キリストを引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか

このQ&Aのポイント
  • キリストを引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは、ローマ書10章に記されています。
  • ローマ書10章では、律法による義と信仰による義について語られています。
  • この文章から、実践と信仰の関係について考えることができます。
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キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか

キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。  まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。  ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~  5 モーセは、律法による義について、    「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)   と記しています。  6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。    「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」      (参照:申命記30:12)    これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。  7 また、    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)    これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  8 では、何と言われているのだろうか。    「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」      (申命記30:14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか?  言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。

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noname#135843
noname#135843
回答No.9

 こんばんは、Hidocchiでございます。 > 言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  パウロがこの「ローマ書」を執筆していた状況でございますが、 1. パウロ自身が先頭に立っている異邦人伝道は進展して、多くの異邦人が入信し、異邦人を主体とする集会が各地に形成されるようになっていた。 2. 一方、パレスチナでは、ユダヤ教原理主義的な運動が激しくなり、ローマの支配者およびそれに協力するユダヤ人への敵意が強くなり、ユダヤ戦争への道を突き進んでいった。その中でイエスを信じるユダヤ人に対する迫害も激しくなり、イスラエルはイエス・キリストの福音を拒否する姿勢を一段と強められた。  かような状況を鑑みますと、少なくとも、パウロが伝道している時代では、容易なことではなかったと推察されます。  ですが、今日では、かつてのような難しさはないように考えております(多様な価値観を持つ人達が増えましたが)。 > 答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  パウロによれば、律法とは「約束されたキリストが来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもの」であり、民を「キリストのもとへと導く指南書(規律)」となります。従いまして、キリストが現れた時点ではその役割は終わり、わたしたちは「もはやモーゼの十戒のような律法の下にはいない」と説いているように察せられます。  「同じ主が“すべての人”の主であり、御自分を呼び求めるすべての者に恵み豊かであるからです(10章12節)」、さらに「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。(9章30節)」と述べられています。つまり、義とされることにおいて「ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)の区別はない」と解釈されます。さらに申しますと、この場におけます、“実践”とは、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが(誰であろうが)問題はなく、「信仰の義」こそを最優先させるべきと主張しているものと考えております。逆に申しますと、愚生は、“いかなる人”も蔑むことは、義に反するものと解しております。 > キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  おそらく、“自分”の力で律法を行うことで義に達しようとするのは、“自分”で天に昇ろうとすることであり、わたしたちのために死んで天に上げられ、(天におられる)キリストの贖いのわざが必要でないことを意味するものと思われます。つまり、キリストを普通の人間の一人とすること、さらに申しますと、キリストを天から引き降ろすことを意味するのだと思われます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。今回のご見解は むつかしいとまづ思いました。ご回答をありがとうございます。  まづ 質問者としての答えは ふとひらめいたところによりすでに それなりに 得ています。No.4お礼欄に述べました。  ならば どうしてまだ閉じないのかと言われるかも知れませんが 回答者の方がたとのやり取りでよさそうなところで閉めようと思っていました。  ★ おそらく、“自分”の力で律法を行うことで義に達しようとするのは、“自分”で天に昇ろうとすることであり、  ☆ ここは比較的分かりやすいと思います。引いてくださった箇所のつづきを交えて掲げておきたいと思います。  ▲ (ローマ書 9:30-33) ~~~~~~  では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。  しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。  なぜですか。イスラエルは、≫信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたから≪です。彼らはつまずきの石につまずいたのです。    「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。    これを信じる者は、失望することがない」       (イザヤ書8:14、28:16)  と書いてあるとおりです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まづパウロ書簡の執筆のときと現在との福音の普及情況や社会の民主制の進展度合いが違うというところに注目せよと。  そしてパウロは別だったでしょうか。またヨハネひとりが別だったでしょうか。そのほかの弟子はペテロを初めとして 迫害に遭いいわゆる殉教をした。そのほかご指摘のあったように ユダヤ人の内部で対立が激しくなったこと。異邦人の教会が広まって行ったこと。  ただ しかもそのようなきびしい社会情況の中にあっても  ▲ 「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」  ☆ というのであれば 《これでも人間と呼べるか》といううたがいに長居をしてはいられない。ようです。  律法はイエスの現われるまで――信仰の義があたえられるようになるまで―― 人びとの養育係であったという見方にも触れていただきました。  主題としてはだいたい以上のようなところかと思いますが 全体としてどう捉えるか まだまだしっかりとは見通しがわたしにはつかないようにも思われます。  《つまづきの石 さまたげの岩》にわたしとしては就いたと思っていたら 実践が止まってしまった。などなど いろんな局面としても信仰の動態は現われるのだなと思いました。そしてつまり   ★ キリストを天から引き降ろすことを  ☆ していたのかも知れません。ただ つまづきの石には就いていたとは思っております。  でも むつかしい。これからも事態(事件)はつづくかも知れませんから。  といったところです。  それよりも――と言っちゃいけませんが―― 中華思想というのは 北朝鮮のような出方をすることもあるのかと これは 天気晴朗なりと思えどもそうとう波は高しのようです。よね。

