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自殺の正当性

こんにちは 自殺の正当性についてご意見を伺わせてください。 現在日本人の自殺者は11年連続で年間30000人を超えています。 政府をはじめ各種団体は自殺者を減らすために様々な努力をしています。 そのことは非常に意義があり、必要なことであると思います。 「人は何故自殺という選択肢を選ぶのか」に関しては、自殺に至る 要因・原因も含め千差万別であり、様々な研究者、宗教家、医者、 カウンセラー等がそれぞれの立場で分析し、発言しています。 社会が悪い、政治が悪い、少子化の影響、景気悪化、格差社会、学校 教育の問題、インターネットの影響、テレビゲームが悪い(笑)・・・etc 個人的には納得できる意見も、「それは違うんじゃない?」という意見も色々目にします。 自殺者が増えている原因についてはこのように様々な議論がある一方、 「自殺をする」という「行為」に関しては、「自殺をしてはいけない」 という論調が圧倒的だと思います。 「最終的には自殺という選択肢もアリだよ」という論調はあまり聞きません。 「自ら死を選ぶ」という選択肢は本当に「ナシ」なのでしょうか。 人間は「生まれてくること」を自ら選択することはできませんが、 「死ぬこと」は自ら選択できます。この選択肢は「選んではいけない 選択肢」なのでしょうか。 精神的疾病など「病気のせいで」自殺を選択しようとしているのでは なく、自ら論理的に分析、判断して自殺を選ぶ行為は「正当」といえるのでしょうか。 「自殺はいけない」という論調は例えば、 「死ぬくらいならなんでもできる、死んだと思ってやりなおせ」という 根拠の無い論旨のすり替えのもの、 「家族や親や友人を悲しませる、残された人間の気持ちを考えて」という 感情論のみのもの(この理屈だと「天涯孤独なら自殺して良い」ことになります)、 「自殺すると後世で生まれ変われない」などの宗教観によるものなど、 個人的には「説得力が無い、少ない」ものが多いです。 長くなりましたが、質問をまとめます。 「論理的に判断して自殺の選択をした場合、それは正当と思われますか?」 ※私個人は自殺するつもりも予定も全くないです(笑)

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  • akkeyNo1
  • ベストアンサー率25% (61/241)
回答No.1

決して推奨しませんし、正しいとも思えませんが、世の中にはそうしないともうどうしようもない状況まで追い詰められて自殺された方もいます(記憶に新しいものでは、闇金融に追い詰められて自殺されたご家族がいらっしゃいましたよね)。 それを「間違っている」とは私にはとても言えません。 だって、自殺されたから事件が大きくなったのであり、それまではだれ一人、助けようとされていませんでしたよね。 自分の人生の幕の閉じ方をご自分で決められた。それによって世の中がどう変わろうと、その方には何の関係もありません。なのでその方がそうしなければならない、そうするべきだと判断されたなら、その人自身は責めるべきではないと思います。世の中、根性論ではどうしようもないこと、沢山あるんですよ。 残された方の苦しみは大きいですし、社会的には間違っているのでしょうが、その方が「楽になる」と思われたなら、少なくともその方の立場に立てば正当だと思います。 でもやっぱり、生きたくても生きられない人がいることを考えると自分で命を絶つのはやめてほしいです。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 はい。私も「感情的には」やめてほしいです。 感情論、宗教観など様々な葛藤の末「自殺」という選択をされる方 に対して社会が何を出来るかという難しい問題だと思います。 >闇金融に追い詰められて自殺されたご家族 非常に痛ましい事件だと思います。 闇金融がこれだけ社会問題化しており(ということは被害者は山ほど いる)、法的にも「闇金融から借りたお金は返さなくて良い」という ルールがあっても、自己破産制度や生活保護制度があっても借金問題で 自殺なさる方がいます。その一方同じ環境でも「死なないでがんばる人」 はそれ以上にいます。 単純に「金利を下げる」「闇金を取り締まる」などの政策で本当に 自殺者が減らせるのか疑問に感じます。

