なぜ原罪は無くならないのか

このQ&Aのポイント
  • 原罪がなお存在する理由を考えます。
  • 文献によれば、罪が忘れられることや神を知らないことが記されています。
  • 神は新しい契約を提案し、最初の契約が古びてしまったと宣言しました。
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原罪は死語だと思いますが なぜ無くならないのか

 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており それは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう?

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回答No.4

こんにちは。 ☆原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ◇  1 キリスト教は、基本的に《主⇔従》、《A⇔S》の論理だから  2 《原罪》が《防悪》に役立つから  3 悪は、善より、具体的に、実感しやすいから などなど。 《原罪思想》は、 支配者側にとって、  社会統治に、身分の固定化 などに使える、 これらを正当化できる、 非常に便利なツール。 ローマ・カトリックという超巨大組織とその歴史を見れば、 このことがわかりますでしょう。 ローマ教会は、神の代理人とされている。 このローマ教会なる組織に結びつかなければ、  《救い》はない。  《罪》が消えることはない。 原罪は脅しに使える・・・。 地上支配の原理になる!! コンスタンティヌス帝による《ニカイア公会議》!! ローマ帝国の統治のために、 キリスト教は利用された。 ローマ帝国にとって都合の悪い《聖書》は、 異端として排除された。 福音書は、現在の四つ以外にも多数存在していた。 この時に、 ローマ帝国の支配にとって、障害となりそうなものは、この時に排除された、とか・・・。 このことによって、 聖職者側は、ローマ帝国から、キリスト教を国家公認の宗教の一つとして認めてもらった。 ローマ帝国内での信教の自由が保証された。 (この時に、ローマ帝国という悪魔に、キリスト教の聖職者たちは、魂を売っちゃったかもしれない・・・ ボソボソ・・・) ☆☆☆☆☆☆ ユダヤ教には、《原罪》なる思想はない。 もし《原罪》のようなものがあるとすれば、 それは、ユダヤ人限定。 ───超正統ユダヤ教とされるものは、 イスラエルという国家を認めていない。 ユダヤ人は、いまだ《罪の状態》にあり、 YHWから国家を持つことを許されていない、 と、 彼らは主張する。 彼らにとって、 イスラエル建国は、 まさしく、 神をも恐れぬ天魔・悪魔の所行!! イスラエルで、 《良心の自由》が兵役拒否の理由であげられているのは、 このため。─── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%B4%BE_%28%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99%29 神さまは、 人間を善き物として造っていますんでね~。 しかも、 アダムとエヴァは、禁断の果実を食べるという行為の罰として、 死せる者、出産の苦痛etc.という処分を受けている。 《原罪》なんて、あり得ない。 しかも、 ユダヤ教は、人が死んだらどうなる、というようなことを言わない宗教、オシエ。 ユダヤ教の聖書に、 『ダニエル書』は入っていない!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8 確か、 イスラームにも、《原罪》という考え方はなかったはずです。 誰だったかな~、 とある学者先生は、 「イスラームのオシエは《性弱説》」 とおっしゃっていました。 人間は弱い存在だから、罪をおかしてしまう。 だから、 その罪滅ぼしとして、みずからが犯した悪という負債返済として、 ヒトは善行をしなければならない。 ☆☆☆☆☆☆ 《原罪》、 要らないじゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 1 キリスト教は、基本的に《主⇔従》、《A⇔S》の論理だから  ☆ この問題について 次のように考えます。  すなわちわたしの筆のチカラは及びませんので 例によってアウグスティヌスです。  ▼ (アウグスティヌス:自由意志と恩恵) ~~~~~~~~~~  それでは〔* 神と人とが絶対的な主と従との関係にあるとすれば〕 〔* 自然本性としてそなわった 人間の〕自由意志をわたしたちは 恩恵(* すなわち神の意志 もしくは 自然本性のナゾの霊なるチカラ)により無効にしているのか。