その他の回答 (9)

回答No.10

>よべませんか? 自分が言ったことだろ。自分を人間とは呼ぶなよ。

bragelonne
質問者

お礼

 よべませんか。  よわりましたね。  こまりましたね。  どうしましょう。  よべるようにつとめるしかないのでしょうね。  いさめてくれて ありがとう。  これからもよろしくどうぞ。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 私はかれに振り付けをもらってそのまま踊っていただけ  ☆ が気に入った。

回答No.8

これを人間と呼べるか

bragelonne
質問者

お礼

 よべませんか?

回答No.7

   相談-蟻です。 恐らく今回で最後になると思います。  申命記30:12~14の引用ですが、神様がモーセに語ったと解釈出来ますが?恐らく、ragelonneさんも新共同訳聖書を見ていると思いますが、申命記20:16~30:20は、 ◆モアブで結ばれた契約◆ と大きな括りになってます。そして、ここでキリストを暗示しているとも読めますが、そうと断定するには少し無理があるように思います。個人的な主張なら良いでしょうが? 私的にはローマ書と対比する必然性は感じません。  聖書の言葉は、ロゴス(言葉)とレーマン(霊)と解釈され、分かりやすく言えば言葉には霊的な働きがあって、神がその人に語るとも解釈するようです。モーセを預言者とみる人も居るようですが、神が語る訳です。無論ほかに預言者は沢山登場します。但し、だからと言って神が誰にも語る・・・・とか、聞えると言うものでも無いと思っています。人の得を高める、人々を救いに導く、差別や偏見などを受けながら、或いは殉教で終えてしまうが、後に真実と分かる。又、偽預言者も登場します。  あと、現代的には心疾患とも似てます。普通の人は判別できない事もありますが、通常はやはり有益でないと感じます。混乱を招くケースが多い。言ってる事は正しく思えても・・・・です。  最後のまとめとして、God Bless  You 最近ゴスペルなどでも歌われますが、『神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。』 ペテロII 1:2

bragelonne
質問者

お礼

 《おそらく今回で最後》のご投稿をありがとうございました。  パウロが聖書つまり旧約聖書を引いているときに その原文の文脈をゆがめて援用していることは いくらでもあるのではないですか。  あとは ご自身のご感想だと考えます。対話になってもいいし ならなくてもいいという姿勢で述べられている。こういう受け取りです。  イエスからあとの《預言》は――《異言》では一般によく分からないので―― 基本的に言って非思考の場において持たれるところの信仰にかかわることがらについて《解釈する》ことです。経験合理性というひとつの物指しを当てはめて分かるように考えるし表現するという意味だと理解します。  いま上で《ご感想》だと言ったのは この《預言》と《異言》の中間であるという意味にもなります。  たとえば  ★ God Bless You    ☆ なりあるいは祈りのことばなりについてですが すでに祝福をわたしたちは受けています。その原点に立っての発言がのぞましいとわたしは考えます。すでに《めぐみの上にめぐみを》のその二つ目のめぐみを受ける段階だと言ってよいという捉え方です。  《おそらく最後》というかたちでおっしゃったので わたしも少しは 問いかける部分を容れてみました。もちろん ご自由にお取りあつかいください。

noname#131234
noname#131234
回答No.6

またはじまったwww 文章の切れ端に微塵の喜びも感じられない。 楽しくない文章をだらだらとつづってそれが神について哲学すると言うことだと主張するのなら、 それは間違いです。 幸せのかけらもない駄文。貴方の考えはキリスト教ではありません。 貴方は聖書を利用しているだけです。 無知な貴方はほかの方から教えてもらっているのだから 少しは感謝の気持ちを持つべきです。 (自分のお葬式は真宗なんでしょ=貴方にとって宗教というのは何なんですか)

bragelonne
質問者

お礼

 楽しくない文章をだらだらとつづってそれが神について哲学すると言うことだと主張するのなら、――いえ 主張しなくても――  それは間違いです。  幸せのかけらもない駄文。  ひょっとして OKWave と契約しているのだろうか。

