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人が人を超えるとき(SFチック)

人間がこの先自らを滅ぼさずに世界を継続でき、科学(特に生命科学)がこのまま発展し続ければ、人間は必ず人間以上のものを作ろうとすると思います。 いくら宗教や倫理で押さえつけてみても、人間はやはり完璧にあこがれ、結局自らを超えるものを作ってしまうのではないでしょうか。 ここで人間を超えるといっていることの意味は、もちろん肉体的な機能や美しさで優れているという意味もありますが、内面的にも優れているという意味です。 たとえば、頭もよく、より思慮深く、他人の考え方や気持ちを考える能力に長け、思いやりにあふれているような人間です。 「想像できるということはいつか起こりうるということだ」という言葉があったと思いますが、こんなこともきっといつかは起こることだと思います。 そのとき、(従来の)人間はどう対応する(べき)と思いますか? 僕は、このような変化がゆっくり起こり、また人間をベースをしたものであればあまり混乱は起こらないと思います。 (つまり、自分たちの子孫に少しずつ遺伝子的な変化を加えていった場合など) そして、自然に彼らにバトンを渡すんじゃないかとおもいます。 いわば、人為的に起こされる(といっても本能的な=結局は自然的な)短期間の進化と言えます。 僕は変えようのない歴史の流れとしてこのようなことが起こるだろうと考えているので、人が人を超えるものを作ることについても好意的に捉えているのですが、やはりあってはならないことでしょうか?

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noname#3511
noname#3511
回答No.4

この質問、興味がでます。どのようなQAになるのか楽しみです。 私は、人を超える者とは、端的に、人より優れているということではないと思います。なぜなら、その人より優れているという部分は、超えているという意味の由来するところであり、それからすると、そこ(超えているところ)は、従来の人には、計り知れないところですので、優れているとか、そういう意味の付与は無理であるでしょう。計り知れないのですから。 そのことから、優れているという形容が使えるあいだは、人の進化とは、人に内在するものであると思います。 現在、人に内在しているよきものを、開花、発露させるという行為が進化であるなら、それは上等だと思います。  また、超えているというのは、完全に人であるという意味、もしくは、完全に人を満たしており、さらに人という枠に収まらない者の状態だと考えています。 おっしゃるような課程で、生命科学、遺伝子操作、脳進化、諸々の科学技術、学術知識、などで、人を進化させた場合、それが、人とよべるかどうかが疑わしい。 人を短期間に、その平均を、より優れたものにするということは可能であろうし、特に、その考え自体には問題を感じません。 進化のメカニズム自体は、まだまだ解明されていないので、進化と思って手を加えても、それは実は、ただの変化に過ぎず、生まれてくるのは超人ではなく、変人にでもなれば、それは、かなりかなり困ったことになります。それは間違いである可能性が、最高に高いとおもいます。   自然界でも起こっている進化ですが、魚から人にまでなるのには、変化と進化の両方が起こっていると、みるべきです。フツーに考えて、魚が人になるのは、簡単な話ではないと思います。というよりも、ふつーの考えでは無理です。変化と、進化と、さらに未知のなにかで、人まで行くのかもしれません。   人類が、人類自身のことも理解できないうちは、それを満たし、さらにその枠に収まらないもの(超人)の創造など、できるはずもないと思います。 そして、人類が、人類自身のことを完全に理解したとき、進化しようと、思うかどうか、それも疑問です。   進化とは、己を超えて、至ることであり、人類が進化するとは、人類自身が、人類を超えて、至ることです。 生物の進化とは、惑星上で起こっているものであり、その種だけの物語ではなく、生物の物語といえます。人類が進化するなら、それだけの方向性が、地球上に出てくれば、実現するのでしょう。新人類は、現生人類よりも、ヴァイタリティ(生命力)にあふれていると、思っています。実に進化とは、生命体に秘められた、無限の、計り知れない命を、表現する方法なのではないのかとも、考えました。 私自身、非常に考えるところが多く、まとまりのつかない解答になりますが、この質問に答えることができて、うれしく思います。ありがとうございました。 

overthisgraysky
質問者

お礼

質問の意図をよく理解してくださってありがとうございました。 人間が人間を超えようということに賛成の意見が多かったのに驚きました。 確かに最初の人の進化は「人に内在しているよきもの」を多く発現させ、欠点と思われるものを減らすところから始まると思います。 そうしたらその先もまた見えてくるかもしれません。 人類が人類のことを完全に理解できるかどうか分からないです。 でも、思考錯誤しながらも理解しようとするでしょう。 進化という、普通自然にしか起こりえないものが、その生物自身の手でなされるとしたら画期的だと思ってこのようなことを考えました。 人類は素晴らしい存在だと思います。 原始の状態に戻るのでもなく、破滅の方向に向かうのでもなく、新たな可能性を目指して未来へと続いていって欲しいと思います。 非常に丁寧な回答ありがとうございました。

overthisgraysky
質問者

補足

長い回答ありがとうございました。 返事が遅れていて本当にごめんなさい。 お礼は必ず書きますので、もうしばらく待ってください。 (他のみなさんも。すみません。)

その他の回答 (9)