断じてそうではない。かえって わたしたちは自由意志を立てるのである。   * 言わば悪夢を正夢にしないようにと考えるその自由意志を立てると言い   ます。  なぜなら 律法(* すなわち 経験行為の法則のごとき倫理規範)が 信仰(* すなわち ナゾ〔にもとづく経験判断〕)により無効にされず かえって立てられるように(ローマ人への手紙3:31) 自由意志も恩恵により同様にされているからである。   * 自由意志は 神の恩恵に勝てなかったのですが その恩恵によって    自由意志は かえって建てられると言います。  実際 律法は自由な意志決定によるのでないなら 実現されないのである。   * つまりは 信仰をとおして 神の恩恵が 愛として はたらき わ    れわれの意志による自由な選択によっておこなう行為を 成就させ    る。律法の内容を成就させる。     そのとき 一人ひとり《わたし》の自由意志によるおこないが     関与しているし 関与していないものは 恩恵とも成就とも言わない    と考えられるでしょうか。     と言っても この問い求めている生活内容としての勝利が いま    は保留されていると思われます。     成就と 簡単に言えるものでもないはずです。つまり 神の信仰    のもとに持つ生活態度にかんする有効が この現実においては 無力    であり わたしたちは 弱い。     しかも この弱いときに 信仰としてのナゾを持っているから そ    の有効に意志するところが ただちに実現して 社会的に有力となら    ないとしても 自由意志は かえってまったき自由として 立てられ    ている。と考えられるかも知れません。     つまり いまだ有効が社会力学じょうのチカラを持たない段階でも    もし仮りにチカラを持って実現したとする段階においても けっきょ    く同じように すでに その可能性の幅いっぱいに わたしたちの自    由意志は 伸びて行ってよいと考えられます。  (アウグスティヌス:〈恩恵は自由意志を確立する〉=《霊と文字》§30 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つづけて アウグスティヌスの議論によれば 《恩恵により自由意志が確立されていく》過程が いくつかの段階として 考えられると言います。  これは 護教論のごとくであり またけっきょく古臭い内容であるのですが 上記の引用のままでは中途半端かと思われます。かえってがっかりさせる内容ですが 引いておきます。  ▼ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし そこ(* 恩恵により自由意志が確立されていく過程)には次の中間段階がある。つまり  1.律法により罪の認識(ローマ3:20)が〔* 現われる第一段階〕  2.信仰により罪に対抗する恩恵の獲得が〔* 現われる第二段階〕  3.恩恵(* ナゾだから 《ただ(只・無償)》だということ)により   罪の悪徳からの魂の治癒が〔* 現われる第三段階〕   (* これによって 人びとは 世間とまた自分自身と和解できる。)  4.魂の健康により意志決定の自由が〔* 現われる第四段階〕  5.自由な意志決定により義に対する愛が〔* 現われる第五段階 その   あと〕  6.最後に 義に対する愛により律法の活動(* つまりはむしろ自由意   志の望んだところ)が 成就されるのである。  あたかも鎖の環のように互いに連結させてわたしが述べたこれらの〔* 中間段階の進展にかんする〕真理はすべて 聖書のなかにその表現が見いだされる。すなわち   1.律法は言う。《むさぼるな》(出エジプト記 20:17)と。  2.信仰は言う 《わたしの魂をいやしてください。わたしはあなた   にむかって罪を犯しました》(詩篇41:4)と。  3.恩恵は言う 《見よ あなたはいやされた。もう罪を犯してはな   らない。あなたにもっと悪いことが起こるかもしれないから》(ヨ   ハネ5:14)と。  4.健康になった魂は言う 《わが神 主よ。わたしがあなたにむか   って助けを叫び求めると あなたはわたしをいやしてくださいまし   た》(詩篇30:3)と。  5.自由意志は言う 《わたしは喜んであなたにいけにえをささげま   す》(詩篇54:6)と。  6.義に対する愛は言う 《不義な者らは喜びについてわたしに語り   ました。しかし 主よ かれらはあなたの律法にしたがいません》   (詩篇119:85)と。   (アウグスティヌス:承前)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ひとは神に対して《主( A )-従( S )》連関の関係において確かに基本的にあって しかも現在過程として 《わが心なる霊なるナゾ(非思考の庭)の有効が無力のままで社会的に勝利すること》だと捉えます。  すなわち この《わたし》の現在時に わたしの考えですが 信仰ですから 終わりの《6》から始めるということをつけ添えさせてください。即身成仏ないし即得往生ですから。すなわち たぶん 予感において勝利している。《 A - S 》連関が 《 S 》を基礎として主体として建てられた瞬間でしょうか。  むろん うたがいを差し挟まれたと思われるごとく この経験世界においては まぼろしです。  しかも まぼろしだと平気で言っていられるのは 《 A - S 》連関が 《 S 》を主役として建てられたと予感しているからだと思います。  クリスチアニズム一般が この《 S (人間スサノヲ)》を主体として神との関係が建てられたことを見ないし言わないとすれば それは 人間には不治の病としてのような原罪が横たわっていると言っていることになります。これは マチガイだとうったえます。  アウグスティヌスは けっこう権威をいまも保ちつづけていると思いますので クリスチアニズムの人たちは これについてご見解をのべていただきたい。こう考えます。  いったん打ち切って あとは 補足欄に移ります。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  ◇ 2 《原罪》が《防悪》に役立つから  ☆ そうですね。  原罪がないと――罪の文化圏においては―― 《人類のはじめの罪》をけっきょく探し求めるようなことをするのでしょうか。  探し出して 《最初の罪》としてかかげたとすると それが《あやまつは人のつね ゆるすは神》といったコトワザと同じようにはたらいて 気が楽になるのでしょうか。  ◇ 3 悪は、善より、具体的に、実感しやすいから  ☆ 無明≒煩悩を説いておけば 実感しやすく オシエにさそわれる。ですかね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ローマ帝国にとって都合の悪い《聖書》は、  異端として排除された。  福音書は、現在の四つ以外にも多数存在していた。  この時に、  ローマ帝国の支配にとって、障害となりそうなものは、この時に排除された、とか・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうだとして ただし《異端》の聖書は たしかにおかしい内容だと思ったことがありました。昔むかしで もうその中身をおぼえていないので 困りますが。  あぁ ええ。トマスの福音にしても 水準が違うと思いました。そういう側面があるのではないかとも思います。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  このローマ教会なる組織に結びつかなければ、   《救い》はない。   《罪》が消えることはない。  原罪は脅しに使える・・・。  地上支配の原理になる!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことが くどいようですが 《無明≒煩悩》にどのくらいあてはまるか。この主題も おもしろいと考えます。  ◇ ユダヤ教には、《原罪》なる思想はない。  ☆ ですから 原罪ないし最初の罪を探し求めて それをかかげたとしても 相対的なものだと――つまり 無明も克服できるのだと――言っていれば それほど問題にはならなかったのだと思われます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  神さまは、  人間を善き物として造っていますんでね~。  しかも、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いちばんかんたんな解釈は 《善と悪を知る木から採って食べてはならない》というのは けっきょく人間の自然本性にそなわったヤマシサ反応のことではないかというものです。  その自然本性も その中軸である自由意志が 自由意志なる心そのものにすらさからって作用するという自由の負の側面を持つということ。これが いわゆる原罪の実質的な中身であると考えます。  ◇ 確か、 / イスラームにも、《原罪》という考え方はなかったはずです。  ☆ イスラームを論じるまでには まだたぶん長い距離がわたしにはあります。それほど〔理論として〕重要視していないという一面もあるのですが。  ◇ 超正統ユダヤ教  ☆ については 別のご回答のほうで考えます。

