいけない/地獄に落ちる」 天国や地獄はあるのかもしれませんよ?でも……私としてはそういう世界はないと思います。 ざっと思いつく限り、書いてみました。私は、自殺は最後の手段だと思います。誰しもが使えば、この苦に溢れる世界から逃げられるからです(苦があるからこそ、喜びもあると思いますが)。でも、死ぬ前にせめて誰かに相談してみる、というのが必要だと思います。結局のところ、自殺を止めるには、死にたい人の認識をうまく変えさせることだと思います。 ただ、上記の回答は、自分はあまり、乃至は絶対いいとは思えないものばかりです。 皆さんはどう思われますか? 読んで頂きありがとうございました。

  • 就活が原因で友人が自殺をしようとしています。

    お世話になります。 友人のことで相談があります。私と友人は2013年卒で就活をしています。 現在、就職活動中の友人が自殺をほのめかすような発言や行動をしています。 その原因は、自分自身の未熟さと親の過干渉です。 友人の親は、本人の既往歴(腰椎骨折・後遺症ほぼなし)のことを気にしており、流通業や商社などの会社への就職をやめさせようとしています。それでも、意志を曲げず、取り組んできたみたいですが、限界が来たようです。 友人は「どんなに硬い金属でも長い間強い圧力にさらされれば金属疲労を起こす」、「私の死によって一人でも多くの就活性の親が過干渉が悪いことだとわかってほしい」と言っており、今からでも自殺をしようとしています。 最初は冗談だと思い止めましたが、遺体の処理方法・貯金などの財産の処理などを遺言書に記しており、本気だそうです。 それから、この自殺は逃げではなくて正当な抗議と言っています。しかも、自殺を名誉的な死だともいっており、止めようにも止められません。 何とか、ひと声かけてあげたいのですが、どうしていいかわかりません。 大変答えずらい質問ですが、よろしくお願いします。

  • クリスチャンの方は自殺についてどう思うのですか?

    こんにちは&はじめまして。 できればクリスチャンの方に回答いただきたいです。 またお友達がクリスチャンの方などでも結構です。 さて質問です。 クリスチャンの人は、自殺についてどう思っていますか? 私は全然知らなくて困っています。 ちなみに私は自殺を考えているわけでも何でもありません。 あと「私はクリスチャンじゃないけど、絶対自殺はダメ!」とかいう質問は受け付けません。 私だって自殺はダメということ知ってるので。 よろしくお願いします。 あとお願いがあります。 回答の部分に私のニックネームを書かないで下さい。 書かれたら・・・ 私のニックネームを「検索」したら、私がこれまでにした質問などが出てきてしまうので。

  • なぜ自殺しようとしている人を止めるのですか?

    23歳、男です。 今は家でずっと引きこもっています。 中学時代いじめられ、それを引きずらなくてもいいのにここ8年間ずっと引きずって生きてきました。 おかげで尋常じゃなく損な人生を生きてきたと思います。 いじめの経験に苦しめられずに普通に生きることができれば、 確実に実際僕が歩んできた人生よりは幸せに生きてこれたでしょう。 僕は、 学生時代思い出が無い 恋愛もしたことが無い 友達が全然いない クリスマスに恋人か友人と過ごした経験が無い 友人と初詣に行ったことも無い これ以外にも沢山ありますが、 とにかくないこと尽くしです。 やりたいこと、考えたいことは沢山あった。 でも長年いじめの時の記憶が、強迫観念みたいなものとなって ずっとノイローゼのように僕を苦しめていたため、全て実現することはできなかった。 今はもう、おそらく中学生ぐらいの知能しか持ってません。 高校生が普通にやってる接客のバイトすらできません。 他の同じ23歳とはもう経験、知識、知能、思考力、何を取っても全て遅れをとっています。 今は、なんでこんな人生を生きることになったんだろうと、 自分の運命を恨んでばかりいます。 で、元旦にこんな話をするのは悲し過ぎますが、もう僕は自殺しようと思ってるんです。 今まで生きて来た人生が恥ずかしくて、もう生きたくないんですよ。 別に誰かを傷つけて来た訳でも、 犯罪を犯した訳でもありません。 でも、こんなどうしようもない人生を過ごして来たのが恥ずかしくて仕方が無い。 今はもう、毎日毎日来る日も来る日も、 生き地獄を経験しているような感じです。 だから、この苦痛から解放される為に、もう僕は死にたい。 しかし、世間は自殺を「悪」だとみなす。。。 自殺しようとしている人を止めようとする。 僕みたいな自殺願望がある人を止めようとする人は、 決まってそれなりに楽しい過去があるんです。 それなりに、普通に毎日を暮らして来た。 だから何もない人生を過ごして来た人の気持ちが理解できない。 コンプレックスにまみれた人生を生きて来た人の心を理解することができない。 それ故、安易に「自殺なんかやめておけ」と言う。 自殺する人は、苦しくて苦しくて生きることが辛いんですよ。 なのに、 「生きたくても生きれない人がいるから、死ぬな」 みたいな根拠になっていない理由を振りかざして自殺する人を止めようとする。 自殺したいと言っている人の「理由」なんかろくに聞かず、 ただただ「自殺なんかやめとけ」という。 辛いことはありながらも、でも幸せに生きて来れたら「死にたい」なんて誰1人思わないですよ。 「ずっと辛かったから、そしてそれが将来に影響を十分に与えるから」、だから死にたいんですよ。 前置きが長くなりました。 申し訳ありません。 質問です。 なぜあなたは自殺したいと言う人を止めるのですか? なぜあなたは死にたいと言う人を責めるのですか? 自殺したいと言う人を止めて、 死にたいと言う人を責める方のみ、回答お待ちしております。