  • suzuhide
  • ベストアンサー率20% (32/156)
回答No.10

あなたが想像されているのは、現在テレビで放送中の”ガンダムSEED”の主人公の様な事でしょうか? 人間の遺伝子を人工的に書き換えて思いどうりに進化をさせると言う事ですね。 それについては宗教学者などは反対するでしょう、でも、僕は人が行える事は総て神が許した事だと思います。 人はまだ神が許さないことを想像したり行ったり出来るほど進化しているとは到底思えないからです。 それはともかく、人を超える物とは一番近いのはアトムだと思います。 アトムとはロボットの事です。 体は多少遅れるかも知れませんが、AI(人工知能)の方はかなり良い線を行っている様に思います。 ただ、僕はそんな物を作る必要が有るのかと言う疑問が有ります。 人より賢く冷静で間違えを冒さず、自分から因り良く進化をする、そんな理想的なAIが出来たら、人の存在価値は何処へ求めれば良いでしょう? 結論から言えば人の柔軟性が総てを飲み込み何事も無かった様に、あたかもその人を超える物が始めからそこに存在した様に、人の中に融合されると思います。 そうでなければ、人とその人を超える物とはどちらかが根絶されるまで争うと思われるからです。

overthisgraysky
質問者

お礼

おもしろい回答ありがとうございました。 本当にその通りだと思いました。 人間はとても適応力のある生き物だと思います。 いろんなものを飲み込んで、いろんな矛盾も抱え込んで、それでも前に進もうとしていくような気がしました。 破滅的な未来を描いたSFは多いですが、僕はもっと希望を持っています。 歴史は繰り返され、人類はなかなか変わらなそうですが、らせんのように少しずつ進んでいるんだと思います。

overthisgraysky
質問者

補足

みなさんの回答に対するお礼がたいへん遅くなったこと、本当に申し訳ありませんでした。 さんざん時間を食ったくせに結局十分なお礼を差し上げることもできませんでしたが、回答を下さった全員にとても感謝しています。 次からは時間にも自分にも余裕があるときに質問するよう気をつけたいとおもいます。 ありがとうございました。

  • gon1234
  • ベストアンサー率14% (42/293)
回答No.9

あってもいい事ですが、不可能だと思います。 overthisgrayskyさんは「今の人間は不完全である」という認識に立っておられるのですから「その不完全な人間が完璧な生命体を作ることは出来ない」と考えるのが自然な論理展開かと思われます。

overthisgraysky
質問者

お礼

確かに今の人類は不完全だと思います。 でも、完璧な生命体を作ろうということは考えていません。 完璧なものを作るのは無理かもしれません。 でも、完璧なものにあこがれ、そこへ向かって少しでも動いていこうとはするんだと思います。 過去と同じ過ちを繰り返し、そこにとどまっているばかりのような人たちも多いですが、何百年単位の、とうてい自分が生きている間には実現できないような宇宙計画を考え、それに一生を捧げるような人たちもいます。 そんな人類に僕は期待せずにはいられないです。(少し脱線)

overthisgraysky
質問者

補足

回答、ありがとうございました。

  • H-hoko
  • ベストアンサー率50% (6/12)
回答No.8

●この世界において あってはならないことなど  なにひとつ存在いたしません。  あなたが優れているとおっしゃる存在は  既に過去に存在していて 邪悪な存在に  滅ぼされている可能性も簡単には否定できません。  従順な者は策略者に利用される。  平和の内に生きるものは 謀略家に滅ぼされる。  こうした普通の淘汰を超えて  あなたがおっしゃるような優れた人類が  この世に存在し続けるには その両面を兼ね備える  ことが必須条件なのではないでしょうか?  それはいま生きている あなた自身です。  あなたの中の邪悪な部分を取り除いても  それは進化ではありえません。  なぜなら 次の瞬間に旧人類に滅ぼされる  可能性があるからです。  そう考えると いまの自分の完璧さに気付かされます。    実はこの地球上のすべての生命・存在は  もう完璧なのです。この存在を根本的に超える  概念をわたしは思い起こすことができません。  いま 存在する人間のあらゆるテクノロジーは  余興のようなものです。  究極 人類が宇宙に恒久の命のオアシスをその  テクノロジーで築けるとは思いません。  何億年のスケールでその概念を構築できるだけ  人類にはその思慮深さが無いからです。  この世には あってはならないことなど  何一つありません。ただ宇宙150億年の  尊い存在が 輝いているのみなのです・・・。

overthisgraysky
質問者

お礼

大きなスケールでの回答、ありがとうございました。 確かに今の人類、そしてこの地球上の生態系、とてもバランスがとれていて完璧といえるかもしれません。 しかし、進化論に従えば、生物はこのような微妙なバランスを維持しながらも少しずつ複雑さを増しながら変化してきたわけです。 この先何も変わらないということはないと思います。 テクノロジーが人を幸せにするかどうかは分かりません。 しかし優れたテクノロジーは社会を変え、人の考え方も変えて行くでしょう。 幸い人の寿命は永遠ではなく、新しい命はどんどん生まれていきます。 彼らは新しい社会の上で新しい発想ができます。 テクノロジーと人が相互に高めあって新しい世界を作っていくことも出来ると思います。 でも宇宙150億年の中ではそんな変化もたいしたことはないのかもしれませんね。

