• 締切済み

《千年王国》について

 もし重要であるとすれば 基本的なことをおしえてください。  わたしは 何かひらめきが得られるかも知れないと思ったりはしますが よく分かりません。扱いかねます。  この質問は 《Q:ヘブル書に引くエレミア書の〈新しい契約〉とは?  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3807611.html 》でのご回答ANo.45に接して お尋ねするものです。  次の箇所が 焦点になっており そういう解釈としての説をなすようです。     ヘブル書8:7の一番目の言約がモーセを通じて与えられた律法な   らば、8:13の新しい言約はサムエル下7:4-17で言う永遠の言   約です。すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が   成立するという約束です。        イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イス   ラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延   期されたのです。     そして、イエスキリストが再び来られてイスラエルの王国が成立す   るのがヨハネ掲示録20:6でいう1000年王国です。         〔参考・1〕サムエル記・下 7:4-17より 11-13節        ・・・主があなたのために家を興す。     あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子    孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。     この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を       とこしえに堅く据える。 〔参考・2〕 ヨハネ黙示録20:6                      第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たち   に対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となっ   て、千年の間キリストと共に統治する。                                                                   * なお わたくしの立ち場は キリスト・イエスの出現で すべては決まっているというものです。

noname#80116
noname#80116

みんなの回答

noname#61990
noname#61990
回答No.3

非常に熱心に聖書と向かい合っておられますね。規定がありますので短くお答えさせて頂きます。 人間に対しての規則の部分解決との事で参照聖句がありますが、本当に厳しい規則、たとえば、 手は必ずヒジまで洗う、ヒゲはもみあげとの間を切ってはいけない、日曜日は働いてはいけない (まきを拾っていて死刑)姦淫は身内によって石打ち死刑、神に対する捧げ物の方法にも誰が 、どのように、どんな物を、と、とても守れないものでした。これらか ら解放される、という意味です。参照聖句はその後の霊的な成長部分で 、新約聖書のほとんどがこれです。 キリストの死は失敗ではありません。キリストが現れることは旧約聖書 で予告されていますし、キリスト自身も、すべてが予告されていることを、あらゆる場所で語っています。 したがって、イスラエルの王として来たのではありませんので、民達は王を殺したわけでもありませんし、 聖書の王国はこの時代のものではありません。 王国の問題ですが参照聖句2つは結びつきませんし、なぜここが出てく るのかが、残念ですが私にはわかりません。 補足説明も私には難解です。 具体的にいつそれは来るのか、を聖書から示せ、と言うことでしょうか ?マタイ24章から25章その他は「しるし」について語っています。一例を上げます。戦争、食糧危機、地震、 疫病、地球を破壊する者達が現れる。これらは今起こっていることで、過去に起こっている事柄とは考 えにくいです。その後はキリストもいつ来るか分からない、と言っています。 現世界に神が直接介入しているか、は「いいえ」です。祈りは最後に「キリストのみ名において・・」と キリストが仲介していて、神が直接介入していないことを証明しています。 またお答えできることがありましたら、書き込ませて頂きます。

noname#80116
質問者

お礼

 maatwさん ご回答をありがとうございます。  ああ そうなんですか。どこか勘違いしていました。 ★ キリストの死は失敗ではありません。 ★ 聖書の王国はこの時代のものではありません。 ☆ よかったです。決して ★ 具体的にいつそれは来るのか、を聖書から示せ、と言うことでしょうか。 ☆ ということではないのです。そう言えば たしかに 《主キリストよ 早く来てください》という祈りはありますね。その限りで ★ その後はキリストもいつ来るか分からない、と言っています。 ☆ というような受け取りになるのでしょうね。  厳しい規則についても その煩瑣な規定からの解放も その《文字どおりの励行》ではなく 《霊による成就》という意味で 解釈できるようです。  総じて ご見解は 現段階において 共通であると理解してよろしいようでしょうか。  それでは 新しい見解の方の登場を もう少し待ちたいと思います。  よろしかったら いつでも また参加してください。  ありがとうございました。

noname#61990
noname#61990
回答No.2

少し気になりましたので、800字以内で書き込ませてください。 「新しい契約とは」は、8-13「新しい契約で・・以前のものを・・」9-15に「キリストは新しい契約の仲介者」とあります。キリストの出現は、レビ記にあるような人間に対して厳格な規則や、死んでしまう人間を救済するために、自分の命と引き替えにそれらから解放してくれました。これが新しい契約です。この場面は、キリスト出現以前の、人間に対する規則の厳しさは信じがたいものがありますが、それを守ろうとする人々と、新しい契約で生活しようとする人々との間で争いがあり、ここではそれを諭そうとしています。 現代社会では、啓示等に書かれている「事物の体制の終結のしるし」が、恐ろしく正確に表れています。そして人類史上初の大患難が起こり 千年王国が始まります。 以上が私の考えている千年王国です。

