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旧約聖書の律法は破棄されたんですか?

なぜ誰も教えてくれないんですか。 裁いている者が終わりの日に裁かれ、不法な者が表し示されるのは終わりの日であると書いてあるにもかかわらず、他の群れが間違っていると、永遠をかけて言い切っている以上絶対な証拠が必要なはずです。間違っていたら裁かれるわけですから、真理のことごとくを悟っており、絶対的な証拠と覚悟が出来ているはずです。 どの教理について行けばいいのか、荒廃をもたらす嫌悪すべき者が立ってはならない所に立っているのは誰なのかを死ぬ前に判断しなければなりません。聖句だけを使ってその句を証明する句を教えてください。 マタイ 5 「17 「わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。 18 あなた方に真実に言いますが,律法から最も小さな文字一つまたは文字の一画が消え去って,[記された]すべてのことが起きないよりは,むしろ天地の消え去るほうが先なのです。 19 それゆえ,だれであれ,これら一番小さなおきての一つを破り,また人にそのように教える者は,天の王国に関連して『一番小さい者』と呼ばれるでしょう。だれでもそれを行ない,またそれを教える者,その者は天の王国に関連して『大いなる者』と呼ばれるでしょう。」 ここで、「律法を破棄しに来たと考えてはなりません」と、「一番小さなおきて一つを破りそれを教える者は一番小さい者と呼ばれる」は「それゆえ」でつながっているので、律法が破棄されたと教える者も天の王国には関連しているのはここでは置いておくとして、破棄されていないのは間違いないですよね? さらにイエスは、 マルコ 7 「8 あなた方は神のおきてを捨て置いて,人間の伝統を堅く守っているのです」。 9 [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。 10 たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。 11 ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います― 12 あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。 13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。」 ここで、いろいろと理由をつけても結局神のおきて、つまりモーセの律法を巧妙にも押しのけて神の言葉を無にしていると書いてあるので、上の句とあわせても律法を破棄したとはイエスは言っておらず、律法が破棄されたと広まることを予測してなのか、律法を破棄しにきたと考えてはならないと念をおしています。 さらに、イエスはおきてを守り行いなさいと言っていて、律法をいくつか例に挙げて言っています。 マタイ 19 「17 [イエス]は彼に言われた,「なぜあなたは善いことについてわたしに尋ねるのですか。善い方はお一人だけなのです。しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」。 18 彼は言った,「どの[おきて]ですか」。イエスは言われた,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない, 19 [あなたの]父と母を敬いなさい,そして,隣人を自分自身のように愛さねばならない」。」 同じ場面のマルコだとおきての「隣人を自分自身のように愛さねばならない」の部分が「など」になっているので律法の例を挙げているだけだということはわかります。 マルコ 10 「17 [イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。 18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。 19 あなたはおきてを知っています。すなわち,『殺人をしてはいけない,姦淫を犯してはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,だまし取ってはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』などです」。」 この時点であなたが知っているおきてとあるので、モーセの律法のことなのは間違いありません。 さらに次の句はかなり絶対的な言葉で、 マタイ 22 「36 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。 37 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。 38 これが最大で第一のおきてです。 39 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。 40 律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。」 律法全体は隣人を自分自身のように愛するを意味しているとまで書いてあるので、律法を破れば隣人を自分自身を愛すことはできないことになります。これだけでは足りないと続けて書かれていますが、律法が破棄されていないのは間違いないと思います。 イエスが徹底的に律法を守ることを教えているのはイエスだけではなく、当然神も、 イザヤ 48 「18 ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。 19 そして,あなたの子孫は砂のように,あなたの内なる所から出る末孫は[砂]粒のようになるであろうに。人の名がわたしの前から断ち滅ぼされることも,滅ぼし尽くされることもないであろうに」。」 と、ヤコブの家を再び島々から集め、全地に告げ知らせよと書かれている(イエスより後の預言)このイザヤ48の中でも、律法を守れば平安は川のようになると言っており、ダビデも人の務めは律法を守ることが「すべて」であると言っています。 伝導の書 12 「13 すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。[まことの]神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の[務めの]すべてだからである。」 さらに、イエスは一度も律法を破ることを教えていない証拠に 使途 10 「14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。」 ペテロはここで、全ての食べ物が清いという意味が全ての人が清いであれ、全ての食べ物がきよいのであれ、イエスは一度も律法を破ることを教えていないのでモーセの律法で禁じられている食べ物は食べないといっているのは間違いありません。 この幻以降、全ての食物が清められたと悟ったならここではじめてモーセの律法中、食べ物に関しては清められたので守らなくてもいいことになります。しかし全ての食べ物が清められたのが、全ての人が清いという意味なのであればモーセの律法で禁じられている食べ物は禁じられたままだということです。 ペテロはいまだかつて食べておらず、今後も食べないと言っているわけですから間違いないと思います。 旧約聖書の律法は本当に破棄されたんですか?

