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輪廻転生説は 愚の骨頂

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.108

ブッダの言葉は様々に修飾されていて、その本質は「伝承されてきたもの」を介した「向こう側」をのぞき見ようとしなければならないでしょう。 すなわち、「○○の存在の有無」を前提条件として話を進めるのではなく、「○○の概念をどうして共通概念として持ちうるのか?」を、最初に疑問として上げ、そこを中心に各人の方向性を吟味すべき事柄だと思います。言葉の意味(概念)を限定して「それが哲学的かどうか?」を問うことは無意味だと思います。 さて、せっかく役に立つであろう資料を提示させていただいたのに、初っ端から色眼鏡で読もうとしておられます。 すべての回答(とくにアドバイス)にコメントを入れる必要は無いと思いますし、(当然のことながら)まとめなおす必要は無いでしょう。ご自身で理解しにくい・読みにくいと思われたのなら、その旨、簡単にコメントしていただければよろしいかと存じます。 ところで、引用させていただいた文全般に渡って書かれていることの一つめは、 ※すくなくとも初期の仏教では「輪廻」よりも「非我(無我)」が重要視されていたということです。 ※二つめは、和辻氏の参考文献からも明らかなように、仏教興隆当初を含め、過去から広く問題とされている話題だと言うことです。 ※三つめは、多くの先達が、ここでの疑問と同等以上に考えあぐねている事柄だと言うことです。 まず、(意志と業――聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)では、ブッダが、自由意思と因果(業)との両方を考慮しようとする姿勢が見て取れます。 「どちらか?」ではなく「どちらも」といった姿勢です。(これは、No.72にて記した内容に相当します) ~~~~  ある時、釈尊は次のように言った。  「弟子たちよ、さまざまな思想家、またバラモンたちの中でこのような説を採るものがいる。    (α)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は前世に作ったものであり、どうすることもできない』    (β)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は神の創造によるもので、どうすることもできない』    (γ)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、それは単なる偶然であり、どうすることもできない』  これらの間違った考えに対して、私は違う意見を持っているのです。  一番目の人々が言うように、殺生や盗みなどの悪業を行う因を、人が前世にすでに作って、それが固定しているならば、今、殺生や盗みをする人は、その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。前世に行った業は固定していると考える人は、今、『これをしなければならない』、『これはやってはならない』と考える意志の存在を否定することになるのです。また、善をなそうという努力も否定することになるのです。  また、すべてが神によって定められているという説に関しても、すべてが偶然であるという説に関しても、どちらも人の意志や努力を否定することになる。  私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです」  (アングッタラ・ニカーヤ)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※ちなみに、「自由意思の関与を考えない」とすれば、仰るところのαはNo.93に相当し、γはNo.105に相当するでしょう。 では、ブッダの言わんとするところの概念が、共通了解可能かどうかについて考えてみます。 先ずは、自由意思と因果との絡みについてです。 このことは既に、No.96にて提示させていただいた >>> 因果応報・因縁にしても、 1.個から個へ 2.個から全体へ 3.全体から個へ 4.全体から全体へ といった概念があり得ます。 <<< および、No.101での >>> 特に因果関係については、「特定の個から特定の個」といった関係は 非常に稀であり、さまざまな要因がさまざまに関連し合っていることは、 だれしも知っているわけです。 <<< に該当します。 (ここでの質問・回答が1の「個から個へ」のみに限定していると言われましたが、それであれば、当然のことながら「哲学的な扱い」は困難・不可能です。「なぜ、個から個にのみ限定したがるのか?」を含めて考えるのが「より哲学的」だと思っております。) さて、個(仏教用語では「我」)には自由意思と呼ばれる概念が付随しています。 「非我」は、No.77の柄谷氏の言葉を借りるなら「あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。」に相当します。 複雑系の科学などにて明らかにされているように、ほんの僅かな初期条件の差が後々の結果に多大な影響を及ぼしたり、初期条件が大きく異なっているのに、後々の結果に大差がないといったことなど、複数要因が複雑に絡み合う現実世界では、因果関係を構成しうる1本1本の糸は、本当に些細な出来事にしか過ぎないのですが、「あらゆる諸関係の束」が合わさったところに結実している「この」私にとって、それぞれの些細な糸は、非常に重要な意味を持っているわけです。 そのうちの一本の糸のみを重要視したとき、αやβやγといった「原因はこれだ」(もしくは、「これは原因ではない」への執着(二者択一)が生じてしまうでしょう。 限定された項目のみで説明可能で、他を排除可能だとは誰も考えないと思います。さらにいえば、ありとあらゆるものが関わり合って現時点が構成されているという概念には、誰も意義を唱えないと思いますが、いかがでしょうか?。 関わり合っているもののうち、「特定の何か」のみに視点を向けて考えあぐねることが愚かしいということになるでしょう。これは柄谷氏の述べるところの >>> ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。 「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。 彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり <<< に該当するでしょう。 そういった視点で考えるならば、 過去からの影響は、「わたし」という束を中心に捉えたとき、 「全体から個」 ないし 「個から個」 への因果応報であり、自業自得になるのは一部です。(あたりまえ) また、未来への影響は、同様に 「個から全体」 ないし 「個から個」 への因果応報で、「諸関係の束」の一本の糸にしか過ぎない自身の行為・業は、確実に多くのものの未来に影響を及ぼし、「もし、仮に生まれ変わったとするならば」その個人にも影響が及ぶことは必須です。 すなわち、たとえ「輪廻」があったとしても「因果」の捉え方次第だということです。「個から個」以外の概念は「気の抜けた麦酒」だと思いたがる人々がいたとすれば、「多くの因果による諸関係の束」といった概念よりも「一本の糸」を意識することでしょう。まさに、個人個人の「情」(冷えて喉越し爽やかな麦酒が欲しい!)といった方向性の為せる業だと思われます。 「気の抜けた麦酒」は「麦酒」として扱わないと当初から宣言されて質問を立てておられるのでしたら、「この質問は哲学とは考えていない」と自ら宣言しておられるのと同じだと思います。

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bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (ヰキぺ:因果) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C  仏教で通俗的に因果と言う場合には、業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことが多い。  「善因楽果・悪因苦果」と言うように、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便(本来の教説に導くための一種の方法)としてしばしば使われる。  この因果は自然科学的法則ではなく、われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的に規定する教説として言われたものであろう。  しかし、このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教本来の考え方にはそぐわない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (ヰキぺ:輪廻転生) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F  死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを 哲学は 扱いようがない。

bragelonne
質問者

補足

 たとえばひとつの見方として 遺伝子を主体として見るわけにはいかないというものがあるはづです。  遺伝子の連続性・その永続性を捉えたとしても 親子あるいは双子のあいだでも その存在は 別です。人格が 別です。さらに過去あるいは未来に その筋を伸ばして捉えても 同じことです。  同一の《わたし》の生まれ変わりという存在のあり方を見てとるのは 無理でしょう。個体は かけがえのない存在であるはづです。  したがって 輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。

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