noname#80116
質問者

お礼

 maatwさん 別の考えが浮かんだので お伝えして 補足します。 ★ イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イスラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延期されたのです。 ☆ この解釈に即して考えてみるとき では何故 このイエスの派遣という神のはかりごとが 失敗したのかです。  成功しなかったことを問題にするのではなく そうではなく 失敗することは ありうることだと思うのですが そのときにも なぜ失敗したか これについて 説明があるのが普通だと考えました。そうではないでしょうか。そして その理由・原因は 何だったのでしょうか。こういう疑問です。  いかがでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 maatwさん ご回答をありがとうございます。  旧い契約について《厳格な規則 / 規則の厳しさ》うんぬんということをおっしゃっていますので わたしの理解としましては 次のようになります。つまり その規則(つまり 律法のことでしょうか)による生活からさらに一段高いところでの生活形式を 《新しい契約》として示すのが ヘブル書第8章の内容である。これにかんして 同じ趣旨での別の聖句を思い浮かべるなら それは 次の《文字は殺し 霊は生かす》などの箇所だと思うのです。    あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手   紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石   の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。   ・・・    神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に   仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生か   します。    ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光   を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イス   ラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に   仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありません    か。    (コリント後書3:3-11)  つまり これと同じ趣旨だというふうに理解しますが それで よろしいでしょうか。  そのあとの段落でおっしゃったことが よくわからないでいます。 ★ 啓示等に書かれている「事物の体制の終結のしるし」 ☆ これが 歴史の事態に符合するとおっしゃっているのだと思いますが そして それは 千年王国の記事であるということだと理解しますが これが 一大難関です。わたしにとっては。  No.1のご回答に接して 案外すみやかに わたしは 《神によるこの世界への介入のあり方》という主題を思い浮かべました。わたしの理解では おそらく具体的な現実としての介入は イエスという人間存在つまりそういう経験現実だけだと思うのです。あとは すべて アブラハムを初めとして その人びとそれぞれの主観内面に対するものであり その主観真実におさまるものだと考えています。  そのことと 《千年王国》との関係がどうであるか これが 理解への難関なんです。この王国やあるいは 指摘しておられる《事物の体制》というのは これらも あくまで経験現実のことですよね。そうすると 明らかに神は そのように直接に人間世界に介入するということになります。  ですから そこのところを――歴史の全体としてのごとく―― 説明いただかないと なんとも 判断しがたいというのが 正直な状態です。おおがかりなものであるかも知れないのですが いま そう思っています。  あらためて まとめます。前半のご説明は 上に述べました意味で 納得いたしました。後半のことがらは どう理解していいか どういう事態であるのか まだ何とも 推理も想像もつかない状態でいます。と申し上げなければならないと存じます。このようなあいまいなお応えになってしまいます。あしからずご了承いただけますなら 幸いです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

