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人の心の中には、鬼が棲でいますか?

serpent-owlの回答

回答No.15

 本能ですか…愛…んー、けっこう考え込んでしまいました。どう書いたらよいものかと。  実は、「母性愛は近代の産物だ」なんて説があります。これもフェミニズム、ジェンダー論から出た議論です。母性愛もジェンダー・バイアスにすぎない…という。  少し言葉の問題を片付けてから進みましょう。「ジェンダー・バイアス」です。  「ジェンダー」は、生物学・医学的な性別というのとは区別された「社会的な性」のことです。で、「ジェンダー・バイアス」は、「社会的な性役割・性分担からくる偏った見方が定着していること」くらいの意味になりましょうか。  例えば「男は外で仕事、女は家で家事というのが自然」という見方。この、「自然」ってところがクセモノです。歴史的に見ても、そんなに昔からのことではないのに、誰もが当たり前と感じてしまう。人類の歴史始まって以来、ずっとそうだったかのように思ってしまう。これです。これ、「ジェンダー・バイアス」。  それでは、「母性愛もジェンダー・バイアスだ」論。一応、実証的なデータもあるようです。近代に入ってからも、けっこう最近まで、必ずしも母親は育児に縛られていなかった。三世代同居とか、むこう三軒両隣的な地域社会がしっかりしていたりとか、そういう形で、母親以外の人間も含めてチームプレイで子育てをしていたわけです。ところが、労働の場と家庭とが切り離され、核家族化が進み、そうなると母親はほとんど単独で育児に専念しなければならなくなってきた。これを背景にして、母親に求められる美徳としての「母性愛」が価値あるもの、称えられるべきものとして浮上してきた…という話です。こうなると「母性愛」は本能ではない。女を家庭に縛り付けるためのイデオロギー的企みってことになります。  同様に、「男は女を愛する」「女は男を愛する」という意味での「愛」も、問い直される余地があるのかもしれません(というか、問い直す試みはすでになされているようです)。  しかし、その、何と申しましょうか、そういうふうに母性愛を解体してしまって跡形もなしにしてしまうのもいかがなものかと、こう思うのも事実でありまして…。『父性の復権』の林道義さんも、そーゆーあたりを問題にして反フェミニズムの立場をとっておられます。あ、でも、私ってば林さん大キライだったりします。それはなぜかというと、彼がユ…(やめとけ!>おれ)  ごほっ、ごほっ、げほげほっ…。あれ? 何の話でしたっけ? ああ、そうそう、「母性愛は、やっぱり本能じゃないか」に持っていこうとしてたんだ。あー危なかった。なんか、怪しげな電波が飛び交ってるようで…。  えー、たしかに、上記のような話も一定の説得力を持ちます。例えば、ここではあまり話題に上らなかった、イヤ~な形の鬼、幼児虐待とか育児放棄とかいった形で「母親が鬼になる」のケースは、上ので説明を加えられるかもしれません。「押し付けられた《母性愛》の文化的・精神的重圧、そのために出口を失った“子どものための自分だけではなく、自分のための自分でありたい”等々の情念が…」という形で。事実、少し昔型のチームプレイ育児が行われれば、幼児虐待などは避けられるのではないかという指摘は、よくされます。  さぁてしかし、上記のごとく、われわれが「本能」と思っているもののある部分が、実は仮構であるという可能性を認めたとしても、「母性愛なんて本能はない、もお、ぜんっぜんない、ちーっとも、これっぽっちも、まぁ~ったくない、絶対ないねっ!」とまで言ってしまうのは極言に過ぎようかと思います。  おっしゃるように、やっぱ、ありますよ、本能。それも、ちょっとどころではなくて…。  考えておりますのは、ただ単に本能だけではない、ある種の「逸脱」「過剰」なのであります。  「禁止は違犯を高める」「違犯は禁止を高める」という、禁止と違犯の弁証法みたいな話があります(ああ、「隠し玉」なのに…)。  ロラン・バルトというフランスの随筆家がおりますが、この人、『零度のエクリチュール』という本の中で、剥き出しの素肌よりも、衣服の裂け目からちら、ちらと覗く肌の方がずっとエロいという話をしております。また、これも太古の昔の話ですが、NTV系の深夜番組「パペポTV」におきまして、笑福亭鶴瓶師匠は「別にミニスカートのおなごはんの太もも見たってなぁんも思わんけど、和服の女性のふくらはぎチラ見えたら、鬼の首でも取った気分になるで。これ、ふっしぎやなぁ~」との至言を述べておられました。(すみません。Littlekissさんは女性とお見受けしておりますが、おわかりいただけますかどうか…? また、女性の読者各位にも。)  もぉっと日常感覚に近い形でいうと、「言うなと言われると言いたくなる」「見るなと言われると見たくなる」という…「鶴の恩返し」の世界なのであります。  ぼちぼち言いたいことがおわかりいただけてきているかと思います。そうです。人が鬼になるのは、「本能」がそのまま噴出したというだけではありません。「禁止」されることによって、増幅回路を何度も通すかのようにして何千倍にも拡大され、一気に噴出する。一方に文化があり、一方に本能があって、その両者が互いに他方を増幅しあって臨界点に達し、ドカンといく。それが、「人が鬼になる」ということなのではないかと思うのです。  そういうことですから、動物の世界にも見られる「子どもかばい行動」とは必ずしも同列には置けない、過剰な苛烈さ、恐ろしさ、危うさが人間の場合にはあるのだと思います。  余談ですが、gomuahiruさん。あなたの場合は、上に書いたような「ホンモノの鬼」になる以前の段階で、きっちりガス抜きする手段をとっておられたと思います。優しい方です。あなたは。

littlekiss
質問者

お礼

母性愛やいろんな形の愛は、全部とはいわないまでもある部分、意識の刷り込み「本能」がそうさせているというふうに思い込まされているところもあるんですね。そっか-、そういわれてみればなんら疑問視しなかった・・・「男が女を愛し、女は男を愛す」ごくごく当たり前におもっていたけれど、あらためてこういうふうにお話をきかせてもらうと、なぜ?この点に疑問を抱かずに通り過ぎてきたんだろう?「そういうもの」と思ってきていました。固定観念とでもいうのでしょうかね。これ自体が、意識の刷り込みがなされているんですね。 ちょっと、お聞きしたいのですが、もし、本能というわけのわからない装置があるとしますね、その装置を起動さすには「逸脱」or「過剰」といったものがこの場合(『鬼になる』)動力源になっているとのことですが、 >動物の世界にも見受けられる「子供かばい行動」とは必ずしも同列には置けな い、過剰な苛烈さ、恐ろしさ、危うさが人間の場合にあるのだと思います。 うぅ~~ん?人間の中に潜む本能は、なんかドロドロしてそうですね。 それに比べ、動物の中に潜む本能は、とても純粋なものにおもえます。 人間の本能は、周りの環境によってその姿(性質)を変化させられているのでしょうか?

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