その他の回答 (21)

  • sawai197
  • ベストアンサー率39% (164/415)
回答No.12

「家族や親や友人を悲しませる、残された人間の気持ちを考えて」 これを「感情論」で「説得力が少ない」とお考えですか。 でも「自殺で迷惑をかけるのは良くない」(それが「自殺」でなく「通常の常識として迷惑をかけるのが良くない」という意味であっても)ともお考えなのですよね。 「周りの人間を悲しませる」というのはまごうことなき「迷惑」なのではないですか? 飛び込み自殺をして電車を遅らせて、見知らぬ他人に「ちっ、迷惑だな」と思わせるのは迷惑であっても、家族や友人に「何故止められなかったのか」「もっと故人にこんなことをしてあげるべきだった」「止められなかった自分は殺人者も同然だ」と、何年も何十年も続く、後悔・自責の念を負わせるのは迷惑ではないと? それとも家族や友人であれば自業自得だとでも? 大体、他殺が悪とされるのだって「周りの人が悲しむ」ことも大きな要因では? そうでなければ同意殺人は罪がないことになりますよね。 さて、そうは言いますが、私自身は「自殺もあり」だとは思っています。ただそれは「どんなに悪いことだって、それが避けられない事態はある」ということで「自殺は悪である」ことが前提です。 人は、ただ生きているだけじゃなくて「幸せになりたい」生き物です。「どんなに辛くったって生きろ」なんて、言う方は簡単ですが、その「どんなに辛い」人生を生きるのはその人なのですから、死ぬより生きる方が辛ければ、私だっていつかは自ら死を選ぶことはあるかもしれません。たまたまそんな目にあわなかった運のいい人が、そうでない人を非難することはできないでしょう。 しかしそれは「正当性」で語られることではないと思います。正当・不当というなら、自殺は「不当」以外ではありえないと思います。 他殺でさえ、法律上ではなく心情的に理解できる場合、あるいは法律上でさえ罪を問われない場合もあります。しかし一般論として「他殺は正当か」という問いがあれば「不当」としかいいようがないでしょう。同様に「~と、~と、~という条件を満たしているから、この自殺は正当」だなんて意味のないことです。 さて、「悲しむものが誰もいなければ自殺してよいか」についてはスペースもないのでまた次回に(削除対象?) とはいっても実はこの件についても(私の)答えはもうこの文内に出しているんですけどね。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 回答者様のお考えは、非常に理解できますし、「論理的」だと思います。 私が回答者様の考え方と違う点は「感情論のみでは説得力がない」と 考えていることです。 まず「他人に迷惑をかけないようにしよう」というのは当然です。 しかし「全く迷惑をかけない」のは不可能です。 ここで回答者様が私に投げかけていたいただいた部分に関する私なりの 回答なのですが、 「物理的迷惑と感情的迷惑は同列に考えない」というものです。 「感情的にかける迷惑」は「その深さや影響が所詮当人にしかわからない」 からです。 もちろん感情論はとても大切です。しかし、質問文にも書いたように 感情論「のみ」では説得力がないと思っています。 自分の感情と他人の感情の間で葛藤があった場合、最終的に他人の感情 の「本当の部分」が図れない以上、最終的には自分の感情で判断するの は当然の帰結だと考えるからです。