えっとですね。 ユダヤ教はいろいろな宗教の影響を受けており、それらの宗教が無かったら、別物になっていたと思います。 キリスト教はユダヤ教が無かったら存在しなかったように、過去の哲学者や思想家が居なかったら、ハイデッカーが20世紀最大の哲学者と言われることがないのと一緒。 で、1000年王国の概念は、一体どこからきたのか。 ヒンドゥー教はこの世は周期的に生成と消滅を繰り返していると考えた。 1期から4期まであって、4期が最後の時期であり、母神が破壊者の相を持つと考えたわけです。 ちなみに神は3面を持つものなので、三相一体で、生成もするが破壊もするものであるという概念。 キリスト教はその概念を拝借して、別物にして、三位一体を作ることになったが、そうなる原因は、神は三相一体であるというほかの宗教の影響を受けたのでそうなったわけです。 他の宗教がそういう概念を持たなければ、キリスト教に三位一体という概念は起こらなかったってことですね。 つまり異教の概念を取り込んでいるのであって、独自のものじゃあない。 で、4期になると神々は互いの殺し合い、この世は火と洪水に包まれ、太母神は万物を飲み込み、カオスの状態にして、時すら破壊しつくされた後、再度太母神は創造をする と考えられていた。 4期の神がカリ・ユガという名前になるが、創造の相の場合、別の名前で呼ばれるが、同一なわけです。 で、カリ・ユガがやってきて、全てを破壊しつくすと信じられたいた。 マツヤ・プラーナ(古代サンスクリクトの韻文の聖典。宇宙論、聖典に記された歴史、神の本性を論じたもの)によると、世界の終末が近づくと、その兆候として、社会構造が崩壊し、暴力と犯罪が増え、人間の知性が萎える とされた。 啓蒙的な善性を体現するものが一人もいなくなり、秦の賢者も聖者も、真実を語り、聖なる言葉を守る人も一人もいなくなる と考えられた。 ヒンドゥー教だとユガは紀元前3104年、マヤだと3113年。 古代メソポタミアでは、文明技術の始まりは紀元前3113年から3012年としていた。 世界の始まりとしているものが、大体共通した年代な原因は、天体観測をどこもやっていたからだと思われます。 だから年代が共通するわけですね。 で、バビロニアなのかエジプトなのかわかりませんが、天体観測の技術が各文明に影響をもたらし、それぞれの地域に世紀末の神話を作り出したんじゃないか と。 そのような概念の影響を受けたキリスト教は、ヨハネの黙示録にその概念を反映させたものを聖典に入れたわけです。 でも古代のカリ・ユガをイエスだとして、イエスが最後の審判のために破壊をもたらすためにやってくると言っていたが、千年たってもやってこない。 早く破壊者としてイエスがやってきて欲しいと熱望したキリスト教は、いくら待ってもやってこないのを見て、困ってしまったわけです。 それで「神の目からすると千年は1日にしかすぎない」というテキストを見つけて、自分達の主張を弁明せざるを得なくなった。 恐らくこれはブラフマーの一日は千年であるというオリエントの賢者の発言がそのテキストの文章の由来だと思います。 ま、とにかく、自分たちの宗教を信じたものだけ、破壊から免れるとして信者を募ってきたが、実現しなかったら盗人の詐欺になってしまいますから。 こういう概念があってキリスト教は世紀末は紀元1000年のことであると決定したが、実際はそうならなかったことの言い訳に苦慮したわけです。 最後の審判の時の直前にこの世を復活するのはイエス以外に、アンチキリストも復活し、最終戦争をするとしたが、これは恐らくバビロニアの神話の影響をゲルマン人が継承したからじゃないかと。 ゲルマン人が築いた帝国は神聖ローマ帝国。 神聖ローマ帝国がある限り、アンチキリストは復活しないとした。 