回答No.7

overthisgrayskyさん、こんにちは。 ちょうど昨日です、しばらく会っていない学生時代の友人から電話が入り互いの近況なり昔話なりあれやこれやと長々と話しふけりました。 電話をかけてきてくれたのは、わたしの旧来からの女友達(親友)。女同士の会話、恋の話もひとつやふたつ会話の中にはあがってきます。少々、色気のある話もチラホラ。 おっと、前置きはこのぐらいにしてっと、 いえねぇ、昨日少々色っぽい話をしていたせいか、この質問を目にして恋愛から語れないものかと。ちょこっと、トンチンカンな回答になるかとは思いますがご容赦ください。 ********************************************************************* 「人間がこの先自らを滅ぼさずに世界を継続でき」 「科学(特に生命科学)がこのまま発展し続ければ」 「人間は必ず人間以上のものを作ろうとすると思います」 「宗教や倫理で押さえつけてみても」 「あこがれ」 「自らを超えるものを作ってしまうのではないでしょうか。 」 「(従来の)人間はどう対応する(べき)と思いますか?」 ******************************************************************** すこしいいですか? 人間がこの先「自らを滅ぼさず」に世界を継続できるのかという疑問がわきます。 たとえばわたしに置き換えてこの問いを我が身に投げかけます。 これまで生きてきた中で、誰かを好きになり恋したこともあります。こころ焦がれるほど好きになった相手はただ一人か?と、尋ねられれば、「いいえ」と答えると思います。誰かを好きになり、恋焦がれ、こころ奪われたとき、そこには、誰かを好きになり、誰かに恋焦がれ、誰かにこころ奪われているわたしがいるわけです。人がひとりづつにもって生まれた時間。その時間を消化している。時間の使い道は他にも使えるのだけれど、そのとき、その時間、どこにどう時間を注ぐかをわたし自身が選択している。「自らを滅ぼす」時間の使い道が自らの身を滅ぼしているのかいないのか、先立ってわかることではないのではないでしょうか?ただ、いえるのは、人の持つ時間、砂時計がサラサラと上から下へ向けてこぼれ落ちるように少しずつ、少しづつ片方が減り、もう片方が増えていっている。しかし、その全体の砂の量は何も変わっていない。 あとづけで、自らのとった選択の結果をみて、自己にとって有意義であれば「自らを滅ぼした」とはならず、逆に自己にとって有意義でなかったとなれば「自らを滅ぼした」となるのではないでしょうか?この時点で、軸は自己ということになりますかね。 『自己中心』という言葉がときに身勝手極まりない人のたとえにも用いられたりもしますが、選択の結果を見ている我がいるわけで、その基軸となるのも他の誰でもなく自己を中心とした我でもあるもあるのではないでしょうか。人格って、パソコンで上書きするように自らに手を加えまた、保存し、また、手を加え、上書きし、保存する、その都度、自らの選択によって自己を構築していっているのではないでしょうか?このような過程を踏むのも反省なり後悔なりが加味されてのこと。一人づつにもってうまれた時間を用いて、自己を中心としない人がこの世にいるのか?などという疑問もふとたち現れたりもします。自己を中心としない人がもしいるとするのなら、それはもう人ではなく自動制御のロボットではないかと。プログラム、埋め込まれたプログラムに沿ってのみ行動する。反省、後悔、などなくその後に選ぶ選択はあらかじめ用意されている。恋の告白、こればっかりはその後の展開が読めない。四角四面にこうなったらこうなるものでもない。ひょんなことから恋が芽生えるということもある。人の不思議。。。 ちょっと、ひと息、 恋ごころに鍵かける。たまにこれやるんですわたし。 恋していないというのではないんですよ、これもひとつの選択なのかもしれません。いま、何をしなくっちゃなんないかなとなったとき、身はひとつ、あれもこれもしたいことやりたいこと、また、おもうことはたぁ-くさんありますが、とはいってもこの身はひとつ。やれることできることっていっても限られてきちゃいます。恋おおき夢見る夢子ちゃん要素をおおくもったこのわたしを長年見てきた友人はときにいいます。「どうしたん」動き出さないわたしに。この「どうしたん」は、ある意味、恋ごころに鍵かけているのも見越したうえでの言葉。目の前にある問題をやりすごして、恋はしていられないというのが本音のわたし。目の前にある問題から逃げない、どんなに時間がかかっても恋ごころをなくさないように恋ごころに鍵かけるのは。友人の言葉は、わたしが抱えている問題に手こづっていることを承知して気づかっておくってくれる言葉。「どうしたん」なんでもないような言葉で、煮詰まっていたわたしにふっと、息継ぎすること呼び起こしてくれる。ひと息つけます。さてさて、目の前にある問題をどこから手をつけようかひと呼吸おけば少し見えてきます。まっしぐらで駆け抜けると、ときに、何も見えなくなる。あわや、大事な自分自身と他者の存在までおろそかにしてしまいかねない。そこで、理性というヤツがポンポンと肩を叩き「ぼちぼちいこうや」とばかりにたち現れて語りかけてくる。所詮人です、できることといえばたかがしれてます。たかがしれてるちっぽけなものやこと、コツコツちっぽけなことやものを考えたり、おもったり、打ち込んだりすることをたかがしれているとばかりにときに投げ出したくもなる。その「たかが」にも時間はある。たかがしれてるちっぽけなものやことなのかもしれないけど、コツコツちっぽけなことやものを考えたり、おもったり、打ち込んだりすることがその実、目の前の問題を解決するいちばんの手がかりではないかと。 恋の回想、一つ一つの恋そこから学んだエッセンス。 次の恋にいかすべく、いつ花開くかわからないけれど、 潤いを保っていきたいとそう願うおもいだけは抱きつづけたい。

