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聖書で成就と書かれている旧約の箇所を教えてください

以下の5か所がどこに書いてあるのかわかりません 旧約のどこに書いてあるのか教えてくださいお願いします。 ヨハネ 8 「16 ですが,もしわたしが裁くとすれば,わたしの裁きは真実です。わたしは独りではなく,わたしを遣わした父が共におられるからです。 17 また,あなた方自身の律法の中に,『二人の証しは真実である』と書いてあります。 18 わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」。」 で律法の中で二人の証しは真実であると書いてあるのはどこですか? ヨハネ 18 「6 しかしながら,「わたしが[その者]です」と[イエス]が言われた時,彼らは後ずさりして地面に倒れた。 7 それゆえ,[イエス]は彼らに再びお尋ねになった,「あなた方はだれを捜しているのですか」。彼らは,「ナザレ人のイエスを」と言った。 8 イエスは答えられた,「わたしが[その者]ですと告げたではありませんか。それゆえ,あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」。 9 これは,「わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでした」と言われた言葉が成就するためであった。」 わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでしたと書かれているのはどこですか? ヨハネ 18 「31 そこでピラトは彼らに言った,「あなた方が自分で彼を連れて行き,自分たちの律法にしたがって裁くがよい」。ユダヤ人たちは彼に言った,「わたしたちが人を殺すことは許されていません」。 32 これは,イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するためであった。」 イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が書いてあるのはどこですか? ヨハネ17 「11 「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。 12 わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。」 これが書いてあるのはどの聖句ですか? マタイ 27 「9 この時,預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。こう言われていた。「そして彼らは,値をつけられた人,つまりイスラエルの子らのある者たちが値を定めた者の代価である銀三十枚を取り, 10 エホバがわたしに命令されたところに従い,陶器師の畑のためにそれを与えた」。」 これはエレミヤのどこに書いてありますか?

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  • s0i
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回答No.5

こちらの質問も誠実なもののようで、回答を試みたいとおもいます。 (1) 申命記17:6 二人の証人または三人の証人の口によって、その死ぬべき者は死に処せられるべきである。一人の証人の口によって死に処せられることはない。 申命記19:15 「人の犯すどんな罪の場合であれ、何かのとがまた罪に関しただ一人の証人が立ってこれを責めるべきではない。二人の証人の口または三人の証人の口によってその件は定められるべきである。 (2)ヨハネ6:39 「わたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず、終わりの日にそれを復活させること、これがわたしを遣わした方のご意志なのです。というのは、子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。 これはイエス自身が前もって言われた事柄なので、旧約(創世記からマラキ)からの引用ではありません。 (3) マタイ20:17-19 さて、エルサレムに上ろうとするにあたり、イエスは十二弟子だけを連れて行き、その途中で彼らにこう言われた。「ご覧なさい、わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は祭司長や書士たちのもとに引き渡され、彼らはこれを死罪に定め、ついで、これを愚弄し、むち打ち、かつ杭につけるために諸国民の者たちに引き渡すでしょう。そして、三日目に彼はよみがえらされます」。 (4) 使徒1:15-20でペテロが説明しています(11人になったために1人を追加するときに)。  さて、そうした日のこと、ペテロは兄弟たちの真ん中に立って,こう言った(その群れの人々は全部で百二十名ほどであった)。「皆さん、兄弟たち、聖句の成就することが必要でした。それは、聖霊がダビデの口によりユダについてあらかじめ語ったものですが、この人はイエスを捕縛した者たちの手引きとなりました。彼はわたしたちのひとりに数えられて、この奉仕の務めに参与したのです。(それで、実にこの人は、不義に対する報酬で畑を買い取ったが、まっさかさまに落ちて、その身は真ん中から音を立てて張り裂け、その腸はみな注ぎ出されたのである。そのことはまたエルサレムの全住民に知られるようになり、結果としてその畑は彼らの言語でアケルダマ、すなわち“血の畑”と呼ばれた。)詩編の書の中に、『彼の宿る所は荒廃するように。その中には住む者がいなくなるように』、また、『その監督の職はほかの者が取るように』と書いてあるのです。 ちなみにダビデの述べた預言とは、詩編41:9、詩編109:8です。ご覧になってみてください。 (5) すこし単純ではないのですが、マタイ27:9に登場する「エレミヤ」は シナイ写本、アレクサンドリア写本、バチカン写本1209、シリア語フィロクセヌス・ヘラクレア訳欄外では「ザカリヤ」と訳していて、 シリア語ペシタ訳とシリア語シナイ写本では「エレミヤ」という語を省いて訳しているようです。 そして、ゼカリヤ11:12、13にはその「預言」が書かれています。 その時わたしは彼らに言った、「それがあなた方の目に良いとされるなら、わたしの賃金をわたしに下さい。そうでないなら、やめてください」。そこで彼らは、わたしの賃金として銀三十枚を支払った。 するとエホバはわたしにこう言われた。「それを宝物庫に投げ入れよ―彼らの見地でわたしが値積もりされたその立派な価を」。そこでわたしはその銀三十枚を取って、エホバの家の宝物庫に投げ込んだ。 ご存知のとおり、ユダ・イスカリオテが報酬として受け取った銀30枚は結果としてユダヤ人たちにより、神殿の宝物庫に投げ入れられましたから、それも預言されていたことがわかります。さらに、イエスの死は、贖いとして神に捧げられたものですので(アブラハムとイサクはこの点で予型となっている)、エホバの神殿の宝物庫に「立派な値」として投げ込まれる、というのは意味深いことです。 以上、エホバの証人の資料から調べてみました(勉強になりました(笑))。 調べようとおもえば、その物理的あるいは知的余裕があれば深く掘り下げて調べることができます。

