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人の業績は 人間そのものですか

 まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

noname#80116
noname#80116

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

さてさて、またもや記憶の問題に戻らせてください。 ★自分史の如何にかかわらず ですし けっきょく植物人間であっても 存在があるかぎり それは 人間であるという基礎認識を わたしたちは持つことになる。 ☆植物人間に関しては仰るとおりで、同意します。 しかし、脳死が論議されている時に「脳死を人の死とする」のは、日本では全脳死を脳死と定義しましたね。この時に「全脳死は人格の消失である。人格の消失は個体死である。」と言う論理がなされていました。個性のところでも無意識野を含む記憶がその人の個性と致しました。これを人格と考えますので、記憶装置が“全て”破壊された時にその人が自分史を持った「一つの人格を保有する人間」として存在しうるかと考え込んでしまいます。奇跡が起こって記憶装置のみが回復したとすると、新しい人になってしまうでしょう。SFの世界のように死ぬ前にその人の記憶を全て吸い上げ、新しい体に植え込む事が出来れば自分史を持った新しい体の人間になりうると思いますが・・・クローン技術でもパーツは新しく出来ても、記憶を移植するのは今のところ不可能のようですが。 少しく脱線したようです。ゴメンナサイ。 ★ わたくしも そのとおりに思いますが そのような人柄ですとか こちらが受ける印象や こちらが為す評価 これらとは一切 関係なく 存在そのものを取り立てようとしています。 ☆仰っている事を理解しているつもりですが、お言葉を返すようになっていたら申し訳ありませんと先に申し上げて起きます。 私は相手の反応・応答・表情の変化などを全て削ぎ落とすときに残るものは「個性」と言う受け止め方の問題としました。同じく自己の受ける印象、評価を一切削ぎ落とすと、相手の存在そのものと言う事は、私にとっては余り異様には聞こえませんし「そうだよね。」と言いたくなります。

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  ようやく字面の上でも 一致点を見ましたね。もっともっと料理されるかなとも思っていましたが。  つまり わたしの見方に従うならば 《いまそこにいる人・その存在》を人間とよぶとしている限り その内面における記憶の情況を 特別には問うていないという含みのことです。つまり おっしゃるところの《個性》があるという実態を 含みうるという意味です。  ただ 強いて言うならば――強いて言うならば です(お互い お言葉を返していますね)―― 不問に付す(すなわち 内面の記憶の問題を 無記としてさえ 一たん 扱う)という形ですので これは 単純にいえば やはり《無意識》なのですから 《無個性》であるという言い方をもしています。無意識野におけるはたらきとして《有個性》というのと 意識していないという限りで 《無個性》と名づけるというのとは 表現の問題に還元されるでしょう。  後者つまりわたくしの見方をさらに継げば 《無根拠》という根拠に立って 《ただの存在としての人間》の説になります。これに対して 《意識していないし され得ないが その無意識野においてこそ 記憶行為として 人間は 動いているし生きている。この想定に立てば この記憶の場と行為とを 〈個性――個体としての存在性――〉と呼んで 現実存在としての〈わたし〉について自覚するよすがを提供することができる》となります。そういうわたしの受け留めです。    どういう違いがあるか・出てくるか これにも触れて さらにさらに 1000827313さんの抽斗の奥深くまで手を突っ込んで 中身を引き出してまいりたいと考えます。(欲深いですね わたしは)。    課題は一つではないか――つまり 意識および無意識なる経験領域とそれを超えたさらに無の領域 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思いますが―― いくつかの角度から捉えることが出来ると考えます。  その一つの視点として。人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  つまりは 意識し得ないという前提なのですが 《記憶なり無意識野なり》として想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕頂上としての位置づけをしてしまいがちです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《個性》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?    わたしとしましては 前半で触れておられた《脳死》の問題を含めて 科学的な解明に 基本的には ゆだねつつ 心の志向性としては 物言いをつけていく。こういう姿勢でいます。  (全脳死となれば 心臓が動いていても もう自己組織の回復は 絶対に出来ないのかなど 余計な憶測がはたらきます)。  (アーラヤ識説では 心の志向性を ボディサトワ゛として持つと考えられます。そこからの物言いも出てくるのではないでしょうか。むろん 科学への賛成説もあるでしょうし)。  (精神分析では どうなのでしょう? 障害や生活に際してのもろもろの支障を 最小限に食い止めるといった志向性でしょうか。分かりませんが)。  《記憶》行為が 《意志(つまり 色をつければ 愛です)》の行為と 《知解》をも含めて それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いに一体性・整合性を保つとすれば――こうだと仮りにすれば―― 科学的な解明のほかに それと並んで 心の志向性のあり方も 大いに 自己主張をしてよいのではないか。引っ込み思案のままい続けることもなくていいのではないか。こう考えます。いかがでしょうか。