overthisgraysky
質問者

お礼

何かに例えて考えるというのは僕も好きです。 でもこの例えは僕には難しいような。。。 自分の歩く道が滅びへの道かそうでないかは後になってみなければ分からない。 優れたものに「恋」しつつも、少しずつ目の前のことからこつこつやっていきましょう。 ってことですかね? そんな考え方もとても素敵だと思います。 なんかあったかい気分になれます。 素敵な回答ありがとうございました。

noname#3511
noname#3511
回答No.6

この質問を考えることが楽しいです。二度目よろしいでしょうか。   旧人類と、新人類の間に、愛が起こるというのが、予想されると思います。 恋愛、親子、兄弟姉妹、旧人類は、少なくとも新人類を育てなければなりませんし、新人類と旧人類の個々の間に、愛が芽生えるというのは往々にして起こりそうです。弟は新人類、姉は旧人類、彼は旧人類で、彼女は新人類など。親が旧人類で、子が新人類というのは、よくありそうで、一番難しいかもしれません。 新人類と、旧人類の雑種、自然な掛け合わせ、よく言えば愛の結晶、これがまさしく、進化した人類になるのではないかとも思いました。もし、新人類が、旧人類よりも、愛に優れているというなら、よく分かりません。愛が平等でないというのは、よく分からないからです。 旧人類は確かに、欲望のままに走りきってしまうところが、かなり多くあります。それが、善悪は抜きにして、生命力の一端でもあるのです。新人類がそうでないなら、なにが、新人類の生命力たりえるものなのでしょうか? この質問、非常に現実味があり、考えるだけで不安と期待、未来と現実が、交錯します。 人類は、パンドラの箱を作ろうとしているのかも知れません。 その箱には、人類に潜む、悪の種子(遺伝子、ミームの情報)を封印するのであり、その箱をめぐって、いささか複雑な物語が、(ただの奪いなどではなく)展開しそうです。 パンドラの箱は、開けられるためにあるのであり、遠い将来、今、我々を苦しめている、しかし我々を生かしている悪が、その箱から解き放たれ、新人類の暮らす清い未来に、猛威を振るうのかもしれません。 しかし、その箱の底からは、いわずと知れた、希望が甦るのです。 旧人類は、悪と同時に、希望までも、仕方なしに、封印してしまっていたのです。遠い未来の、新人類として世代を重ねてきた人々は、その時、箱を開けたその時、はじめて希望というものを目にするのです。 封印すべき悪とは何であるのか、今一度、考えれます。 また、楽しませていただきました。自分勝手な回答になってないことを願います。 箱を開く鍵は、未来人の好奇心か、絶望かが、(おそらく絶望が)パンドラの箱を開けさせてしまうのではないでしょうか? 旧人類によって封印された悪。その悪に救いを求める、悪を知らない未来人の姿。 結果、彼らが救いとして見出すものは、希望であるでしょう。 悪を知らずに育った彼らの目には、希望は唯一、救いを見出すことのできる悪の一種として、映るのかもしれません。それが、客観的な事実かもしれません。 新人類の未来は、明るいだけではないと、今回思いました。

overthisgraysky
質問者

お礼

とてもおもしろかったです。 これだけでSFが書けてしまいそうですね。 いろんな未来がありえると思います。 そのなかで人類がどれを選んでいくのか。 僕には最後まで見届けることなんてできませんが、せめて希望を託したいと思います。 そして、それを想像することもすごく楽しいです。 何度も丁寧な回答、ありがとうございました。

  • behemoth
  • ベストアンサー率43% (26/60)
回答No.5

 とても興味深い議論ですね。未熟ながらこの場に乗じて意見させてもらいたいと思います。  人が人を超える、というのは「人」とそれをこえた「人」の定義によって大きく左右されます。  僕の自前の考えでは、人に限らず全ての生き物はその前の世代を越えつづけてきたのではないでしょうか。「赤の女王説」というあれです。  近頃成人病とかなんとかで人間が種として衰えていることは否定しませんが、文明としては絶えず小進化を遂げつづけています。それはノーベル賞なり新技術の開発なりに見受けられます。つまり、現在の人類の方が1年前の人類より物知りであり、また歴史を歩んだことでたとえたった1年間であれ何かを学び取っているであろうということです。これは今の人が1年前の人を越えた、というべきではないでしょうか。  更に、overthisgrayskyさんが言った遺伝的により優れた「新人類」(勝手にこう呼ばせてもらいます^^;)の兆しは現にもう存在しています。アメリカのクローンエイド社(←社名からしてSFチック!)が発表したクローン人間のイブです。これはまだオリジナルの複製でしかありませんから、「遺伝的な変化」とは言えませんが、これが今後の人類の遺伝子操作の礎となることは間違いないでしょう。  確かに人為的な操作の、「人為的」も人間の行動、つまり種を向上させようとする本能の結果ですから、結果として起きた「進化」もアリだと思います。そして、親たちが胎内の子供に遺伝子操作(精子の遺伝子を操作するのか、その辺りには疎いです)して、理想をたくす時代もおとずれるでしょう。これこそが新旧のバトンタッチです。  しかし、これは憶測ながら、そうして操作するにはやはりなんらかのコストとリスクがかかります。そうしたコストが払えない、つまり発展途上国などの人々は「進化し遅れた人類」となってしまうでしょう。さしあたって、差別的な問題は免れえない、ということです。これは避けて通らなければならないでしょう。この意味において「人が人を超える」というものに好意的であるばかりではいられません。  遺伝子操作は確かに定義としては進化ですが(少なくとも僕はそうみとめます)、これまでの生命の営みによってつちかわれてきた悠久の流れにおける進歩とは革新的に異なり、性急過ぎます。この早すぎる進化に疑問や問題、失敗は許されません。だからこそ私たちは真剣に漸進してゆく必要がありそうだ、という風に締めくくりたいと思います。  先日話題をさらったスターウォーズの「クローン戦争」を筆頭に、過去における未来のはらんでいる危険性を示唆し、危ぶんでいる警告の数々を僕たちはただのSFやエンターテイメントで片付けない方がいいのではないでしょうか。