  • puregrape
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回答No.4

旧約は創世記からヨハネ福音19:30の十字架事件までです。そしてヨハネ福音19:30から新約が始まります。予言は、早いのはすぐ(マタイ14:72)、遅いのは何千年もかかります(創世記3:15がヨハネ福音19:30で成就)。                                                  「1」ヨハネ福音8:17は申命記19:15                                                              「2」(私が彼らと一緒にいた時は御父の御名によって彼らを守りました。御父が私に下さった彼らを私が守り、滅亡の子の他には彼らの中の誰も失って無かったのです。これで聖経が成し遂げられるようにしました。ヨハネ福音17:12)はヨハネ福音18:8,9で成し遂げられます。滅亡の子であるユダは詩編1:19でイエスキリストを裏切ると予言されています。飼い馬が飼い主を裏切る時には後ろの足を上げて飼い主を蹴ります。ユダはイエスキリストに踵をあげて裏切りました。)。                                               「3」(モーセが青銅で蛇を作って細長い棒の上につけると、蛇が人を噛んでも、彼がその青銅の蛇を見ると生きた。民数気1:9)。悪魔として喩えられる蛇(serpent)はあらゆる罪を犯します。彼は罪の塊です。罪が支払う代価は死です(それは罪が支払う報酬は死であり、神様の賜物はイエスキリスト私達の主による永遠な命だからです。ローマ書6:23)。罪の塊である蛇が長い棒につけられています。その蛇にはイスラエルの人々が犯した罪々も含まれてあります。このようにイエスキリストは私達の罪の身代わりとして十字架につけられました。罪一つ無いイエスキリストが世の中の全ての罪を背負い、罪の塊である蛇の状態になられ処刑されました(ヨハネ3:14)。このようにイエスキリストが私の罪の故に処刑されたので私が罪について支払う代価の死は無くなったと信じ切る人を、罪が無いからイエスキリストが復活されたように私も復活すると信じ切る人をキリスト人だと言います。私達の周りには偽りのキリスト人が数え切れないぐらいいます。ヨハネ18:32はマタイ20:18,19の成し遂げです。                                                                                          「4」聖経にはイエスキリストが言われた全てのことが書かれてあるのではなく、極一部だけです。書かれたと言われたら必ず書かれてあります。しかし、言われたと言うならば書かれてない場合もあります。エレミヤ18章には陶器師の話があるし、イエスキリストの時代にイスラエルの人々はエレミヤが言ったことを知っていたはずです。マタイ27:9はエレミヤが記したと書かれてあるのではなく、言ったと書かれてあります。