その他の回答 (13)

回答No.14

brageloneさん これはエライコトニなってきましたね! ★課題は一つではないか 云々以下に対しては別のスレを立ち上げられるのが良いかと思いますが如何ですか?この問題に対して解答を始めると、「人の業績は、人間そのものですか」とのご質問の範囲を遥かに越えてしまうと危惧いたします。(自分がルールを破っておいて、こんな言い草はないですね。) brageloneさんが質問の形で、課題を選択されてゆくのが良いかと愚考いたします。

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん 了解しました。  今回の質問に対するご回答に対して あらためて感謝申し上げます。  また みなさん ご投稿いただき ありがとうございました。  このあと 関連質問に移ります。

回答No.12

brageloneさん 形而下的なご質問として捕らえることにします。 ★この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説 ☆《無個性》の意味を存在以外のものを一切取り払ってしまった状態と定義いたしますと仰る通りになると思います。その存在は蟇蛙、蛇の類である事もあるし、光り輝いている存在でもありうると思いますが、全ては受け手、観察者の主観と言う事になります。 と言う事でお答えになっていますでしょうか?

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  もちろん お答えになっています。  で わたしの憶説との違い これは あります。  ★ 受け手、観察者の主観  ☆ これは これも もちろん あるのですが 憶測で捉えたところとしましては 人の主観の如何にかかわらず 《いま そこにいる人・その存在》 これで足りるという趣旨になっています。  ★ その存在は蟇蛙、蛇の類である事もあるし、光り輝いている存在でもありうると思いますが  ☆ わたくしも そのとおりに思いますが そのような人柄ですとか こちらが受ける印象や こちらが為す評価 これらとは一切 関係なく 存在そのものを取り立てようとしています。  自分史の如何にかかわらず ですし けっきょく植物人間であっても 存在があるかぎり それは 人間であるという基礎認識を わたしたちは持つことになる。この強引さ( going my way )をぶつけてみています。コート外であったら 仕方ないですが かろうじてでも中に入っていますなら どうぞ いかようにでも 料理していただけると ありがたいです。  人間の自由そして平等とは いったい なんでしょう。

noname#117439
noname#117439
回答No.11

primeapeです。 かつて私の回答にエートスの話を持ち出していただいたのですが、エートスとは個性とどのような関係があるか見解をお尋ねしてもよろしいでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B9

noname#80116
質問者

お礼

 こんばんは primeapeさん。ご回答をありがとうございます。  《エートス》と個性との関係ですね。  まづ エートスは wiki での説明の中の アリストテレスの用法は 知らないで使っていました。言いかえると M.ヱ―バーの用法で知ったものです。ヱ―バーは わたしはその思想が 嫌いですが 勉強しました。大塚久雄という人が エートスを《人間類型》と訳して使っていました。  《くせ・習慣》のことで 少し背伸びをさせれば《生活態度》にもなり 《その人の思想の現われ》として捉えることも出来る場合もあると考えます。  ですから あとは 《個性》ですが これは 定義がむつかしいですよね。やはり無難なところで 目に見える姿として《目立ちたがり / 負けず嫌い / 学者タイプ / 職人気質》といった例示で捉えることにしましょうか。  そうすると エートスと個性とは ほとんど 同じものですね。  そう捉えたいと思います。  〔* 大塚久雄の《人間類型》は もっと広く社会全般にわたる生活様式にかかわった個人の生活態度を問題にしていたと思います〕。  この質問としては エートスや個性は 業績や作品と 直接には 同じではないですね。しかも 前者が 後者に現われているという言い方は できるかも知れません。  これら全部をひっくるめたものを取り去って残ったその人・その存在 これが 人間であると言っていいのではないか。こういう問いになると思います。  エートスで なにか ひっかかるものが ありましたか。さらにまた お聞きください。