その他の回答 (8)

回答No.10

キリスト教的な表現が『原罪』ですが、仏教的な表現をするなら『業』と思いますが、無い人には無いのかも知れませんが、在る人には確かに在ると思います。 是は人間の意識性の軋みの事です、無意識的に出来ていた事が『意識した途端に出来難くなる場合の事です。』この軋みが無い場合を健常者と言っています。 前にも書いた事があるかも知れませんが、人間は『意識する自分』と『意識していない自分=無意識の自分』が交替制をキープする事で正常の毎日を送る事が出来ています。 この交替制に『疑いを差し挟む場合に』脳の機能も身体の機能も健常者と同じでありながら『障害を抱え込んでしまった』と言う症状を抱え込む場合があります。 この場合の症状の始めは『違和感』です、『普通ではない感じ』ですが、健常者と言う人達には想像出来ない感覚です。得体の知れない底知れない恐怖感も伴っています、底知れない人間の恐怖感を覗き込んでいるような感覚です。 主に死を見つめたり、死が身近に迫った場合に感じる事が出来ると思います、早い話が『死に対する恐怖感』と言ったら分り易いかも知れません。この恐怖感が原罪や業を煮詰めて凝縮させた感覚と思います。 この空恐ろしい感覚を『掬い取る事が宗教の目的』=『魂の救い』と言う意味です。 この恐怖感を違う形で味わう事が『罪の意識』と思います。身近な例を挙げるなら『心を病む場合です。』絶えず心に圧迫感を感じていて、沸きあがる得体の知れない不安感に怯えている事です。 或いは自分の行動の自由が制限されてしまって、家から出られなくなったり、人に会う事さえ出来なくなる場合です。自分の手足や口や歩く事さえ『自分の自由にならなくなる場合です。』症状と言う書き方をするなら『神経症の症状です。』吃音やしょけいや対人恐怖症や不安障害や高所恐怖症や閉所恐怖症など、症状を上げたなら、数え切れないほどの数在ります、何故なら人間が意識する事が全て症状名になる可能性を秘めているからです。 或いは『身体の生命維持機能』に対して違和感を抱く場合も在りますが、主に自律神経失調症や過敏性腸症候群や難治性の心身症といわれているもの等です。 今書いた三つの障害は、現代の精神医学では原因を特定出来ていないようです。従ってどうすると症状が軽くなるのかや、どうしたら症状が重くなるのかさえ未だ解明出来ていない段階ともいえます。 この場合では脳の機能も身体の機能も健常者と違うところが在りません、唯一つだけ違うところがあります、それは本人による『執拗な訴えです。』この訴えが症状に当たります。言葉を変えて言うなら『自分が感じている違和感と言う事を意味します。』 この違和感には3種類在ります、先に書いた事に重なります。一つは沸きあがる考えや感覚や感情に違和感を抱く場合ですが、こう言った事柄『心』に違和感を抱く場合に『心を病む』と表現しています。 自分自身の行動に違和感を抱く場合に『神経症』と表現します。自分の行動性を疑うために『自分の行動が自由にならなくなる場合です。』 自分自身の身体の生命維持機能に違和感を抱く場合に、その違和感を抱いているところが機能していないと、錯覚をしています。 この三つは現われる場所や現われ方が夫々違うように見えていますが、原因は一つだけです。自分の心に或いは自分自身の『生命維持機能』に違和感を抱いて、自分自身に疑いを掛けている事を意味します。 つまり心の矛盾が症状として現われている事を意味します。 自我意識の機能は『物事を割り切って考えて言葉で表現する機能』から成り立っています。 ところが人間にはもう一つ心があります、その人格の仕事=機能は『生命維持機能』がその全てです。その機能とは『学ぶ以前に既に備わっている事は明らかです。』 その明らかな機能とは、又三つに大別出来ます。 赤ん坊が何も学ぶ以前から『身体に対しての生命維持機能』を働かせています、この機能を働かせている人格が『命そのものの働き』と言う事になります。bragelonne さんは生まれてから心臓の動かし方も呼吸の仕方も学んで、出来たのでしょうか?ホルモンの分泌の仕方も発汗作用も学ぶ事があったのでしょうか? おそらく誰も学ぶ事が無かった筈です、学ぶ事無しで出来た理由は生命維持機能を働かせている人格が脳何存在しているからだと思います。 今書いた事と同じ事が『違う分野にも在ります。』行動の自在性を通しての生命の維持機能です。 もう一つの分野が『心に感情や考え』を沸き上がらせる者としての、生命維持機能です。 こう言った元々人間に備わっていた機能に『疑いを持つ時』聖書は『失楽園』と表現していると思います。 今の日本でも世界でも、沢山の人達が『心を病む』『神経症の症状に苦しむ』『自律神経失調症などの症状に苦しんでいます。』 この現象は自分自身の『生命維持機能』=『神や仏』と仲違いしている事を意味すると感じています。 つまり心の矛盾の解消によって完治するという意味があります。それが仏教に於いては『見性』聖書に於いては『神との和解』です。表現こそ違うとしても内容は同じです。 『意識の根底での出会い』=『脳梁の中での出会い』と言う意味になるからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが その理論は病んでいると考えます。  すでに二十回くらいは 説明したと考えます。  病むために・もしくは病みつづけるために むしろさとりを利用している。  こういう受け取りです。