  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1847/10423)
回答No.11

昨日、ちょっと似たご質問に回答したのでご興味をお持ちになられたら参考URLも見てください。 「論理的に判断して自殺の選択をした場合、それは正当と思われますか?」 私は「正当な場合もある」と考えます。 昨日の回答に被るので多くは書きませんが、極端な例えを挙げるとすれば他の罪で良く挙げられる「船板」が分かりやすいと思います。 乗っていた船が沈没、大切な人と共に海に私が投げ出されたとします。 二人の命を支えているのは一枚の薄い板の浮力だけ。 しかも、この板の浮力では体力を失った時に二人の重さには耐えてくれそうに無い。 そう判断した時に私は板を放します。 相手のためでは無く、私の心に背かないでいるために身勝手に板を放し死を選択するでしょう。 「私は逝き時を見誤ってはいけない」 これは私が私のために守るべきルールです。 法律が死後の私を裁きたければ裁けばいい、周囲の方達には哀しみを与えた分は罵倒されて当然、地獄の業火で永遠に焼かれるのであればそれも受け入れます。 ただ、私の死後、私の大切な人達には哀しみを超える幸福を残さなければいけない。 私はこのように考えています。 間違われると困るのはこれは私だけに当てはまる話だということです。 もし、ここ(goo)で自殺志願者からのご質問があれば私はその方の論理(例えどのように正当性を感じさせるものであっても。)を覆す事に全力を注ぎ自殺を阻止しようとするでしょう。 私は私以外の人の死を嫌い、認めない自己中心的思考の者ですから。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4995755.html
mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 関連質問読ませていただきました。 「自殺=弱い」という考え方は私も「少し短絡」な気がします。 >私は私以外の人の死を嫌い、認めない自己中心的思考の者ですから。 これは「倫理」「論理」ともに説得力があるご意見だと思います。 もし死を選択した方が回答者様のような論理によりその選択をしたので あれば、それは正当性のあるものだと私も思います。 その論理観、倫理観、価値観が「自分にのみあてはまるもの」という 前提に関しても、深く共感します。

  • 1112
  • ベストアンサー率22% (716/3116)
回答No.10

自分の身内にも自殺者はいます。 >「論理的に判断して自殺の選択をした場合、それは正当と思われますか?」< 結論から言うと・・・ 「NO」です。 いかなる場合でも、「認めない・認めさせない」という気持ちが必要です。 もし「自殺の正当性」を認めたら残された身内は・・・ >故人が自殺したと言う「負の遺産」を一生つきまとう結果になります。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おつらい立場での回答、本当にありがたく、申し訳なく思います。 私も中学生のとき、友人が自殺しました。 「親友」とまではいかなかったのですが、俗に言う「仲良しグループ」 の中の一人でした。 土曜日の午前中いつもどおりに学校で会い、馬鹿話をし、別れました。 次の日みんなで「模擬テスト」を受けに行くことになっていました。 テストの後はどこに遊びに行くか、なんて話もしていました。 そしてその夜、彼は自宅マンションの屋上から身を投げました。 遺書はありませんでした。 僕たちのショックは相当なものでした。 新聞の片隅に「中学生自殺。受験、進路を苦に」という小さな記事が 載りました。 僕たちは全く信じられませんでした。彼からそんな悩みは聞いたことが なく、彼が行きたい高校も将来の夢も聞いており、その学校のレベルも 彼ならば十分にクリアできるものでしたから。 あれから20年以上たちますが、今でもたまに彼の死を思い出します。 彼の死に何の意味があったのか、それともそもそも何の意味もないのか。 お礼になっていなくて申し訳ないです。