overthisgraysky
質問者

お礼

現実的な危険性を指摘していただいてありがとうございました。 behemothさんの考えにとても共感できました。 SFに代表されるような人間の想像力は、もしかしたら大きな変化が訪れたとしてもあまり驚かずに冷静に対応しようとするための一種の能力なのかもしれないとおもいました。 (そういえば、一時期エイリアン系のハリウッド映画がはやったとき、アメリカが宇宙人情報を公開する前に気持ちの予行演習としてそのような映画をはやらせているという噂がありましたっけ。) 遺伝子操作による進化は、確かに急すぎれば大変危険だと思います。 人間だから(完全ではないから)失敗もしてしまうかもしれません。 悲惨な未来も起こりうるのかもしれません。 でも人類にはそれをも乗り越えていく力があると信じたいです。

回答No.3

私はアレが好きです、映画の「ターミネーター2」。 あらすじ……2029年にアメリカの軍部を司る人工知能、スカイネットが自我に目覚めたため、スカイネットの暴走を防ごうとする人間がスイッチを切ろうとして、機械と人間の戦争が起こります。そこでスカイネットは人間側のリーダー、ジョン・コナーを殺そうと、過去に、サイボーグであるターミネーターを送りこみます。 1度目はジョンの母、サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)の謀殺、そして2度目(その様子が描かれている)は少年時代のジョン自身(エドワード・ファーロング)が狙われます。 未来のジョン・コナーは、スカイネットの刺客・ターミネーターに対抗する為、旧式ターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)を送り込み、死闘を繰り広げます。……というものです。 サラ曰く、ターミネーターは人間より優れた保護者です。忙しくてネグレクトを起こす事もなく、淡々と命令に従い、命に代えてまで子供を守ります。 それでも、ターミネーターは命の尊さを知りません。「任務中にシステムが止まっては大変だが、任務が終わったらどうなっても良い」と言い切るターミネーターに、ジョンは繰り返し「人間は怖さや痛さを感じるし、死ぬのが怖いんだ」と説きます。最後、「ターミネーターのような機械が命の尊さを学べたのに、人間にそれができないわけはありません」と締めくくられています。 私も、ターミネーターのような保護者がいたら子供は安全で楽しいと思います。 ターミネーターの開発なら、大いに賛成します。しかし、機械のプログラムが人間の何万年の歴史に勝てるでしょうか。私は機械についてしか論じれませんが、人が人を超えるものを作るのは、あってはならないというより、不可能と言えるのではないでしょうか。

overthisgraysky
質問者

お礼

僕もターミネーター好きです! 前は僕も機械が人間を超えるかもしれないと思っていました。 ただ、人間としてはそれはおもしろくないし、やはり機械にも限界があると思います。(想像力や感覚的なものに欠ける) ただ、サイボーグのように機械のいいところを人間に取り入れるのはありかもと僕は思います。 有機物からできる生体コンピュータ(よくは分からないですけど。。。)の開発も進んでると聞いたので、そんなに不自然にグロテスクになることもなく取り入れられちゃうのではという気がします。 そしてそんなこともしてしまうのが人間ではないかと思います。 (これはちょっと抵抗ありますが) >最後、「ターミネーターのような機械が命の尊さを学べたのに、人間にそれができないわけはありません」と締めくくられています。 これは覚えてませんでした。 そうですね。人間にできないはずはないんだけど。。。 今年はターミネーターの続編が出ますよね。楽しみです! ご意見ありがとうございました!!