回答No.9

原罪など存在しない。 なぜなら神が存在しないから。 キリスト教の教義で語られる原罪とは人間と神という2つの存在あってのもの。 つまり、神の存在が示されなければ真の原罪もまた存在しない。 そして、原罪という単語は人間が人間のために創造した言い訳のための単語に過ぎない。 人間は善悪併せ持つ存在なのに、それを善だけの存在として定義するための言い訳の種こそが原罪という単語の始まり。 しかし、長い歴史の中でもう一つ重要な役割を与えられています。 善悪とは個人で異なる上、社会的な要因にも影響され、移ろいやすいもの。 (例えば、食うに困って銀行強盗を働くのは社会的には悪だが、強盗にとっては「生き抜くため」という正義に則った善なる行い。例えば、人を殺せば犯罪(悪)だが、戦争で虐殺の限りを尽くせば英雄になれる(善)。) それを宗教的に都合の良いように定義し裁くために、多くの宗教では善悪が規定されていると言っても過言ではありません。 原罪とは今やその一部。宗教と原罪は一体のもの。 なお、原罪という単語は現在もしばしば使用されているため、死語ではありませんね。 原罪が死語になる時は原罪の概念を唱えていた宗教が全て滅ぶ時しかないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 なんちゃっていさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪など存在しない。  なぜなら神が存在しないから。  キリスト教の教義で語られる原罪とは人間と神という2つの存在あってのもの。  つまり、神の存在が示されなければ真の原罪もまた存在しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういった方面(または切り口)からのご回答でしたら いまひとつ別の質問:    【Q:原罪は 悪魔とともに 方便。無い。屁の河童。】   http://okwave.jp/qa/q8342800.html  のほうに投稿されるとよかったと思いますが それはそれ この質問にてご返答してまいります。  (別問は 質問のかたちをしていないとして いちど消えたのですが 復活しました。そのとき この質問を挙げたことから ふたつ並んでいます)。  さて 《神》がない場合にも 《原罪》に相当するものはあると考えています。  ひとつには ブディズムにおける《無明≒煩悩》です。これは ブッダであるなら 克服することが出来るけれども ふつう一般の人びとには 出来ないと言われています。その意味で 原罪とあたかも双璧を成す厄介ものであると考えます。  ひとつには 神を持たない場合にも もし《度し難いヤカラ》がいるという通念があるなら けっきょく同じことだと考えられます。  そしてさらには  ★ 神が存在しない  ☆ という・人間の言葉による表現(つまり 命題)は 何を意味するか?  つまり 神は 早い話が 《非経験の場》のことです。そういう想定です。  非経験の場なら そこは この経験世界における因果関係を超えています。あるいは 同じく有る無いといった規定をも超えています。  因果関係から自由な存在(または 非存在)について それが 有ると言っても また無いと言っても けっきょくは 同じことです。有る神と無い神という表現のチガイはあっても 神であることに変わりはありません。《有る無いから自由である非存在》は それを有ると言うのも 無いというのも 人間の勝手自由となっています。  無いぢゃないかと いくらけなされても 神は 痛くも痒くもありません。それが 神です。  ですから つまり 《無い神》から 《善と悪を知る木から採って食べてはいけない》と言われたなら そしてその禁止を破ったなら いちおう原罪が成ったということになります。そういう問題であり しかもそれでもそんな原罪などは 方便ではあっても 実際にあるわけではない。というのが ここでの問いです。  ★ 人間は善悪併せ持つ存在なのに、それを善だけの存在として定義するための言い訳の種こそが原罪という単語の始まり。  ☆ このご見解については わるいですが 原罪論者の側からの反論をかかげます。  