回答No.10

brageloneさん 今回もしゃしゃり出てきました。個性とは何かを継ぐものだと仰っておられるので、続きになるのでしょうか。他の方の回答、brageloneさんのコメントに目を通すのが筋とは思いますが、先ずはご質問の解説をお願いしてよいでしょうか? 1)業績:上級役人の関わった法律の数のこと、下級役人の資金の節約量、教授の書いた論文の数などの事ではないですよね? 2)作品:恐らく芸術関係の作品(文学、美術など)と思いますが、その理解でよろしいのですか? 3)魂魄この世に残るのか否か定かではありませんが、形見、墓は残されたものの記憶と解してよろしいですか? 4)個性のところでの私の考えはそのまま踏襲しての考えを望んでおられると思いますが、変更無しで何処まで辿り着けるか試みますか?

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。  そうですね。これまでに ある程度は進展していると思いますが もし 質問趣旨からのご回答 そして その前の補足要求ということでしたら こうお答えしたいと思います。  至極 単純で 形而下のことだけとして 解していただいて けっこうなくらいだと思います。内面のことを伴なうでしょうが 特に そのことを取り立てなくても 済むというほどの問いかけになっています。  《人間そのもの》としたのは 《いまそこにいる人 その存在》を言います。  そこで  (1) 業績: これは 職業としてでなくてもよくて 《仕事》と呼ばれることがらすべてを 含むものです。  (2) 作品: ひとつのまとまった単位体として捉えられる仕事を言います。   (3) 形見・墓: これらは きわめて 即物的に言っています。そのほかに 《思い出》をも出していますので そういうことになります。  (4) いえ それは  1000827313さんの自由意志にもとづくということで お願いしたいと思います。また 多少は この質問に関連するところなどをも ふくらませて 披露していただいて かまわないとわたしは 思うのですが。  要するに 人にまとわりついているものすべてを 取り払っても いいのではないか? それが 人間そのものとして 認められるのではないか? というように 今回は すでに 質問者の思惑が ある程度出ております。基軸としては これをめぐって ご見解をおしえてくださいませ。

noname#63879
noname#63879
回答No.9

>制約とは何か? 欠乏を持たなければ感受するもの(感受できるかどうかすら怪しいじゃないか!ねぇ?笑)に対して何も見出せないと思うんですよ 何か? という問いが立てられるのは 制約により保護されてから以降のことです なので制約が何かと問えないということになります でももし制約が何かを決定したいという事に して してみます いくつも決定案をだします 全部通ります しかし矛盾などしません 矛盾できるほどに記号は決定的ではないからです 多分これはご理解頂けてます ですから私の意見については質問に対する回答外でしたね (削対だ これは削対だったんだ!)定義を築きたいのですね 私の考えている事は 既に質問者さんの中で片付いていたことであたのに 煩わしい思いをさせごめんなさい ごめんなさい 本当にありがとうございました!

noname#80116
質問者

お礼

 kiraneraさん 早速の応対 ありがとうございます。  ★ 多分これはご理解頂けてます。  ☆ いただけてません。先回の理解にしても 我れながら 涙ぐましい努力の末だったのですよ。  ★ 定義を築きたい  ☆ そのための文章だったというのでしたら 仕方ありませんが。  それにしても  ★ 制約とは  ☆ 何ですかね? けっこう 気になります。《意味元年》というようなことも おっしゃってましたね。おもしろいような。・・・    そうおっしゃるのなら とりあえず ありがとうございました。またの機会にお会いしましょう。  