  • witto
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回答No.5

 わたしたちが知るとおり、創造物すべては今に至るまで共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。(ローマ8:22)  天と地を創造され、地球が美しく作られていく中で、神は 非常に良い(Very Good!)とおっしゃられた時にはどんなに喜ばれたことでしょうね。(創世記1章)  ところが「一人の人を通して罪が世に入り、罪を通して死が入り、こうして死が、すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広が」りました。(ローマ5:12)  でも「一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように、一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです。。。何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように、過分のご親切もまた、わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ、義によって王として支配するためでした。」(ローマ5:19,21) それで、「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。」(ペテロ第一3:13) 「ヨハネの黙示録21:3~5」はよく知られていますね。  ですから、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、、、、これほど大勢の、雲のような証人たちに囲まれているのですから、わたしたちも、あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て、自分たちの前に置かれた競争を忍耐して走ろうではありませんか。私たちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら。この方は、自分の前に置かれた喜びのために、恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え、神のみ座の右に座られたのです。。。(ヘブライ11~12:2)  神が再び 非常に良い(Sehr Gut!)とおっしゃる時を楽しみにしましょう。 ps. これは重要なところですが、パウロが引用したヨエル3:32には、ヘブライ語原文では神の名前が実際に書かれています。ユダヤ人はこのみ名を朗読中にさえ崇高故にと発音しませんし、キリスト教世界は多くの聖書翻訳からこのみ名を取り除いてしまいました。

bragelonne
質問者

お礼

 ヰットさん こんばんは。ひきつづきのご回答をありがとうございます。  さてこの日の昼過ぎから夕方にかけてのときにわたしは じつは答えがあたえられました。No.4でのやり取りにも書きましたが こうです。《いまわたしが実践を止めた状態にあるのは じつは そのようにして実践を継続中であるのであって それは じつに相手がそのような何もしない状態にあるので パウロのごとくその人を得るためにその人と同じ状態にわたしもなっている。それゆえである》と。  意外なひとつの結末を迎えた。のかも知れません。そのままをまづはお伝えします。  さて何かをうったえておられるようにも感じられ 少しく反応を致したいと考えます。  ★ 「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。」(ペテロ第一3:13)  ☆ これは ペテロ第二書簡でしたが わたしの立ち場としては 《新しい天と新しい地》とは 理論的にはすでにやって来ている。これです。イエスがすでにそのいしずえを置いたという捉え方です。  それにペテロは同じ書簡で 次のようにも書いています。  ▲ (ペトロ第二書簡3:7) ~~~~~  しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、≫不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる≪日まで、そのままにしておかれるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ カッコ(≫・・・≪)内の言葉を取り上げます。こういう表現じたいは 聖書のそこかしこに見られるのですが だとすると それは額面どおり取ってはいけないということになるのではないでしょうか。   すなわち《不信心な者・かれらが裁かれる・滅ぼされる》といった言葉は それこそわたしが悩んだ《これぢゃあ人間と呼べるか》に相い通じるところがあります。  この言い回しが微妙であるというのは 《さばき》が 人間によっては成されないとしても神によって成されるという反論を持ち出してくる場合です。  けれどもわたしの見るところおそらく《不信心な者》を《ほろびに到る》ということにかかわらせて安易に われわれ人間が 用いるというのはどうかと思われることです。  じっさいペテロはここで すでに理論上は成ったところの新しい天と地のことを 実際に実現するときという構図を描いてその構図の上であれこれ考えを示そうとしている。いわゆる希望を いくらか具体的なものとして感じられればよいと思ってのことでしょう。そして その新しいときを迎えられないというような不幸せにはならないようにという意味を込めて 滅びのことを出して或る種の仕方で戒めとしている。  たぶんこの手法は ふるいものだと考えられます。  ▼ わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ、  ☆ すなわち  ★ 永遠の命の見込みを伴いつつ  ☆ というまでのことを言うのなら  ▼ 過分のご親切  ☆ という訳語は こなれたものだとは言えません。やはり  ▲ めぐみ  ☆ といった言葉を当てるのがよいでしょう。真理を見させるというめぐみの上にさらにめぐみを増し加えたというときのその二つ目の《めぐみ》ですね。それは 《永遠の生命を得させる》ことであるはずです。《親切》という日本語は こういった意味内容には使わないでしょう。  ★ 神が再び 非常に良い(Sehr Gut!)とおっしゃる時を楽しみにしましょう。  ☆ わたしの見るところ たぶんこの命題は 遅れてやって来ている。こう考えます。すでに成ったことを これから成るであろうというかたちで言っている。そんなところです。