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noname#259625
noname#259625
回答No.4

   「旧約聖書の律法は本当に破棄されたんですか? 」とのご質問でした。その点についてローマ人への手紙3章をご覧ください。特に19から22節にはこうあります。    「さて,わたしたちは,律法の述べる事柄はみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するようになるためです。したがって,律法の業によって肉なる者が神のみ前で義と宣せられることはありません。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。」    モーセの律法は神の完全な基準を示したおきての書でした。しかし、ユダヤ人はそれを完全に守り行なうことができませんでした。それで、その罪のための犠牲を常時捧げなければなりませんでした。ユダヤ人は神の友アブラハムの子孫の中でも選ばれた部族であり、最も神のおきてを守り得る人々とみなすことができたでしょう。要するに、ユダヤ人は全人類の中から抽出されたのであり、その彼らでさえもモーセの律法を守り行なえなかったということは、不完全なアダムの子孫である罪人はだれも律法を守り行なうことができないということを証明するに足るものとなったのです。ですから、不完全な私たちがモーセの律法を守り行なうことによって神のみ前で義と宣せられることはあり得ないのです。    一方、完全な神の子であったイエスはモーセの律法を完全に守り行なうことができました。そのような意味でイエスは「律法を成就しました」。(マタイ5:17) それにより、モーセの律法は完全な人間にとって到達可能な基準であるという点が明らかになったのです。では、罪人であるアダムの子孫はそのような完全な基準に達することができるようになるのでしょうか。その点についてエフェソス4:11-13にはこうあります。    「そして彼は,ある者を使徒,ある者を預言者,ある者を福音宣明者,ある者を牧者また教える者として与えました。それは,奉仕の業のため,またキリストの体を築き上げるために聖なる者たちをさらに調整することを目的としてであり,ついにわたしたちは皆,信仰と神の子についての正確な知識との一致に達し,十分に成長した大人,キリストの満ち満ちたさまに属する丈の高さに達するのです。」    要するに、クリスチャン会衆はクリスチャンが「キリストの丈の高さ」にまで成長する目的のために設立されたということです。ですから、最終的に不完全なアダムの子孫も完全な神の子の基準にまで達するよう再教育が施されているわけです。ただしそのためには、「古い人格を新しい人格に」置き換えなくてはなりません。(エフェソス4:22-24)    このように、モーセの律法という神の完全な基準は今のところ達成できないことが明らかになったために、もはやそれを完全に守り行なうことによって義なる立場を得ようとすることは全く無意味なこととなりました。しかし、その基準に達することが可能であることはキリストによって証明されたのであり、またその神の子の完全な基準に達するよう神とキリストが私たちに再教育を施してくださることも発表されました。上で挙げたローマ3:22の「キリストに対する信仰」とはそのようにして私たちが最終的に神の子の完全な基準に達することが「できる」ということを信じることであり、それは今まで挙げたような根拠に基づいています。それで、今はまだ不完全で罪を犯す者であっても、そのような「キリストに対する信仰」を抱き、キリストの弟子として神の道を日々歩んで新しい人格を培っていくなら、その人の(不完全な)行為ではなく、その「信仰」が神のみ前で義となるようになりました。    また、モーセの律法を行なう者たちは「割礼」を重視していましたが、もはや割礼を行なう必要がないということを使徒パウロはローマ人への手紙の4章で力説しています。是非その部分を読んでみてください。私は「なるほど!」とうなってしまいました。実際、もはやクリスチャンが割礼を施さないということ自体、モーセの律法はすでに破棄された(守り行なうものではなくなったという意味で)ということを明らかにしているでしょう。(使徒15章のエルサレムにおける会議で正式に決定されたことが示されています。) このクリスチャンがモーセの律法をどうみなすかについては、使徒パウロが詳しく論じています。ローマからヘブライにかけてご精読ください。そうすれば、聖書そのものから直接答えを得ることができるでしょう。

