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輪廻転生説は 愚の骨頂

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.110

あと、もう一つの切り口について、提示するのを忘れておりました。 (といっても、既に、No.101にて触れておりますが) これは、 1.ロボットに心があるか? 2.心をもつロボットが出来たとして、そのロボット本体を完全にコピーしたとき、心もコピーされるのか? 等にて扱われる「意識のハードプロブレム」(ディヴィッド・チャマーズ)といった概念領域に関連します。※ もし、上記が可能ならば、ロボットの世界にて「個から個への完全な輪廻」概念は意味を持つでしょうが、上記が不可能ならば、ロボットの世界にて「個から個への完全な輪廻」概念は意味を持たないでしょう。 ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域ですので、上記問題に限ったとしても「個から個への完全な輪廻」概念は、哲学の主題として扱うべき問題になろうかと思われます。 ※ちなみに、チャマーズの定義では「(哲学的)ゾンビ」という概念に相当します。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  ですが あなたは 対話ということを ご存じでない。いくら回答者だからといって 自分勝手な議論(対話)の進め方をしていってもよいというものではありません。  項目ごとに 一つひとつ どれだけ 問題は片付いたのか それについて 互いに 合意が出来たのかを確めあいながら 話をすすめていかねばいけません。    ★ ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域です  ☆ と言えるのでしょうが  ★ 「個から個への完全な輪廻」概念は、哲学の主題として扱うべき問題になろうかと思われます。  ☆ にはなりません。《哲学的ゾンビ》は 生まれ変わりとは 関係ありません。(文学的に関係づけることは ご自由です)。  ▲ (ヰキぺ:哲学的ゾンビ)~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93  哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《哲学的ゾンビ》について たしかに 上で わたしも    ★ ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域です。    ☆ と言えるのでしょうが  ☆ と言ったのは おそらく  ○ 哲学と信仰とのあいだの問題をあつかう。  ○ つまり 《経験合理性にもとづく思惟(もしくは 要するに 自然科学の知解領域としての哲学)》と 《経験思考を超えた・つまり非思考としての わが心の伸び もしくは 明けとしての志向性》との間の問題にかかわる。  ☆ と考えられるからです。  ひとは この経験的な相対世界を超えた領域に対して 何も言えませんし 言えないどころか 表象することも無理ですし それがあるのか無いのかも 分かりません。つまり 《絶対》の問題です。  わづかに この《絶対》に ほんの少し 向きあったときの眩暈を感じるのみです。あるいは 時空間の無限の境界あるいは無境界を超えたその先という問題です。つまりは すでに わたしたちは このように 《無限(真無限) あるいは 絶対》という言葉を当てて その想定を終えているその問題です。  しかも ところが この《〈絶対〉との関係における〈わたし〉》という事態を 広く中立の概念として《信じる》という言葉で表わして 扱っているのが 哲学的ゾンビならぬ普通の人間です。  また 絶対との関係においては 《信じる》と言っても 《信じない》と言っても 互いに変わりはないという事態です。《信じないという表現において 信じる・つまり関係している》という事態のことです。  この《志向性》ないし《心のわづかな明け もしくは 伸び》――くどいように言えば 《信じない》場合でも この開けや伸びがあると考えられます――が われわれをして 哲学的ゾンビのような状態ではなく 言わば 人間存在として息づいている状態にしているものと考えられます。  ですが このことは 輪廻転生説とは 何の関係もありません。生まれ変わりの問題ではないのです。生まれ変わりという想像や推理が入ってくると その時点で 《絶対》は 遠ざかります。相対世界の人間が想像し考えるその精神の産物であるとなります。つまり 文学の領域にしりぞきます。  このように仕分けしておくことまでは 哲学の仕事であるというものです。

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