  • gekkou
  • ベストアンサー率21% (50/235)
回答No.2

今後、人類の歩む道が質問者さんのお考え通り(文面の示すとおり)になるのであれば、とても結構なことだと思います。 出産以外の方法で人間が人間を、あるいはそれを超える者をつくることは許されるべきではないという考えは根強くありますが、道具を使えるようになり、道具を作れるようになったことと同様に、人間までも作れる能力を持つこともまた、人間の進化の過程だったのでしょう。 そう考えると、これもまた自然の流れのひとつであり、人同士が論争しあっても仕方のないことなのかもしれません。 ただ、私も一抹の不安はあります。 質問者さんのように人類の未来を考えたことはあるのですが、人間が(内面的に)人間を超越するものをつくれるだろうか?ということです。 「頭もよく、より思慮深く、他人の考え方や気持ちを考える能力に長け、思いやりにあふれている」という事柄のそれぞれに言えることですが、これらの元になるサンプルが必要だと思うのですが、結局サンプルの取捨選択は現存する人間の手によるものとなるでしょうから、それを選ぶ人間の主観が反映されます。 ということはせいぜいコピーができる程度で、それ以上のモノにはならないと思うのです。 そして、仮にその様な新人類が完成したとして、人間を超越した人類の存在を旧人間が認めるでしょうか? 新人類は内面的に完成されているとすれば人間同士の闘争を好まないはずですが、旧人間、つまり私たちはエゴの固まりですから、それをいいことに、結局は新人類を自分達の支配下に置くと思います。 人間より優れているのに人間の支配下って何か変ですよね。 また仮に、新人類が地球の未来の為に必要ないのは旧人類であると気づき、反乱を起こしたら(ホントにSFチックになってきましたが)。今までの人類の歴史と何ら変わらない戦争の歴史を辿るだけです。 いずれにしても人類は衰退の一途をたどるだけだとは思いますが、人間が人間あるいはそれを超越するものを作るということは、衰退のスピードを速める行為のような気がしてなりません。 どうも悲観的な考え方で申し訳ありませんが、倫理観、宗教観といった漠然とした事でなんとかこれをくい止めているのが現状だと思います。 結局は人間自身が成長していないので、これらの呪縛が解かれた時、最悪場合のシナリオの対処法を人間は今考えられるのか?ということです。

overthisgraysky
質問者

お礼

貴重なご意見ありがとうございました。 >ということはせいぜいコピーができる程度で、それ以上のモノにはならないと思うのです。 確かに、人間を超えるものをいきなり作り出すなんてことは無理でしょうから、やはり人間の中からのサンプルが必要です。 具体的には、人間の中にある「情緒不安定を引き起こしやすくする」遺伝子を減らしたり、「自分をひとの立場に置き換えて考えられる想像力を高める」遺伝子を増やしたり(人間の性質がすべて遺伝子に還元できるかは別として、そういう要素を調整するということ)していくと思うので、確かに人間の範囲を超えるということにはならないです。 ただ人間のいいとこ取りをしただけではあります。 でも、そうやって生まれた人類は前の人類とは決定的に違いますし、そうなることで新たな可能性が出てくるのではないかと思います。 >そして、仮にその様な新人類が完成したとして、人間を超越した人類の存在を旧人間が認めるでしょうか? 新人類が世界で同時に生まれれば問題ないのですが(やがて旧人類は死んでいくから)、そうはいきそうもないですよね。 こんな対立が起こらないためには、旧人類と劇的に違う新人類を作るのではなく、ほんとうに少しずつ変化を与えていけばいいのではないかと思いますし、実際少しずつしか変えられないとも思います たとえば(たとえばです)ピアノを習ってる人と習ってない人くらいの違いしかないとすれば、旧人類も新人類のことをそれほど違う存在とは思わず受け入れ、それでも確実に人類は旧人類を超えていくでしょう。 そうするとほんとうに少しずつになってしまいますが、それでも突然変異と適応だけで起こる進化よりは格段に早いと思います。 そんなにうまくいくのか本当は分からないですけど、戦争なんかで自滅してしまうよりも、もっと人類の可能性を信じたい僕の希望的観測です。

  • tama4622
  • ベストアンサー率32% (67/205)
回答No.1

いい意見ですね 遠い将来を予見する視点が生命倫理をも超越したビジョン をみせてくれたという感じで なるほどと思いました 人間が進歩やより完全なものを追い求める欲求は 際限がなく決してなくなりませんものね だから人類の遺伝子だけが未来永劫不変で「どんなに科学が進んでも ヒトの遺伝子の人為的な改良や強化だけは将来も絶対に認められないだろう」 という意見より、 質問者の方の「人間は必ず人間以上のものを作ろうとする」という意見の方が 説得力があるね だから私も遠い将来人類が人為的な工夫で進化したとしても 好意的にとらえ「あってはならないこと」とは思いません しかし「変化がゆっくりなら混乱は起きない」という意見には 少々疑問が残ります その変化を人類が乗り越えるには (たとえ変化がゆっくりだったとしても)おそらく相当な混乱や苦悩の歴史 が必要になるのではと思います 現在放映中の「ガンダムSEED」には 質問者の方のおっしゃる 「人為的に遺伝子を操作し肉体も頭脳も人類を超えた人類」として 「コーディネーター」とよばれる人間がでてきます この作品では「コーディネーター」と「普通の人間」との戦争が描かれてます そこで描かれている人類の進化は軋轢と争い、苦悩をもたらすものです 果たして質問者のおっしゃるように「新しい人類に自然にバトンを渡す」ことが 可能がどうかを考えるには一見に値するアニメだと思います

overthisgraysky
質問者

お礼

「ガンダムSEED」、気にはなっていたのですが、そういう話なのですか。おもしろそうです。 確かに、なんであっても人々にとって新しいものが出始めるときは混乱が起こるものでしょうね。 よく考えてみたら、人が人を超えるものを作ろうとする前には解決しなければならないことがたくさんありそうです。 子孫の遺伝子を改良していくとしても、もしその技術が万人に手の届くものでなければ大きな混乱が起こるでしょう。 #5の方もおっしゃっているように、コストの関係で金持ちしかよい子孫を残せないとしたら貧富の差=優劣の差に直接なってしまい、これはかなり問題っぽいです。 「自然に」バトンを渡すのはかなり難しい気がしてきました。 貴重なご意見ありがとうございました!