  • nandakka
  • ベストアンサー率23% (45/190)
回答No.9

意見や考えというほどのものは恐らくお聞かせできないと思います。 その上で駄文にお付き合い頂ければ幸いです。 一つお尋ねしたいのですが、質問者様の考えておられる 「論理的判断の結果としての自殺」の例としてどのようなケースがありえますか? 私としては、仮に目の前に今死のうとしている人がいたら全力で止めるでしょう。 と同時に、「自殺に正当性はない」と言う断定はできないと考えます。 仮にいかなる種類の自殺も赦されないなら、社会悪に対する抗議自殺 (例:仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺したヴェトナム人僧侶ジッチ・クアン・ドク)、 社会的システムによる自殺(例:ヒットラー暗殺未遂に関わったとして 死刑としての服毒自殺を強要された軍人エルヴィーン・ロンメル)を どう考えるかの答えが出ないからです。 その一方で自殺を容認することも私にはできません。 これはごく自然であろう人情によります。 死にたい奴は勝手に死ね、と言う見解にも決してくみしません。 >自殺者がどんどん増えている今の世の中で、 >この部分を(自殺志願者の苦しみをともに背負う覚悟があるか─引用者注) >いかに咀嚼して具体的な自殺者の減少対策につなげていけるのかが >課題なのかもしれません。 この点については深く共感を覚えます。 これらの帰結として、私のとりうる態度は 「個人的な苦悩の結果の自殺に限り、全力で止める」となります。 それが正しいからではなく、それ以外にどうにもできないからです。 「どうして止めるのか?」ときかれたら 「止めたいからだ」としか答えられません。 ご質問に対する答えと言うより、自分の考えを述べたに過ぎませんね。 参考までに、私が自殺を考察する上で欠かせない本をご紹介します。  「自殺者の時代─20世紀の144人─」(若一光司、幻冬舎文庫) 実在の自殺者の生い立ちや死にいたる経緯を述べた一種のルポルタージュです。  「自殺者─現代日本の118人─」(若一光司、幻冬舎文庫) 同じく、日本の自殺者についての本です。  

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「論理的判断の結果としての自殺」の例 回答者様に提示していただいた抗議や社会的システムによる自殺は もちろんのこと、私が考えていたのはもう少し広義に解釈したもので、 単純に書いてしまうと「病気などで正常な判断能力を欠いた状態でなく、 きちんと自分で考えた末の結論として自殺を選んだ場合」です。 もちろんその考え(そこに至る論理)自体が「正しいか否か」は関係なく。 日本だけではなく「自殺」という行為が正当だとされていた時代は つい最近まであったはずです。 自分の主人や家や家族や名誉を守るため、主義主張を貫くために自殺 することは正当化されていました。残された家族の悲しみ云々はその頃 も今も変わらないでしょう。 >個人的な苦悩の結果の自殺に限り という回答者様とは私も同じ考えです。 本を紹介していただき感謝いたします。 1冊は未見でしたので、早速読ませていただきます。

回答No.8

人間には自由に生きる権利があるとよく言います、 逆に自由に死ぬ権利ももちろんあると思います。 自分の人生は自分の人生、やりたい事があれば、生きていきたければ、生きれば良いと思います。 逆にやりたい事も無く、生きるのが苦痛でしか無いなら、死ぬのもアリだと私は思います。 残された人々云々以前に、その生まれてきた人は残された人の悲しみにも届く悲しみを抱いているに違いないと私は思います。 残された人が怒ったり、悲しんだりするのもわかります、しかし自殺を選択した人間にも同じような苦痛は必ずあるのです。 もしその残された人が自殺者の悲しみも苦しみも理解できていない状況で「自殺なんかしやがって、馬鹿野郎」などと言うのは間違いというか何か違う気がしますね。 残された人は特に自殺者への尊厳を忘れているような気がします。 これが私の意見です。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >生まれてきた人は残された人の悲しみにも届く悲しみを抱いているに >違いないと私は思います。 まったく同感です。 感情論「だけ」で自殺を止めることはできないと私も思います。 病気(精神的なもの)で自殺なさる方を除き、自殺なさる方がそこへ 行き着くまでの精神的葛藤は、とても他の方が理解できるものではない と思います。 残された人の「将来の悲しみ」を「想像」できても、自らにおきている 「現在の心の痛みや葛藤」はリアルであり、「今の痛み」が大きくなれ ばなるほど「自殺という選択肢」を選ぶのだと思います。