で、これはあくまでキリスト教ができたあと作ったものですが、キリスト教が存在しなかった時代はどうだったのか? 死海文書を保持していたクムラン宗団は「戦いの書」の中において、世紀末の物語を描いていた。 エノク書を重要視しており、またヨベル書も参考にしており、それを元に1000年がいつかをはじき出して、年代は忘れましたが、その頃が1000年目だとしたんです。 地震によりクムランの集落が倒壊したとき、いよいよ世紀末が始まったと信じた。 で、イエスがいたと現代の人が信じているあたりに(キリスト教など存在していない時代)に、メシアたちが到来し、天の国を実現すると信じていたんです。 その者は、イザヤ書の内容を信じ、エッサイの若枝 すなわちエッサイの子孫であるダビデ家から出ると信じていた。 ちなみにダビデのお父さんの名前がエッサイ。 で、一説にはエルサレム神殿から逃れた大祭司がクムラン宗団を作ったとされ、彼らはエルサレム神殿を取られたので取り返そうとしていたらしい。 で、自分達を光の子と呼んでいたってことは、神殿にいる祭司達を悪の子という認識だったと思えます。 悪の子がエルサレム神殿を占拠しており、自分達が決めたメシアたちが、彼らを追い払うと信じていた。 でも、彼らが誰をメシアと認定したのか、書物を読んでもわからない。 最初に一人のメシアが道を開き、もう一人のメシアが王国を作ると信じていた。 一人のメシアがもし洗礼者ヨハネなら、レンズ豆と引き換えに長子権を打った人の子孫が、エルサレム神殿を占拠し、自分の血を祭司や議員たちに入れて、牛耳っていたヘロデ王に殺されました。 そして、もうひとりのメシアがイエスなら、ゲルマン人に殺されました。 さて、、、どうしたものでしょうね。 クムラン宗団は、年代を読みよみあやまったとして、再度ヨベル書で年代測定をしなおしたらしいです。 このように何かが既にあったので、生まれていくわけです。 思想にしろ主義にしろ、それが新しいとされても、実はいろいろな影響を受けているのであって、独自に出現したのではない。 それぞれの世紀末の神話がヴェーダ思想であったとしても、ヴェーダも恐らく何かの思想の影響を受けて宇宙論を展開したのだと思います。 ユダヤ教は宗教は12支族がリーダーとなることはできない。 祭司はレビ人じゃないとなれなかった。 それは神が契約との契約内容だったから。 ところがダビデだったか忘れましたが、12支族の中から大祭司を任命したことがあったようなんですね。 最初はレビ人が、この民族を率いて統率していたが、現実宗教だけでは、攻めてくる諸外国の軍勢を蹴散らせなかったので、政治的リーダーの素質があるダビデの出現が庶民達に歓迎されたわけです。 それで今までレビ人が統率していた民族は、レビ人をないがしろにしだし、神に従わず人に従うようになった。 そしてダビデと同じような人の再来を望んだ。 それはエッサイの息子のダビデのような人。 ダビデはペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを倒しましたが、でっかい人形をペリシテ人は作ったのでしょうか。 尚、ペリシテ人もダビデも祖先は一緒なんですね。 ヘロデ大王の祖先とイスラエル人の祖先が双子の兄弟だったように、血は同じなんですね。 さて、、、カインとアベルは兄弟でたが、カインは兄弟であるアベルを殺しました。 世紀末になると親戚・仲間など関係なく共食いをするようになるとされる。 神の1日は1000年ね・・・・ ずっと先ってことになりますね。 今生きている人はとっくに死んでいるはるか未来に起こるとしても、我々はそれが真実だったのか嘘だったのか、確認することはできません。 今、それを確認するには、タイムトラベルするしかないですよ。 バーバーさん。

