• ベストアンサー

輪廻転生説は 愚の骨頂

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.109

No.111では、輪廻といった概念が、初期の仏教にて「非我(無我)」と対立する思想だったという姿勢をとっておられるサイト http://fallibilism.web.fc2.com/index.html から、和辻哲郎氏等の文献を参考にさせていただきましたが、もともと、どうして、人は「輪廻」という概念を(たとえ無かったとしても)「ありうるかも?」と思い込みたがるかを考える必要があると思います。(※ちなみに上記は、論理的に輪廻を否定的に扱うサイトです。) 形而上学的な「○○」の存在の有無は、(幻想的にでも)共通了解可能な「○○という概念」が生じるときに生まれます。 その「○○という概念」(今回の場合、輪廻概念)として捉えうる事象は、(辞書やヰキペディアに載っている程度の)一般論的な概念として捉えている程度では、表面的な理解のままで終わってしまい、哲学的な論考の入り口で足踏みをしてしまうことになろうかと思われます。 ここでの質問の主題である「形而上学的な○○は哲学的に(主題として)扱いうるかどうか」は、辞書やヰキで表現されている概念が成立しうる(複数の)過程を論考しうるかどうか?、そうして、そういった論考を通じて、対象となる概念に対する別の切り口(概念)からの説明可能性について論じあえるかどうか?にあると思っています。 bragelonne様の質問に対する回答としましては、この場でそのことを実証するのが一番だと考えます。 まずは、和辻哲郎氏の引用から。。。 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』、岩波書店、1970年〔改版第一刷〕、pp. 288-290から引用された部分の一部(傍点を「'」に変換しています)http://fallibilism.web.fc2.com/070.htmlから引用 >>> 王はこの理想の世界の実現せられることを、すなわちおのれ一個人が幸福なる生に至るのではなく万人が最上の幸福に達する境地を、望んだのである。そうしておのれ一個人に関しては、かつてなせし悪業への悔'恨'を慈悲の行為に現わし、現'実'の'世'界'に'お'い'て'「ある人々を幸福に」作し得んことを、彼の努力の目的とした。明らかに彼はおのれ一個人の果報を目ざしてはおらぬ。彼の努力の意義は「全世界の幸福」を実現するという仕事の一'部'分'を'負'担'す'る'こ'と'、すなわち「ある人々を幸福にする」ということそ'れ'自'身'であって、彼自身の幸福を果報として得ることではない。かく解して初めて前引の文章における一人称単数と三人称複数すなわち「予」と「人々」との使い分けの意義が理解し得られると思う。しからばここに用いられたこ'な'た'、か'な'た'、天'などの語を現世、後世、生天などの意に解するのは、輪廻思想をここに注入して解釈するのであってアショーカの碑文の本来の意義ではない。 <<< 上記引用は、アショーカ王の碑文に「輪廻概念」を読み取る「一般的な」考え方に対して、別の視点(切り口)からの解釈の可能性を論考しておられる部分です。 考え方の基本としては、No.111にて私が提示させていただいたものに近いと思います(因果を認めつつ、輪廻を織り込まない解釈の可能性についての論考に該当)。 以上が、「一つ目の切り口」になります。 さて、人々が「輪廻」なる概念を抱くときの典型的なパターンを考えてみます。 おそらくそれは、我が子が天才的な絵画能力を有していたり、演奏能力を有していたりしたとき、「○○の生まれ変わり」と思う場合が該当すると考えます。もし、当人を含めて親戚一同が十分なバックアップを為し得、当人の才能が十分あったときには、まさに「○○の生まれ変わり」と信じるに足るだけのものを得るかも知れません。 それ以外の場合、たとえば過去の偉人にあやかった行為などを行おうとするとき、その偉人の能力の一部でも発揮できることを望んでいることでしょう。偶然にでも、そういった行為が立て続けに成功すると、本人は「○○の生まれ変わり」だと本気になって信じてしまうかも知れません。 これらは(辞書的な意味での)「完全な輪廻」とは言わないまでも、輪廻概念の一端を表していると思われます。 すなわち、(完全な輪廻概念としての)「個から個」というレベル >>>  同一の《わたし》の生まれ変わりという存在の【あり方を見てとる】 >>> ことも、当人としては十分あり得るからこそ、輪廻概念は廃れ得ないのだと思います。 このことは「二つ目の切り口」になろうかと思います。 で、仰るように >>> 個体は かけがえのない存在であるはづ <<< です。このことは、仏教的な概念である『我・非我(柄谷氏の言うところの「諸関係の束」・「この」)』とも密接に関連しますが、(負の側面を知った上で、かつ実際には【たとえ、そうではない】ことも知った上で)自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】、人生に積極的な側面を発揮できるのであれば、そのことを含めて「かけがえのない存在(ないし、非我、諸関係の束、単独性としての「この」私)」だといえるのではないでしょうか? したがって、今回および前回提示させていただいたように >>>  輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。 <<< ということには、ならないと思います。 ※No.111にて図を添付しようとしたのですが、編集し直すことができないことを知り、何度が失敗してしまいました。