  • akagi3939
  • ベストアンサー率22% (63/285)
回答No.7

僕は自殺もありだと思います。 皆さん言われてるように、他人に迷惑をかけないことはもちろんです。 その上で、自殺は個人の自由の1つだと思います。 最後には自殺も出来る。という選択肢があった方が気が楽になると思うんです。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >最後には自殺も出来る。という選択肢があった方が気が楽になると思うんです。 選択肢としてはアリでも、そこでその選択をする人としない人の違いが 私が気になっている部分です。今の色々な自殺防止対策はこの部分の 考え方が欠けている気がしているのです。

noname#155097
noname#155097
回答No.6

>自ら論理的に分析、判断して自殺を選ぶ行為は「正当」といえるのでしょうか。 次の統計やデータからの類推ではありますが、 http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm 昨今の自殺者の傾向をみている限りでは、 失業者(50%)や被雇用者(25%)のそれも男性(75%)が圧倒的に多く、 自殺理由については健康問題(50%)と経済問題(25%)が大半を占めています。 読み解くと、うつなども含めて健康的、経済的に追い詰められて、 将来への希望をなくした、もしくは正気な状態をなくしたと 考えられると思います。 自殺者数が平成10年を境に急激に増えているのは、 バブルの余波が拓銀山一破たん、貸し渋りによる中小企業の倒産件数の増大以降と リンクしていることからなども、類推されます。 ステレオタイプ的にまとめれば、 「リストラされたり、毎日残業残業で休みも休めず一生懸命働いて、 それで身体を壊したり、それでも会社をクビになったりして、 家族から見放されたり、一人で行き場をなくしたりした人間が 人生を悲観して自殺することが妥当か、救いようがないか」 という観点で見ることもできると思います。 以上から考えると、論理的な判断=社会から完全に見放されたと 考えるのが妥当であり、社会的には容認されないのではないか。と考えます。 自殺を思いとどまった人の話などをテレビなどでみることもありますが、 「自分は今こんな困った境遇にあるのだ」ということを 誰かに話せただけで自殺を思いとどまることができたというような 例をみるだけでも、その選択に正当性があるかどうかと 考えるのははなはだ疑問が残ります。 もちろん、正当である。。と考えるものがあるかもしれない。 という可能性についても今のところは保留したいと思います。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「自分は今こんな困った境遇にあるのだ」ということを誰かに話せた >だけで自殺を思いとどまることができたというような例 他の方のお礼にも書かせていただきましたが、私も強くそう思います。 「自殺という選択肢は、それ以降の選択肢を可能性も含めて全て放棄 する」という選択肢ですから、「一度放棄した(しかけた)方が、新 たな選択肢を選べた」という可能性の提示は説得力のある行為だと思います。

  • goony
  • ベストアンサー率23% (188/813)
回答No.5

自殺を正当とされない理由は 自殺の効果(変な言い方ですが)を実証出来ないからでは 無いでしょうか。 自殺者から実際「いやぁ~死んで良かったですよ。 こういう道もありですね」という言葉が聞けない以上 本当に正当な手段だったかどうが、確かめようがありません。 でも自殺寸前まで悩んだけど、生き抜いた人の言葉は聞けます。 自殺したいと思う程どん底まで落ちた人が 何とか前向きになり辛さを克服し幸せを掴む 「あの時死を選ばなくて良かった」という言葉は よく耳にします。 自殺を思いとどまった事で得られる効果は実証されている って事かなと。 世の中の風潮としては、効果が実証されていないものは 積極的に勧めていませんよね・・・。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自殺を思いとどまった事で得られる効果は実証されている そうですね。そのような人たちが自ら体験を語ることにより、それが 自殺抑制の一助になっている部分は確かにあると思います。 体験や経験から出る言葉は、研究者が分析して出した言葉より、重く 説得力があると思います。