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  • 自殺してはいけない根拠ってなんなのでしょうか。

    自殺してはいけない根拠ってなんなのでしょうか。 人間が決めた常識や倫理観や感情論などの『人間らしさのルール』以外に、明確に揺るぎない理由で『自殺してはいけない』と説明できるものはあるのでしょうか? 動物なら 弱肉強食で、弱いものは死に、強いものが生き残って次の世代を残して、そうやって進化していくものですよね。 人間も、ルールの及ばない場所では、強者が弱者を虐げ、自らの進化(よりよい人生)の為に、殺人と略奪を繰り返しています。 不自由なく暮らす日本の私たちも、その生活を支えるために、どこかで誰かが苦しんでいるのを知っているのに、やめません。 事実、人間は、自分の幸せのために誰もが必死です。 言葉では綺麗なことを言っても、現実に直面すれば、弱肉強食の動物と変わりません。 美しく綺麗にまとめられている倫理観や常識等というものが、単に社会をうまく回すためのルールで、人生の真実ではないという証拠ではないですか。 でも生物が、よりよく生きようとすることは、自然の姿だと思うのです。 知恵や工夫を重ね、自らの人生をよりよくしようと努力できるような、生きる意思の強い者が生き残り、次の世代を築いていくことが進化であり、自然の摂理ではないですか。 それならば、自分がこの世界で生きていけないと実感し、生きる気力がない者は、種の進化を衰えさせまいとする本能から、自ら死を選ぶことは必然ではないですか。 死こそが安らぎで、生は苦痛だと感じているなら、自らの幸せのために 死を選ぶことができるのも、生に執着する本能を抑えることができる、理性を持った『人間らしさ』ではないのですか。 生は 欲望の連鎖です。 生きるためには 何かを欲さなくてはいけません。 睡眠、食事、仲間、今よりも良くなる何かを。 欲すからこそ生きていけます。 死は 無欲で、永遠の無です。 喜びも悲しみも幸せも苦痛も、自らの命さえも 無に還すことです。 何もいらない。 永遠の無を求めること…自殺 なぜ 死を求めることはタブーなのですか。

  • 人が自ら命を絶つメカニズムを、解りやすく教えて頂けますか?

    人が自ら命を絶つメカニズムを、解りやすく教えて頂けますか? わたしは、うつを抱えています。今は、もうそういう考えは持たず、止める側の人間になれました。簡単に言うときっと、脳の中の物質のバランスが崩れていたのだと思ってしまいます。 ただ、自分でも解らないのは、自ら命を絶つのは、本能の仕業なのか、理性の暴走なのか、何なのかということです。 わたしの知る限り、自害する動物は人間だけだと思うのですが、「その欲求」はとこから来て、どこが了解するのか、科学的に教えて頂けますか? 自ら命を絶つ時、人間の中で何が起こるのでしょうか?

  • 人を好きになって、何故

    何故人間は、好きな人が出来ると 会いたい、キスしたい、抱き合いたいetc. などと思うんでしょうか? どうして 好き→子孫を残すために性交をしたい とういうふうに直結しないのでしょうか。 人間以外の生物がそういうような感情があるのかも聞いた事がありません…。人間だけなんですか? 「人間のほとんど全ての行動や感情の意味は結局子孫を残すためのものだ」とういうのを聞いたことがあります だとしたら、好きになってからの考えや欲望はなんのためのものなんですか? 質問だらけでごめんなさい><

  • 脂肪の分解は何故体内で自然に行われないの

    炭水化物の過剰摂取により糖が血中や脂肪に変化したりする事などは意識せず簡単に変換されてしまうのに、脂肪って蓄積されたままのイメージがあります。 飢えや寒さから身を守る為の防衛本能によって、ということもあるかと思いますが、現代においてリスク的には肥満体質であることのほうが現実的に危険だと思うのですが、何故人間の体は脂肪を適度に他の要素に変換したり体外に放出したりしないのでしょうか? それとも運動以外になにか摂取することによって分解されたりするのでしょうか? 虫は防衛本能から葉っぱの模様を体につける進化をしていますが、ああいうのって意識で子孫にそういう体質で生まれさせることができるんですかね? それなら人間も余計な脂肪は分解する進化をしても良いころだと思うのですが。

  • 【人間の心は物質なのになぜ心があるのでしょうか?】

    【人間の心は物質なのになぜ心があるのでしょうか?】 物質には意識はないというが、人間の心は物質なのに意識が存在しているではないですか! 人間は所詮、物質なので意識はないと言っておきながら、「人間の進化は常に生きる事を目的としている」と大風呂敷を広げて特技げになっているが、 それだと人間が自殺するのはなぜでしょう? 人間の進化が常に生きる事を目的としているのなら今、日本で少子化が進んでいるのはなぜでしょう!! 子供どころか結婚すらしていない。 彼ら彼女らは人間の進化が自らが生きる事という選択において、自分の子孫を残すより自分の命が生き延びる方が人間の進化の過程において、最適解だと導き出した解の説明を出来ますか? 子孫を残すより自分が生き延びる道のどこに未来に繋がる進化が存在しているのでしょう!! この謎を解明出来て一定の答えを出せている賢者はいますか? これのどこが人間の進化なのですか?