すなわち 一般にふつうに《善なる存在》としてつくられたが その人間には・またその善には 自由意志がそなわっていて 善についてもこの自由において 善じたいにさからう自由度もあるとされている。ゆえに   ★ 善悪合わせ持つ存在  ☆ というよりは 基本的に善でありつつ その善はあくまで相対的なものであるに過ぎないので その善じしんを破るようなしわざに出ることさえ 人間には ある。こうなるようです。  その結果としてなら 善悪合わせ持つ存在だという言い方にもなります。  さらに 質問の側からのあらかじめ持った前提にしたがって ご回答内容について反応してまいりますが:  ★ 善悪とは個人で異なる上、社会的な要因にも影響され、移ろいやすいもの。  ☆ これについても 善悪観が 個人のものであり あくまで主観的なものである。という人間の成り立ちとしての条件において それでも たとえばその個人にあっても  ☆☆ ヤマシサ反応が起きる。つまり 胸がさわぎ心はゆらぎ 顔は赤らみ舌はしどろもどろになってもつれる。良心もいたむ。  ☆ という事態になる。のだと考えます。    このヤマシサ反応は あんがい個人個人で――違い得るのですが 子どものときからの自然本性のあり方としては――共通のものがあるとも考えられます。それは けっきょく狭い範囲での共通性ですが 生命とその維持であるとか 生活の持続と平安であるとかだと見ます。  つまり 生命とその維持は 善であり これを破るのは 負の善(つまり 悪)である。生活を乱すものは 善にさからう負の善である。という主観の共同性をも持つと考えています。    言いかえると   ★ 社会的な要因にも影響され、移ろいやすいもの  ☆ としての善ないし悪は 一般にその時代や社会によって異なるナラワシの問題だと考えられます。つまり 確かにナラワシとしてそれぞれ違いがあり得る。こうだと見ます。それについては いま――原罪をあつかうかぎりでは―― 別として措いておきます。  ただし せっかくですから 触れても見ます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (例えば、食うに困って銀行強盗を働くのは社会的には悪だが、強盗にとっては「生き抜くため」という正義に則った善なる行い。例えば、人を殺せば犯罪(悪)だが、戦争で虐殺の限りを尽くせば英雄になれる(善)。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《持ち物》というのは まれに家の単位ででもありますが 一般に個人の単位で確定されます。それ(持ち物)は 生命の維持ないし生活の保障にとって もし奪われたなら マイナスとなります。つまり 負の善(=悪)です。  むろん ひとごろしも いかなる場合にも マイナスです。  言いかえると すでに共同主観として 盗みも人殺しも 負の善(悪)として捉えられているのに それでもその善を自由意志は破ることがある。こういう問題です。食うためににしろ国家としての安全のためににしろ 悪と分かっていて おこなう行為です。  それでけっきょく そのように一般的な善にさからいこれを傷つける悪なる行為は どうして 起こるのか?   質問者は すでに述べたように 善は相対的なものでしかないから それをみづから傷つけることに向かう意志の――変な――自由もあるからだと言っていますが 原罪論者は まさしく原罪があるからだと言ってやみません。    これが ここでの主題であり論点です。  すなわち 自由意志の存在と《生命ないし生活としての善》が 人間のものとしては 相対的な・うつろいゆくものでしかないということ これらを言えば 善の損傷へと向かう人間の指向性についても説明は出来る。と考えますから わざわざ原罪を持ち出すことはない。つまり 実質的に言って 原罪は 死語である。  こう問うています。    

回答No.8

人間には『我』と『命そのものの働き』と『漠然とした不安』がいまだにあるからだと思います。心の矛盾が解消されていないからと思います。 涅槃や神との和解で『原罪』=『心の矛盾』は解消されます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 涅槃や神との和解で『原罪』=『心の矛盾』は解消されます。  ☆ ですから すでに原罪は無いと言っているのが ふつうのことではないですか。