noname#88230
noname#88230
回答No.4

自殺は殺人の一形態ですから、正当性はありません。 偶然加害者と被害者が同一人物だっただけです。 死ぬ事も生きる事の放棄も構いませんが、たとえ自分自身であっても、故意に殺す行為は正当だとは思えません。 上から鉄骨が落ちて来ても避けないというのは十分にアリだと思いますし、病院に行けば助かるのに敢えて手当を拒否するという選択も責めるつもりはありませんが。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自殺は殺人の一形態 なるほど。おっしゃる通りですね。自分では気づかない視点でした。 「殺人」と捉えると確かにそこに正当性はないですね。 もちろん自殺しても刑法上の殺人罪に問われることはないですが、 法の前に立つ倫理の観点で言えば「他人殺し」も「自分殺し」も同じ 「罪」なのかもしれませんね。 目うろこのご意見です。ありがとうございます。

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.3

正当性以前に方法が問題です。 つまり本人だけの死ならともかく周囲への迷惑です。 近くのJRの駅でもよくありますが、線路飛び込みがあったら何千人の乗客の足に影響し、バラバラとなった遺体の回収も大変です。 首吊りにしてもホテルやマンションでされて噂になったらその部屋は使い物になりません。 高層ビルから飛び降りて通行人が巻き添えを食って死亡したこともありました。 近年流行の硫化水素による自殺も巻き添えが多いです。 死ぬつもりで山に行ったら捜索が大変です。 考えると他人に迷惑をかけない死に方は限定されると思います。 多くの自殺者はそのことを考慮してないがゆえに非難される部分も大きいのではないでしょうか。 このアンケートも誰にも迷惑をかけない死に方を前提でないと希望する回答は得られないと思います。

mot9638
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >誰にも迷惑をかけない死に方を前提でないと希望する回答は得られないと思います 私も最初そう思いました。 ただ、「そもそも自らの命を絶つという行為の正当性」を純粋に問いた かったので、あえて書きませんでした。 もちろん自殺によって他人に迷惑をかけることはいけないことです。 私も朝「人身事故の影響で・・・」なんていうアナウンスを聞くと腹が立ちます。 ただこれは「人に(まわりに)迷惑をかけない」という当たり前の理屈 であって、別に「自殺するときは迷惑をかけない」とは違うと思うのです。

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    他の方の質問の中で、自死についての質問があり、 回答者の中に >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< という方がおられたので、少し考え込んでしまいました。 定型発達の方にとって自殺とはどの辺までを言うのだろうと? 私はアスペルガー症候群を医師より診断されていまして、モノの考え方や感じ方が「一般的な範囲」と重なっていないことが多いです。 自殺というワードでも、多くの方が抱く共通概念と違う捉え方をしていないか、少し確認してみたくなりました。 以下、私が自殺と思う事例をいくつか挙げてみるので、自殺かそれ以外の何かになるのかなど、皆さんの思われるところを教えていただけると嬉しいです。 積極的自殺(自己の気持ちで完結する理由の自殺) ● 借金・病気などの苦で命を絶つ ● 何らかの犯罪の被害者になってしまい、生きていく活力より死への渇望が上回り命を絶つ。 ● 将来に望みを持てなくなり「死んだほうがまし」と思い命を絶つ。 職務的な自殺(軍人の犠牲的献身など、立場上称賛される死に方) ● 敵機動部隊を見つけた偵察機が、より確実な接敵成功のため帰りの燃料が無いのを承知で攻撃隊を敵機動部隊に誘導する。帰還は不可能、着水しても助かる見込みもなく「先鞭」として敵艦に突っ込む。 ● 護衛対象の民間商船に魚雷が迫っており、商船側での回避は不能。火器運搬船であるため、一発当たれば大爆発してしまう。敵潜を警戒していた警戒機が「これも俸給のうち、100人より2人の方が被害も少ないですしね」と商船側に伝え、魚雷に体当たりをする(真冬のベーリング海近海で着水すれば確実に助からない)。 ● 羽柴軍に責められ水責めされた城の城主が、城の人々の助命と引き換えに船上で割腹。 信仰や信念による自殺 ● 古代アテネの様に、生贄になることが社会的な名誉となり、自ら志願して命を落とす。 ● 衆生救済のために即身成仏をする。 ● 信仰を守るため、改宗を拒み命を落とす(断れば殺されるのが自明で、他者の手を借りた自殺とも思える)。 こんな感じですが、私はこれをすべて「自殺」と思っています。社会的な貢献や時代背景、個人の立場など加味して、注意深く考える必要があるのは当然ですが、 自ら命を絶つ(立たれる状況に積極的に持ち込む)ことが自殺だと思うのです。 行為の崇高性とは別で。 上記の行為は、定型の方は私と同じように「自殺」だが崇高な行為や多くの人を救う行為もあると捉えるのか、 やはりいけないことと考え  >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< と思われるのでしょうか? 法律的なところや、学問的な部分ではなく、皆さんがパッと見て感じた部分を教えていただけると幸いです。 私とのずれや、感じる手順やモノの見方の違いを勉強させていただきます。 どう思われます? 注意 私が自殺したいとか、希死観念が強いということではなく、純粋に同じ語句ので、他の方との感じ方のずれがあるのかを知りたいという趣旨です。 私が死にたいと思うという立ち位置からの回答はご遠慮願います。質問の内容を書いてください