sonarfisx
質問者

補足

なぜユダが滅びの子になるのかがよくわからないのですが、 アブラハムに対する命令で息子イサクを殺すことに、神の命令だからという理由以外にあるんですか?なぜ律法と預言者の言葉の通りに裏切りを演じていた場合それが滅びの子に繋がるんですか? まず、 テサロニケ第二 2 「3 だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,それは来ないからです。 4 彼は,すべて「神」と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します。」 滅びの子は、つまり不法の人であると書かれています。 滅びの子はすべて「神」と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示す者であると書かれています。これがユダである根拠はなんですか? また、 テサロニケ第二 2 「8 まさにその時になると,不法の者が表わし示されますが,主イエスはその者を,ご自分の口の霊によって除き去り,その臨在の顕現によってこれを無に至らせるのです。」 とありますが、これを読むと、不法の者つまり滅びの子が表わし示されるのはその時とあり、その時とはいつなのかはまず置いておくとして、この者を除きさり無に至らせるのはイエスの口の霊によってであると書かれています。 これがどういうことなのかを調べると、 ヨハネ 12 「47 しかし,わたしのことばを聞いてそれを守らない人がいても,わたしはその人を裁きません。わたしが来たのは,世を裁くためではなく,世を救うためだからです。 48 わたしを無視し,わたしのことばを受け入れない人には,その人を裁く者がいます。わたしの話した言葉が,終わりの日にその人を裁くのです。」 で、イエスを無視し、イエスの言葉を受け入れない人が裁かれるのではなく、その人を裁く者がイエスの話した言葉で、終わりの日に裁かれるとあります。 マタイ 7 「1 「自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。 2 あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。」 と念をおしていますが、問題は裁かれるのはイエスの命令を守らない人を裁いている人で、その時は終わりの日であると書かれています。つまり、イエスの口の霊、イエスの言葉の中に何かが隠されていて終わりの日まで意味がわかっていない事があるはずなんですが、ここからは質問とは全く関係ないので、話を戻すと、ユダがこの不法の人、つまり滅びの子である根拠はどこからきたんですか? どこかの組織の教えが正しいと主張しあっている現状で聖句をあてはめるだけではまったく解決できません。聖句の解釈を出して、その解釈を証明する聖句をください。不法な者がユダでなかった場合、パウロの言葉により、滅びの子もユダではなくなり、蛇もユダではなくなってしまうような次元での聖句の引用だとどの組織が一番正しいのかの見分けがつきません。 信じなければ救われないで突然突き放し、必ず最後にお前はサタンだから助からない、これを信じなければ聖書を読んでも分からないと言われて終わるんですが、 全ての組織が同じように聖句を使っているので引用されただけではわからないというこっちの立場を少しは考えても見てください。私が考えて話しているわけではなく他の聖句にそう書いてあるから聞いているだけだということをまず理解してください、ユダが、終わりの日に裁かれ、神の神殿に座し、自分を神として公に示した者であるという理由を教えてください。改めて再度ユダが裁かれるということなのですか?教えてくださいお願いします。

  • HisanaEXE
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回答No.3

第四のものについて、解釈は割れると思いますが、彼らとは弟子(もっと言えば十二弟子?)の事ではないでしょうか。 後になって裏切るユダの他は、十一人全員が生き残りキリスト教を伝える中心となっています。 これは20節にある「彼らのことばによって私を信じる人々のためにもお願いします。」とも合うような気がしています。 また第二のものも同じことを言っているのではないかと考えます。 ただこれは、まったくもって私個人の見解です。 第五のものは、ゼカリヤ11章12~13節であると思いますが、エレミヤの18章~19章にも陶器師の話は出てきます。何かしらの関連があるかと思います。

