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輪廻転生説は 愚の骨頂

noname#91067の回答

noname#91067
noname#91067
回答No.106

おはようございます。返信ありがとうございます。 訂正です、ヘッセの小説は【デミアン】でした。 以下死=暗い鏡について文中から抜粋。 「冒険と荒々しい運命(孤独な事件)が呼ぶ今の瞬間、または間もなくやってくるというのは不思議ではない。今僕は理想のために死ぬことが出来るのを見た。~「君自身の心に耳を傾けなければいけない」僕はときおり暗い鏡の上に身をかがめてまどろんでいるところへ降りてゆけば僕自身の映像が見られるのである。僕の友達兼導き手である彼にそっくりそのままの映像が。」 輪廻転生は人生が一度きりではなく、死んでも来世が与えられ自分探しを繰り返し続けられるという発想の希望的観測なのでしょうか? >突然変異か何か 何らかのきっかけがあって(もしくは なくても) 人間(現実)が変わると思っています。 >>★ 余計な思索  >☆という言い方をされていますが~余計ではないのですが 余計な部分を 副作用として伴ないます。やがて 観念化し さらには幻想化するという道をたどるものです。。これが 逆転する(つまり 元の状態にもどる)でしょう。これが 《人間(現実)が変わる》の実質的な内容の事例です。 これら二点が 復活についての課題です。 自己探求を考古学に例えることがありますね。発掘調査して等身大の標本に組み合わせることを目指します。発掘してから知識や想像力で組み立ててゆくけれど、何がどう残り現われるかわからないで発掘せずに理想の標本を思索しても無駄骨で終わるから、現実とどう関わり格闘するかでしょうね。 男性にも乳首ありますね。無駄に!?きっと何らかの象徴に残されたと思います。頭で出来ることは自己の全体のほんの一部に過ぎず、へその緒から母乳へ、そして蝶を持て成す花のごとく、体を使って崇拝を受けるなら短い生も引き継がれるし咲かせた甲斐があろうということ。 >《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》 未来の展望=輪廻転生と逆行して完全な生は、完全な過去の死、用意した未来(子孫や弟子、理想に)抱きしめられて至ったものを見出せると暗い鏡はどんなものより雄弁に生長を語るだろうと思います。 つまり頭や心だけでなく体ごと使い抱きしめ堪能しないのは発掘調査経験不足。内実より考古学者の名誉のビジョンだけを欲してるとなります。

bragelonne
質問者

補足

 miko-desi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 輪廻転生は人生が一度きりではなく、死んでも来世が与えられ自分探しを繰り返し続けられるという発想の希望的観測なのでしょうか?  ☆ これは あいまいに感じます。  ★ 希望的観測  ☆ だから 哲学にとって おもしろい課題ではないということなのか。ともかくも そういう想像をこころみることによって わづかにでも かすかにでも 希望が持てることがあると言うことなのか。  後者なら それは 自分で文学作品を編むことですから 自由だと言って来ています。つまり ここでの哲学の視点とは 別問題です。  前者のばあい 複雑です。でも 基本は 決まっているはづです。  ○ あるかないかが分からない来世を前提として 話をすすめることは 哲学にとって 主題とはならない。  ☆ です。複雑だという意味は 昔の話です。  ★☆ >《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》  ☆ と思っていた時代は あったはづです。これは 来世というよりは(つまり 自分の生まれ変わりというよりは) 時代の変化のことなのですが 未来に託したという心情は あったでしょうね。  でも――いちど書いた気がするのですが―― 《板垣死すとも 自由は死なず》と言って 将来にのぞみを託したのは けっして 自分が 生まれ変わると思ってのことではなかったはづです。むしろ 一回きりの人生だからこそ そう叫ぶまでに 心情としては 思ったということではないでしょうか。つまり 輪廻転生は 関係ないのだと わたしは 考えます。  ★ 自己探求を 考古学における発掘した遺物の復元にたとえること  ☆ は 必ずしも 適切ではないと わたしは 考えます。理由を述べます。  わたしが われに還るというのは 一瞬の出来事だと思うのです。あやまちに気づいたときが 一般的ではないでしょうか。わたしがわたしであるというのは われに還ったその瞬間に 獲得されていて しかも このわたくしを わたしは それまで 知らなかったわけではないと知ります。それまで 愛して来なかったわけではないと分かります。  つまり  ずっと持続して わたしは わたしであったし わたしのことを思っていたと考えるのです。部分的な欠陥などは どうでもいいはづです。その欠陥をもぜんぶ包みこんで 《わたし》です。そのわたしを わたしは 知っていますし それまで ずっと 知らなかったわけではないことを知ります。  そして この瞬間 この現在は じつは 永遠なのです。この永遠の現在のもとに わたしは 存在していて それについて わづかに 意識しているかどうかの違いがある。ということだと考えます。  《わたし》万歳! ということで よいはづです。  これが 荒削りであっても スサノヲ人間語ですね。アマテラス人格語は これを わざわざ 学問によって 飾り立てることになります。飾りをつけなければ ほんとうではないと 思いこんでいます。  ★ 内実より考古学者の名誉のビジョンだけを欲してるとなります。  ☆ そして ここで わたしの異見としましては  ★ つまり頭や心だけでなく体ごと使い抱きしめ堪能しないのは発掘調査経験不足。  ☆ について 表現を修正してしまいます。  ○ つまり頭だけでなく 心の幅いっぱいにと同時に体ごと抱きしめ堪能しないのは 発掘調査経験不足であり あやまちに気づいたときの《自己還帰》不足。  ☆ また 自画自賛をつづけますが この自己到来の時間というのは その瞬間には むろん 言葉には表わしていませんが それでも 全体として すでに スサノヲ人間語とアマテラス人格語とをまとめて 回復していると考えます。言いかえると そのときの《あっ そうだ。わたしは なんて ばかなんだ》というスサノヲ人間語に そのまま 潜在的に アマテラス人格語が 含まれているという意味です。  だいぶ しゃべりすぎましたが このように考えます。  * ヘッセは 明るいのか 暗いのか よく分かりません。

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