  • 人は顔ではなくて内面が大切だという言葉について

    うむ、確かに正しいのであろう。しかしこの言葉が用いられる状況を想定してほしい。この言葉は顔で悩んでいる人間に対して顔で悩んでいない人間が発する言葉である。言っている人間にとっては確かに内面が大切だと心から思っているのであろう。しかし顔で悩んでいる人間の状況を無視した非常に思慮にかけた言葉であることは強調しなければならない。 より分りやすい別の例をみてみよう。ここに難病のため残りの寿命が一年と宣告されたまだ若い青年がいたとしよう。この青年は非常に絶望しており気落ちしている。この青年に対して人はどれだけ長く生きたかではなくどのように生きたかである、というような言葉をかけるのはどれだけ思慮に欠けた行為であるかは容易に理解できるであろう。結局は人事でしかないのである。残りの寿命が一年であってもその一年を一生懸命自分は生きると考えるかもしれない。しかし実際なってみて初めて分るものだ。残り一年と宣告されたショックは甚だしいものだ。 話を元に戻そう。人は顔ではなくて内面が大切だという言葉をかける人間は顔が不細工であることがどういうものであるか分っていない。顔が不細工でも自分は明るく生きると考えるかもしれない。しかし交通事故で顔に傷を負って初めて分るだろう。顔こそが内的な自己肯定感の源であると。 以上のことから人は顔ではなくて内面が大切だという言葉は非常にナンセンスである。違いますか?

  • 男性はなぜ生でしたい?(性欲、本能、理性)

    性欲は人間の本能で 性欲がある目的は子孫をのこすため というのはわかります 愛と性欲は関係なく しかし複雑に絡み合っているとは思います 人間の本能は動物の本能と違い進化により壊れているとも言われています だから当てはまらない方もいるとは思いますが 一般的な割合で見て 好きでもない相手に対して 『理性が保てず生で入れちゃったー』 『生でしたい』 となるのは男性のほうが多い気がします 性欲はどちらもあるし 男性より女性のほうが快感が強いと言われていますよね 女性も人生で生める子供の数は限られているので妊娠中以外はたくさんSEXしたいと思っても不思議ではないと思います 感情や理性があっても男性のほうが、簡単に言えば本能のまま生でSEXを希望するのはなぜでしょうか? 受け入れ、宿すということも関係ありますか?

  • なぜ男が男を好きになるのをおかしいと思う人がいる?

    なぜ男が男を好きになるのがおかしいと思う人が結構いるのでしょう? 僕はおかしくないと思うし、本能として考えても完全にストレートだと思います。 男が女を好きになるのは子孫を残すためでしょう。 男が男を好きになるのはそれとは違いますが、生き物としても人間としても凄く大きな目的があると思います。 それは、「自分という個体をより高いレベルに持っていく」という目的です。 かっこよくなりたい、強くなりたい。 これは本能に入ると思いますし、ひいてはこの力がある意味良い子孫を残す遠因にすらなると思うのです。 更には、「自分たちの身を守り合いたい」という生存本能にも入ってくると思います。 まずは前者から。 要は、男の人がかっこいい男の人を見て、自分も同じ様な能力を身につけたい、あわよくばその能力を超えたいという欲求です。 大好きな野球選手を見て、男の子が野球を頑張ると、後々野球が強くなって、それは必ず人生のプラスになります。 かっこいいファッションをしている男の人を真似て、同じ様なスタイルやコーディネートをすると、自分もかっこよくなれる可能性が高く、これは自意識に対してプラスに働くので大きなメリットと言えますし、それは自分を維持する為の本能の一つだと思います。 これらは根本的に全てが異なる異性に対してじゃなく、同性だからこそ、一部に共通点があるからこそ、興味を持ったり好きになったりする要素だと思います。 後者に関しては、女性にも男性にもあると思います。 女性の場合だとそのパートナーが裏切った時に男性だと力の関係から対応が難しいので、同性同士の方が安心というのがあります。 男性の場合だと、肉体的に自分より弱い可能性の高い女性に守ってもらうよりは、自分と同等の強さだと思える男性同士で相互にお互いの身を守った方が、各々の個体を維持することが可能と言えますから、やはり同性の方が安心といえるでしょう。 自分という個体を維持するというのは、生存本能に関わって来ますので、これも本能だと言えると思います。 前者の場合にせよ、後者の場合にせよ、どちらも本能に間違いないと感じますし、その方向性から考えて、ストレートなものだと思います。 だから同性同士を好きになることも充分に本能として正しいことだと思います。 異性を好きになるのは子孫を残すため、同性を好きになるのは自分自身のため、と目的は違いますけど、どっちも本能に間違いないと思います。 けどなぜか、男が男を好きになるというと、本能的におかしいみたいに言う人がいたり、いきなりそんなこと言っていないのに同性同士で性行為をしたりすることを前提に考え始める人が少なからずいるのはなぜでしょうか?? なお最後に言っておきますが、本能は本能といえど普遍的ではなく、個人差が大きく、後天的な環境で変化したりほぼ消滅したりするものもあると思います。

  • 人間は進化していっていると思いますか?

    人間は進化していっていると思いますか? 退化していっていると思いますか?変わらないと思いますか?進化したり退化したり変化していっていると思いますか? ※進化していっている = すぐれた人間になっていっている っと言う意味です。 いろんな考え方できるでしょう、欲望で考えたり、体力があるか、忍耐力があるか、自分の頭で考えられるか、などだと思います。 文明の進化ではありません。