回答No.4

 Ano3です、。ご指摘の箇所は一通り目を通してみました。正直分からない方が多かったですが。   ※キリスト教(聖書)を哲学的に語ると言った方が良いのでしょうか???  以下、皆様と同じように順を追って  (1)《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。 これば聖書と言われる文書の記述ですから、神が人間に対して語っていると解釈します。とは言え、著者は人間で、口伝などを経て書かれて当時のギリシャ語として編纂された。故に聖書をどう位置づけするかで違ってくるのでは?  (2)エチケット違反について 私は新共同訳聖書をみてますが、この箇所は5~21節までのまとまりで、13節で改行になってます。それで引用しました。基本的にAno1の方の指摘と同じです。天や底なしの淵をどうこうでは無いと言ってるように思えます。  (3)☆ でしたら わたしが《わが神の名を呼び求める》ことをしていないと決めつけたも同然ではな いですか。  私には神の名を呼び求めているようには感じられませんでした。むしろ、理詰めで論破していると。  (4)さて それにしても 事件はひきつづき起きています。そしてわたしにとっては 実践が止まった状態にあるという局面にあります。  bragelonne さんは何をされてるんですか?その解消方法を質問されては???  (5)《答えは 人間には 出ない・出せない》というこたえを得ましたが 実践は止まった。それでいいのか?  そうですね。人間の業ではないから神に立ち返る事になる訳で、(3)でも触れてるように呼び求めているとは感じられないです。聖書の記述は、使徒(弟子達)の出来事を通して、或いは地方教会に宛てて書かれた手紙が中心です。私はその中にキリストが語られていると思ってます。  まとめ:使徒言行録にはサウロ(後のパウロ)がキリストに出会う場面が記述されてます。既にご存知とは思いますが、9章1~19に書かれてあります。こうした出来事(記述)を神の出来事と読めばどうなるでしょう?  ※聖書は使徒達の時代の記述ですが、現代の信徒にも言える部分が多々有ります。古さの他に現代にも通じる普遍的かつ神秘的な面を醸していると思います。  

bragelonne
質問者

お礼

 相談‐蟻さん こんばんは。ひきつづきご回答をありがとうございます。  この間――つまりきょうの昼過ぎから夕方にかけて―― 自分としての答えを得ました。じつは 自分なりに答えが出ました。そのことについてお伝えして さらに聖書との照らし合わせが出来ればいいがと思います。  まづ舌足らずがあったようです。  ☆☆ (1)《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。  ☆ これは 《これこれの状態にある人間は 人間と呼べるか》というその人格性についてのうたがいのことです。そこまで疑いました。そのこたえは《答えは出ない。出せない》というものでした。  ただしその《これこれの状態に人間が落ち入っている》ことはつづいて起こっていますので しかもわたしの実践は止まってしまいましたので これは一体どういうことになっているのか? という問い求めをしていたのでした。  ★ (5) ・・・そうですね。人間の業ではないから神に立ち返る事になる訳で、(3)でも触れてるように呼び求めているとは感じられないです。  ☆ これが確実なことであるのでしたら もうわたしの今の姿勢のままで何を言っても聞いてもらえないかも知れません。がひととおり いまのあらたな考えを述べます。  わたしの実践が止まったのは 《その止まった状態にあることが じつは実践がつづいていることだ》 この解釈を得ました。というのも その止まった状態というのは その《これこれの状態にある》と言っていた相手の現在の状態がそうなっているのだと感じたからです。  これは 証明しようと思いませんし できません。  (さらに具体的なことをお聞きになりたいとすればお知らせしますが この質問としては この《止まった状態》の解明に集中しますので ひとまづは 一件落着のようなかたちです)。  律法やキリストの心の律法がない状態にあるひとに対しては その同じようになった。その人を得るためである。とパウロは言っていました。この実践中だと われながら 分かりました。つまり《その相手と同じような状態になった》から 実践が止まってしまったという事態であると。  これは 本人であるわたしにとって きわめて腑に落ちる理解になります。  むろん別の解釈や見方があれば お聞きしたいとも思います。  そういう意味では ひとこと次のようにも考えています。すなわち このように助言を求めつつ みづからの主題を問い求めるということは 取りも直さず《呼び求めること》だとわたしは考えています。  《理詰め》かそうでないかは 重要な要因ではないと考えます。というよりも わたしが呼び求めるその前にすでに聞いてもらっていると思います。  応答の仕方が 寄せてもらったかたちに対するものとしては変則的になりましたが こんな現状であることをそのままお知らせします。