sonarfisx
質問者

補足

私も5番目は、他の成就と書かれている部分を見つけた時のようなこれだというの見つからないので、エレミヤになければ、ゼカリヤの部分じゃないかと思うんですが、これを読むと、 ゼカリヤ 11 「13 するとエホバはわたしにこう言われた。「それを宝物庫に投げ入れよ―彼らの見地でわたしが値積もりされたその立派な価を」。そこでわたしはその銀三十枚を取って,エホバの家の宝物庫に投げ込んだ。 14 それからわたしは自分の二番目の杖である“結合”のほうを幾つにも断ち切った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を断つためであった。」 銀三十枚を宝物庫に投げ込んだ後に、ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を断つと書いてあり、銀三十枚をイスカリオテの子ユダが投げ込んだと新約に書かれていて、他の使徒との関係が分かれているのも事実だと思うんです。それで、使徒はお互い兄弟じゃないと思うんですが、ここでは兄弟と書かれている部分なんですが、 啓示 21 「12 それには大きくて高大な城壁があり,また十二の門があった。そして,門のところには十二人のみ使いがおり,イスラエルの子らの十二の部族の名が書き込まれていた。 13 東に三つの門,北に三つの門,南に三つの門,西に三つの門があった。 14 その都市の城壁にはまた十二の土台石があり,それには子羊の十二使徒の十二の名があった。」 これを読むと、十二部族と十二使徒は関係していると思うんです。 それだけならいいんですが、ゼカリヤ11の次に、 ゼカリヤ 12 7 「そしてエホバは必ず,ユダの天幕をまず第一に救う。ダビデの家の美しさ,またエルサレムに住む者の美しさがユダに対して大きくなりすぎることのないためである。 このユダとイスラエルとの兄弟関係が断たれた後、最初に神が助けるのはユダであると、書いてあるのが気になるんです。この預言が成就と新約に書いてあり、銀三十枚に関して成就していて、さらに兄弟関係が回復していないなら次に成就するのは他の兄弟と兄弟関係が分かれた一人であるユダに関してだと思うのですが。思うというか、それじゃ嫌だからとか、旧約が間違っている証拠がない限り最初に助かるのはこの一人であるとしか読めないんですが、内容が内容だけにまず最後まで疑問を聞いてくれる人がいなくて困ってます。自分達の組織が正しいというのであれば、聖句で一か所でも不明な箇所があってはいけないはずです、その不明な箇所がわかった時に全て覆る可能性だってあるわけですから、答えられない所はないと思うんです、なので質問を聞きさえすれば答えてもらえると思ったのが間違いで、この質問、どうしてそう思うのか最後まで聞いてもらえません。聞く方も苦しいでしょうが、言う方も苦しいです、気を抜くと別にそれぞれの組織の解釈で幸せなら成就しなくてもいいんじゃないかとかとか思ってしまいます。ユダは最初に助かると書いてありますが、最初とあるのでそのあとイスラエルの兄弟も恥が地に落ちた後助かるはずです。創世記でも、11人がヨセフが死んだと騙した後最初に飢饉で神が助けたのはヨセフですがそのあと11人全員助かってます。これがなければ苦しくて質問もできなかったと思います。エレミヤにその言葉がないならゼカリヤで、ゼカリヤなら最初に助かるのはユダなんですがゼカリヤのことで本当にいいんでしょうか?

  • HisanaEXE
  • ベストアンサー率40% (21/52)
回答No.2

第三番目について 新改訳聖書では、32節は「ご自分がどのような死に方をなさるのかを示して話されたイエスの言葉が成就するためであった」とあります。 どちらの表現がより書き手にふさわしいかの議論は難しいですが、この解釈をしたときにはマルコ10章33節が参考になると思います。「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。」死刑にしつつ、自分たちの手では死刑を行わないということではないでしょうか?