結局No.101に貼り付けましたが、ご参照いただけましたら幸いです。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん これだけ――まづは ご回答をありがとうございます―― 勤勉な努力をしておられる方であるにもかかわらず どうして ほとんど自明の問題について こうも わからんちんのすっとこどっこいなんでしょう?  1.《因果応報》説については どうやら それでも 放棄された――誉まれあれ――ようですね。  2.《生まれ変わり》という考えが どのような状態と内容において この世界に発生するのか。これを追究されたようですが いづれも  ★  これらは(辞書的な意味での)「完全な輪廻」とは言わないまでも、輪廻概念の一端を表していると思われます。  ☆ に過ぎないでしょう。いえ 《(辞書的な意味での)》という限定は 必要がないでしょうし また《一端》ではなく あくまで《輪廻概念の一部分を 想像裡において 表わしている》のみだということが かえって 明らかになったのではないでしょうか。  3.★ 「一つ目の切り口」に関して。  ▲ おのれ一個人に関しては、かつてなせし悪業への悔'恨'を慈悲の行為に現わし  ☆ ここでの  ▲ かつてなせし悪業  ☆ に注意すべきでしょうね。さらにその《かつて》という過去の中身が 問題です。誕生の以後か以前かです。はっきり言って 《誕生以前》とする理由も根拠も ありません。  ないから そのように 自分が自分で 前世だと規定して想像してはいけないか?と言えば それは 自由ですと すでに 何度も 答えて来ています。つまり 哲学の問題ではなく 文学作品のそれであるということです。  4.★ 「二つ目の切り口」について。  ☆ ベートーフェンの再来 ゴッホの生まれ変わりというとき  ★ 当人を含めて親戚一同  ☆ の範囲やその想像・信じ込みは 哲学にとって 問題ではありません。誕生以前の過去において 《わたし》が 生きて存在していたかどうかを 輪廻転生は 問うています。そういうもんだと規定して 哲学は 終わりです。つまり それは 想像の問題であるから 広く興味本位の大衆文学をも含めた 文学の領域であるという規定をするのが 役目です。  ★ 哲学的な論考の入り口で足踏みをしてしまうこと  ☆ で いいのですし いまの場合 そうあるべきなのです。  5.★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・(負の側面を知った上で、かつ実際には【たとえ、そうではない】ことも知った上で)自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】、人生に積極的な側面を発揮できるのであれば、そのことを含めて「かけがえのない存在(ないし、非我、諸関係の束、単独性としての「この」私)」だといえるのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】  ☆ ここですね。これについて 繰り返し確認します。  (2) あくまで《輪廻概念の一部分を 想像裡において 表わしている》のみだということ   (3) 哲学の問題ではなく 文学作品のそれであるということ  (4) 哲学は それは 想像の問題であるから 広く興味本位の大衆文学をも含めた 文学の領域であるという規定をするのが 役目です。  よって  ○ 輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。  ☆ と結論づけることになると思います。  ちなみに 輪廻転生や因果応報の説が 哲学の主題として扱い得るかどうかを 扱うまでの作業は むろん 哲学の仕事です。

関連するQ&A

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。

  • 輪廻転生

    私の友達は彼氏に頼んで殺されました。 彼女は自殺になるのですか? 死後の世界から考えても自殺になってしまうのですか? 真っ暗闇の中に入って寿命まで苦しみ続けるのですか?輪廻転生出来なくなるのですか? 天国に行けず、地獄以上の真っ暗闇の世界で寿命まで苦しみ続けるのですか? お手数ですが回答よろしくお願い致します!m(__)m

  • 輪廻転生について

    素人の質問ですみません。 輪廻転生の考えは主に仏教の教えなのでしょうか。 キリスト教や哲学の考えには存在しないのでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

  • 輪廻転生

    輪廻転生を信じている人に伺いたいのですが、どうすれば輪廻転生の流れから抜け出して二度と生まれてこなくなりますか? 本当に輪廻転生があるのかはわかりませんが、もしあったらイヤなので、質問します。

  • 輪廻転生について

    カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに ついて詳しく教えていただければと思います。 またわかりやすく説明している著書がありましたら 教えてください。 恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も 受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。 いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。 よろしくお願いします。