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冷戦時代の「中越戦争」と「中ソ対立」に付きお尋ねします。

冷戦時代の「中越戦争」と「中ソ対立」に付きお尋ねします。 同じ社会主義国なのに中華人民共和国とソビエト社会主義共和国連邦が対立した「中ソ対立」と、中華人民共和国と発足したばかりのベトナム社会主義共和国が砲火を交えた「中越戦争」ですが、どうして起きたのかが分かりません。 Wikipediaを見ても「社会主義国による意見の相違による対立----」という書き方なのですが、もう少し発生の原因等詳細を知りたいのですがどなたか教えていただけませんか?

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hukuponlog
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回答No.3

「中ソ対立」はたしかに冷戦時代の話ですが、「中越戦争」は冷戦時代の話ではありませんね。実を言うと、私も「中ソ対立」の時代というのは、子供でしたのではっきり覚えていません。「中越戦争」は鮮明に覚えています。 1950年代後半、中国はアメリカとの戦争を本気で心配?していたのは事実です。朝鮮戦争は1953年に終戦ではなく「休戦」でしたし、人民解放軍は直接アメリカ軍と戦火を交えていますから、国境を越えて中国を直接叩くべきだというアメリカ軍の意見も強かったのです。 中国は同じ社会主義国としてのソ連の支援も当然計算に入れていたでしょうし、アメリカが中国攻撃を留保する安全保障としてのソ連の存在は大きかったと思います。 ところが、1956年フルシチョフが書記長に就任して完全に風向きが変わります。彼は東西冷戦の終結と平和共存を打ち出し、アメリカとの関係修復を始めます。 このことは3つの意味で中国には打撃でした。 一つはもちろん安全保障上の問題です。仮に、朝鮮戦争が再発した場合、今度はアメリカが中国を攻撃する可能性が高くなってくる。その時にソ連が平和共存を建前に傍観するなら核攻撃(マッカーサーは朝鮮戦争当時核の使用を求めていた)も含めて、現実性を帯びてくるでしょう。そうなれば、成立したばかりの社会主義中国は崩壊する。 もう一つは社会主義イデオロギー上の問題です。第二次世界大戦前には現実の社会主義国はソ連しかありませんでしたが、大戦後東欧が軒並み社会主義国として独立しました。中国も蒋介石政権を倒して社会主義国となった。かつての植民地であったアジア・アフリカでも独立運動が成功をしている。 当時は連続革命論とか永続革命論などが現実性を帯びて語られていた時代です。アメリカの側から見れば「ドミノ理論」です。そういう時代に、平和共存論などというのは、社会主義イデオロギーから見れば反革命論です。当時の中国は建国して10年経っていませんから、これから社会主義イデオロギーを浸透させていくべき時期でした。成立当時の中国は共産党独裁政権では無く、「愛国的民主人士」との連立政権でしたから、これは共産党にとって非常に痛い事件でした。 3点目は、ソ連の技術支援、軍事支援の削減です。当時中国にはソ連の技術者、軍人が多数常駐し、核開発も含めて支援を行っていました。これが平和共存に伴って削減されていきます。最終的には「中ソ対立」によって全面的に引き上げとなります。 いずれの点からも、中国はいわば「ソ連にはしごを外された」格好となったのが50年代後半から60年代前半の状況でした。こうした状況の中で、毛沢東の文化大革命が勃発します。文革の評価自体は様々でしょうが、共産主義イデオロギーによる国内の引き締めという側面もあったのではないかと思います。当然、社会主義革命論を放棄したソ連はけしからん、という話になります。 「中ソ対立」というのはそうした様々な事情から起こったのだろうと考えます。 長くなりましたので、「中越戦争」については省略します。

imperialho
質問者

お礼

そういう事情があったのですね。 となると追加質問ですが、中国とアメリカの国交正常化もそれが絡んでいたのでしょうか?回答いただけますと嬉しいです。

その他の回答 (7)