  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.7

こんにちは~ それってなんなの?と位知識が無いのに参入~♪ 原罪・・・元々の罪? 罪の源?  言葉としてインパクト強いのね~。 誰だってどこかに罪があると思っちゃうんじゃない?善悪の考えの循環で自分にとって悪と思えるものには罪があるのね~ で、そう思っちゃうなら”原罪”は使い勝手がいい言葉なのね~ 拡大解釈して一々規定するのにも、相手が悪いと言うのにも、支配するにも、相手を貶めるのにもね~ 手放しがたいのね~ ツールにしちゃってるのね~ 文章読んでちょっと思ったのは、全世界の全員が教えられんでも主を知ってる状態になってないので、まだ赦されてないんとちゃうの? 一神教で、私たちの宗教に入信しなさい!!と言うにはとってもいい言葉♪なのね~ もっともっと大きく大きく~ か~み~は~とっっっっても偉大ですべての人を愛してるから、その時代や環境に合わせて人に物事を教えてるんですよ~~~! と思うとね、宗教の垣根は無くなって ”ただ、神と言う存在を感じる” そんだけになって、もうとっくの昔に原罪なんて無くなってんじゃなかろか?と思うんだけどね~ 考え方の違いなのね!! 原罪は生きてる人には生きてるし、無くなってる人には無くなってるのね! でも生きてる人にはこの言葉は有効なのね~ だから、今も原罪を背負って生きてる人々がいて、死語になって無いのね~

bragelonne
質問者

お礼

 ふうかこうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 文章読んでちょっと思ったのは、全世界の全員が教えられんでも主を知ってる状態になってないので、まだ赦されてないんとちゃうの?  ☆ おそらく この文章の前段のご感想とともに そういう事情なのでしょう。  ですが それゆえにも 理論は理論としてあるわけなのだと思います。聖書の文章をそのままぜんぶ事実であり真実だと言う人びともいるくらいですから 聖句を見て見ぬふりをすることは 通らないでしょうね。  つまりは 理論上は   ★ 世界の全員が教えられんでも主を知ってる状態になって  ☆ いるということだと考えます。(一部には この《あたらしい契約》は イエス・キリストの登場で成就されたのではないという向きもありますが これも 少数です。少数者にそれとして また 対応するとしまして いまは別とします)。  つまり《理論》としては きわめて単純な話なのだと思います。ローマ教会からどこから誰から 見て見ぬふりをしている。こういうことだと考えられます。  ★ 一神教で、私たちの宗教に入信しなさい!!と言うにはとってもいい言葉♪なのね~  ☆ であるとしても 理論としてはゆるされない。こういうことになっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もっともっと大きく大きく~ か~み~は~とっっっっても偉大ですべての人を愛してるから、その時代や環境に合わせて人に物事を教えてるんですよ~~~! と思うとね、宗教の垣根は無くなって ”ただ、神と言う存在を感じる” そんだけになって、もうとっくの昔に原罪なんて無くなってんじゃなかろか?と思うんだけどね~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういうことですよ。  ★ 考え方の違いなのね!!  ☆ ではなくて。  ★ 原罪は生きてる人には生きてるし、無くなってる人には無くなってるのね!  ☆ いえ。キリスト・イエスが人類史に登場したと見るひとにとっては 《無くなっている》です。それしかありません。そうでなければ その人の見解は 矛盾しているということになります。はっきりしています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  でも生きてる人にはこの言葉は有効なのね~  だから、今も原罪を背負って生きてる人々がいて、死語になって無いのね~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という場合は それを無理に捉えるなら キリスト・イエスの指し示す神と信仰とは別に・まったく別に この《原罪》という言葉のみをパクって おのれらのオシエとしている。こういうことになるはずです。  その点をしっかりと明らかにしておくことが まづ第一の問題であると考えられます。  ちなみに 無明だとか煩悩だとか言われる場合と いくらか似ているとお思いになりませんか? こちらもウソだというのが――ブッダター(仏性)がひとの心にやどるという場合であり―― 哲学の立ち場として打ち出されねばならないと考えます。  (煩悩がおおきく打ち出される場合というのは ゴータマという人間だけが 世界で独り さとりを得たというオシエのもとに説かれる場合です。この種のインチキについて 明らかにしていく作業と務めとが 哲学にはあると考えます)。