  • HisanaEXE
  • ベストアンサー率40% (21/52)
回答No.1

申命記の19章15節にはふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない、とあります。

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    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • 聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が

    聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が出てきますが、私はイエスキリストが、十字架で死に、復活することにより、律法の要求を完全に満たしたので、律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。  ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。その方が十字架についてくださったから十字架に意味があるのだと言われちょっと混乱してしまいました。  キリストは神ですから、律法を完全に守ることはできた方ではあったと思いますが、そういう方法を通して、律法を成就したとなると、キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、その方の意見にははなはだ疑問なのです。  「キリストが律法を成就した」ということは、どうやって成就したのか教えてください。私は普通のプロテスタントのクリスチャンです。よろしくお願いします。

  • 聖書の杯について

    ヨハネ書第18章11節に「父が私に下さった杯をどうして飲まずにいられましょう」というイエスの言葉がありますが、どういう意味なのか教えてください。

  • ヨハネによる福音書第一章における神の子となる権とは

    ヨハネによる福音書第一章 太初にことばありき。ことばは神と偕にありき。ことばは神なりき。 萬の物このことばに由りて成り、成りたる物一つとして之に由らざるはなし。 このことばに命がありき。 そしてこの命は人の光はなりき。 光は暗黒に照るも、暗黒は之を悟らざりき。 神より遣されたる人,出たり。その名,ヨハネといふ。 ヨハネは證のために來れり。光に就きて證をなし、凡ての人,彼によりて信ぜんが爲なり。 彼は光にあらず,光に就きて證せん爲に來れるなり。 諸々の人を照らす眞の光,世に来たり。 光は世にあり,世は光に由りて成りたるに,世は光を覚らざりき。 光は己の國に来たりしに,己の民は之を受けざりき。 されど之を受けし者,即ちその名を信ぜし者には神の子となる權を与えたり。 かかる人は血脈によらず,肉の欲によらず,人の欲によらず,ただ神によりて生れしなり。 ことばは肉體となりて我らの中に宿りたまへり。 [質問ーお願い] 上記ヨハネの福音書第一章の、 『されど之を受けし者,即ちその名を信ぜし者には神の子となる權を与えたり。』の中の【神の子となる権】という事についてご理解されていることをご披歴していただけないでしょうか?

  • この世界は わたしたちのものではないのか

     ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~~~~~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた    しを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし    て愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。《イエスに属する者は この世に寄留して 人生をおくり まっとうする》という意味合いになると考えるのですが 果たして それで よいでしょうか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~~~~~~~~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。でしたら この世界は 《わたしたちのところ》なのではないでしょうか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか? どうかおしえてください。

  • この世界は われわれのものではないのか?

     ▲ (ヨハネ福音書 15:18-19 )~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、     あなたがたを憎む前に     わたしを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、     世はあなたがたを身内として愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。  《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》といった意味合いになると考えるのですが 果たして それでよいか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書 1:10-11 ) ~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。  そして、世は彼によってできたのであるが、  世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、  自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。  でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?  おしえてください。どう考えればよいか。  何だか 遠慮しているという感じがあります。遠慮は 必要ないのではないか? です。

  • 新約聖書にある預言者とは

    新約聖書 福音書について質問します。 新約聖書を読むと、随所に預言者の言葉が成就したとの記述があります。 たとえば、マタイによる福音書によると、 主が預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためにおこったのである。 “見よ、乙女が身重になって男の子を産み、人はその子をインマヌエルと呼ぶであろう。” ・・・・・・・・・・・・・ 預言者エレミヤをもって言われた言葉が成就したのである。 “声がきこえた、-ラケルのはげしいわめきとなげきの声である。・・・・・” ・・・・・・・・・・・・・・ “彼はナザレ人と言われる。”と預言者たちをもって言われた言葉が成就するためであった。 ・・・・・・・・・・・・ “悔い改めよ、天の国は近づいた。”この人は、預言者イザヤによってこう言われた人である。 “荒野に叫ぶ者の声はひびく、主の道を用意し、その道をまっすぐにせよ。” ・・・・・・・・・・・・ このように、預言者の言葉が成就したと書かれていますが、その預言者の言葉はどのような本に載っているのですか。教えてください。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

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