  • ttt1214
  • ベストアンサー率20% (65/323)
回答No.3

キリストは律法は世が終わる日まで続くとも言っています。 律法は律法だけ守れば良いと言うのではありません。 律法だけ守れば良いと言うのは人間の自我であり、そういう気持ちが律法の形骸化や単なる一儀式をすれば許されるという事をイエスキリストは批判したのです。 本来、律法は人間が罪を犯した場合、神(主)から許してもらう事で、人間勝手な儀式だけでの許しではないという事です。 モーセの律法は神(主)が人間の性を理解して作られた物で、本来の神(主)の律法よりもだいぶ甘くできている。 イエスは本来の神(主)の律法を伝えたのです。 マルコ伝にも記載してあります。 しかしながらイエスキリストは何故現れたのか、人々に聖霊と火によってバプテスマする為です 聖霊の愛を受け、人間の魂を復活をさせる為にキリストは現れたのです。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.2

聖書そのものが、大元であるはずのユダヤの書を各国の言葉に換えているもので、現在残っているものが真の原書であるというものは少ないそうです。 それがキリスト教になると更に都合のいいように変えられていますから、果たして真実の書が何を言っていたかを知る事は非常に難しいでしょう。 聖書研究かは皆この事を頭の隅に置きながら研究しています、原理主義者を除いて。 まして今の日本語はもちろん、フランス語や英語がマシだなんて考える事は愚かしいことです。 こういうのを論語読みの論語知らずとでも言うのでしょうか? 従って聖書の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、常にその意図を探る必要があります。 研究者は複数の訳本を比較し、その中から真実を見出そうとしています。 とはいえ、歴史は繰り返すといいます。 つまり、聖書の契約を破棄したのではなく、自分の都合に合わせて解釈しているから歴史が戻っているのです。 但し、そこには若干の違いが発生すると思います。 即ちこのステージでは多分キリストは現われないし、現われても人類全部を救おうなどと考えないだろうということです。つまりみんながどうしているかではなく自分がどうなんだという事です。 結局聖書などを基盤とした宗教では博愛精神ではなく個人救済をしか目指せないということです。

回答No.1

日本語版なんて意訳だよ。 聖書を語りたいなら原書を研究しなよ。 訳書で研究している学者なんてwwwwwwwwwwww 歴史的に古い訳書であってもそれは訳書の研究であって、原書の研究じゃないねw 宗教学やりたいなら原書でどうぞ。 少なくても英語版だな。

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    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • 聖書の使徒10:10~28質問があります。