noname#29999
noname#29999
回答No.8

#4です。 やはり哲学は理解出来ません、私などの踏み込む領域ではなかったと思います。 ただ、一つ、私はこのカテゴリーで誰をも説得しようとは思いません。 その上で私の質問に対するご質問者の疑念、 ・ 地位や職務について行う仕事も全身全霊、自己を投影したものではないのか。 ・ 悪事をおこなう場合でさえ、思想がまちがっているとはいえ、一身をかけたものではないのか。に付きましては、 思想については、何が間違っていて何が正しいのかを言い切れる自信が私にはありませんので、別の機会に考えるとして、悪事については一身をかけた命がけのものもあれば、他をも自分をも嘲弄したような情状酌量の余地のないものまで多種多様であり、一概に決めつける事は出来ないと思います。また、 ・ パンを得るためではない作品の方を特別視しているきらいはないか。ですが、 あります。職務については、万人が納得して従事しているとは限りません。中には幸運な人がいて、職務に喜びを見いだし、天職を見いだしている人もいるでしょうが、大部分はパンのためやむを得ずというのが実情と思います。そこに選択の余地はありません。 しかし、作品はその仕事中の経過で、放り出したくなるほど煩悶しようと、完成を予想する甘い期待と愛を求めるような悩ましさに満ちています。 作品とは、自分の希望も悩みも願いも生き方も善悪に関する判断もすべてを封じ込める事が出来るものではないかと思います。 作品は誰かに強制されたり、パンのためだけに作り上げるものではありません。 それが職務と作品の違いだと私は思います。 ヘッセの長編〔知と愛〕で、エロスを求めて修道院を出奔し流浪の果てに芸術に目覚めた主人公ゴルトムントは長い月日の後、落魄の身で修道院に帰り、その時は既に司教になっていたかっての友人ナルチスに、己の生き様の証拠として共通の師として仰いだヨハネを像として形作り、作品として掲げます。 その時、ナルチスはかっての友情の歴史で見せた事のない親しみを込めて「君はこれを見せてくれる事によって、私に豊かな贈り物をしてくれた.・・中略・・君は初めて君自身を完全にわたしにたいして開いてみせた.君が誰であるかを今こそわたしは知った」と打ち明ける感動的な場面があります。 このように、作品とはそれに自分を投影させる事が出来、又それを理解する人にはその人そのものでもあり得ます。 私はこのように職務と作品を区別し、更に作品を(聖別視)しております。 私は諸々のものから影響を受けこのように考えるに至りましたがこの考えで誰かを説得しようとは思いません。 ただ、最近よく考える事に関連したご質問でしたので興味を引かれ無謀な試みをしてしまいました。 哲学とはほど遠い回答で、頓珍漢であったかも知れません。 もし、そうであれば、このような事には初心者としてお見逃しください。

noname#80116
質問者

補足

 nekomacさん ご回答をありがとうございます。  ヘッセについては 《車輪の下》でしたか 読んだ記憶はありますが 中身は もう残念ながら かなたへと行ってしまっています。特別に 集中して読んだ作家もありますし 今からでも どんな作品にも 評論としてかかわるという用意はあるのですが いかんせん いまは 車輪の跡のみという現状です。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし自分の制作が無価値でなければ――それは大いに貴重であり 自分はそれを自分のためのものとして取っておく。  もしそれが無価値なら――それはなんのためにもなんの値打ちもないわけだが 自分はそれを――誰のためでもなく 取っておく。  ・・・私はこのしごとを・・・一つの試みとして そしてこの試み自体を こういうものをひとが試みたことはまだないということに私が気づいたときに私が抱いた驚きのしるしとして 提出する。 (ポール・ヴァレリ:カイエについて(Les cahiers in “Cahiers” 寺田透訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という文章を思い起こしました。  『知と愛』のご紹介いただいた内容につきましては  ★ 共通の師として仰いだヨハネを像として形作り、作品として掲げます。  ☆ という箇所が 効いていると思いました。つまり 流浪の身をえらび取り その果てに落魄の身にまでなったというにもかかわらず その歳月の空白を補って余りある魂の遍歴であったと ゴルトムントは そのとき 自分自身も 初めて気づいたほどだったのではないでしょうか。自己満足〔であってさえ いいのですが それ以上に それ〕をも超えて 友が 認めてくれたということではないでしょうか。  nekomacさん やはりわたしは いぢわるの虫が黙っていないようです。上のように したためましたのは こういう批判が隠れていました。上の批評文を書き終えたあと 気づきました。(《レ・ミゼラーブル》!)   個性あるいは人間 これは 作品の問題ではないのだ。   心あるいは心の歴史 あるいは 他者との心の交流こそが 問題なのだ。   だからこそ nekomacさんも 《失敗作あるいは無形の作品でもいい》  と言ってたじゃないか。   《ああ 無情!》ではないのだ。自信を持っていいのだ。・・・   《作品》ではなく そこに投影される《その人・その心》ではないだろ   うか。    あるいは 人柄がよいという意味での心でもなく 《自己の同一性 /   何はなくとも わたしが わたしでいられた / わたしでい続けること   が出来たその心の出帆と漂流とそして帰港》 これではないのか。  * ☆☆ ・ 地位や職務について行う仕事も全身全霊、自己を投影したものではないのか。  ☆ このことを言う必要のない世界 言わなくても大方の人びとにあって すでに実現している世界 これを目指します。

