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人が自ら命を絶つメカニズムを、解りやすく教えて頂けますか?

人が自ら命を絶つメカニズムを、解りやすく教えて頂けますか? わたしは、うつを抱えています。今は、もうそういう考えは持たず、止める側の人間になれました。簡単に言うときっと、脳の中の物質のバランスが崩れていたのだと思ってしまいます。 ただ、自分でも解らないのは、自ら命を絶つのは、本能の仕業なのか、理性の暴走なのか、何なのかということです。 わたしの知る限り、自害する動物は人間だけだと思うのですが、「その欲求」はとこから来て、どこが了解するのか、科学的に教えて頂けますか? 自ら命を絶つ時、人間の中で何が起こるのでしょうか?

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  • ベストアンサー
回答No.3

補足ですが、「達成感」というのは、例えば計画を立てたり、準備したりする 時の達成感も含みます。うつは後ろ向きな思考になりますが、「よし、決行するぞ」 と計画すると、計画という行為によって前向きな思考になり、うつ的気分が和らぐの だと思います(思うだけ)。これが先ほどの怒りの例でいう「痛みと後悔」に対応します。 しかし、表題の回答は非常に難しいです。科学は歯がたちません。 自殺でも保険金詐欺自殺は、愚かですが、非常に理性的(論理的)な行動です。 怒りの例も、「壁を殴れば怒りが収まる」と学習した後は、論理的です。 つまり、メリットデメリットを判断している、という意味で論理的なのです。 しかしその価値判断は、ストレスを抱えた脳の判断ですから、短絡的で視野が狭く、 根本的な解決にはつながりません。 大変な経験をされたようですが、生きていて何よりです。 生きていないと、質問することも、疑問を持つことさえ許されませんから。 自殺未遂を思いとどまらせる「魔法の言葉」を私も捜しておりますが、 なかなか見つかりませんね。

参考URL:
http://www.utu-net.com/
noname#113244
質問者

お礼

再び、ご回答をありがとう存じます。 少し誤解があったようで、失礼しました。 生きる価値を見つけるのは、自分でしか出来ませんよね。周りは、結局出来るのは手助けだけです。 わたしが、いつも思い出すのは、伊藤守さんの言葉、「大丈夫、いつか死ねるから」です。 いつか、死んでしまう、いつか、この星も、この宇宙も、無になってしまう、その無に向かう有の時間に、確たる価値を信じて自由に生きる、それが何より理性的な生き方で、何より理性的な死に方だと、わたしは、今思っています。 どちらにしても、消えてしまうなら、幸せに消えてしまう方が、気持ちが良いと思うか、ここで終わりにしてしまうと思うかは、紙一重ですね。 未来は、一秒先も知れない壮大な可能性の中にあるのに、人は、何故か預言者になりたがるんですね。自分を賢いって、証明したいのでしょうか?証明なんてしなくても、価値は変わらないのに、保証書がなくても、本物のダイヤモンドは、やっぱりダイヤモンドで、科学的構造も、輝きも変わらないのと、同じに。 この質問が、誰かの明日へきっかけになるように、祈っています。 ご協力、ありがとう存じました。

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その他の回答 (2)

回答No.2

動物の自殺はまれです(以下URL)が、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411516684?fr=rcmd_chie_detail 自傷等は普通です。 http://www.petpress.jp/news/detail_330.html (以下個人の意見ですので注意してお読みください。) 自殺は自傷行為の一部と思いますし、 原因はストレスで、科学的には脳内物質に起因しています。しかし、 「怒って壁を殴って怪我する」という簡単なパターンでさえ結構複雑です。 怒りを抑えようという理性が、殴りたいという攻撃本能の目標を、 無害な壁に設定させ、怪我した痛みが、怒り以外の精神状態(普通、後悔)を導く。 つまり怒りを忘れるわけです。 自傷の場合、この痛みが重要なんですが、 自殺にはこれはないのでちょっとわかりづらく、 思うに、「達成感」や「優越感」が痛みの代わりをしていると思います。 まぁ、リストカッターと自殺未遂に、同じように「ストレスです」といって見た場合、 自殺未遂の方は「自殺という崇高な作業を馬鹿にするな」と怒られる気がします。 でも、救急車や身内が駆けつけたりして大事になれば、 感謝や後悔など入り乱れた特殊な精神状態になりますよね。 これが、うつ的な精神状態を取り払ってくれるのでしょう。 そしてそれは痛みが後悔って怒りを忘れさせるのと同じだと思います。

noname#113244
質問者

補足

ご回答をありがとう存じます。 わたしのケースを振り返ると、ある環境から、長年抜け出せなかった為、それを改善出来ず、徒労して、死を考えたのですが、ある日、もしも、全く嫌なことが消え去ってくれたら、わたしは、どうするのか考えた時、生きたいと思いました。 つまり、本心は死にたいなんて考えていなかった訳です。本当に死にたいなら、「解放」されても死を考える筈です。 しかし、わたしは、そうではありませんでした。 本当は、幸せに生きていきたいと願いながら、ストレスからの脱出方法を、死に限定してしまっていたこと、周囲からの評価に流され、自分に価値を見出だせなかったことにより、それを実行しようとしたのです。幸い家族に恵まれていたので、それがわたしをいつも引き留めてくれましたが。 生きたいというのは、本能だと言えますよね?苦痛を回避したいというのは、理性です。しかし、回避する方法は、自己消滅ですから、かなりの矛盾が一人の人間の中で起きていたと、わたしは、感じています。優越感というものは、あったかは定かでありません。ただ無我夢中で、消えてしまいたいと思っていたことが、強く印象に残っている感情です。 しかし、自爆テロ、宗教的な集団自殺・宗教者や思想家の思想全うの為の自殺・忠誠の為の後追い等は、殆どが「主張」であり、「回避」ではないので、回答者さんのおっしゃる通り、優越感や達成感を伴うことは、大いに考えられるとおもわれるのですが、いかがでしょうか?

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  • ogion
  • ベストアンサー率41% (10/24)
回答No.1

本能ではなく、理性がさせる技だと考えられます。 人は辛いことをできるだけ避けようとしますが、もし「死ぬよりも生きている方が辛い」と本気で感じれば、そういう欲求が出てくるのだと思います。 「死んだら楽になれる」という言葉はそういう意味であると考えます。 科学的でなくて、すみません。

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  • どうしても研究したいことがあります。

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