回答No.3

 天地万物を造られた神様が、人類が救われる事を欲した。そして御子イエス・キリストが遣わされた。神がキリストを遣わし、キリストが人々の所に来た。人間の側には只、恵みとして与えられた。神様は人間を造られた。それは神様に出会い、認め、信じ、従う事を願っているからです。  先ずその事を信じて認めること、行いはその事によって成されて行くし、不信仰のときは行き詰まる事もある。でも、神様は何時でも変わらずに覚えていて下さる。  ローマ10:13  「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。⇒とあります。それは全ての信じて求める者に対する、神様からの約束です。

bragelonne
質問者

お礼

 相談蟻さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  質問をする者でありながらわたしは高飛車になるのですが つぎの聖句を持ち出して説得するのは エチケット違反ではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ▲ ローマ10:13 ~~~~~~~~~~~     「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5)    のです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ⇒ とあります。それは全ての信じて求める者に対する、神様からの約束です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でしたら わたしが《わが神の名を呼び求める》ことをしていないと決めつけたも同然ではないですか。  それとも《実践が止まった》ということは すべてその種の問題が原因であるという確かなお考えでしょうか?  ★ ・・・キリストが人々の所に来た。人間の側には只、恵みとして与えられた。・・・  ☆ このキリストの派遣をめぐっては ちょうどいま挙げている別の質問の趣旨説明をごらんください。わたしの思うところを述べていますので その心を汲んでいただけるのではないかと思います。  【Q:闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6197143.html  さて それにしても 事件はひきつづき起きています。そしてわたしにとっては 実践が止まった状態にあるという局面にあります。  ★ 御子イエス・キリストが遣わされた。・・・先ずその事を信じて認めること、行いはその事によって成されて行くし、不信仰のときは行き詰まる事もある。でも、神様は何時でも変わらずに覚えていて下さる。  ☆ このご判断について微妙にちがうところもあります。わざと違いについても述べます。  ★ でも、神様は何時でも変わらずに覚えていて下さる。  ☆ だから 実践が止まったのは どういうことか? という問い求めです。つまり わたしならわたしというひとりの人間のすくいについて問うているのではなく 実践の相手についてどう捉えるかに焦点を当てています。  《答えは 人間には 出ない・出せない》というこたえを得ましたが 実践は止まった。それでいいのか? です。だって実践の条件は じゅうぶんに整えられていて どこからでも自由にすすめていけるはずです。パウロは引用箇所でそう言っていると取ります。  では いったいどういうことがいまわたしに起こっているのか? こういう問い求めです。  問い求めの仕方が いけないのでしょうか?