    全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなんですか? 使徒 10 「10 しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり, 11 天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。 12 そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。 13 そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。 15 すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。 16 こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。 17 さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。 (略) 28 こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。 パウロが空腹の時に起こった出来事で、神が清めた地のあらゆる生き物を食べるようにと主の幻が三度起こったと書いてありますが、ペテロは食べませんと答えていますがなぜ、ペテロは食べないんですか? 神が清めたものと書いてありますが、全ての食物が清いとされたのは、このイエスが死んだ後の出来事の前のイエスが生きていた時の言葉で、 マルコ 7 「18 それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。 19 それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。 20 さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。 21 内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。」 ここで、すべての食物は腸から下水に流れるが、害になる推論は人から出る、だから食物は清いとイエスが言っています。確かにここでイエスはすべての食物を清いとされたと書いてありますが、 使徒10では、ペテロは汚れているものは食べないと言っています。 そのあとペテロは自分が見た幻は何を意味するのだろうかと内心ひどく思い惑い、幻について思い巡らした後、「神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。」と言っていますが、マルコですべての食物が清いとイエスが言ったことはすべての人は清いという意味なのであればマルコの福音書は間違っているということですか? それともこの事自体が、ペテロから害になる推論が出ている証明になっているんでしょうか? マルコの福音書が間違っているのであれば、旧約聖書で禁止されている食物はペテロの言葉にならって食べないことが正しいことになるのですが、すべての食べ物が清められたのであれば、ペテロから既に害になる推論が出始めている証拠になるんですが、どっちなんでしょうか? しかし、パウロは食物のことで、 コリント第一 8 「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです。」 ここでもまだ、食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか? また、ここでパウロは真理を悟ったのだとしたら、 ヨハネ16 「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 で、真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?しかし次を読むと、 ガラテア2 「14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」。」 で、ケファ(ヨハネ1:42ペテロはケファ「岩」と呼ばれるでしょうにより)が真理にしたがって歩いていないのをパウロは見たとありますがいつ真理の全体に案内されたんですか? 真理の全体に案内されたのがいつかによって、 ヨハネ16 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 で、使徒が自分の家に散らされてイエスを独りだけにする時がいつまでなのかを解く大事なところだと思うのですが、 もし十二使徒から枝別れしてしているが、キリストの根から吸っている者達だとしたら。正確に伝えられなくても兄弟だとしたら、イエスの新しい掟である、兄弟が互いに愛し合うことが守れなくないですか?誰かが一番正しいんでしょうか?それとも全員間違っているから神のみが高められて聖書が完成されるんでしょうか? ローマ10 「15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」 ここで、良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろうと書いてありますが、 使徒はなぜ足を洗ってもらう必要があったんですか?もし、害になる推論が出て来ることが足を洗ってもらう意味だったとすると、足を洗ってもらえさえすれば使徒は全身清いものであるとイエスが言っているのにすべての食物が清いのかすべての人が清いのかにこだわる意味はあるんでしょうか? そう考えると、(神を見るとイエスに見える者、イエスを見ると神に見える者)=神とイエスは同じ者に見える事の何が滅ぼされる要因になるのか、どうしてもエホバの証人のこの部分が理解できません。 (正確な知識で無ければ滅ぼされる、自分達は正確である)つまり自分達以外は滅ぼされるという教えがどうしても納得できません。パウロに沿うなら三位一体でカトリックがつまずくなら私も神とイエスは同じ者であると言うほうが愛が優先されていると思うのですが、本当にどこかの人間の山の一つが高められるんでしょうか? 啓示2 「2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。 3 またあなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。 4 とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。 5 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めなければ[そのようにする]。」 で、あなたは使徒であると言いはするがそうでない者を見出すが、あなたは愛を離れたとあります。 イエス以外、人間は誰も神の家に立てなかったことが証明されて神の山(天は玉座、地は足台、神に人間の建てた家に住めというのかという聖句がまだ未解決)のみが高められ栄光を帰す日が来るんでしょうか?人間の中から王を立てることも間違っていて、もう正確なことを知るにはイエスに来てくれという以外にどうしようもないと思うのですが、どこかの人間の山だけは正確に伝えているんでしょうか?足を洗ってもらう以外全身清い者が、害になる推論が出ている者であるがキリストに属している者の場合、この者達に敵意を示しているエホバの証人が滅ぼされることになるんですが、イザヤ48によると、 全地に散らされたイスラエルを島々から再び集めると書かれている部分で、イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちだが、わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだと書いてありますが、まずここでどっちが真実によらず義によらず語り告げていいるかではなく、最たる例としてでも神の名の為に助けられる者がいるということで、この者達は真実を語り告げていないが助けると神が言っているのにどうやって、何を根拠にキリストに永遠の命を求めて信仰を働かせている者を裁けるのかということです。敵対している者同士おのおの自分は当てはまっていないと考えるでしょうが、この聖句に当てはまっているものも神は助けると書いてあるのは間違いないと思います。神が助ける事に決めた者に敵意を示せるだけの理由は何なんでしょうか? まず、全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなのかからですが、いつ使徒達は真理の全体に連れて行かれたのかを教えてください。