回答No.7

 拝読しました。分かるとこともあり、そうでないこともありました。  《無個性》が そのまま その人の存在であるという仰せは、私の理解することにおいては、そういうことであると存じます、そういう表現も可能であるという意味意味において。  いろいろ具象的で個性を示すものがこのお言葉の前にありますが、それらがそのものの存在やそのものじたいだということはいえませんね。  そのことについても理解でき、首肯しております。  そういうことの先として、ANo.6の書き込みを致しました。  皆様のご回答は、凝縮したことばで、意味と思いの含意のものがあるので、難しいです。  もちろん私のも、他の人のお立場では同じかとと存じます。まことにbrageloneの読解力に敬意を表します。私はしばらく勉強しないとついてはいけません。  私は直接には、brageloneさんのご質問に対して何かお役に、益に立つようにと、書き込み投稿しました。  ほかのご回答については、今どうこうは意見ももてない状況です。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ おこなってしまった添と削とが 歪んだものでなければさいわいです。  ☆ 曲りなりにも 大事に至らず よかったと思います。しかも  ★  《無個性》が そのまま その人の存在であるという仰せは、私の理解することにおいては、そういうことであると存じます、そういう表現も可能であるという意味において。  ☆ こう言っていただければ 心強いです。    これから 次のご回答で 文学作品を取り上げておられるところについて 考えてまいります。決して きらいではないのですが 馴染んでいる世界ではないかも知れません。どのように相いなりますやら。  ありがとうございました。

回答No.6

 brageloneさん、お気持ちに痛み入ります。  じたい(自体)、これはItself、本体、本尊、物自体(カント的に)、実体とか表現されて、課題でありましたね。    主格意識が存在と存じます。存在はその中に主格意識があり、存在とはその主格意識だと存じます。ですから、主格の認識内容や知覚内容、記憶内容たる客体object自体は存在しない、それ自身(自体)というものはそこにはない。主客の客体objectということを離れている独立のものには存在や主格意識がある。  創造界。これは主格意識がある。しかし経験、知覚、認識、意識、記憶された客体objectとなった描かれたものにはそれはない。これと前のパラグラフでの主格の中の客体objectは、主格を離れたものとしては主格意識があると、観念されている。  主格意識は、全体や根底基盤から別に、独立に存在しているという観念意識である。しかしそれは決して独立でもなんでもない。  単なる個性性という意識であって、一つの錯覚でしかない。  だから、存在する実体は、全体や根底基底でしかない。個体意識はそれがなければ存立しないが、根底基底・全体は個体意識がなくても、個体がなくても存立する。  個体たる主格意識は、根底基底・全体が無に帰るまでは、創造が創造意識に飲み込まれるまでは存続している。  というふうに存じております。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご見解をご恵投いただきありがとうございます。  質問者としての志向性とその内容につきましては No.5までのお応えとして かなり明らかにして 述べることができたかと 自分ながら 驚きつつ 思っております。どうぞよろしかったならご参照ください。  今回のご回答は その課題として広がる事柄をも含めるなら その思想の範囲が多岐にわたり 一筋縄では お応えするのがむつかしいと まづ思います。  質問趣旨とその方向としましては 触れましたように これまでのお礼欄補足欄にて 述べ得ましたので 上のような点をめぐって反応申し上げる形で――ということは ことの性質上 周辺を なぞるような形にしか成り難いと前もってお断りせざるを得ないかたちで―― ご返事いたしたいと存じます。  わたしの解釈になりますが 《〈わたし〉は存在する》と表現する主体は その限りで 《主格》として現われ 社会は この《主格》の関係として 生きている。その《主格意識》が もろもろの客体をめぐって 切り結びし 錯綜しつつ関係し合っている。  ★ 創造界  ☆ つまり 被造物の世界 これを持ち出すのは 主格もその意識も 互いに相対的な存在であることを言うものである。つまり  ★  主格意識は、全体や根底基盤から別に、独立に存在しているという観念意識である。しかしそれは決して独立でもなんでもない。  ☆ 広く世界の中にあって 切り結び合う主格意識は 二人や三人が集まって 《わたし》という言葉を用いるわけではなく 一人の存在が・一人の存在のみが用いるからには それだけによっても 個性がある。個性あるいは個性性があるが 比べるとすれば 主格意識のほうが それがどれだけ相対的で有限なものであっても 基本であり核である。主格意識は  ★ 根底基底・全体・・・〔つまり〕創造意識  ☆ によって ということは 豈(あ)に図(はか)らんや 《無根拠》によって 根拠づけられている。これが 永遠の現在なのである。  言いかえれば 《無個性性》として 人は 人である。《個性を発揮し いくつかの個性を従える無個性性》として 人間は 人間を 受け留めるのがよいと考えられる。  おこなってしまった添と削とが 歪んだものでなければさいわいです。