回答No.6

あっ、 《ダニエル書》、諸書に入っていた{ポリポリ)。 わたしの勘違い、記憶違いでした。 「わたしの旧約聖書は、サドカイ派のものなので」と誤魔化す(苦笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ユダヤイズムについても かんたんに触れて しゃれたことの二つや三つを言うというほどには 成っていません。  あしからず。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  次のカッコ書きのごとくのことでした。あらためて あしからず。  ☆☆ (お礼欄) ユダヤイズムについても かんたんに触れて しゃれたことの二つや三つを言うというほどには〔わたしはまだ〕 成っていません。

回答No.5

付け足し。 ユダヤ教の超正統派中の超正統派、 ナートーレ・カルターについては、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC で。 イスラエルの人々は、 現在、 ○△◇ーや▲□●の真似事をして、 人種隔離的なことをやってますね~。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ (ヰキぺ:ナートーレー=カルター) ~~~~~~~~~~~  § 1 思想   ・・・  如何なるかたちでの強制力によるイスラエル再建も神の意志に反する(バビロニアタルムード、tractate Ketuboth 111)、という少数派の観点を持つ。  ・・・  彼らは、真のイスラエルはメシアの到来と共に再建される、と信じている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じっさい知りませんでした。そして このメシア待望という思想の中身に注目しました。  ほかには 過激派と見なされているとかありますが それがどのくらいなのかはよく分かりませんでした。  あらためて  ▼ ユダヤ人は離散が終わるまで神の意志を待たねばならない、人がそれを試みるのは罪深い、と教える。  ☆ といったことも メシア待望論と重なっているように思いました。  イスラエルの現状についても触れられていますが それをも合わせて これについては しゃれた反応も出て来ずじまいになります。

  • ducakoro
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回答No.2

思考経路が逆だろ どうみても世の中にカスがいる だれかのせいにはしたくないしめんどくさい ゆえに原罪という名称で説明する

bragelonne
質問者

お礼

 どぅかころさん ご回答をありがとうございます。  そうしますと  ○ 原罪  ☆ というのは 差し詰め《度し難い凡夫のうちのさらに救いがたいカス》という意味で使われているということでしょうか。  つまり そのような使い方をされるのは けっきょくクリスチアニズムのオシエにおけるこの原罪という概念があったからこそだということになりませんか?  そういう意味合いで ご返答をしました。  すなわち 当座の場面場面で  ★ 思考経路が逆だろ  ☆ と言えると同時に その歴史的な背景はとおく広く クリスチアニズムの神学に発している。そして これは 要らないものを いまだに持って説き続けている一面がある。それは 時代錯誤ではないかと問うています。

  • ducakoro
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回答No.1

カスみたいないな人間がいるから

bragelonne
質問者

お礼

 どぅかころさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なぜ その  ★ カスみたいな人間  ☆ がいるかと言えば そもそも人間には《原罪》があったから。――こういうご見解ですか?  でしたら 《カスみたい》でない人間も すでに現われて来ている。ということですね?  つまり いまカスみたいな状態でいる人も いづれ可能性としては 一人前の立派なひとに成りうる。こういうことですよね?  でも すでにカスみたいな人間ではなくなって りっぱな人間になっている人も まだ原罪のことがいちいち言われていたときの時代と社会の中から出て来たのですよね?  だったら じっさいには《人間には原罪がある》という命題は あって無きがごとしなのではないでしょうか?  わざわざさも重大なことであるかのように《研究》する必要などはさらさらない。ということになりませんか? いや 研究はしてもよいでしょうが それは もう必要はないということの証明のためにということがおもな理由ではないでしょうか。  それは(原罪という観念は) 既存の組織宗教を延命させるためにだけ流通している。こういうことではないのでしょうか?  

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。

  • 水による洗礼は 要らないのではないか

      1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?