  • convit764
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回答No.8

戦後、中越首脳会談でしばしば 中国に対しベトナムは、中越戦争は侵略戦争として再三謝罪を求めている。しかし、中国側は、「ベトナムのカンボジアへの軍事的侵略によるものだ」とベトナム側への謝罪を一貫して拒否。 という有名な事実があり、中ソ対立は、この戦争には直接は関係してませんネ。 ここでの教訓は、 <中国は理屈では測れないような、逆切れをしやすい>ということでス。 また、いまはロシアとベトナムの関係は薄れてきて、中国人ビジネスマンがこのホーチミン市でも目立ちます。 戦争で争うより、ビジネスで争うほうが健康的ですもんね。

imperialho
質問者

お礼

それが現実なんですね---。

  • convit764
  • ベストアンサー率18% (142/767)
回答No.7

NO2さんが、いちばん精確です。教科書的見解は事実と異なります。 ポルポト政権は、フランス留学組が多いのに、なぜか中国の軍事援助を 受けて、18世紀にベトナム人に奪われたメコンデルタを取り戻そうと 、ベトナム国境を超えて侵攻し、村の焼き打ちなどを実行。クメールの領土をとられた怨念、怒りからの無計画な行動。 べとなむ側は、公然たる侵略行為に激怒。全軍を上げて、カンボジアに 侵攻。ベトナム軍はあっというまに全土を掌握。タイ国境で、タイ軍と対峙するにいたる。 この結果、ポルポトの国民虐殺事業は中断。カンボジアは国民消滅を免れる。カンボジアを子分にしようと軍事援助に必死だった中国軍部は激怒、あとさき考えずに、中越国境に師団規模の軍を集結、無計画にハノイに向けて進軍するも、ベトナム地方軍が、高地から射撃するアメリカ軍から捕獲した機関銃、砲のために甚大な損害を受け、へ理屈を言いながら撤退。 以降、中国軍部の勇ましい侵攻戦略は退潮し、経済に力を入れ、いまに至るy。 詳細は略。

imperialho
質問者

お礼

有難うございました。

  • hukuponlog
  • ベストアンサー率52% (791/1499)
回答No.6

>中国とアメリカの国交正常化もそれが絡んでいたのでしょうか? 「それ」というのが「中ソ対立」を指すなら、中国側の事情の大きな一つはその通りです。 こちらはアメリカの事情と中国の事情をそれぞれ明らかにする必要があります。 まず、当時のアメリカのアジア戦略はベトナム戦争の長期泥沼化で行き詰まっていました。国内的にも反戦運動が盛り上がり、さらに自国の裏庭である南米でも、民主化(反米化)の動きが強まってきていました。チリのアジェンデ政権が誕生したのが1970年です。 また、経済的にも翌71年に変動相場制に移行したことでも分かるとおり、アメリカの過剰財政支出による財政赤字(とインフレ)は世界中から批判を浴びていました。 こうした状況を転換するために、アメリカはベトナムからの撤退を模索します。戦争というのは何しろ金がかかります。戦費を調達するためには、赤字であろうと財政支出を拡大させるしか方法が無いわけです。これは短期的には好景気を生みますが、長期的には財政を悪化させるだけです。 しかしアメリカとしてはアジアへの影響力は残しておきたいし、「敗戦」というイメージは避けたい。こうしたベトナムからの撤退をスムースに実行するためには、当時ベトナムに強い影響力を持っていた(軍事支援もしていた)中国との了解が不可欠でした。 一方中国側の事情は、第一に文革です。文革が国内を疲弊させたことは70年代初頭には誰の目にも明らかでした。この混乱を打開し、経済を立て直すためには、国際舞台へのデビューが不可欠です。しかし当時、本来「仲間」であるはずの社会主義諸国は唯一アルバニアを除いて、ソ連の影響下にあり、中国批判の姿勢を崩していませんでした。当時の中国のスローガンは「覇権主義反対」で、これはアメリカよりもむしろソ連を批判する内容でした。 また国際情勢も変化していました。当時の国連の安保理に席を置いていたのは中華民国(台湾)でしたが、これを中華人民共和国と入れ替えるというアルバニア案は幾度も否決されてきました。ところが、先ほど述べたアメリカのベトナムからの撤退をにらんだ中国接近によって、アルバニア案が可決される可能性が出てきたのです。 国際的な地位向上とそれによる経済の立て直しを狙う中国、ベトナム撤退による経済立て直しで協力を得たいアメリカの思惑が一致し、71年アルバニア決議は可決されます。 中国にとっては、「敵(ソ連)の敵(アメリカ)は味方」というきわめて現実主義的な選択でもあったでしょうし、同時に国際的な地位向上、経済の立て直しが米中接近だったわけです。

