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マキアヴェリ
tyr134の回答
- tyr134
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あの時期のヨーロッパ社会は、国家運営の基軸は宗教(カトリック教会)でした。 宗教が全面に押し出されると言うことは、「道徳」が全面に押し出されると言うことです。 とくに、彼の祖国フィレンツェのあるイタリアには、カトリックの総本山ローマ教皇庁がありました。 彼の生きた時期は、丁度このローマ教皇の世俗権力が頂点に達していた時期でもあります。 しかし、マキアヴェッリは「政治」と「宗教」を切り離しました。 「政治」とはあくまでも人間社会の出来事(俗世)であり、それゆえに徹底的に人間を研究し、彼なりの政治論を書き上げていきます。 まぁ、人間を徹底的に研究するのはイタリア・ルネサンスの特徴でもありますので、そう言った意味では彼は当時のトレンドを行っていたのかもしれません。 因みに、日本では『君主論』が有名なので彼は君主主義者と思われがちですが、彼は根っからの「共和主義者」です。 彼の本領が発揮されているのは、むしろ『ディスコルシ(ローマ史論)』の方ですね。
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