noname#63879
noname#63879
回答No.5

>ということは2つの側面を持つのでしょうか? これは私の文章能力の至らなさにより誤解を生じさせてしまいました 本当に申し訳ありませんでした ★ 存在は制約によってのみ / 明らかにされてると思うのです。 ★ よって“人の存在そのもの”という記号を使おうとするとき(も) 私はその(記号に)制約の保護(が施されているかどうか)を考えるのです 以上のように( )の部分を書けていませんでした これに続く文は 私たちはこれから存在やナチュラルといった 記号を使おうとしているが それらの記号は道具として 扱える状態にあるかどうかについて フレ そしてその答えがそのまま質問への回答になるといった 形式を意図し書かせていただきました しかし内訳は削対になってもおかしくない程 直接的に答えることを避けていたようです 今回私の狙いには意味の元年のようなものを想起していただき 意味紀元前と元年以降というように取り扱っていただきたいとの 思いがありました 質問者の方が使われた“そのもの”という ーー制約により存在が明らかにされてはいるが 絶対的な段階であるので意味は付帯させられないものと ーー制約と制約との相対の中でようやく意味や価値が図られ付帯し いずれそれは業績と人が名づけられる状態をも生む というように 制約という否定の影同士が相対的に出会う場面以降でなければ 人間の行動に由来するあらゆる現象は 有機的ではない それは無だと思うのですとの趣旨でありました ですので“そのものの存在”とそれに“付帯してきた業績”との 違いが決定的であるといいたかったのです ただ制約があるだけで存在とされるナチュラルさと 制約と制約との出会いによる有機性の備わった現象という 差異があると考えていることをお伝えしたかったのです  これが(1)への返答になったと思います (2)は質問者のかたが続けて仰られている通りです 制約によらない記号はありません ただどのような制約(欠陥 排他) であるかというコンテクストの誤差を容易に緩衝できるほどに緩やかに 作られている事が問題を生み その様子は制約の内在していないもののように思えなくは無いですが 実生活に則した道具になるのは 合点できる範疇ですし 仰る通りXとYを気分で使いわけるという 間違いを犯すくらいならそもそも制約の強力な記号を扱わないでしょう (A)と(B)の違いは上記した通り 意味を付帯させられない状態と 有機的な状態になれた差がありますので異なる事です ですので以下取りあげていただいたものも変わる次第です そして言語表現としての規定に関してですが 先ず読んで頂き ありがとうございました  この2種類として捉えられた事は私には同現象です 制約と制約が相対のうちに それぞれがそれぞれ自らの制約による欠陥を認識し 世界/他者に対して充足への価値を見るということですので 長く読みづらい文を読んでいただきまして 本当に心苦しい限りです 失礼致しました