  • 聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が

    聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が出てきますが、私はイエスキリストが、十字架で死に、復活することにより、律法の要求を完全に満たしたので、律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。  ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。その方が十字架についてくださったから十字架に意味があるのだと言われちょっと混乱してしまいました。  キリストは神ですから、律法を完全に守ることはできた方ではあったと思いますが、そういう方法を通して、律法を成就したとなると、キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、その方の意見にははなはだ疑問なのです。  「キリストが律法を成就した」ということは、どうやって成就したのか教えてください。私は普通のプロテスタントのクリスチャンです。よろしくお願いします。

  • ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

    パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。

  • 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか

    キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。  まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。  ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~  5 モーセは、律法による義について、    「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)   と記しています。  6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。    「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」      (参照:申命記30:12)    これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。  7 また、    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)    これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  8 では、何と言われているのだろうか。    「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」      (申命記30:14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか?  言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。

  • 神さまに収入の1/10も納めなければならないの?

    《什一献金》《十一献金)という言葉をご存知ですか。 クリスチャンの信者は、収入の1/10を自身の所属する教会などに税として払わなければならない、という宗教的掟のことです。 ~~~~~~~~ マラキ書 第3章 3:8人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。 3:9あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 3:10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/malachi.html ~~~~~~~~ などの記述がその根拠とされており、これは神さまが定めた掟です。 この掟を破る自由は与えられていますが、この掟を破る者は義人たりえず、悪人となります。 で、皆さんに質問します。  1 神はなぜ(1/10の)捧げ物を要求するのか? 1/10の根拠は?  2 収入の1/10を収めないと、神のあわれみにあずかれないのか? 納めない者は神から呪われるのか? カトリックの信者さんたちは、毎月、収入の1~3%くらいを教会に納めているらしいですけれど、これでは律法違反ですよね。 行為義認の観点からしますと、このことは義ではない。であるから、「神やイエスの救済にあずかれない」となるのでしょう。 さらに言葉を連ねるならば、  3 この律法を破るということは《神を試すこと》になるのではないか? 教えてください。 よろしくお願いします。

  • 旧約聖書ヨブ記について

     旧約聖書のヨブ記についていくつか疑問に思うところがあるので、教えて頂きたいと思います。  まず、ヨブ記38章2節に「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」とありますが、これは、流れ的に(といっても私が読んでいる聖書の日本語訳的にということですが)エリフのことを言っているのでしょうか。また、同様に41章12節の「わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない」とありますが、この彼もエリフのことを指しているのでしょうか。だとするなら、42章の7節で神様は、ヨブの3人の友であるエリファズ、ビルダデ、ツォファルには、「あなた方は、わたしについて真実を語らず、ヨブのようではなかった」と言及しているのに、エリフについては、ノーコメントなのはなぜでしょうか。  私は思うのですが、結局このヨブ記というなんとも謎の多い書物がなぜ我々に与えられているのかということを考えると、その究極的な意味は解りませんが、ざっくり何が言いたいのかというと、神様は、ヨブという神様の前にも人々の前にもこれ以上ないと思われるような正しい僕であった人であっても、試練の中では、神様に不平を洩らすのであって、それは、至極当然のことであるのだということ、そして神様の愛は、私たち全てが抱くそのような思いをそのまま受け入れてくださることができる愛の方であるのだということ、それに対して何だかんだ屁理屈を言って、目の前で苦しみ悲しんでいる友をさしおいて神様や信仰、奉仕といったことを重んじてしまうところがあるので気をつけるように教えておられるのではないかと思うのです。  『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。 とイエスは今日も語られているように思います。

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