imperialho
質問者

お礼

そういう事情だったのですね---。とにかく高校で学んだ世界史でもどうしてもこの辺りの時代が良くわからないのです。

  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.5

参考その2 ダマンスキー島事件(珍宝島事件)というソ連との直接戦闘もあります。1969年に、ウスリー川の中州にある島で、中ソ兵士が偶発的戦闘をおこし、正規軍がでます。人民解放軍側が大損害をだしました。兵士の練度の差がモロにでたのですが(この事件も文化大革命の真っ最中です)、ソ連の記録では中国側は非武装民間人、家畜まで突撃させてきたといいます。 で、この事件の最中に北ベトナムのホーチミンが死去します。ハノイは弔問外交のきっかけになり、コスイギンが葬儀列席後北京に出向き、お互い核兵器を用意しているのはまずいよ、となって、手打ちをします。 まだ中ソ対立はくすぶるのですが、ソ連と決定的に関係が悪くなった中国はアメリカに接近を図り、アメリカもベトナム戦争から手を引きたがっていた背景もあり、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が急遽北京を訪問し毛沢東と会談するという、建国のときには考えられないことがおきます。 その後は、4番さまのお答えの最後のようになります。中ソ対立はある意味で、アジアにおける教条主義的共産主義の「終わりの始まり」だったのでしょう。

imperialho
質問者

お礼

そういう事だったのですね---。有難うございます。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.4

<参考>  「中越戦争」については、起きた原因よりもその結果のほうが、重要です。  アメリカ相手に近代戦を戦い抜いた経験豊富なベトナム軍と、朝鮮戦争以降、大規模な戦闘を経験したことのない中国との戦争となりました。  中国はベトナムに侵攻しましたが、ベトナム軍の巧妙な戦術・戦略によって、当初予定していたよりもはるかに大きな被害を出し、兵士の多さによる人海戦術で何とか侵攻を続け体面は保ちましたが、予定していた地点のはるか手前で補給物資を使い果たし、撤退せざるを得ませんでした。  この戦争によって、文化大革命時期以降に製造された不発弾多さや軍需物資生産能力の低下によって、ベトナムの交戦能力よりも劣る中国軍の兵器生産技術・能力に、中国人民開放軍首脳は愕然としました。 「毛沢東路線」では戦えないと、穏健毛沢東派の華国鋒から、鄧小平の経済開放路線に軍の支持が移り、現在の中国の経済成長の出発点となりました。

imperialho
質問者

お礼

中国の「改革・開放」の出発点となったのですか---。 参考になりました。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.2

平たく言うとですね、^^; 毛主席万歳はポルポトの親友。 ソ連は昔からベトナムの里親なんです。 ポルポトは100万人の知識人の逮捕虐殺などを敢行します。 カンボジア難民が問題になり、 イカダの大船団が日本に漂流します。 腐敗臭がして殆どが飲まず食わずで長距離を横断していて9割が死んでいるなど、これでも海を渡る決心をしなければならないと言う国内の状態を教えていました。 ここでベトナムがカンボジアに攻撃を仕掛けます。 今度は中国がベトナムに侵攻します。 結果的にはベトナムがポルポト政権を追い出して山の中にこもります。 (歴史の項) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2 山岳部のルビーなどを資金源にポルポトは内乱戦闘を繰り広げ、 国内は地雷の山です。(知っていると思う) 何で中国がポルちゃんを支援したかと言うと 「毛主席万歳」の思想と同じだったんです。 (カンボジア共産党) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%88 ポルちゃんは毛主席と共に歩みますが、 毛沢東が死んだのでベトナムは行動を起こし(せ)ます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

imperialho
質問者

お礼

なるほど、簡単な事だったんだ---。有難うございます。

回答No.1

「中ソ対立」についての↓のWikiの解説はかなり正確。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B  1950年代、ソ連書記長になったフルシチョフがスターリンの米ソ冷戦から、平和共存路線へ舵を切ったことを毛沢東らが「反革命」「敗北主義」などと批判。  1960年代、中国が文化大革命でますます極左化し、同じ頃に中ソ国境で国境紛争が起こり、完全に断絶。  1970年代米中国交樹立。  1975年ベトナム戦争終結。カンボジアでも中国の支援受けたポルポト派が実権把握。  1970年代後半、中国の影響を受けたポルポト派が旧政府関係者・知識人・ベトナム系住民の大虐殺開始、死体がベトナム領内のメコン川下流に多数漂着。  1978年1月カンボジア救国民族統一戦線(現カンボジアの政権)とベトナム軍がカンボジア侵攻。  1978年2月ポルポト派を側面支援する形で中国がベトナム領内に侵攻(中越戦争:1カ月ほどで中国が撤退:旧式兵器と人海戦術で損害が多かったためとも言われている)    って感じかなぁ。

imperialho
質問者

お礼

となると「社会主義の進め方の考え方の相違による戦争」なんですか? こんな事が起こってたんですね---。

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