noname#80116
質問者

お礼

 ● ただそこにいるというだけの存在(つまり あたかも 植物人間としてでも そこにいるという人) これが 無個性の人間そのものであり これを 無根拠において ひとつの定義として提出したい。 となります。内面の思考やあるいは無意識のあり方を問わない。外面におけるもろもろの仕事のあり方を問わない。社会の中での人びとによる評価を いっさい 問わない。こういう存在のことです。  質問者が意見を言っておりますが それをめぐっても ご回答をいただけるなら さいわいです。いかがでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 kiraneraさん ご説明をありがとうございます。  ★ “そのものの存在”とそれに“付帯してきた業績”との / 違いが決定的であるといいたかったのです。  ☆ と言っていただいたので わたしの解釈が大筋でまちがっていなかったと安堵していますが 読んでいただいているみなさんにも きちんと解釈していただけるようにと なお以下のように 補足説明をお願いしたいと思いますが いかがでしょうか。  わたしの考えでは   ● 《制約》とは何か。  ● 特に 《記号・ここでは 言語記号》との違い  これを お伺いするのがよいと思います。  わたしの印象では こうです。どうも 《ひと》という言葉で ホモ・サピエンスなる生物を捉えたとき その言葉(記号)の周りで 人びとがさらに 微に入り細に入り分析し 有ること無いことをつけ加えて 研究したり噂したりする。これが 制約となる。  この制約の集合が 実際の《ひと》であり 個別に 《Mさんの 評価や噂 としての制約の集合》と《Nさんのそれ》との差異 これが 《個性》だとおっしゃっているように聞こえます。  ★★ 人・・・とは制約の集合であり / 人の個性は制約の差異によるものという結論を導くのです。(ANo.2)  つまりは 次のような整理になりますが どうでしょうか。特に新しいところは 《個性》が 他者による評価――じつは 先の質問にも この内容を指摘するご見解はありました(直前のNo.4へのお応えの中での要約に入れ損なったことをお詫びします)――にかかわるという見方です。  順序が 入り乱れますが No.2へのお応えの中で用いた記号を受け継いで 述べます。  《ホモ・サピエンスなる生物》を 《ひと》という言語記号で表わすのは そのまま    (D) 言語記号(ことば)を用いての表現による ものであるが それは   ★ ただ〔言葉による規定という〕制約があるだけで存在とされるナ    チュラルさ の問題である。したがって 実際の世界は それだけではなく その上に    (C) 制約による という場合がある。これは 社会の中で    ★ 意味や価値が図られ付帯〔したところの〕   ★ 有機的な状態 になっていることだ。  ところで    (A) 人間そのもの についても これら二つの側面がある。つまりは        (D)言葉による規定  が先に来て       (C) 制約による有機的な状態  がそのあとに来る。しかも 驚くなかれ 人間の現実の状態は これだけには まだ限られない。その上で    (B) 個性 の問題が来る。何らかの記号(しるし)によって指示され 言葉によって存在が規定され なおかつ そこに意味や価値やの分析・評価がつけ加えられ そのように《制約されつつ その制約に保護された》人間は   ★ 制約(* つまり 人間M)と制約(* 人間N)との出会いによる有    機性の備わった現象 となって現われ    ● わたし(Mさん Nさん)は それぞれ その制約の集合として存    在している。  このとき   ★★ 人の個性(B)は 〔MさんやNさんそれぞれの〕制約〔の集合〕の差異によるもの である。つまり 他者による評価で決まるのだと。  どうなんでしょうか。わたしは この個性=他者評価の説を 書き忘れたのですが たぶん 賛否のどちらとも 人は 決められないのではないでしょうか。人びとの評価が 妥当であり得るだろうし 間違っているかも知れないとしか 基本的には 言い難いのではないでしょうか。さらに ご意見を伺ってまいります。  ただ それに到る前のご見解――個性=他者評価の説以外の内容―― これは 咀嚼してまいりたいと思います。  (α) いわば自然人としてのひと     ――自然の状態における規定(制約)――  (β) ことばによって定義されたひと(人という観念)     ――概念による規定(制約)――  (γ) 端的に 社会人     ――社会的な意味や価値を付帯されるようになったその制約――  (δ) 社会人のあいだでの互いの差異が 個性である。(これは     妥当で変わらぬ評価もあれば 移ろい行く間違った評価もある     と考えられる)。     ―― 一人ひとりの人に 社会的な制約の集合がつけ加わる。      それらの個別的な差異――  しかも――しかも です―― わたしの空想は これらから わざとのように 離れます。別様の見方から 《人間そのもの》を捉えたいと思っています。