  • 死刑と自殺の関係

    人間は死にたくないはずだ、だから死刑には皆なりたくないはずです。 それでも、中には 宅間守や加藤智大のように、死刑になりたくて 殺人を犯した ふざけた人間もおります。 しかし、少数事例を一般化するのは無理がありますよね(*^^*) なぜなら、「死刑になりたいから」と言って犯罪を犯す犯罪者は、犯罪者全体の1%にすら達しないからです。 また、自殺者にしても年間三万人と言われていますが、一億三千万の人口から見るとやはり1%にも達していません。 したがって、自ら死を望む人々(犯罪者、自殺者など)は特殊な事例でしかなく、一般化できるものではないことは明らかですよね(*^^*) また、自殺者について言えば、死ぬこと自体は目的ではなく、何らかのストレス要因(挫折、借金、病気など)からの解放の手段として死を選択しているだけであり、そのような理由が無ければ死ぬ人はいないでしょう。 私も 日本で自殺者が最も多く用いる方法と 死刑の執行方法の類似性から、何らかの関連があるのではないかと疑問に思いましたが、低学歴の私が 自分なりに導いた結論としては無関係だと思いますが、有識者の皆様は 死刑と自殺の関係を どう分析しますか?

  • 「自殺」を考えるは難しい

    「生きる」ことへの深刻な相談に答えるのは難しいです。僕は言葉がなかなか見つかりません。知人の意見、過去レス、他のページなどを頼りにいろいろ考えてみたのですが難しいです。 『否定派』 1.自殺は逃避である 2.自分の命は自分だけのものではない 3.自分の人生を否定する行為 4.人生の物語りは自分でつくるもの 5.愛は消えてもまた現れる 6.死にたいは生きたいの裏返し 7.生き甲斐がないから死を考える 8.人生がつらいのはみな同じ 9.死は人間の義務である、ならば生も人間の義務である 『肯定派』 1.自殺は選択である 2.他者のために生きるは自己犠牲である 3.自殺は自己の表現である 4.人生の物語りを完結するために死ぬ 5.ひとつの愛のために死ぬ 6.自分が死んだように生きるのが問題 7.みんな死を忘れようとして生きている 8.苦労話は自慢話に他ならない 9.生きる自由があるならば、死の自由もある 売り言葉に買い言葉だとは思わないでくださいね。生と死は一体なので、ある意味仕方ないです。みなさんはどちらの立場でどう思われてるでしょうか?他の意見もあればお聞かせください。お返事必ず致します。 (なお、あくまでこの質問はこの場でみなさんの意見を聞きておきたいという主旨です。審判をしていると誤解しないでくださいね。)