noname#80116
質問者

お礼

(↑) 一般に 旧約聖書の時代は モーセの時代であり その律法の時代であると思われていますが かれの前に はっきりと アブラハムの信仰が出現しています。律法は その信仰と生活態度の内容が 言葉にして表現されたに過ぎません。新約として イエスまたパウロでは このアブラハムの伝統が あらためて 生きたというに過ぎないわけです。  キリスト・イエスとその信仰にとって 《王国》など どうでもよいのだと考えます。もしくは それは 比喩であって 神がこの世に イエスを通じて 介入して 律法とそれによる共同自治(もっと あからさまに言えば それは 《死》の共同自治です)のあり方を あらためてひっくり返したことだと捉えられます。 ★ 神の1日は1000年ね・・・・ / ずっと先ってことになりますね。/ 今、それを確認するには、タイムトラベルするしかないですよ。 ☆ という問題じゃあない。いま現在において 神の介入についての思想が どういうかたちである〔と認識している〕か これを問うています。

noname#80116
質問者

補足

 《バーバーさん。》と呼び掛けられても よく分かりませんが ご投稿をありがとうございます。  そうですね。一番の問題は 神と人間との関係を どのように捉えているかにかかわっているでしょう。言いかえると 神によるこの世界への介入が どうであると見ているのか。  字数制限がありますので 手短かに述べてまいります。  介入が 人間の内面という領域にとどまると見るのか。それとも 自然の事象や社会の現象にまで 直接のつながりをもって現われると見るのか。比喩でなく 国の王としてのメシアなる存在 もしくは 王国という社会の形態や情況 あるいは 千年という時間現象などなど 経験事実にまで 神が介入するという見解に立つか。そうではなく 一人ひとり《わたし・その主観・つまり信仰》にとどまるとするのかです。  たとえば 直接介入説にたてば 《イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イスラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延期されたのです》という解釈が出てきます。あるいはつまり 《彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する》とあれば その《千年》とは いつからいつまでか また その千年を測る物指しはどうであるか等々という議論が出てくることでしょう。  つまり こう述べてきて すでに 反対説を明らかにしようと わたしは していますが それは たとえば 《文字は殺し 霊は生かす》という命題に基づいています。この場合の《文字》は 神の介入が その文字どおりに 経験現象となって起こるという解釈のことです。反批判がありましたら のべてください。  ただ いまは 《サムエル記・下 7:4-17》の預言と エレミヤ書の《新しい契約》との関係が わたしには よく飲み込めないという情況です。ご存じの方がいらっしゃれば おしえてください。    ***  さて あとは 千年王国などの思想の背景説明に 言葉を費やしておられます。せっかくですから――その応答を期待しないで―― わたしからも まともに お応えいたしましょう。箇条書きになります。 (1) このQ&Aにおいては そして人はそういう質疑以外の場所においても 絶対の真理が何かを知ることは 無理なのですから 一人ひとりの主観真実を述べ合い 互いに研鑚し合います。 (2) 経験科学であっても この主観真実の照らし合わせに基づき 定説を推し出していきます。また 定説を書き替えます。 (3) 宗教ないし社会慣習としてのキリスト教については いざ知らず 個人の内面のキリスト信仰にとっては こういう前提があります。それは 《世界の現象のすべてが 神からの手紙である》です。 (4) つまり 思想にせよ技術にせよ 第一の発明者や発見者について そのこと自体を 貴びこそすれ 問題は 中身ですから その後先はどうでもよい。 (5) ダイムラーかフォードか知りませんが 最初の発明は もうどうでもよい。現在 中身のよいクルマを作ることが 問題です。その限り トヨタも 自己主張をしてよい。 (6) 三位一体と三相一体については すでに議論を終えています。 《Q:〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html 》を参照。その ANo.11あたりから 《三相一体》が出てきます。 (7) 《この世の終末・世紀末・最後の審判など》という思想について ただ漠然と取り上げても おもしろくありません。いまは 千年王国しかも サムエル記・下の預言との関連で どう扱うかです。また 前半に書いたように 神の介入のあり方とも関係します。 (8) 具体的に ★ ・・・天体観測の技術が各文明に影響をもたらし、それぞれの地域に世紀末の神話を作り出したんじゃないか。 ☆ 前半は分かりますが 後半は なぜ どのように そのような推論になるのかが分かりません。《天体観測→文明 そして 文明→世紀末の神話》の後半です。 ★ でも古代のカリ・ユガをイエスだとして、イエスが最後の審判のために破壊をもたらすためにやってくると言っていたが、千年たってもやってこない。 ☆ 《千年たっても》というのは どの時点からですか。イエスの出現の時からですか。そうすると イエスの出現というのは 何であるということになりますか。どういう内容の神の介入だったのかです。 ★ このように何かが既にあったので、生まれていくわけです。 思想にしろ主義にしろ、それが新しいとされても、実はいろいろな影響を受けているのであって、独自に出現したのではない。 ☆ これは 何も知識がないので 問うわけですが たとえばアブラハムへの神の介入事件は すでに同じような歴史があったのでしょうか。(↓)

関連するQ&A

  • 聖書で成就と書かれている旧約の箇所を教えてください

    以下の5か所がどこに書いてあるのかわかりません 旧約のどこに書いてあるのか教えてくださいお願いします。 ヨハネ 8 「16 ですが,もしわたしが裁くとすれば,わたしの裁きは真実です。わたしは独りではなく,わたしを遣わした父が共におられるからです。 17 また,あなた方自身の律法の中に,『二人の証しは真実である』と書いてあります。 18 わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」。」 で律法の中で二人の証しは真実であると書いてあるのはどこですか? ヨハネ 18 「6 しかしながら,「わたしが[その者]です」と[イエス]が言われた時,彼らは後ずさりして地面に倒れた。 7 それゆえ,[イエス]は彼らに再びお尋ねになった,「あなた方はだれを捜しているのですか」。彼らは,「ナザレ人のイエスを」と言った。 8 イエスは答えられた,「わたしが[その者]ですと告げたではありませんか。それゆえ,あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」。 9 これは,「わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでした」と言われた言葉が成就するためであった。」 わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでしたと書かれているのはどこですか? ヨハネ 18 「31 そこでピラトは彼らに言った,「あなた方が自分で彼を連れて行き,自分たちの律法にしたがって裁くがよい」。ユダヤ人たちは彼に言った,「わたしたちが人を殺すことは許されていません」。 32 これは,イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するためであった。」 イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が書いてあるのはどこですか? ヨハネ17 「11 「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。 12 わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。」 これが書いてあるのはどの聖句ですか? マタイ 27 「9 この時,預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。こう言われていた。「そして彼らは,値をつけられた人,つまりイスラエルの子らのある者たちが値を定めた者の代価である銀三十枚を取り, 10 エホバがわたしに命令されたところに従い,陶器師の畑のためにそれを与えた」。」 これはエレミヤのどこに書いてありますか?

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 原罪は死語だと思いますが なぜ無くならないのか

     原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており それは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう?

  • 西洋史について

    「古代ヘブライ人(ヘブル人、イスラエル人)の王国について、その成立、分裂、滅亡を概観せよ。」という問題なんですが、これに関する資料、答えなど、知っておられる方は教えてください。小さな事でも構いません。お願いします。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう

     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

    パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。