回答No.2

ぜんぜんキリスト教には詳しくないですが、 でも私はアウグスティヌスのファンなので、なにか書かせてもらいます。 >「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5) 掟を守る人は守らない人より生き延びる確率が高いでしょう。 法律(モーセの十戒)は守ったほうがいいよ、と言っていると思います。 >「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」 >『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」 >「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」 結局、信仰とは自分自身の問題であり、他者との比較は意味がないよ、と言っていると思います。 これと表題の「キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか 」の 関係が分からないので、bragelonneさんの望む答えにはなっていないと思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 エスエススィ―さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ  ★ 結局、信仰とは自分自身の問題であり、他者との比較は意味がないよ、と言っていると思います。  ☆ ここに注目しますし おそらくいつでもどこでもこの原則を大事にして対処していくものと思います。助言を得たり与えたりしても どこまでも《信仰とは自分自身の問題である》と考えます。そこを外れては このように対話をする意義もうすまります。  ▲ 「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)  ☆ これはですね。おそらくここで 〔モーセの〕律法の規範(その義)と〔アブラハムおよびイエスのあとのアブラハムの子らの〕信仰の義(規範から自由である)との対比では このような対比では 《掟=律法規範》についてパウロは きびしいことを言っているのではないかとも考えます。  規範にしたがうことを第一義の原則としているということは 従えなかった・従わなかったときは どうなるのか?  たぶん その人そのものが駄目だとなるのではないでしょうか? 契約を守れなかった・破ったのだと。つまり早い話が その延長線では 生きるか死ぬかであり 掟を守れなかったなら 死です。  つまり およそこの掟を守り切る人は 人間にはいないのではないでしょうか? そういう結果としての方面に焦点を当てているかとも思います。  そこでもしそうだとしたら それでも・そうであってもキリスト・イエスの出現のあとでは もう信仰の実践のための条件はすべてととのったとパウロは言おうとしているように思えます。  ▲ (ローマ書 10:8-10) ~~~~~~  では、何と言われているのだろうか。   「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」  これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。  口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。  実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 信仰の成立ということを言っていると思いますが もし信仰が与えられ成り立ったなら もうその動態は前へすすみます。あとはみづからの信じるところにしたがった自己表現の道をあゆむのだと考えられますから。つまり条件はととのったのだと思います。  そのとき この実践が ひとつの事件でわたしには止まってしまいました。という情況にあります。  いっしょに考えてくださってありがとうございます。  No.1の方の回答投稿もありがたいですし いろんな見方を受け容れながらみづからの判断を得たいとは思っています。時とともにということも 大事でしょうか。  もうひとりのアウグスティヌスのファンの方へ。

  • witto
  • ベストアンサー率37% (3/8)
回答No.1

キリストは死んで三日三晩底知れぬ深みへ下り、神によって復活させられ、その後天へ上りました。この信仰を私たちはクリスチャンとして失ってはならないという意味ではないでしょうか。  神はキリストの場合、その働きをもって彼を死人の中からよみがえらせ、天の場所においてご自分の右に座らせたのです。(エフェソス1:20)  信仰を実践し続けることは、パウロの言葉の「むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。(コリ一9:27)」に表されているように簡単なことではありません。 今読んだところですがこの点、コロサイ人への手紙が私(たち)にとっていい助言になっていました。  

bragelonne
質問者

お礼

 ヰットさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ エペソ書のつづきを読みます。  ▲ (エペソ書 1:21-23) ~~~~~~  すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。  神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。  教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの解釈では この《教会》は――エレミヤ書31:31以下の文章により イエスの出現したあとは すべての人の胸に信仰の力は刻まれていると取るゆえ――すでにすべての人びとが 《見えない教会》としてかたちづくっているというものですが それはいま別とします。別としまして  要は 目に見える教会ではもとより その外の人びとのあいだにも 理論的にはすでにキリストのちからがはたらいている。こうだと思います。国びとたちは 王の敵のこころで倒れる(詩篇45:6)ということも 理論的には 成ったと考えます。  ということは わたしたちは一人ひとり与えられた務めにしたがって 信仰の動態としての実践――自己表現――をおこなっていくことができる。ということではないでしょうか?  すなわち  ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~  つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうして  ☆☆ (同上) 答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。  ☆ ということも いまの状態です。実践が止まってしまったという状態です。  それに対して コリント前書を出して答えてくださいました。  ★ 信仰を実践し続けることは、パウロの言葉の「むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。(コリ一9:27)」に表されているように簡単なことではありません。  ☆ あらためて引きますが。  ▲ (コリント前書9:26-27) ~~~~~  26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。  27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。  それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 27節前半は 抽象的であるようですね。むしろ26節ですと 《実践が止まったような状態になる》こともあると言っているようにも考えられます。  でもそれは それほど単純なことではないのでしょう。  すみません。まだ分からないです。  おそらく《これこれの状態だと 人間とは呼べない》という決めつけは 明らかにだめだと考えます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)   これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであるはずですから。ということは 《決めつけ》を取りやめたら あとは 実践がその事件にかんしては 止まるということなのか。こういった問い求めです。  止まったような状態になることも 実践のむつかしさを表わしていると単純に捉えていいのでしょうか。そういった問いだと思います。

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     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

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    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。