noname#29999
noname#29999
回答No.4

哲学は難しくて分かりません。 しかし、ご質問は最近私の胸を去来する問題でもあり、興味がありましたので、一言コメントさせてください。 私も、地位や職務がその人の存在そのものだとは思いません。 「人はパンのみに生きるにあらず」と言いますが、人は人間として生まれた以上、日々のパンを得なければならず、地位や職務は生きる糧を得る手段であり、その結果得る副産物です。 副産物であり、肩書きである地位や職務は未来永劫その人と一体ではなく、従ってその人そのものではあり得ません。 では、作品は? 作品は、ある意味、それを作った人そのものであると確信します。 作者は如何なる作品にも、成功品であれ、失敗作であれ、全身全霊を込めて自分を投影させるからです。 後世に残る作品は有形無形を問わず、作者そのものと私は思います。 以前の質問は見ていないので分かりませんが、無個性が、そのままその人の存在という説には何かSF映画を観ているような不気味さを感じます。 生きとし生けるもの、個性があるからこそ存在すると言えるのではないでしょうか? 個性が無いのは存在しないと同じではないかとさえ思える、今日この頃なのですが。

noname#80116
質問者

補足

 nekomacさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。反対意見は 歓迎なのですが その根拠には もうひとつ 説得されませんでした。  まづ 先の《個性とは何ぞや》で得られた内容をかいつまんで述べます。  (1) ふつうの見解だと思えるのは 個体の歴史です。  自分史こそが 個性であるというものです。これは nekomac さんの説かれる《作品が人である》説にも近いと思うのですが 直前のNo.3へのお応えにも触れたように 自分史の中から 仕事や作品を取り出す場合というのは 微妙に違うとも考えていたものです。(あとで考えます)。  (2) 内面における無意識の(もしくは無意識に近い)領野において 情報を受け取るその形式 これが 個性だという見解です。これは 二つに分かれます。  (2-1) 母体にいる時から その情報の受容が始まっており この受容の仕方が 人によって異なってくるのだが そのように形成された個性は 基本的に 無意識野におけるはたらきとして 生き続けるという場合です。つまり この目に見えない個性が 同じく内面における思考やあるいは外面における行動に対して はたらき続けるというもので しかも ついには この内面と外面とのつながりは 人(その意識)には理解されないと言います。  (2-2) そうではなく 内面と外面とは つながっているだけではなく 人の意志として そして意識において 認識しうる内容が 現われる。つまり行為として 人がおこなう。また この場合 社会に貢献するような仕事に関して 個性と言うのだと言います。  (3) わたしの志向性としてですが このような規定をすべて はづしても つまり無個性としてでも 人は人である。こう考えて いまの質問に及んだというわけです。(自分史と言うのと同じようでもありますが その具体的な内容のほうではなく いまそこに存在している人 その存在が=つまり無個性が 人間であると言おうとするものです)。  さて nekomac さんのご見解は 次の文章に要約されると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  では、作品は?  作品は、ある意味、それを作った人そのものであると確信します。  作者は如何なる作品にも、成功品であれ、失敗作であれ、全身全霊を込めて自分を投影させるからです。  後世に残る作品は有形無形を問わず、作者そのものと私は思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《失敗作や無形の作品》を含めておられるので それは 限りなく《個体の歴史》に近く しかも 或る意味で《無個性》にも近いと思われます。  でも 細かく見れば 《作品は?》という指定がありますので わたしの都合のよいように拡大解釈してはいけないでしょう。としますと  ★ 生きとし生けるもの、個性があるからこそ存在すると言えるのではないでしょうか?  ☆ との見方をも合わせて 上の分類では (2-2)に近いご見解ではないかと推察します。  さらにわたしからの一言を付け加えさせていただくとすれば それは こうです。  ・ 地位や職務についておこなう仕事も 全身全霊 自己を投影したものではないのか。  ・ 悪事をおこなう場合でさえ 思想がまちがっているとはいえ 一身をかけたものではないか。  ・ パンを得るためにではない作品のほうを特別視(聖別視)しているきらいはないか。  まったく わたしをさらけ出しました。作品のお仕事にかけておられるお気持ちを傷つけましたなら その根拠(けっきょくは 無根拠)のことを知りたいとあえぎ求めている者のたわごととして なにとぞ ご容赦くださいますようお願いしたしておきます。つつしんで。  * ★ 無個性が、そのままその人の存在という説には何かSF映画を観ているような不気味さを感じます。  ☆ これは 《そのもの / もの自体》といった響きがあってのことでしょうが 《いま そこにいる人・そういう存在》を言うのみですので お願いしたいと思います。

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