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旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

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回答No.1

>本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? ハイそうです。 3大悪宗教にも入れません。くれぐれもうぬぼれないように・・・・・ 大体牧師もいないようなキリスト教は世間から認められるハズがありません。 聖書の最後にキリストは杭につけられました。 正しくは十字架です。 ものみの塔はキリスト教を名乗っていますが教義が全然違います。 俗に言われる異端です。

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    聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が出てきますが、私はイエスキリストが、十字架で死に、復活することにより、律法の要求を完全に満たしたので、律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。  ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。その方が十字架についてくださったから十字架に意味があるのだと言われちょっと混乱してしまいました。  キリストは神ですから、律法を完全に守ることはできた方ではあったと思いますが、そういう方法を通して、律法を成就したとなると、キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、その方の意見にははなはだ疑問なのです。  「キリストが律法を成就した」ということは、どうやって成就したのか教えてください。私は普通のプロテスタントのクリスチャンです。よろしくお願いします。

  • 聖書の使徒10:10~28質問があります。

    全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなんですか? 使徒 10 「10 しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり, 11 天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。 12 そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。 13 そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。 15 すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。 16 こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。 17 さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。 (略) 28 こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。 パウロが空腹の時に起こった出来事で、神が清めた地のあらゆる生き物を食べるようにと主の幻が三度起こったと書いてありますが、ペテロは食べませんと答えていますがなぜ、ペテロは食べないんですか? 神が清めたものと書いてありますが、全ての食物が清いとされたのは、このイエスが死んだ後の出来事の前のイエスが生きていた時の言葉で、 マルコ 7 「18 それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。 19 それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。 20 さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。 21 内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。」 ここで、すべての食物は腸から下水に流れるが、害になる推論は人から出る、だから食物は清いとイエスが言っています。確かにここでイエスはすべての食物を清いとされたと書いてありますが、 使徒10では、ペテロは汚れているものは食べないと言っています。 そのあとペテロは自分が見た幻は何を意味するのだろうかと内心ひどく思い惑い、幻について思い巡らした後、「神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。」と言っていますが、マルコですべての食物が清いとイエスが言ったことはすべての人は清いという意味なのであればマルコの福音書は間違っているということですか? それともこの事自体が、ペテロから害になる推論が出ている証明になっているんでしょうか? マルコの福音書が間違っているのであれば、旧約聖書で禁止されている食物はペテロの言葉にならって食べないことが正しいことになるのですが、すべての食べ物が清められたのであれば、ペテロから既に害になる推論が出始めている証拠になるんですが、どっちなんでしょうか? しかし、パウロは食物のことで、 コリント第一 8 「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです。」 ここでもまだ、食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか? また、ここでパウロは真理を悟ったのだとしたら、 ヨハネ16 「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 で、真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?しかし次を読むと、 ガラテア2 「14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」。」 で、ケファ(ヨハネ1:42ペテロはケファ「岩」と呼ばれるでしょうにより)が真理にしたがって歩いていないのをパウロは見たとありますがいつ真理の全体に案内されたんですか? 真理の全体に案内されたのがいつかによって、 ヨハネ16 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 で、使徒が自分の家に散らされてイエスを独りだけにする時がいつまでなのかを解く大事なところだと思うのですが、 もし十二使徒から枝別れしてしているが、キリストの根から吸っている者達だとしたら。正確に伝えられなくても兄弟だとしたら、イエスの新しい掟である、兄弟が互いに愛し合うことが守れなくないですか?誰かが一番正しいんでしょうか?それとも全員間違っているから神のみが高められて聖書が完成されるんでしょうか? ローマ10 「15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」 ここで、良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろうと書いてありますが、 使徒はなぜ足を洗ってもらう必要があったんですか?もし、害になる推論が出て来ることが足を洗ってもらう意味だったとすると、足を洗ってもらえさえすれば使徒は全身清いものであるとイエスが言っているのにすべての食物が清いのかすべての人が清いのかにこだわる意味はあるんでしょうか? そう考えると、(神を見るとイエスに見える者、イエスを見ると神に見える者)=神とイエスは同じ者に見える事の何が滅ぼされる要因になるのか、どうしてもエホバの証人のこの部分が理解できません。 (正確な知識で無ければ滅ぼされる、自分達は正確である)つまり自分達以外は滅ぼされるという教えがどうしても納得できません。パウロに沿うなら三位一体でカトリックがつまずくなら私も神とイエスは同じ者であると言うほうが愛が優先されていると思うのですが、本当にどこかの人間の山の一つが高められるんでしょうか? 啓示2 「2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。 3 またあなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。 4 とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。 5 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めなければ[そのようにする]。」 で、あなたは使徒であると言いはするがそうでない者を見出すが、あなたは愛を離れたとあります。 イエス以外、人間は誰も神の家に立てなかったことが証明されて神の山(天は玉座、地は足台、神に人間の建てた家に住めというのかという聖句がまだ未解決)のみが高められ栄光を帰す日が来るんでしょうか?人間の中から王を立てることも間違っていて、もう正確なことを知るにはイエスに来てくれという以外にどうしようもないと思うのですが、どこかの人間の山だけは正確に伝えているんでしょうか?足を洗ってもらう以外全身清い者が、害になる推論が出ている者であるがキリストに属している者の場合、この者達に敵意を示しているエホバの証人が滅ぼされることになるんですが、イザヤ48によると、 全地に散らされたイスラエルを島々から再び集めると書かれている部分で、イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちだが、わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだと書いてありますが、まずここでどっちが真実によらず義によらず語り告げていいるかではなく、最たる例としてでも神の名の為に助けられる者がいるということで、この者達は真実を語り告げていないが助けると神が言っているのにどうやって、何を根拠にキリストに永遠の命を求めて信仰を働かせている者を裁けるのかということです。敵対している者同士おのおの自分は当てはまっていないと考えるでしょうが、この聖句に当てはまっているものも神は助けると書いてあるのは間違いないと思います。神が助ける事に決めた者に敵意を示せるだけの理由は何なんでしょうか? まず、全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなのかからですが、いつ使徒達は真理の全体に連れて行かれたのかを教えてください。

  • ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

    パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。

  • エホバの証人に聖書をもらったので読んでいるのですが、

    エホバの証人に聖書をもらったので読んでいるのですが、 わからない所を聞きたいのに聞くことはできないと言われ、家にも来なくなってしまい聞く人がいないので 質問させてください。 インターネットで調べていると、エホバという名付けに根拠は無く、嘘を教えていると書いてあるのを何回か見つけました。 これってイザヤの48章でエホバの証人が最たる例として買い戻されたもっとも小さきものであり、これを受け入れなければ天の王国に入らないとマタイ18章でイエスが言っていることを自ら証明していることになってしまうと思うんですが、イザヤ48章はどういう意味なんでしょうか

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

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