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(ルカ 6:35) 「愛」は理性の範疇か?

em9845の回答

  • em9845
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回答No.11

わたしの拙い回答をよく読んで、真剣にご質問を返してくださった事を心より感謝いたします。 わたしは哲学や神学を学んだことはありません。哲学書や神学書を読もうとしたことはありましたが、頭に入りませんでした。でも、最近読み始めたこの聖書にはとても感銘を受けました。検索機能を使っていろいろ調べられるので、検索で引っかかった所だけ要所、要所ご返答を貼り付けます。 2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_48_0_1に関する疑問 2-0 「王国」と「天の王国」は同じと考えてよいのか。「天の王国」には一柱の神だけが存在すると考えてよいのか。 2-1 「王国の民」とは誰なのか。キリスト教徒を指すのか。非キリスト教徒を含むのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_3_2_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_3_0_4 http://recoveryversion.jp/bin/charts/kingdom.gif 2-2 「王国の新しい律法」とは何か。「旧経綸の律法」とは何か。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_22_0_1  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_22_0_2  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_28_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_29_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_7_14_0_1 参考 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_8_13_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_3_5_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=48_5_24_0_2 2-3 「彼ら」とは誰か。「わたしたち」とは誰か。「彼ら」と「わたしたち」とは同じでないのか。筆者は何故「彼ら」と言って、ある場所では自分を除き、別の場所では「われわれ」と言って自分を含めるのか。 →これは「彼ら」と言っているときには主に、聖書の箇所で「あなたがた」と言っている人たちを客観的に説明している時に使っていて、「わたしたち」と言っている時には、客観的説明を主観的に自分たちに適用する際に使っているだけではないでしょうか?そう読めますが。 2-4 「彼らは御父のように完全になることができるのです」とあるが、危険な訓えでないのか。キリスト教徒である自分は非キリスト教徒に比べ「より完全に近い」という謂われなき優越感を生まないか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_6_1_0_3 このこととキリスト教徒の行ってきた蛮行とは無関係か。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_13_32_0_1 この訓えと釈迦の訓えとはどういう関係にあるのか。裏腹でないのか。何が同じで何が異なるのか。 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=47&f_ChapterNo=6&f_VerseNo=15#15 2-5 全体に臭みのある日本語だが何故か。翻訳か。 →臭豆腐という食べ物を知っていますか?とても臭いのですが、現地の人にとっては良いにおいだそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AD%E8%B1%86%E8%85%90 何故、自分の言葉で解説しないのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_12_37_0_1 3 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_8_0_2 に関する疑問 「愛さない者は神をまだ知っていません.」とある。これによると神を知らない、即ち神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになるが、それでよいか。何故といって、愛さないどころか敵愾心に燃え滾ったキリスト教徒が沢山いたし、今も居る。そういう人は神をまだ知っていないことになるがキリスト教徒とは認められている。つまり、神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになる。この矛盾をどう説明するのか。あっさり矛盾を認めるのか。矛盾でないのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_5_5_0_3  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_22_13_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=56_3_15_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_4_9_0_1 4 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_3  と他の注解に関する疑問 「愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます。」とある。また、「人にはできないが、神にはすべての事ができる」ともある。これは危険な思想でないのか。これだと、自分の中に神が住んでいて、自分=神=「すべての事ができる」と考える現人神が登場しやすくないか。 →ここの聖書の箇所では「すべての事ができる」というのは、神が命じたこと、人に提示、約束されたことに関しては、内に住む神を命として生きる人は「すべての事ができる」という理解になると読めます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=52_5_23_0_5 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_15_45_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_3_17_1_1 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=14&f_VerseNo=17#17 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_3  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_25_4_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_23_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_8_16_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_6_19_0_1 他、多数。 しかし、人は礼拝の対象とはならない。 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=44&f_ChapterNo=14&f_VerseNo=12#12 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_1_20_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_2_9_0_2 5 全体を通じての疑問 キリスト教と限らないが、宗教は今日の規範として相応しくないのではないか。宗教は価値観を共有する方向に強い力が働くので他の共同体と接触の乏しい小さな集団内でしか平和裏に機能しないのではないか。一方、価値観の異なる他の共同体と接触が生じたが故に宗教が誕生する側面(というか、これが正面?)もある。布教に熱心な宗教は危なくないか。 →自信はありませんが、この聖書の解釈では、キリストと宗教は相反し、キリストは宗教から人々を救おうとしておられると読めます。神=宗教ではないし、神を信じ受け入れる=宗教ではないと言っているように読めます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_2_1_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_9_14_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_13_33_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_13_13_0_1 他、多数。 参考 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=9#0032 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=23#00109 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=41&f_ChapterNo=2#0020 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=41&f_ChapterNo=3#0021 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=4#0026 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=5#0037 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=7#0058 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=9#0084 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=9#0086 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=10#0091 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=11#0097 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=12#00101 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=15#00120 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=18#00141 他多数。

参考URL:
http://www.recoveryversion.jp/
sono-higurashi
質問者

お礼

1 これはNo.11へのお礼ではありません。 No.9の補足欄に既に「有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします」とお礼は述べています。但し、お礼をお礼欄に記さなかったのは私の落ち度ですからお詫びします。申し訳ありませんでした。 実は一度は、お礼欄に記したのですが字数制限があって受け付けて頂けなかったため補足欄に記してしまいました。 2 頂いたNo.9からem9845さんは読解力に優れ論理を追える方だと判断しました。よってNo.9の補足欄に記した、 「この質問は、聖句の解釈までは踏み込んでいません。というのは予備知識がなさ過ぎることを自覚しているからです。今の時点で聖句の理解まで欲張ろうとは思っていませんし、将来ともキリスト教徒になる(なれる)予感はありません。が、頂いたご回答は粗末にすることなく自分なりに吟味したことをお伝えする意味で、生じた疑問と感想を記します。疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。」、というこの一節を、きちんと読み取っていただけるものと思い込んでしまいました。これは私の早とちりで、済まなかったと思っています。 では改めてお伝えします。 疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。 3 一定の洞察力がある方であれば、No.9で頂いたご回答からNo.9の補足欄に記した疑問が生ずるような者に対してNo.11の回答を与えれば、どれほどに疑問が膨らむか容易に推測できるものと存じます。因みに申せば、一つのサイトから仮に二つの疑問が生ずるとしても、No.11には55のサイトがご紹介されているので計110の疑問が生ずることになります。果てしなく延々と質疑が続くことになります。何処かで幕引きをしないとなりません。終了の了解を求めた文言が「疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。」の積もりでした。 4 No.11はem9845さんの親切心であろうことは十分想像しています。しかし、前記3に記した事情もご理解頂けるものと推測します。 以上、重ねて確認しておきます。No.9にはお礼を申します。有り難うございました。No.11はお願いしていないのでお礼は申しません。No.11も親切心の表れであろうかな、とは推測しています。

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